風雲・下妻城

古沢 襄


その三 鬼怒川に夢を馳せる新右衛門


 「いつまでも多賀谷の殿様でもあるまい」
 と新右衛門は思う。
 古沢新右衛門祐一の先祖は、赤松姓を名乗っていた。それが古沢姓になったのは、旧主 だった主君の多賀谷政経の命によるものだった。
 元亀二年、下妻城に侵攻した北条軍を迎え撃った赤松美濃常範が、城下の古沢村で力戦 し、敵を撃退した軍功によって、政経から古沢村を知行地として与えられ、常範は以後、 古沢美濃常範を名乗った。

 その多賀谷氏も関ヶ原の戦いが徳川家康の圧勝で終わった翌年に改易となって滅びた。 古沢家は常範から新右衛門俊満の代になっていたが、鬼怒川西岸の川尻に土着していた。 川尻は赤松・古沢家の発祥の地である。

 多賀谷氏の七代百四十七年の歴史は幕を閉じ、難攻不落を誇った下妻城は壊され、今は 跡形もない。拝領した古沢村には、同族の古沢久右衛門が名主となったが、昔日の面影は ない。くるくると替わる徳川の息のかかった領主のもとで、代官の顔色を窺わねばならぬ 名主は、困窮する農民との板挟みになって苦労が尽きない。
 「時代は変わったのだ」
 と新右衛門はつぶやいて、立ちあがった。

 新右衛門俊満の代から古沢家は世襲で「新右衛門」を名乗ってきた。
祐一は十六代目に当たる。
 もとは四百五十石の家柄である。俊満は土着して金貸し業を営んだが、それが成功して いまでは裕福な身分となっている。祐一も土地に対する執着はなかった。

 「これからは商業の時代になる」
 新右衛門は、体面だけを気にする貧乏武家に戻るつもりはなかった。
 「それにしても鬼怒川渡船場の株が欲しい」
 戦国の世から、徳川三百年の泰平の世に時代は大きく転換していた。

 鬼怒川は物資を輸送する水路として栄えていた。奥州から陸路で送られてくる荷物を鬼 怒川の中流に散在する渡船場で船積みし、江戸まで運ぶのは大量輸送の理にかなっている。 川尻周辺には古くから高崎、坪井、野瓜、川尻の四つの渡船場があった。新しい渡船場を 設ける動きもある。
 新右衛門は中でも野瓜村にある渡船場の河岸問屋株に目をつけていた。
 それも従来の菅谷・仁宿を経由する従来の輸送路を使わずに野瓜村の渡船場から直接、 集積地である境河岸に送る新しい輸送路を考えていた。
 「古きものは滅び、新しきものが興る」
 自分の着想に新右衛門は酔っていた。


古沢から赤松に戻る決意


 この頃、新右衛門は古沢姓から赤松姓に戻ることを真剣に考えていた。
 「川尻で古沢でもあるまい。ここでは赤松だ」
 赤松から古沢になって、すでに二百年の歳月が過ぎた。
 「姓(かばね)は、その九割までが地名に由来している」
と新右衛門は、知っている。

 川尻には赤松村はないが、一族の発祥の地である播州・赤松村は、ちゃんと存在してい る。地名に拘るなら、赤松村の方ではないかとしきりに考える。
 そう考えながら、主君から頂戴した古沢姓を捨てる踏ん切りもつかない。
 「苗字とは厄介なものだ」
 と新右衛門は溜息をついた、

 厳密に言うと赤松は「名字」で「苗字」ではない。
 「名字」は中世の豪族が支配した土地(名田)の名前から出ている。「苗字」は比較的 新しく近世における同族の家名のことである。
 元弘三年の赤松則村挙兵の前夜、赤松館に周辺の武士団が集まったが、佐用、宇野、得 平、別所、柏原、上月、間島、櫛田、中山、豊福、太田など播磨国佐用庄の地名に由来す る名字の武士たちであった。

 この名字は赤松系図にも出てくる。宇野、得平、間島、太田、中山、上月、櫛田、別所、 小寺、佐用、河原などである。赤松館に集まった武士団は、周辺の土豪であるだけでなく、 まさに同族の集団だった。山間部の閉ざされた同族武士団が結束して、時代を変革するエ ネルギーを爆発させた。これが赤松挙兵である。

 佐用庄に存在した一族の本宗は宇野氏と言って、赤松氏は支流だった。宇野則景(頼範 の三男)に四人の男子がいたが、上から間島、上月、櫛田、赤松の名字を名乗った。末弟 の赤松家範が播州・赤松氏の始祖となったわけである。家範から四代目に赤松次郎左衛門 尉則村(法名円心)が出る頃には、赤松が別姓を含めた一族の頭領となっていた。実力が ものを言う時代ある。

 則村の弟の五郎円光は別所姓を名乗った。円光の妻は楠正成の妹。したがって赤松氏と 楠正成は姻戚関係にある。またこの家系から剣豪・宮本武蔵の母が出ている。武蔵が生ま れた美作国(岡山県)英多郡宮本村は、別所氏が住んだ佐用庄平福村から山一つ越えたと ころである。宮本氏も赤松支族ということになる。

