赤松系古沢氏の興亡記

古沢 襄


沢内・古沢氏のルーツ


 四年前のことになるが、奥羽山脈の懐深く抱かれた岩手県沢内村で三百年の歴 史を刻んだ古沢氏一族の興亡に興味を惹かれ、二年間の調査の末に「沢内農民の 興亡」と題する本を出版した。

 この調査は沢内・古沢氏の総本家に当たる私の家に伝わる過去帳や菩提寺に遺 された資料、墓碑銘、南部藩の古記録、沢内村の古文書などが完備していて、比 較的容易な作業だった。しかし、沢内村前史となると過去帳にある「雫石生まれ」 という初代の記述が遺されてあるだけで、全く雲を掴むような不確かなものだっ た。
 その後、沢内村の教育委員会の協力があって、雫石町の広養寺に古沢屋理右衛 門なる人物の墓碑を発見、古文書記録も読むことが出来たが、そこで手懸かりが 途絶えた。

 それが新しい展開を見せたのは、全く偶然のことだった。
 沢内村の高橋教育長が盛岡の岩手県立図書館で沢内代官だった古沢長作のルー ツが常陸国の浪人・古沢清右衛門だという発見をして、私に知らせてきた。同じ 頃、私は茨城県の下妻市近郊に古沢という地名が中世からあることを知り、調査 を始めたところだった。
 岩手県に調査を絞っていた私は、茨城県や秋田県に調査を広げることになった。 木枯らしが吹く中を下妻市教育委員会を訪れた私は、常陸国の古沢氏のルーツを 求めるのなら鬼怒川西岸の八千代町の民俗資料館と教育委員会を訪ねるように勧 められた。
 そこで岩手県の古沢氏と茨城県の古沢氏を結ぶ一本の糸を発見することになる。 以下はその調査覚書である。


川尻・古沢氏のルーツ


 茨城県八千代町の教育委員会所蔵「不動院縁起」に八千代町川尻の赤松氏の由 来が記されているが、その祖は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて播磨国(兵 庫県)の守護大名として活躍した赤松則村(円心)となっている。また川尻の赤 松氏は、赤松則村を曾祖父とする赤松祐弁が開祖。さらに赤松則村は村上天皇の 第七皇子・具平親王を遠祖とする武士で、元弘の変で鎌倉幕府打倒で軍功をあげ た。

 しかし、後醍醐天皇による建武中興が公家中心の復古政治になったことに反撥 して足利尊氏に味方し、室町幕府のもとでは侍所の所司に任じられる四職の一家 となって播磨国の守護大名となった。もっとも赤松則村の四男・氏範は南朝の忠 臣として父・則村に叛き、幕府軍と戦って自害している。氏範の子・氏春と家則 も南朝の武将として降伏しなかった。

 戦前までは、足利尊氏とともに赤松則村は「逆臣」として扱われ、戦後になっ て復権、足利尊氏の再評価と並んで赤松則村の研究が中世の歴史学徒によって広 く発掘されるようになった。古記録として「嘉吉之記」(東大史料編纂所蔵)、 「赤松家 嘉吉乱記」(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)、「赤松之伝」(無窮会専 門図書館蔵)、「普光院軍記」(英賀神社蔵)、「赤松盛衰記」(龍野市歴史文 化資料館蔵)などが現代語で訳されている。

 播州・赤松氏の出自については「太平記」に「播磨国の住人、村上天皇第七御 子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫」と記され、さらに「今鏡」の村上の 源氏の巻に従三位季房について「右大臣顕房の子」として見えているが、天永二 年(1111)の暮に播磨国に配流となり、後に許されて三河守に任じられてい る。赤松村の豪族だった赤松氏に季房の血が入り、急速に播磨国で支配力を強め たものと思われる。

 足利尊氏と赤松則村の「逆臣イメージ」は南朝史観に拠った「太平記」に依拠 する点が大きいが、近来、北朝・室町幕府寄りの「梅松論」「源威集」の研究が 進み、史実としては「梅松論」の方が正確であることが確かめられている。

