風雲・下妻城
古沢 襄

その二 家康を討ち洩らした重経の無念
◆
「そちはどう思う」
古沢隼人の問いに古沢佐渡は
「何がじゃ」
と、いつもながら回りくどい隼人の言葉に焦れた。もともと佐渡は、考えるより行動す
る方が先に立った。戦場で槍をかき抱いて馬を馳せる時が一番生きている実感がある。
◆
「下妻の殿のことじゃ」
隼人は、この時ほど極楽蜻蛉の佐渡が、うらやましいと思ったことはなかった。
下妻の殿は旧主・多賀谷重経のことを指す。
「そうよな・・・」
佐渡は一応、腕を組んで考える様子を見せるが、脳細胞は停止したままだ。
為るようにしか為らないではないか、と佐渡は割り切っていた。「まつりごと」は重臣
が考えることで、士大将クラスの隼人や佐渡は「いくさ」だけ考えていれば良いというの
が佐渡の人生観だ。面倒なことは性に合わない。
◆
隼人は違う。五百石という上士の俸禄を頂いている以上、殿様や家老様と同じようにお
家の心配をするのが義務と心得ている。佐渡も三百石の上士ではないか、と「まつりごと」
を避ける佐渡の気持ちを測りかねた。
下妻城の朋輩から主君の重経が、小山の宿営にある徳川家康を襲撃するつもりでいると
いう噂を隼人は耳にした。この噂の主は
「これで佐竹と多賀谷の世になりまする」
と胸を張った。
◆
「まだ軍触れが出ていないではないか」
佐渡は噂を疑っている。謀略は武門の常套手段だ。
おまけに最近の重経は、酒乱となり、あらぬことを口走るようになった。
しかし、これが本当になれば、隼人も佐渡も死活問題になる。二人とも重経と対立して
いる多賀谷三経の家臣になっている。三経は家康の次子・結城秀康の重臣である。
◆
「同じようなことがあったな」
と佐渡は話題を変えた。
「そうよな」
隼人も思い出した 。
あれは天正十八年のことだった。秀吉公に召し出された主君の多賀谷重経は
「結城に忠節を尽くせ」
と命じられた。晴天の霹靂だった。十三年前のことになるが、古沢一族の古沢経光が結
城支隊の軍勢と戦って討ち死している。度重なる結城との合戦で多賀谷は勝ってきた。
その結城に多賀谷が臣従することなど考えられないと隼人も佐渡も激高した。
◆
ところが思わぬ展開になった。
秀吉の命に正面から逆らうわけにはいかないと悟った重経は、奇想天外の手を打った。
「病ゆえ、嫡男の左近大夫三経を結城秀康様に仕えさせまする」
と秀吉に申し出た。
秀康は、徳川家康の次子で秀吉の養子となっていたのだが、結城晴朝の懇請を受け入れ
て結城家の当主となっていた。関東の乱れを懸念していた秀吉は、重経の申し出に大いに
喜んだ。
◆
ところが、これには裏があった。
重経は次の一手を打った。結城家臣となった嫡男の三経を廃嫡してしまったのである。
政略家の重経は、三経の後に佐竹義重の四男・宣家を七歳で養嗣として迎え、自分の娘
を配して下妻城を相続させた。
◆
さらに義重の子・佐竹義宣が佐竹家の家督を継ぐと義宣の正室に重経の娘を嫁がせ、下
妻・多賀谷氏と佐竹氏の関係は二重の政略結婚によって強化された。
表向き秀吉に従った形だが、佐竹・多賀谷連合軍と結城の対立はそのままだった。重経
はもちろん結城に臣従しなかった。
◆
重経の奇想天外の手は、多賀谷家臣団を混乱させた。
三経の家臣となった隼人と佐渡は、徳川方となり、重経は石田三成に近づく。
この時に佐渡の頭は混乱した。昨日まで戦ってきた結城の重臣に若殿がなったのである。
これまでの主君だった重経は敵方になる。混乱しない方が可笑しい。
「どうなる」
と問いかけたのは、佐渡の方だった。さすがに極楽蜻蛉の佐渡も身の振り方が心配にな
っていた。
◆
「良いではないか」
佐竹に傾斜する重経を危うい目で見るようになっていた隼人は、むしろ冷たい眼で事態