 これに較べて古沢姓は、元亀二年に主君から頂戴した苗字だから新しい。
 「もう十分、多賀谷の殿様に義理を尽くした」
 事実、豊かな古沢家は滅亡した多賀谷家の末裔の面倒を見てきた。
 最後の殿様だった多賀谷重経は、小山に宿営していた徳川家康を襲撃する計画をしたと 幕府から疑われ、家康から詰問されて、難を避けるため全国を放浪する身に落ちた。その 末に琵琶湖近くの彦根で寂しく客死した。
 放浪の身で路銀に困る毎日だった。

 ある日、旧家臣の新右衛門俊満のところに一通の書状が届いた。重経から路銀を無心す る内容だった。その後、数通の書状が送られてきたが、義理堅い俊満は、その度に飛脚に 託して金子を送ってやった。
 最後の書状には、重経の妻子のことを俊満に託す内容のものがあった。

 重経は戦場にあっては、多賀谷軍団の先頭に立ち奮戦する猛将だったが、戦いが終わる と淫酒に溺れ、独善的で家臣を家臣とも思わぬ振る舞いが多かった。その性格が災いして、 改易後は家臣たちも重経を敬遠して近づかなかった。
 それだけに流浪の身にあった重経は、俊満の心遣いに涙が出るほど嬉しかった。
 俊満は重経の願いを受け入れて、その子・多賀谷重成を引き取り、八千代町大里で一人 前になるまで生計の面倒まで見た。
 新右衛門祐一にしてみれば、多賀谷の殿様の面倒は十分に見たと思うのは無理がない。


念願の河岸問屋株


 新右衛門は祐一の名が気に入っていた。
 「開祖の祐弁様の一字を頂いた」
 だから自分の代で旧姓の赤松の復帰する運命を担ったと信じたくなる。
 「ご先祖もお許し下さるだろう」
 改姓の思いは日に日につのっていった。
 「古沢は仮の名、赤松こそ我が家名」

 思い詰める祐一の噂は、風の便りで同族にも伝わった。
 「逆賊のそしりが高い播州・赤松なのに・・・」
 反対の声は古沢同族の中で起こった。二百年も古沢姓を通してきた同族にしてみれば
 「何をいまさら」
 と思うのも、また無理がない話である。
 しかし、新右衛門の意志は固かった。

 「同族は古沢姓を守れば良い。私は違う」
 武家社会はいずれ崩壊するという自分の予感は間違っていないと思った。新時代を迎え るためには、武家の古沢から別離し、赤松に戻ることが必要だった。それはまた多賀谷家 臣からの別離でもある。
 「戦乱の世は終わった」
 新右衛門の顔は、自信に満ち溢れていた。

 安永年間に新右衛門は赤松新右衛門俊一に改姓した。
 他の同族は古沢姓のままだった。
 赤松新右衛門はかねてから考えていた野瓜村の渡船場問屋株を入手するために奔走した。  野瓜渡船場は鬼怒川東岸の桐ケ瀬渡船場で結ばれている。橋が少ない鬼怒川は、渡船場 を結ぶ渡し船が重要な役割を持っていた。

 この二つの渡船場で、宝永二年に争いが起こった。
 やがて鬼怒川を挟んで西岸の野瓜村と東岸の桐ケ瀬村の対立に発展し、桐ケ瀬村が野瓜 村を相手に幕府に訴訟を起こした。
 事の起こりは野瓜村が一艘の新造船を持ったことが原因となった。
 三年越しの争いの末に野瓜村は、桐ケ瀬村に新造船を売却することで決着した。

 「ご先祖の助けだ」
 この機会を新右衛門が逃す筈はない。
 「年に銭十貫文を借り賃として野瓜村に払いましょう」
 野瓜村の名主は迷ったが、新右衛門の提案を飲んだ。凶作で野瓜村の懐が窮迫していた からである。
 新右衛門は労せずして野瓜渡船場の問屋株を借り受けることが出来た。明和七年のこと であった。

 「念願の新しい輸送路が作れる」
 新右衛門の夢は膨らんだ。
 しかし、この計画は従来の輸送路を支配していた問屋たちの激しい反対運動に見舞われ る。既得権を守るために旧来の問屋衆は、まとまって新右衛門を排除しようとかかった。
 「一歩後退しかない」
 争いを幕府の採決にまで持ち込んだ問屋衆の動きを見て、新右衛門は引き下がった。


水運から鉄道の移り変わり


 この苦い経験を味わった新右衛門は、入手した野瓜渡船場の問屋株を使って会津藩の年 貢米や特産物を江戸に送るのを請け負う計画を立てた。
 「今度は負けない」
 会津藩のご用方に日参して、精力的に根回しをする新右衛門の姿がみられた。藩のご用 となれば、問屋衆も逆らうわけにはいかない。

