漂白の漫画家・岸丈夫

古澤 襄


日本版「月と六ペンス」


 サマッセト・モームの作品に「月と六ペンス」という小説がある。父が遺した蔵 書の一つで、もう半世紀も昔のことになり、うろ覚えの記憶になってしまったが、 ロンドンの銀行家として何一つ不自由のない生活を送っていたゴーギャンがある日、 家族の前から姿を消した。

 そして文化果つるところと言ってもよいタヒチ島に住み、大都会では描けない絵 を描くことに没頭する。不世出の画家・ゴーギャンについては語り尽くされている ので、ここでは触れない。私にはロンドンに置き去られた家族のことが、小説を読 み終えたあといつまでも心から離れなかった。

 それは父・古澤元の実弟で漫画家の岸丈夫が、昭和三〇年代に突然失踪し、二人 の息子を抱えた妻の苦悩を身近に知っているからである。岸丈夫の消息は杳として 知れなかったが、北海道に渡り、漫画家になる前に手を染めていた油絵に打ち込ん でいるという風の便りを聞いたことがある。生存していれば、九十二歳になる。

 最近、盛岡在住の文芸評論家・浦田敬三さんから岸丈夫の足跡を追った作品の年 譜を送っていただいた。甥の私ですら知らない豊富な作品を年代順に追い求めた年 譜で、これを手がかりに国会図書館に行き、保存資料から岸丈夫の作品にじかに触 れたいという衝動に駆られている。


彗星の如く現れ、消える・・・


 岸丈夫・・・戦前の漫画界に彗星のように現れて、アサヒグラフや中央公論、改 造や文藝春秋別冊に次々と作品を発表して注目を浴びた風刺漫画家である。本名は 古澤行夫。

 明治四二年九月一九日に岩手県沢内村の地主の三男として生まれている。実兄は 戦前の人民文庫作家として活躍した古澤元である。早くから秀才の名が高く、村の 新町小学校五年生から飛び級で旧制盛岡中学に入学、一年丙組に在籍、在学中に肋 膜炎を患って一年休学して昭和二年三月に卒業した。在学中から画家志望で昭和四 年に上京、この頃に「沢内の四季漫景」の屏風絵を描いたものが遺されている。 (沢内村・古澤良助氏所蔵)

 現代史懇話会の執筆者だった故人の古津四郎さんは、旧制盛岡中学で岸丈夫と同 級だったが、「古澤行夫は私の家の筋向かいに下宿していたので一緒に通学した。 超世間的で風変わりだったが、それだけに頭は鋭敏、センスはずば抜けていた。し かし全く善意の変人で、友情深い親愛の人だった」と岸丈夫を懐かしく回想してい る。

 上京した岸丈夫は画家志望から一転して漫画家を志すようになった。直接のきっ かけは漫画家・岡本一平に謦咳に触れたためである。戯画と文章を巧みに組み合わ せて「漫画漫文」の世界を確立した岡本一平のところには、若い漫画家のタマゴが 集まった。岡本一平に師事した岸丈夫は、漫画漫文の世界に一直線に没入する。

 昭和七年六月、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄、中村篤九らが「新漫画派集団」 を結成したが、岸丈夫も参画している。翌年の一月からアサヒグラフに「ゴルフ好 きのお金持ち狩猟の図」「ユダヤ人迫害」など二十本の作品を次々と発表した。中 央公論には「恐怖時代」の作品を発表するなど漫画界に新風を吹き込んだ。二十四 歳の時である。

 作品の基調は師匠の岡本一平譲りの世相を題材とした「風刺漫画」に終始して、 はやりのナンセンス漫画には背を向けた。昭和十年に発表した「漫画雑感」と題す る短文で「今の漫画は、ある種の売薬に似ている。漫画は単なるクスグリや下品な 笑いであるべきでない。効き目のない売薬であるべきでなく、効果ある社会的清涼 剤であり、興奮剤であり、促進剤であるべきである」と自ら目指すものを高らかに 掲げた。

 郷里の岩手県に対する思い入れが強かったのは、盛岡中学に在学中に家が倒産し 郷里を失ったためであろう。この点は実兄の古澤元にも同じ傾向がある。頼まれれ ば、喜んで地元紙の「岩手日報」にエッセイや漫画を寄稿している。雑誌「新岩手 人」には、七回続きの「県人漫画打診」の連載物を書いた。同誌には昭和一五年か ら米内光政首相、東条英機陸相。山屋他人海軍大将、板垣征四郎陸軍大将、後藤新 平東京市長など郷土出身の軍人や政治家の似顔絵を連載で描いた。