の推移を眺めていた。天下の形勢は家康に靡いている。これに逆らった重経はいずれ破局
を迎えると見てとった。
「結城との争いは今までのことよ。若殿の目に誤りはない」
と佐渡をたしなめた。
◆
今度は話が違う。家康が討たれるとなると天下争乱の時代に逆戻りするからだ。隼人は
三経にご注進に及ぶか迷った。噂は確かめようがない。仮に本当としても、重経と三経は
実の親子である。
「重経殿に逆心あり」
と告げることは、自分たちの命取りになるかもしれない。
二人は腕組みして、まさに思案投首で考え込むばかりだった。
似た境遇の秀康と三経
◆
同じ時刻に、三経は新しく築いた太田城の中庭に立っていた。父の多賀谷重経は鬼怒川
を渡った東岸の下妻城にいる。古い城である。三経はその城で育った。
秋の日差しは、もうそこまで迫った冬の到来を告げていた。
「親爺殿は間違っている」
「小手先だけで、大局を知らない」
何の落ち度もない自分を廃嫡して、まだ七歳にしかならない佐竹義重の子を養子に据え
た父に対する恨み言だけではない。
◆
「太閤殿下から結城家臣として忠節を尽くすように命じられたのをお忘れか」
このところ重経は、急速に佐竹家に傾いていた。その佐竹義宣に徳川家康は謀反の心が
あると疑いを持っている。多賀谷重臣の中には重経の振る舞いに懸念を持つ者も出てきた。
そんな家臣の心配をよそに重経は耳をかすだけの器量がなかった。
独善的で、三経が危惧するように大局観に欠けた父だった。
◆
家康が名実ともに天下に号令する日が近いことは、誰もが感じている。
「それなのに佐竹と組んで石田三成を蔭で支えようとしている」
三経は、いても立ってもいられない気持ちに駆られる。多賀谷家は破局の淵に立ってい
る。
「天下の大勢に逆らうおつもりか」
と重経に諫言したことがある。
重経は不機嫌な顔をして答えなかった。それ以来、父は自分を避けるようになった。
「廃嫡をまだ根にもっているのか」
いちいち逆らう三経が疎ましかった。重経はそんな目でしか三経を見ない。
◆
戦場では無類の強さをみせる父だが、戦さがないと毎日のように酒びたりとなり、女を
毎日変える乱行が目立った。
「あれは淫酒だ」
そんな父を三経の方も近頃は疎ましく思うようになっている。
◆
「多賀谷の家は自分が守らなくては・・・」
三経はようやく自分の思いを定めた。いずれ来るだろう多賀谷の破局を救うのは自分し
かいないと思い詰める毎日だった。
三経の訴えを聞いて、主君の結城秀康は
「正直者だ」
と好ましく思う。気性は自分に似ていて一途で激しいが、冷静な判断力も兼ね備えてい
ると感じている。
◆
秀康も三経と同じような境遇で育った。実母は家康の正妻だった築山殿の腰元・お万の
方。家康の手がついて自分が生まれた。築山殿と兄の信康は織田信長の忌むところとなり、
自害して果てた。
秀康は自害した信康そっくりで気性が激しいと言われた。
「親爺殿は私を嫌っている」
そう思うことが、いくつかあった。
信長は本能寺の変で果てて、遠慮する障害は無くなった筈だが、父の家康は自分よりも
弟の秀忠の方を可愛がっている。
◆
「同じ境遇だ」
とあらためて三経に同情する秀康だった。
三経はいったん戦場に出ると命知らずの荒武者になるが、こうやって横顔を見ると結城
家中の女たちが噂するのも無理がない優男で、どこにあの力がひそんでいるのか、秀康も
不思議に思うことがある。
「稚児姿の三経を見たかった」
とあらぬ妄念にひたる自分に気がついて、秀康は咳ばらいをして膝を正した。
◆
三経の方は秀康の戦場での武勇は、父よりも上だと思っている。そんなひたむきな仕え
方をする三経に
「そちは武勇の家柄じゃ」
