風雲・下妻城

古沢 襄


その一 みな、くれないに古沢の水


 「あの家系には、謀反人の血が流れている」
 下妻城を出陣する赤松美濃常範の軍勢を見送りながら、城主・多賀谷政経はこみあげる 疑念を振り払うことができなかった。
 「美濃が北条方に寝返れば、先祖代々の多賀谷家も終わる」
 政経はうめくようにつぶやいた。救援の佐竹軍よりも敵の北条軍の足が速かった。

 元亀二年五月、北条氏政は二万の大軍を率いて、鬼怒川を渡り、東岸の下妻城に迫てい た。物見の兵が北条軍の進軍の速さを刻々と知らせてきた。下妻城に籠城して、佐竹軍が 来るのを待つか、打って出て力戦するか、政経は迷ったが、結局、主力を城に残し、城外 に精兵を布陣する二段の構えを取る決断を下した。
 四年前の永禄十年にも氏政の弟・氏照を大将に二万余の大軍で下妻城を目指して侵攻し てきた。鬼怒川西岸に布陣した北条勢に対して、多賀谷政経は佐竹義重に救援を要請する 早馬を走らせ、「地戦千騎」と称された騎馬軍団を中心に三千余の軍勢を総動員して、鬼 怒川東岸に布陣した。

 応援に駆けつけた佐竹軍は、佐竹義重の本隊が北条氏照の軍勢を後背から突く態勢をと る一方で義重の弟・義昌は、多賀谷軍と同調して迎撃の構えを示した。
 この作戦が効を奏して、鬼怒川の南と北から渡河した北条軍は下妻城下の乱戦で大敗し 引き上げた。翌年も北条軍の出兵があったが、降伏を装った政経が夜襲をかけて北条軍を 撃退した。

 これで三度目の北条軍の侵攻になる。政経は佐竹義重に救援の早馬を走らせたが、総力 をあげて侵攻してきた北条軍の動きは早かった。危機は迫っている。
 「佐竹の援軍が来るまで、何としてでも下妻城を守り抜かなくてはならぬ」
 多賀谷家中で戦上手と評判が高い赤松美濃常範に出陣の命を下した政経は祈るような気 持ちだった。
 「せめて佐竹の援軍が来るまで時間を稼いでくれ」
 千挺の鉄砲足軽隊は、下妻城を死守するため赤松軍にすべてを割くことはできない。出 陣した赤松勢は一族中心の手兵に限られた。

 「死地に赴くようなものだ」
 政経には後ろめたさがある。だからよけいに常範の寝返りを怖れた。
 「お味方は古沢村に布陣しました」
 息を切らして駆けつけた物見の兵が、政経に報告に来た。青ざめた表情が事態の切迫を 告げていた。
 この時、古沢村に布陣した常範は、静かに北条軍が現れるのを待っていた。

 「赤松は数倍の敵なら必ず勝つ。沼地に囲まれた古沢村に二万の敵が一気に攻めてくる ことはない。美濃の采配を信じろ」
 自分に言い聞かせるように常範は低い声で傍らの者に言った。
 「おう」
 周りの兵は、力強く応じた。
 「これなら勝てる」
 武者ぶるいした常範は、兜に飾られた九曜の印に手を当てた。九曜は赤松宗家の家紋で ある。不思議と戦に負ける気がしなかった。
 「この家紋が自分を守ってくれる」
 常範は戦を重ねるごとに九曜の星を信じる気持ちが強くなっていた。

 「鉄砲隊の不足は、矢戦に慣れた足軽軍団で十分補える」
 主君・政経が下妻城の備えのため、鉄砲隊を温存するだろうと予期していた。
 「雨が降れば使えない鉄砲よりも、弓矢の方が役に立つ」
 赤松勢の矢戦の強さに自信がある常範には不安はなかった。

 「戦は怯んだら負ける」
 常範は幼い時からよく父から諭された。その記憶が甦ってくる。
 父は赤松三郎晴満と名乗り、多賀谷旗下の勇将として知られていた。剃髪して高海入道 と名乗った父は、戦さ神として常範の偶像だった。

 祖父の赤松美濃祐俊は、ささいなことで同僚の橋本三郎と口論し、あげくの果てに闇討 ちにあって命を落としている。その祖父の仇を父は長い歳月をかけて追い求め、沼守観音 堂で討ち果たした。
 その父も十一年前に没した。
 「父の加護がある」
 怯むものかと自分に言いきかせる。


