中国茶輸送快速帆船

古澤 襄


気鋭の中国史家の面影


 中国茶輸送快速帆船・・・最近読んだ本でこれほど妖しい魅力に富んだ著作 はない。私にとっては半世紀に近い過去となった「わが青春時代」を思い出す 書でもある。

 著者は八十七歳を迎えた矢沢利彦名誉教授。最近は恩師にお会いしていない ので、私の脳裏には助教授時代の気鋭の中国史家の面影だけが残っている。こ の力作は市販の本でないので、多くの人の目に触れることはないが、清代の中 国茶が欧米から珍重された歴史冒険物語が一三七ページにわたってエピソード 豊かに記述されている。多くの人の目にこの著作が触れて欲しいという思いに 駆られている。


戦時中の嫌な教師たち


 小学校の頃、師範学校を出たての教師が授業で「大東亜戦争に勝つためには 東山天皇の陵に拝礼することが必要だ」と言ったことがある。日露戦争の勝利 は海軍の東郷平八郎と陸軍の大山巌の二人によるものだし、大東亜戦争の初戦 の勝利は海軍の山本五十六と陸軍の東条英機によるもので、「東」と「山」が 重要な意味を持つという神がかりなご託宣だった。何とも滑稽な話で子供心に も納得できない思いが残り、少し首を傾げたらこの教師に目ざとく見咎められ てしまった。授業の後に呼び出され「大人子供のような顔をするな」としたた か往復ピンタを食らった。戦争中はこの手の教師が幅をきかせていた。

 中学に入ったら剣道の若い教師が、抜き身の真剣を振り回して剣道の授業を していた。それに怖れをなして私は柔道を正課に選んだ。敗戦後、その剣道教 師が共産党に入党し、一転してフォークダンスを指導していたのを見て、それ 以来、教師というものを一切信用しなくなった。だから矢沢教授に出会うまで は、私には恩師がいない。

 私の大学時代は唯物史観全盛の頃であった。中国キリスト教史が専門だった 矢沢教授は十六世紀にポルトガルの船団が広東に初めて入港して以来イスパニ ア、オランダ、イギリスの船団が相次いで中国を目指したのは「絹」と「香辛 料」それに「茶」を求めて万里の波濤を越えてきたと教えてくれた。マルクス 主義にかぶれた学生たちは
「矢沢さんは古い」
と言って授業をボイコットした。

 だが、小説を書くという夢をまだ捨てていなかった私にとって、遙々ヨーロ ッパから小さな帆船を操って、アジアを目指した船長たちの冒険物語は、帝国 主義列強の中国侵略という一色で塗り固めた味気ない歴史観とは、ひと味違う 生き生きとした歴史の面白さがあった。「中国茶輸送快速帆船」は、イギリス 人が猛烈な勢いで中国茶を飲んだ結果、中国との間に生じた貿易の不均衡を穴 埋めするために、アヘンが登場した背景を見事に絵解きしている。


ブラガンサのキャサリン王妃


 もう十数年前のことになるが、社用でロンドンに行き、五つ星ホテルに数日 間泊まったことがある。何故、五つ星ホテルかというと「事大主義のイギリス 人は訪問客が一流のホテルに逗留していれば、それなりに敬意を払う」と教え られたからである。イギリス人相手の交渉事は、この手の配慮が欠かせない。 交渉事はともかくホテルの朝食で、本場のダージリン茶を飲み、紅茶に病みつ きとなった。日東紅茶しか知らない私にとってロンドンの紅茶は衝撃的な味で あった。

 イギリス人が紅茶を嗜むようになったのは、ポルトガル生まれのイギリス王 妃ブラガンサのキャサリンが、イングランドの貴婦人に広めたという説を矢沢 教授は紹介している。もしキャサリンがイギリス王チャールズ二世に嫁さなか ったら、イギリス人の紅茶好きも生まれなかったろうし、アヘン戦争も無かっ たのではないかと私の妄想は広がる。歴史には「もし、なかりせば・・・」が 付き物である。歴史の「必然」という固定観念に縛られるよりも「偶然」の重 なりが、歴史を綴るという方の学説に魅力を感じている。

それにしても歴史は、「絹」でなくて「茶」が動かしたとは面白い。イギリス 人が中国に来て、最初に求めたのは「絹」である。しかし、絹の値段は高いか ら、購買層は王侯貴族や富豪などに限られた。その点、「茶」はイングランド の貴婦人だけでなく、17世紀後半から下層の人たちにも愛好者が増えていた。 うまみのある貿易品目になっていた。


万里の波濤を越えた武夷(ヴィ)茶


 武夷(ヴィ)茶・・・中国の福建省と江西省の省境を北東から南西にかけて 武夷山脈が走るが、この一角に三十六峰、三十七岩の名勝を持つ武夷ヒルズが あって、そこで産する武夷茶はブラック・テイー・フアンにとって幻の最高テ イーだったと言われる。

 「中国茶輸送快速帆船」の圧巻は、幻の最高テイーを求めて未知の航海に挑 んだ快速帆船の船長たちの冒険物語である。船長たちのキャラクターが生き生 きと再現されていて、それを読むだけで読者は夢の雄大な世界に誘なわれる。

 中国貿易を独占していたイギリス東インド会社はイースト・インデイアマン と呼ぶ大型帆船を持っていた。長い航海では海賊や密輸船と遭遇することが避 けられない。相手を威圧するために多数の大砲を積んでいた。
 茶葉は木箱に納められ、船底に溜まる水によって湿気を持たないように工夫 が凝らされたが、百日を越える航海で劣化が避けられなかったようである。

 劣化した茶葉でも、イギリス人の「お茶好き」は衰えることがなかった。飲 茶はすでにイギリス人の生活の一部になっていた。むしろ遥々万里の波涛を越 えて中国から茶を運ぶよりも、イギリス領内で中国茶樹を移植しようとするこ とが検討された。


中国茶を圧倒したアッサム系インド茶


 19世紀になってインドで、中国の茶種や苗木から作られた「インド産中国 茶」が出来る。インドの土壌は中国の苗木になじまないため、インド政府の農 園の苦労はかなりのものだった。
 中国茶を栽培する適地を探しているうちに偶然のことだが「アッサム茶」を 発見する。

 試しにインドの他の地で、アッサム茶を植えてみると中国茶よりも根づきが 良く、栽培も容易なことが分かった。「アッサム系インド茶」と「中国系イン ド茶」が激闘を演じたのだが、イギリス人はアッサム茶を支持したので、中国 茶は敗退し、国際市場から退場を余儀なくされる。

 アヘン戦争の一因となった中国茶のあっ気ない幕切れである。
 アッサム茶はイギリス人によって、セイロン(スリ・ランカ)に植えられ、 これが成功した。私たちが愛好する「セイロン紅茶」が誕生するまでに、これ だけの歴史があったことになる。