と秀康は目を細めて三経を褒める。重経の子と知りながら、三経に結城重臣の座を与え
て、信頼し切る剛腹な性格の秀康だった。やはり同じ境遇という思いが強いからであろう。
◆
秀康には、禄を惜しまず武功の武士を抱える器量がある。
関ヶ原の戦いで謀反の疑いがある佐竹、多賀谷の押さえとして、関東の要衝・宇都宮城
に布陣した結城の軍功に対して、家康は結城十万石から一躍越前国北ノ庄六十七万石の太
守に秀康を取り立てた。
◆
「嫌われている」
と思っていた秀康にとって意外な父の抜擢人事だった。
いずれ秀忠に家督を譲る気でいる家康は、秀康に親藩として徳川宗家を守って貰うつも
りでいる。家康はさらに越前に赴いた秀康に対して、徳川の旧姓である松平姓を名乗るよ
うに命じ、他の大名とは異なる「制外の家」の待遇を与えた。重なる厚遇だった。
◆
これによって、秀康は幕府に憚ることなく武功の武士を召し抱えることが出来た。
「お家の統一が乱れませぬか」
譜代の重臣には、心配する者もあったが、秀康は気にしなかった。事実、秀康は譜代、
新規で入り乱れた混成家臣団を上手に統率している。
これは後の話である。
失敗した家康の暗殺
◆
慶長五年七月、上杉景勝討伐のため下野国小山に陣をしいた家康のもとに石田三成挙兵
の早馬が駆け込んだ。
「そなたに上杉の備えを任せる」
家康は秀康に命じた。
「よいな・・・」
と念を押した家康は声をひそめて
「よいか、佐竹と多賀谷の動きに目をくばれ」
多賀谷重経は関東で最大の千挺の鉄砲足軽軍団を擁している。佐竹と多賀谷の同盟軍が
上杉に呼応して、秀康を襲えば勝ち目は薄い。
小山を撤収して、上方にのぼる家康とて背後を突かれる危険がある。
「承知」
秀康も声をひそめた。
◆
宇都宮城に出仕していた三経には、下妻城の動きを見張るようにすでに命じてある。三
経旗下の古沢隼人、古沢佐渡は太田城、嶋城で、下妻城の重経の動きを逐一探索している
が、下妻城の古沢助大夫、古沢新右衛門らが重経の家臣として残っている。重経と三経は
不仲が決定的になっていて繋がりがないが、古沢一族にはまだ同族の結束意識が残ってい
ると秀康は見ている。
秀康の見方は当たっていた。
「小山の家康公を狙う噂を聞いておりまする」
日を経ずして、三経が秀康に告げた。目に困惑の色が出ている。
◆
「お父上か・・・」
秀康の問いに三経はためらいながら
「噂ではありますが・・・。用心するに越したことはありませぬ」
頷いた秀康はすぐさま宇都宮城を出て、小山の家康のもとに駆けつけた。
「一刻も猶予はなりませぬ。出立のご用意を・・・」
家康の動きは早かった。陣払いするや、飛ぶようにして江戸を目指した。
そのうえ用心のために利根川を渡ると迷わず渡し船を焼き払った。このために後詰めの
徳川軍は、渡河に難儀することになる。
◆
この頃、下妻城の重経は鉄砲隊の頭をひそかに招き、策を授けていた。
「よいか、目立たぬように小人数の鉄砲の名手を小山に向けよ。穴にある狸を仕留める
のじゃ。穴から逃れたら、追い詰めてとどめを刺せ」
「承知」
あわただしく廊下を走る者が、襖の前に膝をついた。
「殿、家康公が陣払いし、江戸に向かいました」
「なに・・・」
重経の額に青筋が走った。
「追え、逃すな」
◆
間一髪の差が家康の命を救った。
利根川河畔まで走りに走った重経の間者は、焼き払われた渡し船を見つけて、空しく引
き返すしか術がなかった。
折り返し家康の使いが下妻城に現れた。厳しい詰問を受けた重経は、返す言葉を失って
いた。
「やんぬるかな。千載一遇の機会を失った」
◆
重経の動きが、家康の機先を制していたら、徳川三百年の世は無かったであろう。落日
の豊臣家に全国を治める力は失われている。石田三成に対する反感の火の手が全国に広が