播州・赤松の反逆の血


 下妻城の政経は、常範のことにまだ拘っていた。
 それにはわけがある。
 常範の先祖は赤松祐弁と言ったが、播州・赤松氏の出自であった。
 播磨、備前、美作を領国とした戦国大名の末裔で、武州の出である一土豪から成り上が った多賀谷家とは家格が違う。

 それだけでない。祐弁の曾祖父・赤松則村は元弘の役で挙兵し、六波羅に攻め入って北 条氏を滅ぼす一役を担いながら、後醍醐天皇に背いて足利尊氏に加担した歴史がある。
 反逆の歴史は、則村から五代後の赤松満祐の時に、世間を震撼させた大事件を起こした。  満祐が六代足利将軍・義教を京都の赤松邸で殺害したのである。これがもとで満祐一族 は幕府軍に攻められ、滅亡する。祐弁は幕府の追及の手を逃れて、鬼怒川西岸の川尻に土 着した赤松支族だった。

 「恐ろしい奴」
 常範の武勇を当てにしながら、反逆の血に不安が隠せない。
 本来なら赤松武将を多賀谷家はもっと重く用いるべきであった。歴代の赤松武将はそれ だけの武功を立てきた。しかし赤松美濃常範は多賀谷軍団の先手第三番隊の士大将に過ぎ ない。常範を重く用いると家格が下の多賀谷家を乗っ取られる危惧があった。

 これは政経の勝手な理屈である。
 多賀谷氏も旧主の結城家の重臣だったが、主君に背いて自立した家柄だった。
 政経はそのことを都合良く忘れている。ただ自分に反逆されることだけが怖ろしく、自 らを被害者に見立ていた。
 しかし今は常範が少しでも北条軍を釘付けにして、佐竹の援軍が来るまで時間稼ぎして くれるのを祈るしかなかった。
 「常範ならやってくれる」
 政経は矛盾した自分の考えに気づいていない。

 「生きて常範にまみえたら、常範を取り立ててやろう」
 都合の良い堂々めぐりで政経の思案が続く。
 北条軍の先陣が姿を現した。
 「はやるな。引き寄せて一気に矢弾を打ち込め」
 常範は馬から下り、仁王立ちになって、はやり立つ足軽軍団に声を掛けた。
 「二弾、三弾を打ち込む手筈に抜かるな」
 もう一度、常範は全軍に声を掛けた。

 下妻城の城下は、江沼村、砂沼、糸繰川、大宝沼によってなる広大な湖沼湿地帯に守ら れ北は七重の土塁、堀をほどこし、西南も五重の土塁で防御陣地を築いている。攻めるに 難く、守りに堅い天然の城であった。したがって攻城軍は、東南の古沢村の守りを崩し、 一気に城内を目指す戦法が必要になる。その古沢村も湿地帯にあるので、大軍の騎馬軍団 が攻め込むには向いていない。
 常範が言ったように二万の敵軍が大挙して攻撃することは難しく、細長の隊形で斬り込 む戦法を北条軍はとった。迎えうつ赤松軍が白兵戦に引き込まれたら、大軍を控えた北条 軍は次々と新手の軍勢を繰り出してくるので、兵力で劣勢な赤松軍の敗北は時間の問題に なる。

 矢戦の射程距離に十分入ったとろで、赤松軍の足軽軍団は北条軍の頭上に雨霰のように 矢を打ち注いだ。たちまち北条軍の先頭集団が隊形を崩した。二弾、三弾の矢が降り注ぎ、 逃げようとした北条軍が湿地帯に水を十分張った田に足を取られてもがき苦しむ様が見て とれた。
 「待て」
 常範は鋭い声を掛けた。逃げる敵に矢を打ち込んでも命中率は低くなる。
 「今度は陣形を整えてくる」

 案の定、矢を防ぐ盾を先頭にかざして北条軍は、少しずつ前進してきた。細長い陣形は 変えようが無かった。
 「矢を打ち込み、隙をみて斬り込め」
 引きつけておいて、斬り込む赤松軍に北条軍は戦意を失って蜘蛛の子を散らすように逃 げた。
 「深追いするな。また来る」
 常範は冷静だった。味方の兵の疲れを癒す必要があった。しかし、二度の小競り合いで 敵を追い散らした赤松軍の戦意は高まっていた。逆に北条軍は手痛い敗北に沈み切ってい た。おまけに佐竹の援軍に後背を突かれる心配も出てきた。

 寄せての大将の北条氏政は、曾祖父の北条早雲や祖父の北条氏綱、父の北条氏康ほどの 軍略も器量も備えていなかった。大軍を頼みにして、いたずらに同じ戦法で突進攻撃を繰 り返すしか能がなく、赤松軍に翻弄されて、手傷を負う者が増える一方だった。愚将のも とで北条軍は次第に戦意を失っていた。にわか集めの足軽たちも、形勢を見て命を惜しみ 突進をためらった。

