下館城主・蟠竜斎とそのルーツ

古澤 襄

古澤恒平氏の労作「謎に包まれた九州・古澤氏族」と大いに関係があるの が常陸国下館城主だった水谷蟠竜斎である。磐城国石城郡水谷邑(福島県 常磐市水野谷)を発祥の地とする秀郷流水谷氏族は、水谷伊勢守氏盛の時 代に関東で勢威をふるっていた結城氏に従い客分となった。文和元年(1 352)のことである。初代下館城主・水谷勝氏は氏盛の孫。しかし水谷 氏族が歴史の上で名を馳せたのは六代水谷蟠竜斎の時代である。


水谷邑前史の近江・水谷郷


新編常陸国誌には「水谷・その先(先祖)藤原秀郷に出づ。秀郷七世の孫 近藤武者所景頼、景頼の子・近藤太能成の四子」とあって、長男が豊後国 大友氏族の開祖となった能直とその弟の仲教の名をあげている。
実はこの仲教の子・仲能こそ水谷氏族の遠祖である。まさに磐城国水谷邑 前史が存在していた。

仲教は古澤恒平氏がいう関東の古澤氏族の開祖・古澤近藤太能成の子(三 男)であるから水谷氏族は古澤系水谷氏ともいえる。
兄の能直が源頼朝に仕え、信寵が厚かったように弟の仲教も頼朝に寵愛さ れている。能直は文治五年(1189)頼朝の陸奥征伐軍に従って藤原泰 衡を討ち、建久元年(1190)に再び陸奥に赴き大河兼任を討った。そ の軍功によって田村庄(福島県)地頭となったが、間もなく豊前守兼鎮守 府将軍に任ぜられて九州に下向、大友姓を名乗るようになった。
大友能直の九州下向によって、仲教は兄・能直の所領を頼朝から与えられ 田村姓を名乗る。頼朝の能直、仲教兄弟に対する信任の厚さを示すひとこ まである。

田村仲教の子・仲能の時代になって鎌倉亀谷に移り、亀谷姓を名乗って鎌 倉評定衆に列した後、従五位下検非違使の官職を得て、近江国犬上郡水谷 郷に居を定めた。そして水谷姓を名乗った。尊卑分脈で「秀郷の裔孫、田 村仲教・・仲能・・重輔(水谷)・・清有(水谷)・・秀有」と系譜が明 らかにされている。

この一族は、重輔が鎌倉評定衆、清有が六波羅評定衆になり、さらに秀有 とその子・貞有も評定衆に任ぜられるなど栄華を極めたが、元弘元年(1 331)足利尊氏が六波羅を落すに及んで尊氏の軍門に下った。
水谷貞有の時代である。
すでに清有の時に、奥羽行方郡猿田七郷を領地とした水谷氏族は、貞有の 子・広有が奥州にあった。

六波羅攻めの先鋒を承ったのは、播磨国佐用郡赤松邑を発祥の地とする赤 松円心則村だが、この支族で関東に下り、常陸国に土着した赤松氏族が後 に下妻城に拠った多賀谷氏に仕え、軍功によって下妻荘古澤郷を与えられ て古澤姓を名乗り、下館城の水谷蟠竜斎と激しい合戦を演じるのは、時代 がさらに下った後のことである。

さて近江国水谷郷と磐城国水谷邑を結ぶ糸がおぼろげながら浮かんできた が、藩翰譜がさらに具体的にいきさつを述べている。「水谷重輔が子孫・ 世々陸奥国猿田の城に住して猿田館殿という。猿田亡んで後、下総国に移 りて、結城が家に仕ふ」がそれである。さらに常陸国志補遺では「水谷重 輔・岩城の水谷庄の地頭職を賜り、子孫因りて水谷氏と称す。子の清有・ 陸奥行方郡猿田を領す。その子・秀有、その子良永、その子氏盛・陸奥よ り結城に来り、結城朝祐に仕える」となっていて、水谷水谷伊勢守氏盛が 登場し、初めて近江国水谷郷と磐城国水谷邑を結ぶ糸が一本になる。
水谷邑前史にはこれだけの史実が隠されているのである。


