東京大空襲の日記

古澤 元・襄


軍人上がりの人間のもろきこと


最近、古澤 元が遺した「帝都空襲日記」を発見した。 昭和十九年十一月二十四日に初めてB29による東京夜間爆撃から稿をを 起こして、二十年三月十日未明のB29百三十機による罹災者百五十万人、 死傷者十七万人を出した大空襲までの記録である。

この間、大日本翼賛壮年団の建川美次団長が辞任した内幕を橋本欣五郎中 央本部長秘書だった立場から詳しく記述していた。「建川は清浄な人であ り、澄みすぎて、政治家としての手腕はほとんど無し」「橋本は情愛の人 であり、己を捨てることを何とも思わぬ人であるため、ともすると、筋道 で過ちなくとも人事で思わぬ蹉跌をふむこと今日まで屡々あることなり」 と二人の性格を分析している。
小磯国昭首相については「悪人にはあらざるも無定見なる人物なり」と切 り捨てた。

建川団長の辞任は「翼壮」と「翼政会」の対立劇で、建川・橋本の徹底的 な敗北に終わったが、これについても「軍人上がりの人間のもろきこと感 ぜるのみ、建川すでに議すべき価値なく、橋本老いたり。時のきびしき審 判を痛感せるのみ」と慨嘆している。そして「我また進取の気、鈍るを覚 ゆ。静かに前線を去り、文筆の生活に入るの時かも知れず、熟慮すべし」 と書き遺した。

戦局についても一月十日に「夕五時の報道にて、ルソン、リンガエン湾に 敵上陸すと発表あり。いよいよ皇国の危機来る。勝つも負けるも、今や国 内の体制にかかる」と敗戦を予測した。


不気味だった東京の夜間初爆撃


空襲の日記に戻ろう。
昭和十九年十一月二十四日の夜間爆撃は、都民に心理的打撃を与えている。 「初めての夜間爆撃なり。前爆撃は昼間なりしため、何ほどの心理的打撃 なきも、夜間は気持ち悪し。小雨そぼ降る夜半、ほとんど一方的に爆撃さ れたり。被害地、神田の一部、日本橋の一部なり」二十七日には「雨天、 盲爆あり。留守居中五百米向こうの東郷神社に爆弾数個落下す。精神的に なれる風あり」と激しさを増した空襲によって、都民も神経的に動揺して きた様を伝えている。

東郷神社に爆弾が落ちた時には、父は外出していて母と私が家にいた。原 宿の参道通りに住んでいたので爆弾が落ちた音は、庭で炸裂したような至 近弾の感じだった。あわてた母が押入れに逃げ込んだ記憶が鮮明に残って いる。私が「もう終わったよ」と言ってもなかなか押入れから出てこなか った。

その当時、私は原宿から歩いて九段の市立一中まで通学する毎日だったが、 途中で空襲に何度か遭遇している。ゲートルを巻き、鉄兜をかぶった通学 だが、爆弾の恐ろしさはあまり感じなかった。むしろ味方の高射砲の破片 が、摩擦熱で赤くなって落ちてくるので、その方が怖かった。運悪く破片 に当たると、傷は鋭利なカミソリで切ったような跡が残り、出血多量で亡 くなる人が出た。市立一中の校舎の屋上には高射砲陣地があって、敵機に 向かって一斉射撃をするのだが、砲弾が炸裂する上空をB29は悠々と編 隊を組んで、去っていった。

市立一中の農園が調布にあって、そこで空襲に遭遇したことも屡々あるが、 艦載機の機銃掃射には、逃げないで向かっていく方が安全と教えられ、退 避訓練もしたが、それを試す機会は無かった。それにしても敵機来襲で、 調布の飛行場から友軍機が次々と飛び立つので、邀撃に向かったと喜びな がら観戦していたら、軍事教官から「あれは空中待避だ」と教えられがっ かりしたものだ。地上の滑走路にいると爆撃で、虎の子の飛行機がやられ るので、水鳥が飛び立つように空に逃げたわけである。

