紋章を求めての寺めぐり

古沢 襄


家紋は身分差別の思い込み


 二十年ほど昔の話になるが、父と母の墓を建立するために石材店を訪れたら、「お宅の 家紋は・・・」と聞かれて返答に窮したことがある。どういうわけか、女房がわが家の紋 を知っていて、「蔦です」と答えてくれたので、何とかその場を繕った。
 女房はお盆を迎えるので、仏壇を整理していたら、仏具の茶碗などに蔦の家紋がついて いるので、私の母に尋ねたら、「古沢家の家紋は”丸に蔦”ですよ」と教えられたと言う。  墓石に”丸に蔦”の紋を刻んで、それから十数年、私は家紋のことはすっかり忘れてい た。

 核家族化が進行した戦後の家庭では、大なり小なり私のような経験をしているのではな かろうか。先祖とか家系の意識が稀薄になった現在では、家の紋章は墓を作る時に思い出 す程度のことになってしまっている。
 民主的で自由な戦後の社会では、家の意識より個人の意識の方が強い。だから、前世紀 の遺物のような家の紋章に何の価値があるのだろか、と私は考えていた。
 もっと言うなら私の心の中に家紋という仰々しい家の”しるし”に対する反撥があった と思う。家紋イコール身分差別という響きが感じられ、戦前の戸籍に付き物だった士族、 平民などの呼称に対する嫌悪感に通じるものがあった。ジャーナリストになってからは、 さらにその思いの方が強くなっていた。

 これは「夜明け前」を書いた島崎藤村の故郷である長野県で私が多感な少年時代を過ご したことと関係があると思う。藤村の小諸にほど近い上田が母の実家である。母の卒業証 書には、「長野県士族」と麗々しく記載されてあった。一方、岩手県出身の父の戸籍謄本 には「平民」となっていて、子供心にもこの差別は不可解だった。

 太平洋戦争が激化して、中学一年生の時に母方の上田に疎開し、戦後もしばらく残って 上田中学で四年間学んだ。旧家である母の実家は廃藩置県で「士族」の身分を失い、商人 になった家である。士族の商法と「失敗の代名詞」のように言われた明治時代の世相のな かで成功した数少ない家柄で、奉公人も多く、家の差配は旧藩士族の出をひけらかす曾祖 母が握っていた。
 「侍の血をひく」家系の誇りを捨てない曾祖母は、癇癖症で極端なくらいきれい好きだ った。曾祖母の部屋で中学時代は寝起きをともにすることになったのだから、私にとって は、アナクロニズムの亡霊と同居したような四年間だった。

 士族の家には紋章があるということを教えてくれたのがこの曾祖母だった。「侍は紋所 のついた旗印をかかげて戦場に出たものだよ」と火箸を片手に説教する曾祖母は、熱が入 ってかなり講談調になるのだが、平和日本にはそぐわない話と思いながら、火箸が怖いの で黙って拝聴するしかなかった。
 今、思うとなかなか気骨のある曾祖母だった。敗戦で打ちひしがれていた世相のなかで 「明治維新で日本中の士族が放り出されたことを思えば、今度の敗戦は大したものじゃな い」と死ぬまで意気軒昂たるものだった。終戦という言葉を嫌い、いちいち敗戦と訂正さ せられ、太平洋戦争と言うと「それは大東亜戦争です」と言われた。
 「五十年もたてば、日本は立ち直りますよ」と封建制度の権化のような曾祖母は、閑が あれば戦国時代の軍記物を愛読していた。

 この曾祖母に話を合わせるために「古沢の家紋は何なの・・・」とおそるおそる聞いた ことがある。その返事がつれなかった。
 「百姓の家には、苗字も家紋もないね・・・」と一蹴されてしまった。したがって私は 久しくわが家には紋章が無いと思い込んでいた。大切な孫娘を農民の出である父にとられ た口惜しさを曾孫の私にも隠さない人だった。
 だから大人になってからは、家紋は侍社会という旧体制の遺物という反撥の方が先に立 ち、家紋イコール身分差別という思い込みは、曾祖母の影響なのであろう。


紋章を訪ねる寺めぐりの始まり


 「百姓の家には、苗字も家紋もないね・・・」という曾祖母の言葉は、明治維新以前の ことを指しているのだが、実は間違っている。士農工商の身分差別が厳しかった江戸時代 でも農民で苗字・家紋を持つ者が存在したし、身分序列の一番どん尻になる商人でも苗字 ・家紋を持つ者があった。江戸・元禄時代には郭の遊女で家紋を使う者さえ出ている。