 その後、嘉吉の乱(1441)で赤松則村の末孫・赤松満祐が六代足利将軍の 義教と対立、京都の赤松邸に義教を招いた宴席で暗殺する挙に出た。嘉吉元年六 月二十四日のことである。足利将軍を暗殺した後、赤松満祐は一族を率いて京都 を脱出し、領国の播磨国に落ち延び、坂本城で幕府の追討軍と戦うが落城、さら に城山城で幕府軍と一戦を交えるが敗北して赤松満祐は自害して果てた。一族の 多くは討たれ、室町幕府の守護大名として権勢をふるった播州・赤松氏は滅亡し た。
 赤松満祐の弟・赤松則繁は猛将として知られたが、城山城から逃れ、朝鮮に渡 って倭寇として猛威をふるった。しかし、帰国したところを幕府軍によって囲ま れ河内で自害している。幕府による赤松狩りは全国で厳しく展開されたが、その 追及の手を逃れた赤松一族もかなりの数をかぞえ、赤松牢人となって主家の再興 に奔走している。なかには赤松姓を改め、赤木姓を名乗る者も出た。この中から 赤松政則が長禄二年(1458)に許されて将軍・義政に仕えて主家を再興し、 播磨・備前・美作の守護大名となっている。

 川尻・赤松氏は、全国に逃亡した赤松氏の一支族で鬼怒川西岸の川尻(八千代 町川尻)に土着し、後に関東の戦国大名・多賀谷氏に仕えて武功によって頭角を 現した。氏寺は同地にある赤松山不動院だが、その境内に江戸時代に建立された 「祐弁墓碑銘」が現存していて、赤松祐弁の出自は、播州・赤松氏と刻まれてあ る。


皆クレナイニ 古沢ノ水


 赤松祐弁は人となり勇にして、武芸に達するのみならず、文を好み、鎌倉公方 ・足利基氏から認められ、基氏の子・氏満の時に下妻香取宮円福寺の再興に起用 されている。祐弁は応永十六年(1409)に八十九歳で死去。
 祐弁から数代後に赤松民部祐房、赤松美濃季範の二人の名がみえる。飯沼城主 には赤松民部少輔。また、飯沼天神城の兵部大夫には、赤松民部の弟・藤次郎正 祐がある。赤松祐弁の死後、川尻・赤松氏は戦国城主の多賀谷氏の旗下で武将と しての地歩を着々と固め、さらに鬼怒川西岸にある和歌・島城(八千代町若)の 城主に赤松民部がなり、鬼怒川西岸の川尻、島の地に支配力を広げている。

 赤松美濃季範の曾孫に当たる赤松美濃常範は早くから勇将として知られ、天正 十五年(1587)には、多賀谷重経の命を受けて、鬼怒川西岸の新城・太田城 の城主となった。
 元亀二年(1571)に北条氏政の軍勢が多賀谷氏の居城である下妻城を激し く攻めたが、多賀谷政経の命を受けた赤松常範は下妻・古沢村で力戦し、北条勢 を撃退した。赤松常範の武勇は、佐竹義重、多賀谷政経から高く称賛され、世人 は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ皆クレナイニ 古沢ノ水」と囃し立てた。この 軍功によって、古沢村を与えられ、主君である多賀谷政経から赤松姓を古沢姓に 改めることを命じられた。これ以降、川尻・赤松氏は古沢氏を名乗り、鬼怒川西 岸の川尻、和歌(現在は八千代町若)と東岸の下妻荘古沢郷に知行地を広げた。

 一方、主家の多賀谷氏は、常陸国の国主・佐竹氏との関係を深め、佐竹義宣の 正室に多賀谷重経の娘を嫁がせ、さらに多賀谷重経には多賀谷三経という嫡男が ありながら廃嫡させて、佐竹義宣の弟の宣家を七歳で養子に迎えるという政略結 婚を結んで佐竹与力の筆頭になった。
 廃嫡された多賀谷三経は、鬼怒川西岸の八千代町若の和歌・島城に入った後、 近くの太田に城を築いて移転、島城は古沢佐渡に授けられた。多賀谷三経はこの 後、多賀谷本家から離れ、戦国大名の結城氏に仕えて重臣となった。

 この結果、多賀谷氏は鬼怒川東岸の下妻多賀谷氏と西岸の太田多賀谷氏の二つ に分裂し、両岸に知行地を持った古沢氏も鬼怒川東岸は下妻・多賀谷氏に臣従、 西岸は太田・多賀谷氏に臣従した。西岸の古沢氏は結城秀康が越前に転封となっ た時に多賀谷三経に従って越前に移っている。

