新劇俳優モリカン村長の死

古澤 襄


阿修羅から仏のモリカン


 東京地方が珍しい大雪に見舞われた一月二十七日、昨年暮れに七十六歳で亡 くなった新劇俳優・森 幹太を「偲ぶ会」が、劇団銅鑼の主催で板橋区の産文 ホールで行われた。

 「モリカン」とは学生時代からの刎頸の友・画家の小角又次さんに誘われて、 私は田村俊子賞作家の一ノ瀬綾さんと一緒に茨城県から上京した。大雪で交通 が渋滞していたが、それでも三百人ほどの人が集まり、会場は人で溢れんばか りの盛況だった。

 三年前のことになるが、父と母の文学碑の除幕式があった時に、モリカンは わざわざ東北の村まで足を運んで、碑文を朗読して貰ったので、何をさておい ても偲ぶ会に駆けつけなければ、と思っていた。

 晩年は「仏のモリカン」と言われ、世話好きで、穏やかな人柄といつもジョ ークを飛ばして人を笑わせるキャラクターだったから、その死を惜しむ人が多 かった。もっとも若い頃は、鼻っぱしが強く、誰とでも論争する「阿修羅のモ リカン」だったと言う。


石油堀りが俳優と画家に


 小角さんは西武線の都立家政に一軒の家を構えている。モリカンもその近く に住んでいた。私は小角家で夫人の手料理を肴に酒盛りをすることがあるが、 その席にはいつもモリカンが一緒だった。山形県人の小角さんと秋田県人のモ リカン、それに長野県人の一ノ瀬綾さん、岩手県がルーツの私という山国の男 女が酒を酌み交わし、モリカンが連発する駄ジャレに笑いころげたのは、つい この間のことだった。

 愛妻を亡くして独身を守ったモリカンだったが、小角夫人には頭があがらな い様子だった。劇団の公演旅行がない日には、夕刻になるとモリカンが姿をみ せ、小角さんと「オレ、オマエ」のじゃれ合いのような酒盛りが始まる毎日だ った。

 「小角夫人は二人の亭主を持ったようなものですよ」
とモリカンは私に真顔で言ったことがある。どうやら小角家がモリカンにとっ て一番居心地が良いところのようだった。妻を失った心の空白を親友の家で癒 していたのかもしれない。

 会場では、一人寂しく片隅に佇む小角さんの姿が痛々しかった。それでも酒 が入ったら少し元気になったのか
 「モリカンは若い時は”阿修羅のモリカン”とあだ名されたくらい鼻ぱっし が強かったんだ・・・。”仏のモリカン”は晩年のことさ」
と私に話してくれた。

 森幹太の本名は鈴木威。秋田の生まれで、石油堀りになるために秋田鉱山専 門学校に進学したが、戦争末期に入隊、陸軍技術将校として敗戦を迎えた。小 角さんも秋田鉱山専門学校だったが、海軍飛行予備学生として入隊、任官除隊 となっている。

 二人の石油堀りのタマゴが敗戦によって、俳優と画家という百八十度違った 人生を歩むことになったのだから、人の一生なんてどう転ぶのか分かったもの ではない。私が小角さんやモリカンを知ったのは、まだ高校生の頃だった。も う半世紀も昔のことになる。その頃、疎開先の長野県から上京した私は、父の 実弟である漫画家の岸丈夫の家に居候をしていた。終戦間もない時期で、日本 中が売り食いのタケノコ生活に追われていた。

そこへ復員姿の二人が岸丈夫を訪ねてきた。私が十八歳、モリカンが二十五歳、 小角さんが二十六歳、皆、若かった。
 その後、モリカンは新協劇団、劇団文化座、歴史座を経て劇団銅鑼に参加、 やがて銅鑼の代表となった。小角さんは師匠を持たない独自の画風で、水彩画 を描き続け、今では一年置きに新宿の小田急デパートで個展を開いているが、 その画風に惹かれた愛好家で賑わっている。


女優がハムレット役


 小角家で酒盛りをしていたある日のことである。
 「今度、女優がハムレット役をやりますよ。日本で初めて・・・いや世界 でも例がないのではないかな」
と珍しく真顔でモリカンが私に言ったことがある。
 松竹劇場で「ハムレット」が公演されたのは、秋風が立つ頃だったが、宝 塚出身の浅見レイが、主役のハムレットで登場して話題となった。