結城家臣の水谷氏と多賀谷氏


結城氏広の客分だった水谷勝氏は、文明十年(1478)家臣280人を 引き連れて、築城したばかりの下館城に入城した。十年間の争乱となった 応仁の乱が治まった翌年のことである。勝氏が勧請した「羽黒神社」の記 録にこのことが遺されている。
初代下館城主となった水谷勝氏は、伊佐庄三十二郷、芳賀郡長沼庄十二郷、 中村庄十二郷を領した。

一方。武蔵国騎西庄多賀谷郷を発祥の地とする多賀谷氏族は、源頼朝の随 兵として頭角をあらわしたが、延文二年(1357)に騎西庄多賀谷郷一 帯が足利基氏から結城直光に与えられたため、結城家の家人となって主従 関係を結んだ。
多賀谷氏の祖は、桓武平氏の野与党(武蔵七党)から出ている。

鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立は、永享十年(1438)の 「永享の戦乱」を招くが、持氏の自害で終わった。持氏の遺児春王丸と安 王丸とは、下野国日光山に隠れていたが、結城氏朝は二人を結城城に迎え 入れようとした。水谷伊勢守時氏はじめ家老たちはこぞって「京都方に対 する謀反になる」と反対したが、氏朝は鎌倉公方から受けた恩義をたてに して聞き入れなかった。
三人の家老は出家して結城城を去ったが、時氏は「乱をみて、その国を去 ることは、弓矢取る身の道に非ず」といって主君・氏朝とともに城に籠も って討手を待つことになる。これが世にいう「結城合戦」。

十万余の大軍に囲まれた結城城は、激しい攻防戦の末に結城氏朝は自害し て果て、水谷時氏も氏朝に殉じて討死した。春王丸と安王丸は捕らえられ、 将軍・足利義教の命によって護送途中の美濃国垂井で首を刎ねられて最期 を遂げた。嘉吉元年(1441)のことである。

多賀谷勢も氏朝に従って力戦したが、落城に及び多賀谷氏家は氏朝の遺児・ 成朝(当時二歳)を抱いて城を逃れ、常陸国太田にあった佐竹庄に隠れて 結城家の再興をはかった。宝徳二年(1450)に氏家の願いがかない結 城成朝は結城城に戻って旧領を回復する。
時を経て水谷時氏の子・勝氏は、主家の再興が許され、文明十年(147 8)下館城に入った。

主家の再興に尽くした多賀谷氏家には高経(祥賀)という名の弟がいた。 「結城家譜」では高経を祥永とし、また祥英とする説もあるが、ここでは 「多賀谷略系図」に従った。
この兄弟は結城家の家老として権勢をふるうが、これは主君の結城成朝が 幼少だったことがあげられる。氏家は成朝に忠節を尽くすが、弟の高経は 成朝を軽視し専横の振る舞いが目立つようになった。兄弟間にも不和が生 じ、氏家は結城城を去り、下妻城に住むようになった。

寛正三年(1462)高経は、主君の成朝を殺害する。成朝は二十四歳の 若さで波乱の生涯をとじた。
この事件は、結城家のお家争いがらんでいたように思われるが、「結城家 之記」では奢り高ぶった高経による殺害劇とされて伝わっている。真相は 藪の中である。
いずれにしても成朝亡きあとは兄・長朝の子・氏広が結城家を嗣いだ。こ の騒動の最中に結城家再興の功労者・多賀谷氏家は寛正五年(1465) 五十八歳で卒した。

再興なった結城家は、家老の水谷、多賀谷、山川の三人で幼君を補佐し、 結城家の安泰に腐心していたが、やがて家老の多賀谷高経の専横が目立つ ようになった。文明十四年(1482)に高経は没するが、その孫・和泉 守(氏名不詳)が家老になり、主君の結城政朝(氏広の子)を軽侮して、 結城家臣をあごで使う専横ぶりがつのるようになった。
後に結城家の中興の祖といわれる政朝は、日夜、側近と和泉守を誅殺する 計画を練り、明応八年(1499)和泉守邸を百騎で急襲して和泉守とそ の余党を悉く誅殺し、結城の実権を掌握する事件を生んだ。
この急襲には、氏家の子・多賀谷家植も加わり、政朝近習の兵が西門、家 植の兵が東側から挟撃して、一瞬のうちに制圧している。