 関ヶ原の合戦(1600)は、下妻・多賀谷氏と太田・多賀谷氏が、石田三成 方と徳川家康方に分かれて争うこととなり明暗を分けた。
 石田三成方と見られた佐竹、多賀谷氏は、関ヶ原の合戦後、徳川家康から疎ま れ、まず慶長六年(1601)に多賀谷の下妻六万石がお取り潰しとなった。下 妻・多賀谷氏に臣従した鬼怒川東岸の古沢氏の多くは家禄を失い土着して農民と なった。今日、下妻市と八千代町に多く見られる古沢姓はこの子孫である。

 領主の多賀谷重経はすでに隠居していたが、一時は家康の暗殺も考えた人物と 疑われ、江戸幕府の追及の手は厳しかった。多賀谷重経は、慶長七年(1602) に下妻城下を退散、最初は秋田にあったが、その後「道雨」と号して諸国を放浪 し、元和四年(1618)に滋賀県彦根で客死した。「常総遺文」に旧家臣の古 沢新衛門尉に宛てた重経の書状が残っているが、路銀を無心している。無心の書 状は「秋田藩家蔵文書」にも二通残っている。佐竹与力の筆頭として権勢を振る った戦国武将・多賀谷重経の末路は哀れという外はない。

 養子の多賀谷宣家は僅か四十数人の多賀谷家臣を従えて佐竹家に帰参し、佐竹 義宣が常陸国五十四万五千石から出羽国二十万五千八百石に国替えとなった時に 一緒に秋田入りしている。この家臣団の中に古沢助丞の名前が見える。(佐竹重 臣・梅津政景日記)古沢助丞が居住した能代市には現在は古沢姓が残っておらず、 古沢助丞の子孫は移住したか、家系が断絶したものと思われる。


紫波町北田・古沢氏の出現


 下妻・多賀谷氏の家臣だった古沢清右衛門は、主家の滅亡によって浪人となっ て、南部藩領・山田村に移っている。その後、南部藩領・北田村(紫波町北田) に移り、子孫は土着して農民となった。(岩手県立図書館・参考諸家系図)現在 は北田地区に二十軒の古沢姓が軒を連ねて残っている。また近隣の石鳥谷町にあ る曹洞宗・金剛寺の住職が古沢姓で、これも同族と見られる。

 古沢清右衛門の子孫の多くは土着して農民となったが、南部藩に仕えて士分と なった者もあった。この中から宝暦年間に沢内村の代官となった古沢長作が出て いる。沢内村の古沢氏はこの流れとみられる。また、この同族からは、寛政年間 に雫石に居住した古沢屋理右衛門義重(雫石の曹洞宗・広養寺に墓が現存)も出 ている。

 一族の氏名には理右衛門や善の字を付けた「善右衛門」「善大夫」が世襲で多 く見られ、沢内・古沢氏の「善兵衛」「善助」と共通するものがある。岩手県の 古沢氏は、古沢清右衛門の子孫とみて間違いないであろう。

 雫石の古沢氏について詳述すれば、雫石町の旧家に伝わる古文書に「岩持忠兵 衛家本」という天正十九年(1592)から元治元年(1864)までの写本が 現存している。書き出しは「天正十九年、此年、古大膳様、九戸左近将監御退治 也、太閤秀吉公の御名代として、浅野弾正長政・蒲生飛騨守・伊井兵部少輔・長 崎軍奉行として、石田治部少輔、上使ニ而御退治也」とあり、九戸の乱の伝承本 である。
 その裏表紙には「寛政九丁乙歳六月初旬写之、雫石町理右衛門義重」の署名が ある。理右衛門義重の筆跡は、写本の一部で天正十九年から天文五年(1801) までの二百十年間。その後の筆跡は別人のもとなっている。

 理右衛門義重には、古沢屋の屋号がついていて、沢内村の善兵衛も古沢屋の屋 号がつく共通点がある。理右衛門義重は当時の雫石ではかなりの教養人だったよ うで、写本は南部根元記、九戸軍記、雫石の万用歳代記など多岐にわたっている。 門弟もかかえていた。

 雫石の下久保、末永久右衛門家に伝わる「九戸軍記」の奥書に「滴石町古沢屋 理右衛門、門弟兵助主」と記されてあった。文化七年(1810)の記述である。 また岩持忠兵衛家の「南部根元記」の写本の奥書は寛政八年(1798)となっ ている。
 このことから古沢理右衛門義重は、寛政年間に雫石に存在したことが分かって いるが、一代で姿を消しており、慶応二年(1866)の検地では雫石には、も はや古沢姓は存在していない。