 家紋の発祥については、諸説があるが、平安時代の公家が牛車や調度品につけたのが始 まりで、その意味では特権階級を象徴するものであった。やがて平安末期から武士が台頭 するにつれて、戦場で敵味方を識別する目印として急速に広まった。
 源氏が白旗、平氏が赤旗というのは知られるところだが、源頼朝が奥州・藤原氏の征討 に向かったときに、清和源氏の流れを汲む佐竹氏に「白旗のなかに月を描いた扇をつけよ」 と命じ、これが佐竹の家紋になった。東北三大祭りのひとつ秋田の竿灯(かんとう)の提 灯には「日の丸扇」がつくが、出羽二十万石の領主・佐竹氏の「五本骨扇に月丸」の家紋 をもとにして、月よりも祭り向きで、陽性の日の丸になったと言われている。

 武士が戦場での目印に使うことによって、家紋は実用的な広がりをみせたが、初期は極 めて素朴な文様が多かった。それが今日、約二万種になる多用な紋章になったのは、三百 年の太平を謳歌した江戸時代からである。戦がない平和な時代になると紋章も凝った飾り 模様が主流となる。同時に室町・戦国時代には、武家の持ち物だった家紋が、一般にも広 がりをみせた。
 関ヶ原の合戦でみられるように大阪方に味方した武将は、徳川家康によって取り潰され、 家臣の多くは土着して農民になっている。古くは平家の落ち武者伝説が全国にあるが、農 民が持つ家紋の発祥は、主家の滅亡によって全国的に散らばった土着農民によってもたら されたものであろう。

 旧体制の遺物と反撥してきた家紋だが、古文書などの歴史史料からは分からないものを 現代の私たちに伝えていることに私は気付いた。そして、いつの間にか家紋にはまり込む ようになってしまった。
 古文書や家系図は焼失したり、書き換えられすることがなしとしないが、墓石に刻まれ た紋章は、風雪に洗われても不変のまま残されている。墓石はものを言わないが、紋章は 何かを私たちに語りかけている。

 もともと私は、歴史として伝えられているもののかなりの部分が、勝者のものが多く残 され、敗者の事跡が破却されて残らない不条理を唱えてきた。
 勝てば官軍の論理は、太平洋戦争の敗北によって破綻している。
 敗北によって歴史の彼方に消えていった人たちに、もう一度歴史の光を当ててみる試み が、戦後の日本人の知恵として求められているように思う。
 こんな思いから、墓石の紋章を訪ねる寺めぐりが始まり、数年になる。


菩提寺の山額に残る農民の家紋


 長野県で少年時代を過ごした私だが、今はもっぱら岩手県にのめり込んでいる。
 沢内村・・・奥羽山脈の懐に深く抱かれた岩手県の過疎のこの村が、私の一族が江戸時 代中期から約三百年足跡を残した土地である。父の代で家は没落し、私は東京で生まれて、 東京で育った。戦時中は一時、長野県に疎開したが、根っからの”東京っ子”で、岩手県 のことは何も知らなかった。
 父と母の文学碑を郷土の人たちが中心になって、菩提寺の玉泉寺に建立する話が持ち上 がった時に最初は戸惑ったくらいである。

 この計画が縁となり、立派な文学碑が建立されて、それからは年に数回はこの村に訪れ るようになって沢内村との関係が濃密になった。教育長の高橋繁さんや前の教育長の加藤 昭男さんとも懇意となり、一緒に霙が降るなかを隣町の寺に行って、手をかじかませなが ら墓碑の拓本をとったこともあった。やがて滅ぼされた和賀家臣が土着したと言われる沢 内村の歴史にも興味を持つようになり、素朴だが、村人の文化水準の高さにも魅了され、 いつの間にか私はこの村で生まれ、この村で育ったような錯覚に襲われるようになった。

 菩提寺の住職は、泉全英さんという一風変わった名物和尚で、同年ということもあって いつの間にか刎頸の友になった。年に数回は、このお寺に行って本堂でぼんやり時を過ご し、朝から全英和尚と禅問答を繰り返すのが楽しみになっている。和尚の人柄なのか、き だみのる氏や檀一雄さんも生前にこの寺を訪れ、長逗留している。
 そんなある日のことである。
 「古沢家の蔦家紋は、東北では珍しいたいそうな紋章のようだよ」と和尚が教えてくれ た。玉泉寺を訪れた郷土史の研究家が、山額に刻まれた蔦家紋を見て、和尚にそう言い残 していったそうである。今から数年前のことである。山額は江戸時代に古沢家の先祖が菩 提寺に寄進したものである。富農だったとはいっても一介の農民に過ぎない者が家紋を持 っていたことが不思議に思われた。

 和尚の言葉に触発されて、蔦家紋を調べてみる気になった。和尚の運転する車に同乗し て近隣の街や村の寺を回り、二百枚を超える墓碑の写真をデジタルカメラで撮りまくった が、確かに蔦の紋章は見当たらない。東北では、ほとんど見当たらない蔦家紋が何故この 地に残っているのか、推理小説を解き明かすような面白さがあった。