 天保六年、新右衛門は会津藩の回船米蔵元方に任命された。
 「なせば成る」
 野瓜渡船場に立った新右衛門は、暮れゆく鬼怒川の流れに呼びかけた。
 時代の先を読む自分の眼に疑いを持たなかった。
 新右衛門が溢れるような夢を描いた鬼怒川の水運は、沿岸の新田開発によって江戸時代 後期にはさらに発展した。両岸に並ぶ川船問屋は裕福をきわめ、土地の有力者となった。
 時代は明治に移り、水運に代わって鉄道が主役になると様相が一変する。
 茨城県を通る常磐線の計画路線をめぐって、多くの川船問屋は水運の衰退を招くと猛烈 な反対運動を展開した。
 「鉄道なんてとんでもない」
 「海のものとも山のものとも分からない岡蒸気に何が出来る」
 「先祖代々、利根川や鬼怒川の水運を守ってきたのだ」
 常磐線が茨城県の中央を避けて、大回りして海沿いに敷設されたのは、このような背景 があった。

 海岸の寒村に過ぎなかった取手村が今日のような交通の要衝となるまでかなりの歳月を 必要としたが、かつて物資の集積地として栄えた水運の要衝地は衰退するのには時間がか からなかった。
 鬼怒川沿岸の街や村には昔日の栄光を見ることが出来ない。それだけに町おこし、村お こしの取り組みが、各地で熱心に論議されている。
 鬼怒川の栄光が復活するのは、いつの日であろうか。


解説・鬼怒川水運の変遷


  鬼怒川・・・関東平野を流れるこの川は、古代から人と物を運ぶ重要な交通路として  栄えた。「常陸国風土記」によれば、常陸国は水陸のめぐみ豊かな「常世の国」と称え  ている。利根川水系の一環である鬼怒川は、江戸時代前期から奥羽地方と江戸を結ぶ流  通路の役割が一層高まり、人や物資を積み下ろしする古渡船場が流域に点在している。
  古老によれば、鬼怒川には両岸を結ぶ橋梁が少ない理由は、江戸幕府が軍事的配慮か  ら橋を架けることを認めなかったためで、渡船場が栄え、この影響で昭和年代に入って  も通学のために渡し船を利用したと言う。

  中流の八千代町川尻にも古い渡船場があった。ここを訪れると軒を連ねて古沢姓があ  る。赤松姓も多い。川尻・赤松氏の氏寺である不動院には、赤松家の墓所と並んで江戸  時代から伝わる古沢家の墓碑が立ち並んでいた。全国的に見て数が少ない古沢姓が固ま  って存在しているのは壮観である。対岸の古沢村にも古沢姓が多いが、いずれも赤松系  の古沢姓であった。

  下妻地域は中世(一一世紀ごろ)には大覚寺統の寺社領の荘園で、下妻荘古沢郷の呼  称は、永享七年(一四三五)の「常陸郡郷考」に出てくる。古沢郷は東古沢と西古沢が  あって、下妻市に編入された現在は西古沢に古沢姓が多い特徴がある。また山国でない  関東平野の平地で、古沢郷の呼称が生まれたのは珍しい例と言える。

  下妻・古沢氏の開祖とも言える古沢美濃常範の系譜から多くの古沢姓の武将が生まれ  たが、その筆頭は「常州下妻城主多賀谷修理大夫家中諸士」に出てくる古沢助大夫(八  百五十石)である。しかし、助大夫の系譜は現存していない。出羽に赴いた多賀谷宣家  の家臣に古沢助丞の名がでてくることから、この系譜は出羽国にあって絶家となった可  能性がある。

  二番手には古沢隼人(五百石)の名がある。古沢一朗氏の調査によれば、この系譜は  太田・多賀谷氏の多賀谷三経に従って、古沢佐渡(三百石)の一族とともに越前に赴き、  後に結城直基に従って上州・前橋に移転した。前橋市に残る古沢姓はこの一族であろう。   三番手に出てくる古沢新右衛門(四百五十石)の系譜は、下妻・多賀谷氏に臣従し、  多賀谷氏の改易後、川尻・赤松氏の発祥の地である八千代町川尻に土着して古沢総本家  を継承しているが、この末裔である赤松光子氏の代で絶家となった。この系譜では静岡  の赤松勝司氏が残っている。

  古沢新右衛門は多賀谷氏の諸系譜、証文類、武具などの散逸を防ぐため、積極的に蒐  集した人物として知られ、後に出羽国にあった多賀谷家に進上している。また最後の主  君となった多賀谷重経から頼られ、重経の妻子の後事を託す書状を受け取っていた。重  経の子・多賀谷重成は古沢新右衛門に引き取られ、八千代町大里で生計を立てた。
  「新右衛門」の名前は代々襲名されたが、第十六代古沢新右衛門祐一の時に古沢姓か  ら赤松姓に戻った。
  この末裔から明治二十三年(一八九〇)の帝国議会に初当選した赤松新右衛門祐昌が  出ている。この人物は自由民権運動でも活躍した。