 大柄で長身の浅見レイも会場に姿を見せていた。凛とした口調でモリカン を偲ぶ挨拶を始めたのだが、途中から涙の挨拶になり、それが私たちの心を 打った。「ハムレット」の舞台でモリカンは年老いた墓守役で登場している。 どんな役でもモリカンは手抜きをしないで稽古に打ち込んだ。このときも小 角家の狭い庭で穴を自分で掘り、墓守役になり切って舞台に備えていた。し ばらくは墓守役らしく無精ヒゲも剃らずに通していた。

 ある時は、老婆を背負う役を演技すると言って
 「コスミ、俺に負ぶされ」
と小角家に突然現れ、背の低い小角さんを老婆に見立てて、背負って歩きな がら、しぐさをあれこれ工夫したこともあった。芸に対しては妥協の無い厳 しさがあった。もっともそれが終わると深夜まで親友二人でじゃれ合いの酒 盛りが始まる。


 銅鑼の「燃える雪」公演


 会場の正面には田舎の村長風のモリカンの遺影が飾られていた。
 昭和六十二年に劇団銅鑼は、創立十五周年の記念公演で「燃える雪」を上 演したが、これが当たった。北海道から沖縄まで三百回の全国公演記録を作 っている。

 岩手県の奥羽山脈のふところに深く抱かれた寒村の村長をモリカンが演じ、 その迫真の演技が評判になった。それ以来”劇団銅鑼村の村長”がモリカン のニックネームになったほどだった。
 こぶしを振り上げたモリカン村長の舞台姿が残っていたので、偲ぶ会に一 番ふさわしいということになり、引き伸ばした遺影が飾られた。

 モリカンが演じた村長は、深沢晟(まさ)雄氏。実在した岩手県沢内村の 村長さんである。
 日本の”チベット”と言われた岩手県の中でも、沢内村は周囲を険しい山 に囲まれ人を寄せ付けない厳しい姿を見せる。冬になると二メートルを越え る雪に閉ざされ、陸の孤島となる。自然の厳しさと貧しさにひたすら耐えて きた村である。

 深沢さんが村長になったのは昭和三十二年五月。

 偶然だが、その一月前に共同通信社に入社した私は、上野駅から赴任地の 仙台に向かう汽車の中だった。白河の関を越えたら霙が吹雪になり、無性に 東京に戻りたくなったことを覚えている。
 私のルーツを辿ると沢内村になるのだが、この村のことは何も知らなかっ た。

 私の父は沢内村の地主の子だった。明治四十年に生まれ、旧制盛岡中学か ら仙台の第二高等学校に進学した。深沢さんも同じ村で二年前に生まれてい た。やはり地主の子でお互いの生家が目と鼻の先で、しかも二人とも十二月 生まれというのは、偶然の一致である。


マサオなら良くしてくれるべ


 深沢さんは、旧制一関中学から第二高等学校に進学している。父とほぼ同 じ生い立ちと同じようなコースを歩んでいる。村の新町小学校で四年間は一 緒に机を並べていた。

 二高から東北帝大法文学部を出た深沢さんは、村には戻らずに上海銀行に 就職した。戦後、中国から引き上げてきて、残雪が残る沢内村に戻ってきた。 やがて村の教育長、助役になるが、型破りな行動力でメキメキ頭角をあらわ し
 「マサオさんなら村を良くしてくれるべ・・・」
と無競争で村長に選ばれている。

 しかし、村長になってみると難問が山積していた。
 乳児の死亡率が七〇・五(出生千人比)という全国一の汚名をどう返上す るのか。
 村の生活保護世帯は一割を越していた。この貧しさをどう克服するのか。 何よりも雪に閉ざされた道路の除雪が先決問題だった。

 深沢村長の奮闘ぶりは及川和男著「村長ありき」のノンフィクション伝記 小説に詳しく紹介されているが、モリカンもこの本を読んで感動し、ドラマ 化を考えたという。

 ギョロ目で、眼光の鋭さが深沢村長そっくりのモリカンは「燃える雪」の 舞台で苦悩し奮闘する村長役を見事に演じてみせた。
 昭和三十五年には乳児死亡率が三分の一に減り、六十五歳以上の高齢者に は国保十割給付を実施した。乳児死亡率は昭和三十七年にゼロを記録、そし て沢内村は、日本一の健康モデル村になったが、その道のりは平坦ではなか った。

