古代阿倍一族の興亡

古澤 襄

NHKの大河ドラマ「北条時宗」が、いよいよ文永十一年(1274)の 文永の役を迎えようとしている。弘安三年(1281)の弘安の役ととも に蒙古(元)の大軍を退けた史実は、日本人のナショナリズム精神を揺り 動かし、さらには太平洋戦争で「神風」信仰の源泉になった。

日本の政治状況で「右傾化」が議論されている昨今に何故「北条時宗」か という醒めた批判も耳にするが、私は別の観点から「北条時宗」のドラマ を欠かさず見るようにしている。それはドラマに出てくる「松浦(まつら) 党」に関心を持ったからである。


安倍宗任と官房副長官


私の友人である岩手県・宮守村の村議会議長だった阿部文右衛門さんが、 最近、遊びにみえて一夜歓談した。お互いに東北の歴史について人一倍関 心があるので、夜が更けるまで古代東北の王者だった安倍一族の興亡につ いて話がはずんだ。

「そういえば、内閣官房副長官の安倍晋三さんは、安倍宗任の末裔という 説があります」
阿部文右衛門さんは、突然ポツリと言って遠くをみる目をした。
「本当かどうか、わかりませんが・・・」
「本当ですか」
と私。
「帰ったらその資料を送りましょう」

東北の安倍宗任と山口県の安倍晋三さんのつながりは、唐突のように思わ れて、私の頭の中ではむすびつかなかった。同じ安倍姓だけで関連付けし てしまうのは、かなり乱暴な話である。

阿部文右衛門さんが帰って、しばらくすると約束通り「原姓安倍氏・豊間 根家の栞」という石至下史談会の資料が送られてきた。パラパラと拾い読 みしていると前九年役で敗れた安倍一族について「三男宗任、五男正任は 朝廷軍に降り、肥前国松浦と伊予国桑村へ流罪、宗任は後に宗像郡大島で 生涯を閉じ、地元の安昌院に眠る。享年七十七歳」とあった。さらに「宗 任の末裔は今は亡き安倍晋太郎氏で、子息の晋三氏は父の跡を継ぎ衆院議 員として奔走」と記されてある。

実は、私も阿部文右衛門さんの話に興味を持って、安倍宗任について調べ たところだった。
平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今に あり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請により て、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されている。さらに鎮西 要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任 を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」と出てい る。

私の興味は、文永の役と弘安の役で活躍した水軍・松浦党に飛んでしまう のだが、安倍官房副長官の家系が宗任の末裔の説を単なる絵空事として葬 り去るわけにもいかないと考えざるを得なかった。
ただ武家優位の東国と違って、朝廷の影響が強かった西国で蝦夷の流人の 末裔説を素直には受け入れる歴史的な風土があっただろうかと考えると否 定的にならざるを得ない。


落ち延びた安倍一族


岩手県の中部地区は安倍伝説の宝庫といえる。
私の先祖が三百年住みついた岩手県沢内村にも安倍伝説が残っている。
「沢内の民話」には、源義家に追われた安倍一族が黒沢尻柵(現在の北上 市)から厨川柵(現在の盛岡市)に逃れるため和賀川沿いに沢内通りを北 上し、途中で沢内村で休息した所が「真昼野」の地名になり、「真昼神社」 が祀られているとしいる。

さらに一行は北上し、和賀川を渉るが、そこで貞任の妻が子供に乳を飲ま せ、ここが「乳野」に地名になった。
もっとも敗走した安倍一族は黒沢尻柵から鳥海柵(花巻市)を経由して厨 川柵に逃れた説の方が信憑性で軍配があがっているのだが・・・。
鳥海柵は宗任が守っていた城柵である。

豊間根家の始祖は黒沢尻柵を守った安倍正任の子・孝任とされている。
家に伝わる「安倍孝任豊間根落之図」に「安倍貞任厨川柵に戦死するや、 諸弟あるいは殺され、あるいは降る。而して其の幼族は遺臣往々把握して 深山幽谷の間に遁鼠す。孝任ときに十四、従士に擁られ味兵邑長内の山谷 に隠れ、糠森に住す。味兵邑即ち豊間根邑是なり」とある。

十二年間に及んだ前九年の役は、康平五年(1062)の厨川柵の攻防で 安倍貞任が嫡子・千代童丸とともに討死し、安倍一族は滅亡するが、貞任 の次男・高星丸は乳母に抱かれて厨川柵を脱出し、津軽十三湊に落ち延び た。この高星丸は、後に安倍姓を改めて安東姓となり安東水軍をおこして いる。宗任の末裔が松浦水軍をおこしたのと似た足取りである。山谷に立 てこもった安倍一族から安東水軍と松浦水軍が出たのは興味深い。
また安東水軍は中国などとの交易で力をつけて、秋田にも支配権を広げ、 後に秋田姓を名乗っている。