十二月三日にはB29七十機が中央線の沿線の工場に集中爆撃をしたが日 記は「晴天、七十機来襲す。都の西方より入る。爆撃コースほぼ決定せる ものの如く、伊豆半島より北上、富士山を迂回して東京に現る。あるいは 中央線沿線の工場を目標にせるものなるべし。気流に乗る点より今後とも 伊豆より入る敵機の概ねこの爆撃コースを取るものの如し。都の西域上空 に於いて空中戦闘あり。見物す。武田氏(作家・武田麟太郎)と一緒なり。 爆撃はげしかりしも、これを目撃し得たるにより、大いに心気安まる。都 民の心理また同じなるべし」と爆撃を見物する余裕もあった。四日は「爆 撃地、中野を見舞う」と短い。
五日には「爆撃されたる地域に必ず銭湯屋あり。何を意味し、何の原因な るかをしらず」と余裕をもった分析までしている。


軍事工場が密集する中部地方を盲爆


この余裕が一変するのは、十二月八日の大詔奉戴日に東京大空襲があると いう流言が飛んでからである。特高警察のH氏が父のところにやってきて「 奥さんと息子さんを脱出させた方がいい」と言ってきた。このため八日朝、 特高警察が回してきてくれた木炭車で上野駅まで母と私は送って貰い、特 別に入手した切符を持って満員の信越線に飛び乗った。
しかし八日の東京大空襲は無かった。八日の日記は「信州上田に襄を送っ て、まき子出発、中部地方空襲の被害、甚大なり。東海道線不通」とある。 間もなく母は東京に戻った。

皮肉にも九日には疎開先に上田にB29が来襲、焼夷弾を投下した。B2 9の爆音は学校で録音盤で記憶するまで教えられていたので、「B29だ」 と叫んで部屋の電気を消したら、「何をするの!」と祖母に一喝され、ま た電気をつけられてしまった。ヒュルヒュルという落下音があって、焼夷 弾が投下されたら、動転した祖母が腰を抜かした。その祖母を負ぶって防 空壕に退避したが、敵機が去ったあとも祖母は防空壕から出ようとしなか った。

東京で空襲慣れしていた私には、内陸の地方都市が如何にものんびりして いて。歯がゆい思いがしてならなかった。父もそれを感じていたようだ。 日記では九日に「信州に来襲あり」十日に「上田に焼夷弾落下、燈火管制 悪しきためならん」と素っ気ない。東京や名古屋の空襲に較べれば、もの の数にもならないということであろう。上田はこの後、艦載機が特攻機の 中継基地になった上田飛行場を銃撃しただけで終戦を迎えている。この時 は農家の屋根にハシゴをかけてのぼり、艦載機が旋回しながら飛行場に繰 り返し機銃掃射する様子を見物していたが、頭上すれすれに飛んできたの で、あわてて屋根から飛び降りた。赤トンボといわれた練習機が破壊され たが、特攻隊員たちは無事だった。

B29の爆撃は、東京から軍事工場が密集する中部地方に向かっている。 十二月十三日は「午後一時半、久しぶりにて、編隊による爆撃あり。主と して中部地区を爆撃すと。震災に気付きたるものなるべし。(注記・七日 に名古屋地方は大地震で被害甚大だったが伏せられていた。特高警察から 聞いた情報と思われる)昨十二日、夜三回の爆撃あり。目白周辺その他被 爆、被害地を視察す」十四日は「昨夜半三時、単機また房総半島より侵入、 帝都南部を狙い、焼夷弾と爆弾とを投下せるも被害皆無。品川沖に落下せ る故なりと。昨日の中部地区爆撃は情報厳しくて耳に入らず。甚大損失の 模様と推測さる。名古屋三菱の発動機工場やられたとの流説もあり。また、 浜松最も集中爆撃を受くとの説もあり。その被害程度如何に拘わらず中部 地区は日本の航空機生産の過半量を占む最重要地なれば、震災及び爆撃に よる打撃はけだし想像以上なるべし。今日直ちにその影響なしとするも、 来春三月以降には必ずや前線戦力に莫大なる空白を生ずべきこと亦想像に 難からず。その時期に於ける国内体制の切り替え如何により、今次大戦の 成否決すべしと推測す」とある。敗戦の足音が聞こえてくるが、前線の将 兵や爆撃にさらされた国民には知るすべも無かった。

