紋章を求めての寺めぐり家紋は身分差別の思い込み◆ 二十年ほど昔の話になるが、父と母の墓を建立するために石材店を訪れたら、「お宅の 家紋は・・・」と聞かれて返答に窮したことがある。どういうわけか、女房がわが家の紋 を知っていて、「蔦です」と答えてくれたので、何とかその場を繕った。 女房はお盆を迎えるので、仏壇を整理していたら、仏具の茶碗などに蔦の家紋がついて いるので、私の母に尋ねたら、「古沢家の家紋は”丸に蔦”ですよ」と教えられたと言う。 墓石に”丸に蔦”の紋を刻んで、それから十数年、私は家紋のことはすっかり忘れてい た。
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核家族化が進行した戦後の家庭では、大なり小なり私のような経験をしているのではな
かろうか。先祖とか家系の意識が稀薄になった現在では、家の紋章は墓を作る時に思い出
す程度のことになってしまっている。 ◆ これは「夜明け前」を書いた島崎藤村の故郷である長野県で私が多感な少年時代を過ご したことと関係があると思う。藤村の小諸にほど近い上田が母の実家である。母の卒業証 書には、「長野県士族」と麗々しく記載されてあった。一方、岩手県出身の父の戸籍謄本 には「平民」となっていて、子供心にもこの差別は不可解だった。
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太平洋戦争が激化して、中学一年生の時に母方の上田に疎開し、戦後もしばらく残って
上田中学で四年間学んだ。旧家である母の実家は廃藩置県で「士族」の身分を失い、商人
になった家である。士族の商法と「失敗の代名詞」のように言われた明治時代の世相のな
かで成功した数少ない家柄で、奉公人も多く、家の差配は旧藩士族の出をひけらかす曾祖
母が握っていた。
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士族の家には紋章があるということを教えてくれたのがこの曾祖母だった。「侍は紋所
のついた旗印をかかげて戦場に出たものだよ」と火箸を片手に説教する曾祖母は、熱が入
ってかなり講談調になるのだが、平和日本にはそぐわない話と思いながら、火箸が怖いの
で黙って拝聴するしかなかった。
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この曾祖母に話を合わせるために「古沢の家紋は何なの・・・」とおそるおそる聞いた
ことがある。その返事がつれなかった。
紋章を訪ねる寺めぐりの始まり◆ 「百姓の家には、苗字も家紋もないね・・・」という曾祖母の言葉は、明治維新以前の ことを指しているのだが、実は間違っている。士農工商の身分差別が厳しかった江戸時代 でも農民で苗字・家紋を持つ者が存在したし、身分序列の一番どん尻になる商人でも苗字 ・家紋を持つ者があった。江戸・元禄時代には郭の遊女で家紋を使う者さえ出ている。
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家紋の発祥については、諸説があるが、平安時代の公家が牛車や調度品につけたのが始
まりで、その意味では特権階級を象徴するものであった。やがて平安末期から武士が台頭
するにつれて、戦場で敵味方を識別する目印として急速に広まった。
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武士が戦場での目印に使うことによって、家紋は実用的な広がりをみせたが、初期は極
めて素朴な文様が多かった。それが今日、約二万種になる多用な紋章になったのは、三百
年の太平を謳歌した江戸時代からである。戦がない平和な時代になると紋章も凝った飾り
模様が主流となる。同時に室町・戦国時代には、武家の持ち物だった家紋が、一般にも広
がりをみせた。
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旧体制の遺物と反撥してきた家紋だが、古文書などの歴史史料からは分からないものを
現代の私たちに伝えていることに私は気付いた。そして、いつの間にか家紋にはまり込む
ようになってしまった。
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もともと私は、歴史として伝えられているもののかなりの部分が、勝者のものが多く残
され、敗者の事跡が破却されて残らない不条理を唱えてきた。