多賀谷家植は生涯、結城家に忠節を誓ったが、大永七年(1527)に没 して子の家重の代になると結城の家人の立場にとどまることを潔ぎよしと せず自立の機会を窺うようになった。それだけ戦国大名としての力を備え たともいえる。

結城家は政朝が引退し、嫡子政勝の時代になっていたが、天文三年(15 34)多賀谷討伐の出兵を山川尾張守に命じて、下妻城攻めが始まった。 この合戦は多賀谷家重の逆襲にあって敗北し、天文六年(1537)には 逆に家重が結城城攻めを図る。天文九年(1540)には水谷治持が多賀 谷家重臣の成田主馬を無礼討にしたことが原因で、多賀谷軍が下館城に迫 り合戦となった。このような騒然たる関東動乱の中で六代下館城主となる 水谷蟠竜斎が生まれた。


知勇兼備の水谷蟠竜斎


蟠竜斎は幼名を玉若丸と称し、天文八年(1539)に十六歳で初陣して いる。長じて弥九郎政村(正村ともいう)を名乗ったが、二十三歳で法躰 となり蟠竜斎と号した。生涯に数十度の合戦を経験したが、常に少数で多 数に勝つ戦を得意とした。徳川家康は「関東で蟠竜斎に勝る武将なし」と 激賞している。

政村は二十一歳の時に結城政勝の娘・小藤姫を娶った。十六歳で政村に嫁 した小藤姫は一年後に没したが、蟠竜斎を号したのは、その直後であった。
悲嘆の涙が乾く間もなく蟠竜斎は、二ヶ月後に下野国中村に出兵、宇都宮 氏の臣・中村玄角の居城を攻め落としている。

その二ヶ月後に蟠竜斎は、修築が成った久下田城に蟠竜斎芳全寺を建立、 亡妻の一周忌の法要を行ったが、そのすきを狙って攻めきたった宇都宮勢 を寡兵よく撃退した。翌年には宇都宮勢が再度、久下田城に攻め込んだが、 蟠竜斎は敵将・武田信隆を討ちとり、撃退させた。

天文十七年(1548)蟠竜斎は真壁氏朝と連合軍で下妻城に迫り、多賀 谷重政・政経親子は降伏、結城氏に随従を誓ったが、七年後に政経は再び 離反した。
多賀谷氏との合戦は、蟠竜斎が四十七歳で隠居した後も続いている。天正 元年(1573)の野殿不動坂(下館市野殿)の戦いで多賀谷重経とまみ え、天正七年(1579)には雛子坂で重経と四日間にわたる激闘を演じ た。

蟠竜斎が優れた武将といわれたのは、生涯、負ける戦はしなかったことに ある。寡兵よく敵を打ち破っても、大敵を深追いせずに和睦に持ち込むこ とで良しとした。
太平洋戦争でズルズルと戦線を拡大し、連合軍の反撃を受けて敗戦を招い た軍部に比較して大局を掴む戦略性に長けていたといえる。

上杉謙信が関東に兵を進めると蟠竜斎はこれまでのいきがかりを捨て、主 君の結城晴朝を説いて上杉勢に加担させ、弟の水谷勝俊を下総の臼井城攻 めに参陣させた。
また早くから徳川家康とよしみを通し、武田勝頼が滅びた甲斐新府に勝俊 を連れて家康に謁したうえ、浜松凱旋にも従っている。家康が秀吉の命に より江戸に国替えとなると勝俊に命じて道案内をつとめさせた。
戦に強いだけでなく、天下の大勢をみる眼力に優れていたといえる。

慶長三年(1598)蟠竜斎は七十五歳の生涯をとじたが、勝俊は蟠竜斎 の遺訓を守り、二年後の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠のもと で石田三成方の佐竹・多賀谷の押さえとなった。慶長三年は奇しくも秀吉 が没した年である。

全国制覇した家康は慶長六年(1601)大名の改易・転封を断行するが、 外様の多賀谷重経、山川朝信は改易で取りつぶされ、結城秀康は結城十万 一千石から越前国北庄六十七万石に加増転封となった。
外様の水谷勝俊は下館三万二千石を安堵され、初めて結城家臣から独立し て大名になった。その後、勝隆の代に四万七千石に加増され、寛永十六年 (1639)の国替えで備中成羽(岡山県川上郡成羽町)五万石に加増移 封となって下館を去った。