十二月十五日は曇天、時々薄曇りだったが「昨夜半三時より、四機四回の 爆撃あり。主として焼夷弾なり。中部地区より方向転換して京浜侵入の一 機ありと。小生三時の空襲後面倒臭くなりて、後三度は寝床の中にあり。 一昨夜の空襲に於いて、駿河台の某病院に爆弾落下、地下壕に退避中の悪 徳病院長一家、蒸し焼きになれりとの流説あり。その地下壕は自慢のもの にて、人を入れず、壕内に二年分の食料品を貯蔵せること判明すと云う」 この流説も特高警察の情報であろう。

十六日は「昨夜は珍しく敵襲なし。マリアナの敵基地に豪雨あり。ために 基地使用に支障ありたるためと報ぜられる。しかし、悪しき発表あり。比 島レイテ方面の戦局拡大し、ミンダナオ西南に敵上陸せりと。米軍の焦燥 亦相当なるものありとするも、レイテ島の失をミンダナオ島にて補わんと する敵戦力の余裕及びその戦意の程度は内地報道の伝える以上のものなる べし。楽観すべき点は何処にもなく、今こそ痛烈に我戦力につき反省し、 徹底的悪況に於いて抗戦すべき戦意を固むるを要す」十七日も「昨夜も来 襲なし」
要路にあった人たちは「徹底的悪況」を知っていたが、マスコミには知ら されず、空しい大本営発表が一人歩きしていた。

十二月二十二日は「九時頃、一機来襲、激しき高射砲射撃に驚かさる。深 夜一時頃再び一、二機来襲せるも帝都に来たらず。正午、再び中部地区に 大挙空襲ありと」二十三日は月明だった。「本日払暁、一機来襲す。夜九 時、就寝前一機関東に来襲す。西北部より房総に回り脱出すと。偵察機ら しく一時間ばかり悠々と関東一円を飛んで去る。早暁、本宵の敵機共に偵 察甚だし。慎重なり。月明もほぼ察知せらる。近日中に大挙夜間爆撃ある を感ぜらる。東京よりも東京近郊乃至は関東地区の工場を選ぶものの如し」 この予測はほぼ当たり二十七日に五十機の編隊による爆撃があった。「二 十七日正午頃、五十機の編隊にて敵機来たる。邀撃戦激しく、一機見事に 墜るを見る。日比谷公園にて観眺す。友軍機また二機墜るを見る。凄惨な り。五十機中十四機撃墜、二十七機に損害を与うと大本営発表。最近は本 土滞空時間が著しく延びたることなり。或いはB29ならずして、B32 を使用しあるかもしれず。柳橋五百戸焼かると」


放送されつつあるものの如くには非ず


年が明けて昭和二十年。正月三日の日記は「大晦日に一機づつ二度の敵襲 ありたる後は元旦、二日、三日と敵機来たらず。酒なく楽しみ少なき年始 めなり」とあって元旦夜の作品として「久方の 光さし染む ありあけの  岩屋戸あけむ 酉年の春」
三日の日記は続く。「厄日なり。建川団長、昨日小磯総理に会見、団長辞 職のことを約せりと云う。橋本本部長に何らの相談なし。独断専行せるも のの如し」「それに対し本部長善後策につき我らと談ずべく会す。策なし とす。策あれど既に機を失す。翼政会の攻勢容易に成功せるなり」「小生、 唯、軍人上りの人間、もろきことを感ぜるのみ」建川団長の辞任問題は、 かなりのページを割いているが、帝都空襲の主題から逸れるので割愛する。

正月七日は「日々一機づつ来る。黒門町、竹町を焼く」九日は「昨日は空 襲なし。本日、正午過ぎ十数機来襲あり。体当たり機一機墜ちるを見るも 敵機墜ちず。惨なり。夜七時のニュース放送にて、今日の来襲機は六十機 程度、関東、中部、近畿に、分散来襲せりと云う」十日は「昨夜一時、今 暁五時頃、それぞれ一機、二機の来襲あり。焼夷弾を投ず。情報にて被害 なく、火の手も見ずと云う。夕五時の報道にて、ルソン、リンガエン湾に 敵上陸すと発表あり。いよいよ皇国の危機来る」十二日は「昨夜は八時頃、 今暁一時と三時の三回に渡ってそれぞれ一機来襲す。前二回は東京に入ら ず、伊豆より関東北部、東北地方を偵察し、三回目のみ東京に入る。但し 被害なしと。三度起こされたるため一日中眠し」偵察行動なので被害はな い様子だが、空襲警報で起こされる都民は神経戦に悩まされる毎日だった ろう。