閉会予定の午後三時を過ぎたが、誰も帰る人がいない。見知らぬ人が近づ いてきた。
 「今の沢内村はどうなっているのですか・・・」
 受付で「岩手県沢内村」といたずら心で記帳したのを見ていたのであろう。 「今は乳児の死亡率はゼロ、六十歳以上の医療費負担も無料という村は、全 国で唯ひとつかもしれませんね」
と私は胸を張った。

 「冬になると早朝からブルドーザーが稼働して、主要道路はきれいに除雪 されていますよ」
 「ほう」
と相手は驚いた表情を見せた。
 「しかし・・・」
遠慮がちにその人は私に疑問をぶつけてきた。
 「村の財政が大変でしょうね」


天国で”新版・燃える雪”


 その人が心配したようにかつての健康モデル村は、大きな曲がり角にきて いる。
 深沢村長が亡くなる前後から、日本の農村は、過疎という社会の構造変化 の大きな波に翻弄され、大都会に若年労働人口が流失したまま戻ってこない 状態に置かれた。過疎の村は、財政赤字と若者不在、医者がいないという三 重苦に喘ぐようになった。

 二十年前のことになるが、私は初めて父の故郷に足を踏み入れた。南北二 八キロに細長い沢内村は、北は山伏峠、南は仙人峠を越えなければならなか った。ドライブテクニックに自信があった私でも曲がりくねった細い山伏峠 を登のは苦労した。

 深沢村長は十五年前に亡くなっていて、太田祖電さんが村長になっていた。  「本当に陸の孤島ですね」
 遠慮を知らない私は、率直な感想をぶつけて相手を面食らわせた。
 帰途は湯田町から和賀川の渓谷沿いに仙人峠を越えて北上に出たが、深夜 だったこともあって山や谷から魔物が出るような不気味さに悩まされた。

 「オヤジの故郷だけれど、もう来ることはないのだろうな」
 車のハンドルを握りながら、同行した妻に言った。
 二度とは来ないと思った沢内村だったが、今は年に数回は沢内村に足を運 んでいる。

 この二十年間で沢内村は、新しい村に変貌した。難路の山伏峠に代わって、 山伏トンネルが開通し、盛岡との距離が短縮された。
 仙人峠は道路が整備・拡幅され、さらに北上・横手の高速自動車道路が完 工して、湯田インターチェンジから沢内村まで一飛びとなった。さらに花巻 市から村の中央に来る道路も開通間近になった。
 三つの動脈道路で結ばれる沢内村は、もはや陸の孤島ではない。

 しかし、村の若年労働人口の流失に歯止めがきかず、深沢村長の時代には 七千人を数えた村の人口が、今では四千人を切ろうとしている。年々、村の 高齢化がすすみ、それがまた村の財政を悪化させる悪循環となっている。

 沢内村は、全国でも珍しい村立の病院を持っているが、公立の病院が軒並 み赤字経営に苦しんでいるご時世で、沢内村病院もご多分に漏れず深刻な赤 字を抱えて久しい。
 おまけに過疎地に来る医者が見つからないことも村の悩みの種である。八 方塞がりの状況と言って良い。

 過疎の村は、じっと耐えなければならないのだろうか。この状況は社会構 造の変化に起因しているので、もはや村長一人が奮闘しても解決出来るもの ではない。村単独で解決できる域を遙かに越えている。

 いわば過疎の村が抱える共通の課題になっているのだから、国がリーダー シップをとり広域医療のネットワークを作ることがただ一つの解決策である。 二十年前とは比較にならない整備された道路網を武器にして、救急医療の拠 点病院を作ることが僻地の村民の命を守ることになる。
 山間僻地と同じ様な悪条件下にある奄美大島の離島で、民間の広域医療ネ ットワークが確立していて、救急医療のためにヘリコプター搬送まで行われ ているが、このような方式が過疎地の医療対策のモデルとなる時代でなかろ うか。
 天国のモリカンは「もう一度”新版・燃える雪”の公演を企画しなければ ・・・」と脚本を片手に考え込んでいるのかもしれない。