菩提寺の山額に残る農民の家紋◆ 長野県で少年時代を過ごした私だが、今はもっぱら岩手県にのめり込んでいる。 沢内村・・・奥羽山脈の懐に深く抱かれた岩手県の過疎のこの村が、私の一族が江戸時 代中期から約三百年足跡を残した土地である。父の代で家は没落し、私は東京で生まれて、 東京で育った。戦時中は一時、長野県に疎開したが、根っからの”東京っ子”で、岩手県 のことは何も知らなかった。 父と母の文学碑を郷土の人たちが中心になって、菩提寺の玉泉寺に建立する話が持ち上 がった時に最初は戸惑ったくらいである。 ◆ この計画が縁となり、立派な文学碑が建立されて、それからは年に数回はこの村に訪れ るようになって沢内村との関係が濃密になった。教育長の高橋繁さんや前の教育長の加藤 昭男さんとも懇意となり、一緒に霙が降るなかを隣町の寺に行って、手をかじかませなが ら墓碑の拓本をとったこともあった。やがて滅ぼされた和賀家臣が土着したと言われる沢 内村の歴史にも興味を持つようになり、素朴だが、村人の文化水準の高さにも魅了され、 いつの間にか私はこの村で生まれ、この村で育ったような錯覚に襲われるようになった。
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菩提寺の住職は、泉全英さんという一風変わった名物和尚で、同年ということもあって
いつの間にか刎頸の友になった。年に数回は、このお寺に行って本堂でぼんやり時を過ご
し、朝から全英和尚と禅問答を繰り返すのが楽しみになっている。和尚の人柄なのか、き
だみのる氏や檀一雄さんも生前にこの寺を訪れ、長逗留している。 ◆ 和尚の言葉に触発されて、蔦家紋を調べてみる気になった。和尚の運転する車に同乗し て近隣の街や村の寺を回り、二百枚を超える墓碑の写真をデジタルカメラで撮りまくった が、確かに蔦の紋章は見当たらない。東北では、ほとんど見当たらない蔦家紋が何故この 地に残っているのか、推理小説を解き明かすような面白さがあった。
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この謎は、私が住んでいる茨城県の守谷町から車で三十分ぐらいの八千代町のお寺で発
見することになるのだが、目にみえない糸にたぐり寄せられているような因縁話になる。
その頃になると私の紋章に関する知識も増えて、日本最古の紋章集「見聞諸家紋」の原
本は未発見だが、何冊かの写本が残っていて、そのなかでも新井白石本が有名であること
や、大正十五年に発刊された沼田頼輔氏の「日本紋章学」の大著があることも分かった。
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「たいそうな紋章のようだよ」と和尚が言った意味も分かった。
紋章で結びついた沢内村と八千代町◆ 手懸かりを失っていたところに高橋教育長から驚くような情報が手紙で舞い込んできた。 盛岡の岩手県立図書館で調べていたら、全五巻の「参考諸家系図」のなかに南部藩士・古 沢氏の出身が「生国常陸の人なり、浪士にて南部領山田村に来たり、北田村に移る」とあ って、さらに「その末裔が宝暦年間に沢内代官となる」と記載されていた。 「これは古沢さんのご先祖のルーツに深くかかわるいることが間違いない」と添え書き がついていた。常陸国は私が住んでいる茨城県のことである。
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常陸国の赤松系古沢氏については、「史」の前号で詳述したので、繰り返しを避けるが
赤松系古沢氏の墓所がある八千代町の赤松山不動院を訪れて、思わず立ちすくんでしまっ
た。赤松系古沢氏の宗家の家紋は「九曜」紋だが、それと並んで探し求めていた蔦の紋章
を刻んだ墓碑が林立していた。蔦家紋は古沢姓だけでなく赤松姓にも刻まれていて、赤松
系古沢氏の支族の紋章であることを現していた。
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高橋教育長から教えられた北田村の古沢一族を求めて、紫波町北田も訪れた。この地に
は街道をはんさんで古沢姓の家が二十軒も並んでいた。生国常陸の人の名は古沢清右衛門、
その末裔の菩提寺は正音寺という古刹だったが、初めての訪問だったので、一族の墓碑の
写真を撮影することは遠慮して他日に訪問することにした。 ◆ 常陸国の赤松系古沢氏の宗家は八千代町に土着して農民となったが、鬼怒川東岸の下妻 市古沢に居住する支族は、一部は土着し、一部は佐竹氏の出羽転封に従って秋田県に移っ ている。私はこの支族は古沢助大夫と推理しているが、まだ確証を得ていない。唯一の手 懸かりは、佐竹文書に出てくる能代城の古沢助丞の名前だが、家紋も墓碑も未発見である。 その意味では紋章を手懸かりとした沢内・古沢氏のルーツ探しはまだ緒についたばかり と言える。
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私が十八年間住みなれた横浜から茨城県に移転して、すでに八年の歳月がたった。この
時に守谷町を選んだのは、全くの偶然だった。埼玉県の住宅供給公社の建て売り住宅に当
選したので、その下見に行った帰途、女房が新聞広告に出ていた三井不動産の建て売り住
宅も見ようとせがまれ、守谷町に寄ったのがきっかけである。
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