っていた。秀吉の全国平定後、十年で再び戦乱の世になったであろう。
重経は家康の討伐を怖れた。
家督を養子の多賀谷宣家に譲り、下妻城を脱出して、武蔵国府中に隠れてしまった。主
君の逃亡で下妻城内の家臣団には動揺が走った。
◆
「来るものが来た」
三経は父の逃亡を知り、溜息をつくしかなかった。
「武将としては傑出したお人だったが・・・」
戦術家として名将だった重経は、戦略家としては時勢の判断を誤り、下妻・多賀谷家の
滅亡を招いた。
◆
関ヶ原の戦いで三成を誅した家康は、翌年の慶長六年、多賀谷氏を改易処分し、下妻城
を破却した。宣家は僅かな多賀谷家臣を連れて、兄の佐竹義宣を頼り、佐竹家臣となった。
その佐竹義宣も慶長七年に伏見城の家康に呼び出され、常陸国五十四万石から出羽国二
十万石に飛ばされた。
家康の多賀谷、佐竹に対する追及の手は厳しかった。本来なら佐竹も改易処分に付する
ところだが、関東にあって隠然たる力を持っている佐竹の叛乱は避けたかった。多賀谷改
易後、一年間をかけて家康は佐竹の処分を考えた。
◆
「親爺殿は怖いお方だ」
と秀康は思う。徳川家を守るために家康は手段を選ばなかった。
佐竹義宣を出羽国に転封させた後、常陸国の北辺に位置する水戸城に徳川一門から家康
の五男である武田信吉を配して、家康は奥州の備えを固める策をとった。
義宣に対する疑いの念を解いていない。
信吉が慶長八年、二十歳の若さで病没するや家康は、十男の長福丸を水戸二十万石に送
った。電火石光の人事である。
◆
長福丸は後の徳川ご三家となる徳川頼宣で紀伊和歌山に転封した。
水戸城には家康の十一男頼房が下妻五万石から水戸二十五万石で封じられて水戸藩祖と
なっている。
頼宣と頼房は於万の方を母とする兄弟である。
◆
このような万全の手を打った家康だったが、義宣の出羽転封によって常陸国に残った車
丹波ら佐竹遺臣が二ヶ月後に水戸城に押し寄せる事件が起こった。
家康は捕らえられた首謀者をただちに処刑する厳しい処断で臨んでいる。
越前・松平忠直の悲運
◆
一方、宇都宮城にあって関東の押さえの役を果たした結城秀康は、越前北ノ庄六十七万
石を拝領した。三経も柿原三万二千石を秀康から賜り、太田・多賀谷家の家臣団を引き連
れて移転した。
「苦節十年が報いられた」
と秀康も三経も喜んだが、それもつかの間だった。
家康にとって最後の目標は、大阪城にある豊臣秀頼はじめ大阪方を根絶やしにするこ
とにあった。秀康はその一つの手駒でしかない。秀康を越前に配して、去就が定まらない
金沢城の前田利家の押さえとする一方で、北から大阪城を窺うことしか家康の念頭にはな
かった。
秀康も三経もいずれは戦陣で力戦を強いられる運命にあった。
◆
その時は迫っていた。
慶長十九年、家康は大号令を発し、大阪冬の陣の幕が切って落とされた。
秀康の子である松平忠直は、二万の軍勢を率いて越前から出兵した。多賀谷は、子の多
賀谷泰経の代になっていったが、忠直の重臣として参戦。翌年の元和元年の大阪夏の陣で
豊臣秀頼は炎上する大阪城とともに果てた。
◆
大阪夏の陣で大阪城一番乗りの殊勲をあげた忠直の越前勢が挙げた首級は三千六百五十
を数え、徳川方が挙げた首の二割を超えた。忠直は秀康譲りの勇将で気性の激しさも似て
いた。
しかし、忠直の勲功に対して家康が与えた恩賞は、参議従三位の官位と初花の茶壺に過
ぎなかった。忠直はこれを不満として乱行に走り、蟄居の悲運に見舞われる。
大阪の陣までに秀康も三経もこの世を去っていた。
家康は豊臣家を滅ぼした後に時代をすでに描いていた。その世界には秀康や忠直のよう
な武将の入る余地はなかった。
秀康や三経にとって幸いだったのは、その時代を見ずに戦国武将としてこの世を去って