 古沢理右衛門義重の墓は、雫石の曹洞宗・広養寺にあって「古沢利右衛門・文 化八年(1811)十月六日」とある。沢内・古沢氏と同じ曹洞宗の門徒である。 付言すれば紫波町北田の古沢氏も同地の曹洞宗・正音寺の門徒である。

 沢内・古沢氏については、安永年間の盛岡藩雑書に宮古から沢内に追放になっ た罪人を沢内・古沢氏で預かったことが記されている。記録は安永五年(177 6)九月のもので「九月十三日、宮古御代官所金浜村安立、明和七年(1770) 寅八月八日沢内へ御追放被仰付、新町善兵衛と申者へ罷有候処、当八月二十日よ り相見得不申候付色々相尋候得共、行衛相知不申欠落候由」とある。
 この文書は沢内・古沢氏が預かった罪人が逃亡(欠落)したことを述べている。


鬼怒川西岸の古沢氏


 以上が下妻・多賀谷氏に臣従した古沢氏の子孫で東北地方に流れ土着した者の 概略で鬼怒川東岸の古沢氏の末裔と見るのが妥当である。一方、鬼怒川西岸の古 沢氏は太田・多賀谷氏に臣従し、殆どが越前(福井県)に主君に従って移ったも のとみられる。この一族は後に群馬県に移住している。

 太田・多賀谷氏が臣従した結城秀康は徳川家康の実子で、関ヶ原合戦に際して は石田三成と通じているとみられた上杉景勝や佐竹義宣の押さえとして関東から 動かなかった。鬼怒川西岸の古沢氏も家康側に立ったわけである。

 この功績によって結城秀康は慶長五年(1600)に結城十万一千石から一挙 に越前国北庄六十七万石に転封加増となり、多賀谷三経も結城重臣として越前柿 崎を知行して三万二千石を拝領した。多賀谷三経の子・泰経は大阪の陣(161 4・1615)で軍功をあげている。太田・多賀谷氏に臣従した古沢氏は下妻・ 多賀谷氏に臣従した古沢氏とは異なって、土着せずに明治維新まで武士として残 ったとみられる。

 また常陸国に土着した古沢氏については、解明が進んでおり、この中から自由 民権運動で活躍し、帝国議会に初当選した国会議員も生まれている。


古沢姓の由来


 総じて氏名は、その九割までが地名に由来している。古沢姓もその埒外にない。
 沢の字がつく地名は、東日本に見られるが、西日本にはほとんど見られない特 徴がある。姓が地名から由来することが多い実態からすると地名で沢の字が多い 県には沢の字がつく姓が多いことになる。地名で沢の字がつく数の多いのは、山 国の長野県と岩手県で、姓でも沢がつくものが多い。

 しかし古沢姓となると全国的にみても数が少ない。秋田県を調査したところで は、下妻・多賀谷氏の居城があった能代市には古沢姓は現存していない。また横 手市には一軒だけしか古沢姓が残っていない。岩手県でも雫石町には江戸時代に 一軒だけあったが、現存していない。
 県庁所在地になると短期の転勤者が出入りするので、あまり調査の参考になら ないきらいがある。この点、茨城県下妻市や八千代町、岩手県紫波町や沢内村の ように古沢姓が多い土地柄は、全国的にみても限られている。

 「姓氏家系大辞典」には、古沢の地名は相模、下野などにあると記載されてい るが、常陸国の古沢邑については全く触れていない。相模国については、愛甲郡 古沢(古庄)邑の秀郷流藤原姓から起こった古庄近藤太が古沢近藤太とも名乗っ たとある。このほか豊後の大友氏の家臣にも古庄氏があって古沢姓も名乗ってい るが、記載そのものが短く常陸国の古沢氏ほど詳しいものではない。

 下妻地域は中世(11世紀ごろ)には大覚寺統の寺社領の荘園で下妻荘古沢郷 の呼称は、永享七年(1435)の「常陸郡郷考」に出てくる。古沢郷は東古沢 と西古沢があって、下妻市に編入された現在は西古沢に古沢姓が多い特徴がある。 この古沢姓は元亀二年(1571)以降に現れたもので、まだ四百三十年ほどの 歴史しかないので、むしろ赤松系古沢氏としてとらえるのが正しい。

 「姓(かばね)は、その九割までが地名に由来している」と「日本の苗字事典」 を著した丹羽基二氏は言う。また名字と苗字は、同じ「みょうじ」と理解されて いるが、歴史的にみると異なる意味を持っている。中世に発生した「名字」は豪 族が支配した土地(名田)の名前から出ているが、「苗字」は比較的新しく近世 における同族の家名のことである。
 両者の違いは土地支配の有無にある。土地を支配しない者には名字は無い。こ の意味で、名字は数が限られている。