 この傾向は戦後も続き、昭和二一年六月からは郷土作家・八並誠一さんと一緒に 「岩手新報」に「村は語る」シリーズで徳田村、志和村、湯口村、湯田村、黒沢尻 町、水沢市、伊手村、中里村、盛町、大船渡町、釜石市、宮古市を漫画やエッセイ で紹介している。

 戦前に戻るが昭和十四年からは文藝春秋別冊に「漫画・前略御免各人各界に呈上」 など十本の作品を発表して、鋭い社会風刺の色合いを濃くした。さらに「漫画チェ ンバレン閣下」「動乱欧州の波紋を覗く」など世界に風刺の眼を広げている。やが て日米開戦、三十七歳の老兵として横須賀海兵団に入隊した。入団する前に叔父に 当たる平出海軍大佐の紹介状を貰っていたが、入団後しばらくして「こんなものが あるのだが・・・」と当直士官に見せたら、相手は飛び上がって一番楽な炊事当番 に回されたという。「軍隊なんて官僚組織なんだな」というのが、岸丈夫の口癖だ った。することもなく二等水兵としてブラブラしている中に敗戦を迎えた。


幻の戦後代表作


 戦後は西武新宿線の「野方」駅に近くに住む作家の八並誠一さん宅の離れに居住、 日本農民組合の書記長だった野溝勝さんと親しくなり、農民組合の機関誌に戦後社 会を風刺する漫画を描き続ける一方で、社会党の機関誌・社会新報にも風刺漫画を 発表した。経済雑誌ダイヤモンドにも作品を発表している。戦前の社会風刺の色合 いが失せ、「吉田内閣打倒」の政治色が強い硬い色調の漫画が多くなった。

 その頃、義弟の杉浦幸雄は「アトミックのおぼん」「東京チャキチャキ娘」「淑 女の見本」などヒット作を発表して戦後漫画界の一方の旗頭になっていった。杉浦 幸雄が描く女性は敗戦で自信を喪失した男性に代わって逞しく闊歩する明るい女性 像を独特のエロチシズムで描き続けた。女人礼賛をモットーとする杉浦幸雄らしい 画風で、戦後風俗漫画の第一人者と言われる所以である。

 岸丈夫の描く女性は、数寄屋橋のたもとで客引きをする女性像など暗くて一抹の 淋しさが漂っている。理知的だが、か弱い女性像を好んで描いている。漫画のリア リズムに拘ったのだが、戦後の生活苦に喘ぐ庶民は、杉浦幸雄の描くたくましい女 性像に惹かれ、岸丈夫のか弱く暗い女性像はむしろ敬遠されたきらいがある。政治 漫画では近藤日出造が軽妙なタッチで政治を風刺する漫画で頭角をあらわし、大衆 の心を掴んでいった。

 戦後、昭和二三年に私は疎開先の長野県から岸丈夫のところに転がり込んだ。イ ンフレと食糧難のご時世で大豆やサツマイモが主食という時代だった。そんな苦し い所帯に私が居候することになったのだが、岸丈夫一家は嫌な顔一つ見せないで、 実の子のように受け入れてくれた。同居したのは一年半足らずだったが、今ではこ の時代の想い出が甘く蘇ってくる。画家の小角又次や新劇俳優の森幹太が岸丈夫の ところに出入りしていた。

 この当時、岸丈夫は苦しんでいた。折からカストリ雑誌の全盛時代で、雑誌社か ら注文がひっきりなしにあるのだが、何故か描こうとしなかった。当然、生活は困 窮する。「漫画は社会的清涼剤」とする自己の信念と筆を曲げて生活の糧を求めね ばならない二律背反に苦しんでいた。

 ある日のことだが、一枚の版画の板を削ることに熱中していた。それが出来上が るともう一枚。何枚かの板が完成すると一気に版画を作成した。それは焼け跡のビ ルの片隅でタバコのピースを売る戦災孤児の情景であった。私は今でもこの作品が、 岸丈夫の戦後の代表作だと思っている。夕暮れのビルの片隅に佇む戦災孤児の表情 には、明るく逞しさが漂っていた。岸丈夫が消息を絶って以来、この作品を探した が、今もって発見できない。