 「次は一気に雌雄を決する」
 三度、四度の攻撃の失敗で戦意を失った北条軍の兆候を見てとった常範はまなじりを決 して命令を下した。
 「矢は後詰めに降り注げ」
 機は熟した。
 おそるおそる進軍してきた北条軍を引きつけて、常範は先頭に立ち、全軍で斬り込んで いった。古沢村はたちまち阿鼻叫喚の場と化した。北条軍の後詰めは矢弾を揃えた一斉攻 撃に混乱し、先鋒は斬り込んできた赤松軍を前にして逃げまどうだけであった。古沢村の 田は討たれた北条軍の血で赤く染まった。

 「佐竹勢がお味方の荷馬隊を襲っております」
 転がるように馬からおりた伝令の武士が氏政に告げた。
 援軍の佐竹軍は、まだ鬼怒川西岸にたどりついていないが、北条の兵站基地となった逆 井城を囲んでいた。
 佐竹軍が鬼怒川を渡れば、北条軍は壊滅的な打撃を受ける。
 「兵をひけ」
 氏政の声は怒りで震えていた。

 この戦いが終わった後、世人は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ皆クレナイニ 古沢ノ水」 と常範の武勇を囃し立てることになる。


血染めの古沢村を褒賞に


 返り血を浴びた常範が、下妻城に戻った時に政経は一時とは言え常範の忠節を疑った自 分を恥じた。佐竹の援軍を待たずして、北条軍を撃退した常範の命がけの軍功に疑いはな い。
 援軍を率いて下妻城に入った佐竹義宣は、政経から常範の軍功を聞いて
 「良い武将をお持ちだ」
 と息を呑んだ。それほど常範の力戦は、凄絶なものだった。
 「美濃の軍功にどうなさる」
 義宣から言われるまでもなく政経は最大級の褒賞を考えていた。

 「血で染めて守り抜いた古沢村は、知行地として美濃に与えまする」
 政経はもう一つのことを考えていた。
 「赤松姓を古沢姓に改めさせたいと思いまする」
 義宣はちらっと政経を見た。常範の出自が播州・赤松家であることは、義宣も噂で聞い ていた。むしろ反逆は武門の習いと割り切っている義宣だが、それは面に出さなかった。

 「それは良いお考えじゃ」
 義宣はうなった。
 「そこまでは考えつかなかったでな」
 政経は常範の姓を赤松から古沢に変えさせることによって、自分の疑念を振り払う気持 ちになっていた。そこまで思い詰める政経に義宣はむしろ奇異な感情を持って憐れんだが、 口に出すことは憚られた。
 「佐竹からも常範に感状を与えよう」
 義宣は話題を変えた。
 「宜しいな」
 「これは痛み入りまする」
 政経は素直に頭を下げた。常範は今では政経にとって股肱の臣となっていた。

 この軍功によって古沢村を知行地として与えられた常範は、主君の命により古沢美濃常 範と名を改めた。常範は鬼怒川西岸の川尻村、和歌村(現在は八千代町若)のほかに東岸 の古沢村に知行地を広げ、一族の石高も増えた。
 手痛い敗北を喫した北条軍は、再び下妻城を窺う力を失った。

 天正十八年に全国平定を目指す豊臣秀吉は、三十万の大軍で小田原城を囲み、氏政は自 害して果てる。この軍陣に政経の嫡子である多賀谷重経が参陣していた。
 「多賀谷の武勇は見事じゃ」
 上機嫌の秀吉は重経を呼んで、北条軍と三度の力戦をした多賀谷氏の武勇を称賛して、 賛辞を惜しまなかった。父の政経は北条軍との戦いで燃え尽きたのか、北条の下妻攻めを 退けた五年後にすでに没していた。

 「左文字の刀を与える」
 重経は秀吉から名刀を拝領し、面目をほどこしたが、
 「ところで・・・」
 と秀吉は座りなおした。後があった。
 「そちは結城の家臣であったな」
 重経は秀吉の意をはかりかねた。多賀谷が結城重臣だったのは事実だが、すでに自立し て、結城とは度重なる合戦を繰り返し、今や犬猿の仲となっている。
 結城家臣という意識は重経にはない。

 秀吉は結城晴朝の願いを入れて、徳川家康の次子で秀吉の養子になっていた秀康に結城 家を継がせる腹でいた。
 結城家は藤原秀郷を遠祖とする名門である。気性の激しい秀康に結城家を継がせ、関東 の押さえとする政略を立てた秀吉の腹は重経には分からない。
 「結城に忠節を尽くせ」
 戸惑う重経に秀吉は念を押した。