 元弘三年の赤松則村挙兵の前夜、赤松館に周辺の武士団が集まったが、佐用、 宇野、得平、別所、柏原、上月、間島、櫛田、中山、豊福、太田など播磨国佐用 庄の地名に由来する名字の武士である。
 この名字は赤松系図にも出てくる。宇野、得平、間島、太田、中山、上月、櫛 田、別所、小寺、佐用、河原などである。赤松館に集まった武士団は、周辺の土 豪であるだけでなく、まさに同族の集団だった。山間部の閉ざされた同族武士団 が結束して、想像を超えるエネルギーを発揮したわけである。

 佐用庄に存在した一族の本宗は宇野氏。宇野則景(頼範の三男)の四人の男子 は、間島、上月、櫛田、赤松の名字を名乗った。末弟の赤松家範が播州・赤松氏 の始祖となった。家範から四代目に赤松次郎左衛門尉則村(法名円心)が出た。 則村の弟・五郎円光は別所姓を名乗る。赤松円光の妻は楠正成の妹。したがって 赤松氏と楠正成は姻戚関係にある。さらに美作国(岡山県)英多郡宮本村の宮本 氏も赤松支族で、剣豪・宮本武蔵はこの末孫に当たる。
 このことから、赤松則村は実力で、宇野宗家に代わって一族の頭領になったこ とが分かる。

 赤松姓に較べて古沢姓は苗字の部類に属する。この苗字も江戸時代は、武士と 豪農や豪商(屋号を付する)に限られ、一般が使用するようになったのは、明治 維新以降である。
 無姓で明治維新後、古沢姓を名乗った者もあるが、これは土地の「古沢」を借 用したものが多い。もともと古沢の地名が少ないから、明治以降の古沢姓は限ら れている。

 これが八千代町川尻を訪れると軒を連ねて古沢姓がある。川尻・赤松氏の氏寺 である不動院には、赤松家の墓所と並んで江戸時代から伝わる古沢家の墓碑が立 ち並んでいた。


「祐」名の浮き沈み


家系図から一族の広がりを追求するのは一つの手法だが、播州・赤松家系図から は、関東の川尻・赤松氏の系譜は出てこない。また、下妻・古沢家系図からは、東 北の古沢氏の系譜は読みとれない。これは家系図のもつ「タテ系譜」の限界性であ る。

川尻・赤松氏と播州・赤松氏の関連を裏付けるもは、赤松氏の氏寺である赤松山 不動院(八千代町川尻)の「祐弁墓碑銘」と赤松山不動院のいわれをまとめた「不 動院縁起」にある出自を「播州・赤松氏」とする由来の記録である。

 また岩手の古沢氏と下妻・古沢氏の関連を裏付けるものは、岩手県立図書館所蔵 の「参考諸家系図」にある古沢清右衛門の出自を「生国常陸ノ人ナリ、浪士ニシテ 山田村テ来リ住ス」とある記録である。家系図からは読みとれない系譜を、他の資 料・史蹟から補強する作業が、極めて重要な役割を担っている。後に述べるが「家 紋」も一族の繋がりを証明する重要な手懸かりとなる。

 これは、家系図そのものがタテの系譜を重んじ、ヨコの一族の系譜を省略してき たことが、歴史の積み重ねの中で関連性を失ったと言える。とくに「逆臣イメージ」 が長く続いた赤松氏の家系図は、その末裔の一族が播州・赤松氏との関係を嫌った 側面があったと考えられる。足利将軍・義教を暗殺して、幕府軍に攻められ、赤松 満祐が自害してからは、室町幕府の赤松狩りが厳しく、その追及の手を逃れるため に播州・赤松氏との関係を意識的に避けた歴史がある。

 その一つの例証として、播州・赤松氏に多く見られた「祐(すけ)」の呼称が、 川尻・赤松氏では開祖の「祐弁」と末孫の「民部祐房」「美濃祐俊」「新右衛門祐 一」「新右衛門祐昌」など限られており、下妻・古沢氏に至っては「祐」でなく 「助(すけ)」を使っていることが挙げられる。古沢助大夫、古沢助丞がこれに当 たる。