 戦前に描いた油絵にもいくつかの優れた作品があったのだが、その多くは散逸し ていてしまっている。岩手県の萬鉄五郎記念館が「北斗会の人々」の作品集を七年 前に刊行したが、岸丈夫の作品として収録されているのは「沢内の四季漫景」の屏 風絵、「風景」の油絵(八並誠一氏所蔵)、風刺漫画三点(雑誌「かぶとむし」掲 載)に止まっている。


漫画家夫人の苦悩


              私が岸丈夫の家に居候していたのは一年半と短かったが、その後、駒場近くにあ ったヨット鉛筆の専務の家に住み込みの家庭教師になって、高田馬場の都立戸山高 校に通った。朝五時に起床し家中の雨戸を開けて、庭掃除のあと台所で若い家政婦 と一緒に食事をとる毎日だった。高校から戻ると鉛筆の廃材を薪にして風呂を沸か し、それが終わると男の子と女の子の勉強を見た。

 初めて他人の家に厄介になる気苦労があったものの、若かったせいか苦労を苦労 とも思わなかった。二人の子供が私になついてくれたので、結構楽しくやっていた。 大学受験の勉強時間が、あまり取れないことがあったが、当時の私は大学受験より も文学の道に進む方に傾斜していた。仮に希望する大学に入っても、卒業する気持 ちはさらさら無かったので、家庭教師の報酬で文学本を買いあさり、とくにアンド レ・ジイドに熱中していた。

 そんなある日のことである。岸丈夫が西武線の野方から上井草に移転したとの知 らせがあった。日曜日に転居した岸丈夫のところを訪ねると岸夫人(私にとっては 叔母)が一人で憔悴した面もちで座っていた。戦前に声楽家だった面影は、生活苦 ですっかり失せていた。

 息子は杉浦幸雄のところに借金で出向いているという。
 「いくら妹のところと言っても、こう度重なると肩身が狭くてね・・・」
と岸夫人はため息をついた。

 岸丈夫が筆を執らない気持ちが、理解できるようになっていた私だったが、二人 の息子をかかえて生活苦にあえぐ岸夫人の様子が哀れで胸が痛んだ。敗戦後、まだ 五年しかたっていない頃である。慰めの言葉も十分にかけれずに辞去したが、後ろ 髪をひかれる思いだった。自分一人が生きるのに背いっぱいの時代に、何もしてあ げれない自分の非力が、もどかしくも情けなかった。

 上井草時代の岸丈夫は仕事らしい仕事をしていない。風刺漫画を描く気力も失っ ていたように思う。風刺は世俗に立ち向かう気力がエネルギーになる。戦後、貧窮 のドン底にあった野方時代の岸丈夫の顔は輝きを持っていた。

 その気力が失せた時に岸丈夫は初心に戻って油絵に回帰し、再起する気に傾いて いたのではなかろうか。そんな思いがする。すべてを捨てて、漂白の旅に出る心が 固まったのはこの頃だと思う。ただ、妻子を捨てて漂白の旅に出る決心は、なかな かつかなかったと思う。根は優しい人柄だっただけに、人知れず苦悩していたと思 う。

 人より三年遅れて駅弁大学に入りなおした私は、自分の文学的才能に見切りをつ けて田舎教師で再出発する決心がついていた。
 大学の四年生の時である。教師の免状をとるために浦和の中学で教育実習を終え て、渋谷近くの下宿に帰ったら、岸丈夫がひよっこり現れた。直感的に金の無心だ な、と思ったが、とりとめのない話を三〇分ぐらいして彼はそのまま姿を消した。 「大学を出て、平凡な人生を送るのも良いな・・・」と作家になる夢を捨てた私を 慰めてくれた。夕暮の渋谷界隈を岸丈夫と並んで歩きながら、金の無心と思った自 分を恥じたことを覚えている。昭和三一年のことである。

 それが岸丈夫を見た最後となった。
 岸丈夫が私に別れを告げる訪問だったと思う。
 田舎教師になるつもりが、ジャーナリストになり、それも花形の首相官邸詰めの 政治記者となって、疾風怒濤の六〇年安保を経験したのは、それから間もなくのこ とだが、岸丈夫の消息は杳として途絶えたままだった。時折、風の便りを手がかり に、岸丈夫の足跡を追ってみるのだが、今もって分からない。一人の誠実な漫画家 の生き様である。