いたことである。
◆
新しい時代になって 幕府は越前・松平家を他の大名と同格の扱いしかしていない。そ
の子孫から各地に転封される者が出て、結城秀康の子・直基は上州・前橋十七万石に転封
された。多賀谷泰経は直基に従って関東に下っている。下妻城の多賀谷家は滅亡したが、
三経が望んだように太田城の多賀谷家は前橋で結城家の重臣として存続した。
三経の家臣だった古沢隼人と古沢佐渡の家系も前橋で残った。
◆
佐竹家臣となった多賀谷宣家は、兄の佐竹義宣から能代城で一万石を賜ったが、幕府の
「一国一城」の制度によって、能代城を破却し、後に名前を宣隆と改めて岩城家を継いだ。
宣家の正室は重経の娘だったが、不仲となって離別、真田幸村の娘であるお田の方を迎え
た。徳川方についた真田信之が、兄の遺児であるお田の方を不憫に思って引き取り、江戸
城大奥に仕えていたのを宣家が見そめた。宣家が四十三歳、お田の方が二十歳と親子ほど
違う二人だった。
波乱の歴史の因果を語る出来事と言える。
解説・下妻と太田の多賀谷氏の浮き沈み
◆
多賀谷氏は、滅亡前に二つに分裂しいる。分裂した一方は鬼怒川東岸の「下妻・多賀
谷氏」で、もう一方は鬼怒川西岸の「太田・多賀谷氏」である。
太田・多賀谷氏は徳川家康の子である結城秀康の重臣となっている。結城秀康は、徳
川方として関ヶ原の戦いの後は、越前北の庄に加増転封となった。鬼怒川西岸の古沢氏
の多くは太田・多賀谷氏に従って、越前の地に赴いた。
◆
常陸国にあった多賀谷氏が、下妻・多賀谷氏と太田・多賀谷氏に分裂した原因は、主
君である多賀谷重経の政略に端を発している。もともと多賀谷氏は、武州・多賀谷(埼
玉県北埼玉郡騎西町多賀谷)を発祥の地とする土豪武士で、「武蔵七党系図」に出てく
るが、後に藤原秀郷の流れを汲む名門・結城氏に臣従して頭角を現した。
結城氏の家人となった多賀谷氏だが、寛正年間に下妻城を築城した頃から、戦国大名
として勢力を伸ばし、大永七年(一五二七)に多賀谷家重が家督を継ぐに及んで、結城
家臣から自立の機会を狙うようになった。
◆
天文三年(一五三四)、結城軍は下妻城を攻撃したが、以後、両軍は度重なる合戦を
繰り返している。天正五年(一五七七)には結城方の武将・山川晴貞は、鬼怒川西岸の
多賀谷領に侵攻したが、多賀谷武将の古沢経光の軍勢に迎えうたれて敗走。この合戦で
古沢経光は山川勢を深追いして討死した。
北関東での結城、多賀谷の対立・抗争は、全国統一を図る豊臣秀吉にとって放置でき
ない状況に至った。秀吉は後北条氏を小田原城で囲んだ軍陣に多賀谷重経を招いて謁見
し、その武勇を称賛して「左文字の刀」を与えたが、同時に結城家の家臣として忠節を
尽くすように説いた。
◆
多賀谷重経は秀吉の命に正面から逆らうわけにはいかない。そこで秀吉の信頼が厚い
石田三成に近づいて、助力を求める動きに出た。その一方で、常陸国の支配権を固めて
きた佐竹氏と政略結婚を結び、佐竹与力の大名として地歩を固める政略に出た。
重経には、多賀谷三経という嫡男がいたが、これを廃嫡して鬼怒川西岸の太田城に移
し、結城家に臣従させた。結城晴朝は、秀吉に近づき徳川家康の次子で秀吉の養子とな
っていた秀康を結城家に迎え、秀吉、家康の庇護を受けた。
この結城秀康に多賀谷三経は家人として仕え、父と異なる道を歩む。これが太田・多
賀谷氏である。
この結果、太田・多賀谷氏と下妻・多賀谷氏の関係は悪化し、対立するようになる。
このことが、関ヶ原の戦いで、太田・多賀谷氏と下妻・多賀谷氏の明暗を分けた。
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