 播州・赤松氏の氏名では、「景祐」「祐清」「祐頼」「祐久」「貞祐」「元祐」 「則祐」「満祐」「祐尚」「持祐」「祐利」「祐定」「義祐」「祐秀」「祐康」と 数多く「祐」の字が多く見られる。「祐」は赤松氏の家門の誇りを示す文字で、赤 松則村の三男・赤松則祐が、赤松宗家を継いで室町幕府から重く用いられたことに 由来する。

 しかし、岩手の古沢清右衛門の末裔は、赤松一族を象徴する「祐」の文字を使っ ていない。家門の誇りを示す「祐」の文字にも、浮き沈みがあった。末裔にとって 「祐」は足利将軍を暗殺した赤松満祐の「祐」だったのかもしれない。


宗家となった新右衛門


 下妻・古沢氏の開祖とも言える古沢美濃常範の系譜から多くの古沢姓の武将が生 まれたが、その筆頭は「常州下妻城主多賀谷修理大夫家中諸士」に出てくる古沢助 大夫(八百五十石)である。しかし、助大夫の系譜は現存していない。出羽に赴い た多賀谷宣家の家臣に古沢助丞の名がでてくることから、この系譜は出羽国にあっ て絶家となった可能性がある。

 二番手には古沢隼人(五百石)の名がある。古沢一朗氏の調査によれば、この系 譜は太田・多賀谷氏の多賀谷三経に従って、古沢佐渡(三百石)の一族とともに越 前に赴き、後に結城直基に従って上州・前橋に移転した。前橋市に残る古沢姓はこ の一族であろう。

 三番手に出てくる古沢新右衛門(四百五十石)の系譜は、下妻・多賀谷氏に臣従 し、多賀谷氏の改易後、川尻・赤松氏の発祥の地である八千代町川尻に土着して古 沢総本家を継承しているが、この末裔である赤松光子氏の代で絶家となった。この 系譜では静岡の赤松勝司氏が残っている。

 古沢新右衛門は多賀谷氏の諸系譜、証文類、武具などの散逸を防ぐため、積極的 に蒐集して、後に出羽国にあった多賀谷家に進上している。また最後の主君となっ た多賀谷重経から頼られ、重経の妻子の後事を託す書状を受け取っていた。重経の 子・多賀谷重成は古沢新右衛門に引き取られ、八千代町大里で生計を立てた。家禄 では三番手になるが、川尻・古沢氏の宗家と見るのが正しく、家紋も宗家の「九曜」 紋を使用している。

 「新右衛門」の名前は代々襲名されたが、第十六代古沢新右衛門祐一の時に古沢 姓から赤松姓に戻った。川尻・赤松氏の開祖である赤松祐弁にちなんだ「祐」の文 字であるだけなく、播州・赤松氏の代表的な文字である「祐」を冠した祐一の名前 によって、第十六代古沢新右衛門は強烈な赤松一族の意識に駆られていたと想像で きる。赤松姓への復帰は、この意識の表れであった。この末裔から明治二十三年 (一八九〇)の帝国議会に初当選した赤松新右衛門祐昌が出ている。この人物は自 由民権運動でも活躍した。


南部藩領に移った末裔たち


 多賀谷氏が下妻を退散した後の江戸時代になって、古沢村の名主・古沢久右衛門 の名が出てくる。農民でありながら、苗字を許され、村役人の割元役となり、近隣 の小嶋村の兼帯名主を勤めた。古沢新右衛門祐一は赤松姓に復帰したが、他の古沢 一族は古沢姓を変えずに今日に至っている。

 古沢大膳(三百石)、古沢弾正(三百石)の末裔についてはまだ分明していない。 また三百石以下の古沢一族についても、これからの調査に委ねられている。
 南部藩領山田村に移り、その系譜から南部藩士を出した古沢清右衛門の常陸国で の出自も、下妻・古沢氏の一支族であることには疑いがないが、詳しい出自は未分 明のまま残されている。しかし南部藩領における足取りは、かなり解明された。

 古沢清右衛門の一族は、古沢清六になって天和年間に山田村から志和郡北田村 (現在の紫波町北田)移住し、土着して農民となった。その後、古沢長作の時にな って南部藩に召し抱えられ、三両四人扶持を賜った。元禄十六年に江戸で客死して いる。その子・古沢理右衛門が相続して、南部利視から三戸郡田子村の足高野竿新 田を賜り、六十石を拝領している。まだ下級武士の域を出ていない。古沢理右衛門 は書道・玉置流の手跡で南部公から用いられた。