 この謎は、私が住んでいる茨城県の守谷町から車で三十分ぐらいの八千代町のお寺で発 見することになるのだが、目にみえない糸にたぐり寄せられているような因縁話になる。  その頃になると私の紋章に関する知識も増えて、日本最古の紋章集「見聞諸家紋」の原 本は未発見だが、何冊かの写本が残っていて、そのなかでも新井白石本が有名であること や、大正十五年に発刊された沼田頼輔氏の「日本紋章学」の大著があることも分かった。
 これも偶然のことだが、幻の名著と言われた「日本紋章学」の古書を神田の古書店で発 見して入手することが出来た。

 「たいそうな紋章のようだよ」と和尚が言った意味も分かった。
 葵の紋章を使った徳川宗家のことは著名だが、「日本紋章学」によれば、徳川一族の松 平家が蔦家紋を使っていた。将軍吉宗も蔦家紋を愛用したと言う。面白いのは「芸妓・娼 婦も好んで之を用い・・・」とあることだ。「見聞諸家紋」によれば、蔦家紋の発祥は椎 名・富田・高安の三氏で、徳川時代になって藤堂・松平・六郷の大名と麾下の家臣も争っ てこの紋章を用い、百六十家に及んだと言う。
 しかし東北の寒村である沢内村の農民とこれらの大名や家臣との繋がりは、どう考えて も結びつかない。と言って芸妓・娼婦が沢内村に流れてきたことも想像しにくい。
 謎解きは、ここで途切れた。


紋章で結びついた沢内村と八千代町


 手懸かりを失っていたところに高橋教育長から驚くような情報が手紙で舞い込んできた。 盛岡の岩手県立図書館で調べていたら、全五巻の「参考諸家系図」のなかに南部藩士・古 沢氏の出身が「生国常陸の人なり、浪士にて南部領山田村に来たり、北田村に移る」とあ って、さらに「その末裔が宝暦年間に沢内代官となる」と記載されていた。
 「これは古沢さんのご先祖のルーツに深くかかわるいることが間違いない」と添え書き がついていた。常陸国は私が住んでいる茨城県のことである。

 常陸国の赤松系古沢氏については、「史」の前号で詳述したので、繰り返しを避けるが 赤松系古沢氏の墓所がある八千代町の赤松山不動院を訪れて、思わず立ちすくんでしまっ た。赤松系古沢氏の宗家の家紋は「九曜」紋だが、それと並んで探し求めていた蔦の紋章 を刻んだ墓碑が林立していた。蔦家紋は古沢姓だけでなく赤松姓にも刻まれていて、赤松 系古沢氏の支族の紋章であることを現していた。
 沢内村と八千代町が紋章によって結びついた。赤松系古沢氏の支族の紋章としては、蔦 のほかに「上がり藤」紋も多くみられた。

 高橋教育長から教えられた北田村の古沢一族を求めて、紫波町北田も訪れた。この地に は街道をはんさんで古沢姓の家が二十軒も並んでいた。生国常陸の人の名は古沢清右衛門、 その末裔の菩提寺は正音寺という古刹だったが、初めての訪問だったので、一族の墓碑の 写真を撮影することは遠慮して他日に訪問することにした。
 沢内代官となった古沢長作の墓碑もまだ見ていない。
 多少気懸かりなのは古沢清右衛門の末裔で南部藩士となった家の紋章が「梅鉢」紋を使 用していると「参考諸家系図」に記載されていることである。北田・古沢氏の宗家が天満 宮に縁がある紋章を使用している謎はまだ解いていない。

 常陸国の赤松系古沢氏の宗家は八千代町に土着して農民となったが、鬼怒川東岸の下妻 市古沢に居住する支族は、一部は土着し、一部は佐竹氏の出羽転封に従って秋田県に移っ ている。私はこの支族は古沢助大夫と推理しているが、まだ確証を得ていない。唯一の手 懸かりは、佐竹文書に出てくる能代城の古沢助丞の名前だが、家紋も墓碑も未発見である。  その意味では紋章を手懸かりとした沢内・古沢氏のルーツ探しはまだ緒についたばかり と言える。

 私が十八年間住みなれた横浜から茨城県に移転して、すでに八年の歳月がたった。この 時に守谷町を選んだのは、全くの偶然だった。埼玉県の住宅供給公社の建て売り住宅に当 選したので、その下見に行った帰途、女房が新聞広告に出ていた三井不動産の建て売り住 宅も見ようとせがまれ、守谷町に寄ったのがきっかけである。
 その時には八千代町の町名も知らなかったし、まして赤松系古沢氏の存在も分からなか った。世の中にはこういう偶然があるものだと因縁めいたことを思う一方で、見えない糸 に導かれた「紋章の旅」がこれからまだ続くことになる。