 全国制覇の偉業をなした秀吉にとって、関東で小競り合いが続くことは許し難い。
 秀吉の意向に逆らい難いことを重経は見てとった。すごすごと退散した。
 しかし秀吉の命に従うつもりは毛頭なかった。
「三成殿に助けをお借りしよう」
 秀吉側近の石田三成が頼りだった。三成から取りなして貰うことを思いついた重経は、 少し気が楽になった。

 あれこれと策を練る。こういう小才に重経は長けている。
 「虎千代に三成様の一字をいただこう」
 嫡男の虎千代に三成の一字である「三(みつ)」を貰って、三経と名乗らせることを思 いついた重経は、
 「三成様の知略と武功にあやかりたいと思いまする」
 と神妙な顔をして三成に願い出た。
 佐竹とも通じている三成にとって、多賀谷の願いは悪かろう筈がない。
 虎千代は三成の烏帽子子となって、名を左近大夫三経と改めた。

 しかし、歴史は皮肉なもので、烏帽子子の三経は徳川方になり、三成方にはならなかっ た。
 結城家臣になるつもりがない重経の振る舞いは、次第に秀吉の不興を買うところとなる。  この様子を見てとった側近の三成は、秀吉の不興を買ってまで重経の肩を持つつもりが ないので、重経は孤立した。

 「良い手がある」
 困り果てた重経は、また小才を働かせた。神妙な顔をして秀吉の前に伺候した重経は  「嫡男の左近大夫三経を秀康様に臣従させまする」
 と秀吉の命に服する。結城と言わずに「秀康様」と言ったのは、結城秀康が秀吉の養子 だったので、ことさら媚びる知恵を働かせた。
 重経は相変わらず結城に臣従しない。
 そのうえ嫡男の三経を廃嫡してしまった。
 この小才は「策士が策に溺れる」悲劇を招くのだが、重経は気がつかない。

 小田原攻めから七年後に古沢常範は没した。
 戦場を駆け抜けた武将の生涯だった。戦国大名の多賀谷氏がもっとも光芒を放った時代 に生きたことになる。重経の政略が破綻する日を見ることなくこの世を去ったのが救いだ ったのかもしれない。


巧みな赤松戦法


 「赤松は数倍の敵なら必ず勝つ」
 古沢村の合戦を前にして、常範が言った言葉は、播州・赤松家から伝わった言い伝えで、 赤松の戦上手を物語っている。
 播州・赤松氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて播磨国(兵庫県)で活躍した赤 松則村(円心入道)が知られているが、元弘の変で鎌倉幕府打倒の挙兵をした時に
 「一対二の戦いは必ず勝てる。いっさいを余にまかせよ」
 と則村は広言した。また事実はその通りで、味方の倍の敵軍を連戦連勝で破った。
 二万の北条軍を前にした常範は、一対二の戦い以上なので
 「数倍の敵なら・・・」
 と則村の故事を言い換えた。

 本当は、数倍どころか、何十倍の敵勢である。多賀谷軍の総力をあげても三千程度の軍 勢だから、全軍で当たっても七倍の敵になる。主力を下妻城に残して古沢村に布陣した赤 松軍は、風前の灯火に見えた。

 「太平記」には播州・赤松勢の戦陣配置について「一手には、足軽の射手を勝って五百 余人を小塩山へ廻す。一手をば、野伏に騎馬の兵を少々交えて千余人、狐河の辺に控えさ す」という記述がある。
 また、「北条九代記」にも同じ記述が見える。六波羅攻めに向かった赤松則村は、三千 余騎から子息の筑前守貞徳以下ただ七騎で、南側の山からさんざん矢を射た。この七騎に は、矢戦に慣れた足軽軍団が従っていた。敵軍(北条方)は多数射落とされて、敗けそう な気配になったところを赤松の軍兵七百余騎が駆けかかって戦ったところ、寄せ手は軍陣 がくずれて、大半が討たれた・・・とある。

 則村は挙兵に当たって、新しい戦闘集団を編成した。
 それは弓矢を持たせた足軽の軍団である。
 足軽はもともと使役の従者に過ぎなかった。騎馬の武士が討ち取った敵将の首を腰に下 げて、主人のあとを追いかけるだけの存在と言える。則村はこの足軽に目をつけた。播磨 国の赤松村は平地がほとんどない山国である。