 理右衛門の養子・律右衛門は享保十四年(一七二九)に盛岡本御蔵奉行だったが、 罪を得て、廃嫡、清左衛門長作が家督を相続した。古沢清左衛門長作は、宝暦十四 年(一七六四)南部藩御駕篭頭から和賀郡沢内村の代官となり、安永三年(一七七 四)に御勘定頭、その後、南部公の御側奥使となっている。その子・庄左衛門忠助 は文化元年(一八〇四)に江戸で出奔して家禄を召し上げられたが、後に許されて 五人扶持で南部藩に召し出されている。

 この一族からは、古沢清六の次男が南部行信公に召し抱えられ、その末裔からは 善大夫、善右衛門が出た。古沢善大夫は八十一石の下級武士ながら、江戸藩邸で所 御役、古沢善右衛門は御用間御物書筆頭の役についている。
 また古沢善右衛門の次男・清九郎は、南部利敬に仕えた。


沢内村代官と古沢屋


 古沢清左衛門長作は、宝暦十四年に沢内村代官となったが、この頃、沢内村には 生国を近隣の雫石村とする古沢屋善兵衛の一族が移住していた。一点山玉泉寺の開 基家に繋がる富農で、世襲で善兵衛を名乗り、現存する初代善兵衛の墓は安永二年 (一七七一)のもの。戒名は「玄質道了信士」である。

 もっとも玄質道了信士が善兵衛を名乗っていたか、確たる証拠はない。曹洞宗の 門徒であったことから、本来なら生前の名前の「善」の文字が、戒名に入っている のが、普通だからである。二代善兵衛の戒名も「東林旭光禅定門」で「善」の文字 は読みとれない。
 「善」の文字が入った戒名がつくのは、嘉永二年(一八四九)に没した三代善兵 衛の「善心了喜信士」からで、これ以降、沢内村の古沢氏は生前の名前、死後の戒 名に必ず「善」の文字を使うようになった。また三代善兵衛の時に分家した一族も 「善助」を名乗り、初代善助は御山古人、御境古人の役職についている。

 さらに文化十四年(一八一七)の古文書で初めて「善兵衛」の名前が記録されて いることから、三代善兵衛は生前に「善兵衛」を名乗っていたことがはっきりして いる。その一方、盛岡藩雑書には東林旭光禅定門が生前、「善兵衛」を名乗ってい たことが記されている。東林旭光禅定門が古沢屋の姓名を名乗った証拠はない。百 姓・善兵衛のままだった可能性がある。

 このことから世襲で古沢屋を名乗ったのは、三代善兵衛からという推論も成立す る。沢内村代官の古沢清左衛門長作が在任した同時代の玄質道了信士、東林旭光禅 定門の頃は、古沢姓を持たず、三代の善心了喜信士の時から初めて古沢姓を持つよ うになったのではなかろうか。古沢清左衛門長作の一族の善大夫、善右衛門と共通 する「善」の文字が、沢内村で古沢姓とともに末永く残ったことは、古沢清左衛門 長作の血脈が沢内村に残ったことを示唆している。この家系からは、戦前の昭和文 学史で名が出る武田麟太郎が総帥となった人民文庫で活躍した作家・古沢元や漫画 家の岸丈夫(本名・古沢行夫)が出た。

   古沢清左衛門長作が沢内村の代官だった期間は、宝暦十四年から明和四年(一七 六七)までの四年間だが、離任後に古沢家で事件が起こった。盛岡藩雑書に記載さ れている記録に「九月十三日、宮古御代官所金浜村安立、明和七年(一七七〇)寅 八月八日沢内へ御追放被仰付、新町善兵衛と申者へ罷有候処、当八月二十日より相 見得不申候付色々相尋候得共、行衛相知不申欠落候由」という記述がある。

 事件は代官の離任後、三年目に発生した。
 この文書は沢内村の富農・古沢氏に預けた宮古の罪人が逃亡(欠落)したことを 述べている。罪人を逃亡させた落度は、当時厳しく罰せられた。しかし不思議なこ とに、その罪を逃れて仕置きを免れていた。すでに代官に連なる縁者として、目こ ぼしを受けたのであろう。二代善兵衛の時の事件で、盛岡藩雑書で「新町善兵衛」 となっていることから、東林旭光禅定門は生前に善兵衛を名乗っていたことが分か る。


雫石の古沢屋


 雫石町の旧家に伝わる古文書に「岩持忠兵衛家本」という天正十九年(一五九二) から元治元年(一八六四)までの写本が現存している。書き出しは「天正十九年、 此年、古大膳様、九戸左近将監御退治也、太閤秀吉公の御名代として、浅野弾正長 政・蒲生飛騨守・伊井兵部少輔・長崎軍奉行として、石田治部少輔、上使ニ而御退 治也」となっていて、九戸の乱の伝承本である。

 その裏表紙には「寛政九丁乙歳六月初旬写之、雫石町理右衛門義重」の署名があ る。理右衛門義重の筆跡は、写本の一部で天正十九年から天文五年(一八〇一)ま での二百十年間。その後の筆跡は別人のもとなっている。
 理右衛門義重には、古沢屋の屋号がついていて、沢内村の善兵衛も古沢屋の屋号 と同じである。また、沢内村の代官・古沢清左衛門長作の一族で、書道・玉置流の 手跡で南部公に仕えた古沢理右衛門と同姓同名である。

 雫石の古沢理右衛門義重の筆跡は、卓越した見事なものが残されていて、かなり の教養人だったことがうかがわれる。写本は南部根元記、九戸軍記、雫石の万用歳 代記など多岐にわたっていて、多くの門弟をかかえていた。
 雫石の下久保、末永久右衛門家に伝わる「九戸軍記」の奥書に「滴石町古沢屋理 右衛門、門弟兵助主」と記されてあった。文化七年(一八一〇)の記述。また岩持 忠兵衛家の「南部根元記」の写本の奥書は寛政八年(一七九八)で、このことから 古沢理右衛門義重は、寛政年間に雫石に存在したことが分かっている。しかし、雫 石の古沢屋は、一代で姿を消しており、慶応二年(一八六六)の検地では雫石には、 もはや古沢姓は存在していなかった。

 古沢理右衛門義重の墓は、雫石の曹洞宗・広養寺にあって「古沢利(理)右衛門 ・文化八年(一八一一)十月六日」とある。沢内・古沢氏と同じ曹洞宗の門徒であ る。付言すれば紫波町北田の古沢氏も同地の曹洞宗・正音寺の門徒である。


家紋から追った赤松・古沢氏


 家紋は平安時代の後期に発生している。朝廷に出仕する公家が、調度品や牛車に 家号としてつけたのが始まりと言われるが、源平合戦の時代に戦陣で味方と敵を識 別する目印として広く採用されるようになった。源頼朝は常陸国の佐竹秀義に「源 氏の白旗だけでは、戦陣で間違いやすいから、中に扇に月の丸を付けよ」と命じた。 それ以後、佐竹氏は家紋に「五本骨扇の中に月丸」を採用し、副紋として「源氏香 図の花散里」を用いた。

 播州・赤松宗家は「二つ引き両に左三つ巴」を用いた。左巻きの巴家紋は永禄二 年(一五五九)に建立された書写山円教寺に遺っている。この家紋は赤松宗家に限 られ、赤松支族は「菊」「八重菊」「桐」「五三桐」「竜胆」「笹竜胆」「松」 「三階松」「七つ星」「七曜」を用いている。

 川尻・赤松氏の赤松宗家は「九曜」の家紋を用い、八千代町の「歴史民俗資料館」 に展示されている兜には、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋が、兜の額 部分についている。
 「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。 千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の 運行をつかさどる神とされた。
 川尻・不動院にある赤松・古沢家の墓所には、川尻・赤松宗家の「九曜」の家紋 のほかに「上り藤」と「丸に蔦」家紋の墓が並んでいる。

 また岩手県の紫波町北田の古沢清右衛門の家紋は「丸内梅鉢」、梅鉢家紋は池田 勇人・元首相家の家紋でもある。和賀郡沢内村の古沢善兵衛家の家紋は、川尻・不 動院に見られる「丸に蔦」。沢内・古沢氏の菩提寺である曹洞宗の一点山玉泉寺の 本堂正面に「一点山」の山額が、江戸時代から掲げられえいるが、寄進者を示す六 つの「丸に蔦」家紋が刻まれている。雫石町の古沢理右衛門義重の墓には「相香」 の家紋が残された。

 このように家紋は、家系図からは読みとれない同族の証を残している。播州・赤 松氏の支族が使った「七曜」家紋と同系統の「九曜」家紋を川尻・赤松宗家が使用 し、川尻・赤松氏の支族が使った「丸に蔦」家紋を沢内・古沢宗家が用いた。文書 は長い歴史のなかで散逸し、火災で消滅することが多いが、墓碑に刻まれた家紋は 風雪に洗われながら、手懸かりを後世に残している。