 ここで育った山間部の武士団は、足軽の末端に至るまで、山にかけ入って鳥や獣を射る のが日常の仕事である。弓矢の修練を毎日積んでいる。弓矢を持った足軽軍団は平野の騎 馬戦に慣れた板東武者の頭上に雨霰のごとく矢筈を揃えて打ち込んだ。
 騎上の矢戦は、板東武者の得意とするところで機動力があるこの戦法は、平家を打ち破 った源氏が用いたところである。鎌倉から六波羅にあがってきた北条軍は、則村の新しい 密集した矢戦の集中攻撃を受けて、大きな損害を出した。
 騎上に拠らない密集した足軽の矢戦軍団が、伝統的な突進を得意とする騎馬の板東武者 に勝ったことは、この当時としては画期的な戦法で、後に織田信長が鉄砲隊を組織して、 武田騎馬軍団を打ち破った故事にも匹敵する出来事といえよう。

 下妻・古沢氏が仕えた主君の多賀谷家は、戦国大名として最強の千丁規模の鉄砲隊を組 織していた。他の戦国大名が三百丁規模の鉄砲隊しか持なかったことを考えると多賀谷鉄 砲隊の規模が想像できる。兵力の不足を飛び道具で補って戦う軍略だが、下妻を中心とし て急速に勢力を拡張した多賀谷軍団の強さの謎が解けてくる。
 常範の没後、古沢一族は多賀谷家臣として頭角を現し、「常州下妻城主多賀谷修理大夫 家中諸士」の中で三百石以上の家臣として「古沢助大夫 八百五十石」「古沢隼人 五百 石」「古沢新右衛門 四百五十石」「古沢大膳 三百石」「古沢佐渡 三百石」「古沢弾 正 三百石」の名が出ている。上級武士が騎馬一騎を認められた百五十石以上とされた時 代だから、多賀谷家中の武将として、常範の家系は重く用いられた。


解説・鬼怒川の赤松系古沢氏


  川尻・赤松氏の祖と言われる赤松祐弁の墓は、茨城県八千代町川尻の赤松山不動院に  現存している。寺内には「祐弁墓碑」が建立されていて、不動院のいわれをまとめた  「不動院縁起」(八千代町教育委員会蔵)には川尻・赤松氏の出自は、播州・赤松氏と  記されている。祐弁の没年は応永十六年(一四〇九)。
  播州・赤松氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて播磨国(兵庫県)の守護大名  として活躍した赤松則村(円心入道)の名で知られている。赤松則村は村上天皇の第七  皇子・具平親王を遠祖とする武士で、元弘の変で鎌倉幕府打倒で軍功をあげた。
  しかし、後醍醐天皇による建武中興が公家中心の復古政治になったことに反撥して足  利尊氏に味方し、室町幕府のもとでは侍所の所司に任じられる四職の一家となった。

  戦前までは、足利尊氏とともに赤松則村は「逆臣」として扱われ、戦後になって復権、  足利尊氏の再評価と並んで赤松則村の研究が中世史の歴史学徒によって広く発掘される  ようになったいきさつがある
。   足利尊氏と赤松則村の「逆臣イメージ」は南朝史観に拠った「太平記」に依拠する点  が大きいと言える。近来、北朝・室町幕府寄りの「梅松論」「源威集」の研究が進み、  史実としては「梅松論」の方が正確であることが確かめられている。

  播州・赤松氏の「逆臣イメージ」は、嘉吉の乱(一四四一)でさらに増幅された。赤  松則村の末孫・赤松満祐は、六代足利将軍の義教と対立したが、京都の赤松邸に義教を  招いた宴席で暗殺する挙に出た。嘉吉元年六月二十四日のことである。
  足利将軍を暗殺した後、赤松満祐は一族を率いて京都を脱出し、領国の播磨国に落ち  延び、坂本城で幕府の追討軍と戦うが落城、さらに城山城で幕府軍と一戦を交えるが敗  北して赤松満祐は自害して果てた。一族の多くは討たれ、室町幕府の守護大名として権  勢をふるった播州・赤松氏は滅亡した。

  赤松満祐の弟・赤松則繁は猛将として知られたが、落城した城山城から逃れ、朝鮮に  渡って倭寇として猛威をふるった。しかし、帰国したところを幕府軍によって囲まれ河  内で自害している。幕府による赤松狩りは全国で厳しく展開されたが、その追及の手を  逃れた赤松一族もかなりの数をかぞえ、赤松牢人となって主家の再興に奔走している。  なかには赤松姓を改め、赤木姓を名乗って幕府の追及を逃れる者も出た。
  川尻・赤松氏は、全国に逃亡した赤松氏の一支族で鬼怒川西岸の川尻に土着したもの  と見て間違いないであろう。