正月二十二日から二十九日まで古澤 元は東北地方の視察旅行に出た。何 十年ぶりの東北冷害被害の状況について二十九日の日記で「盛岡にて零下 二十二度の日あり。時計の油凍り、各駅の時計ほとんどその用をなし居る ものなし。東北また飢ふ。食のあまりほとんどなし。東北本線に機関車の 恐るべく少なき見る。常ならば、いかなる駅にも二台や三台の機関車ある を見るにこの度は遊んでいるもの絶無。而も中小駅にはその姿をさえ見ざ るはいかなる故か」と暗澹たる思いを綴った。旅行中に東京は大編隊の爆 撃を受けていた。「二十七日の爆撃は七十機。予想外の損害ありたるもの の如し。銀座、日本橋焼かれ、千住またやられたりと」帰京後、早速、銀 座の被害状況を視察に出ている。三十一日の日記は「銀座に行く。爆撃の 状況を見る。放送されつつあるものの如くには非ず。泰明小学校中心、爆 撃地点最もひどく、他の火災甚だし。日比谷の小屋にありたる棺の小山は 既になし」焼死者の身許を確かめることもなく、荼毘にふせられたのであ ろう。東京大空襲の焼死者の数は今もって正確には分からない。


友軍の十数機が四機となり、二機と


二月十六日「昨日、B29六十機、名古屋を侵す。一休みかと思いしに、 本日は朝七時より艦載機の侵攻始まる。五十機、四十機の編隊は、房総、 或いは鹿島灘、また伊豆半島より次々と来襲す。主として飛行場、軍事施 設、交通機関、汽船などを爆撃。東京都上空にはほとんど敵機の姿は見な かったが、午後一時頃、房総より入りたる二編隊、西北に往くを見たり。 二機の彼我不明機、都の上空に於いて墜ちたり。流石に十時間の空襲には 疲れを覚ゆ。邀撃に出むく友軍機、始めに十数機、やがて八機となり、薄 暮近くになるにつれ数機となり、四機となり、二機となって衰えゆくを見 る。七時の放送にて来襲機数の一千余機なりと。主として艦載戦闘機なり。 一千機来襲ときいて数の多きに驚いたが、帝都もいまや本格的戦場になら んとしている感ひしひしと迫る」東京に生まれ、東京で育った者にとって は、涙なくして読めない帝都上空に於ける生還を期さない友軍機の邀撃の シーンである。

二月二十五日「夜半よりB29の来襲しきりなり。一機づつ来る。夜明け 横鎮(横須賀鎮守府)情報にて、敵機動部隊の本土近接の警報出づ。八時 少し前、艦載機二編隊百五十機ばかり房総半島より侵入し、ほかに鹿島灘 より十数機入寇すと。本日は雲低く寒冷なり。一時半より帝都空襲始まる。 正午頃より粉雪積もり、空襲の最中、益々降雪あり。暗澹たる空模様たる 故、敵機更に見えず。魔風の如き音を流し、敵機次々と来襲す。バリバリ という激しき爆弾の投下音、つづいて地響きあり。爆音ひびく。翼壮内の 壕にありて、この音をきく。場所近し。出て見れば、天文台の方向、或い は宮内省かとも思われるところ黒煙沖す。やがて黒くなった火の粉、数限 りなく翼壮本部敷地内の雪のうえに降り来たる。近火なり。神田方面一面 黒煙あり。雲いよいよ低く、煙這うものの如く、いつか四囲灰黄色を帯び、 凄惨なり。次々の爆音をきき、安全地を考えて裁判所地下に往く。ここに は四時近くまで避難し、帰宅す。神田寄りは火焔凄まじく天に沖し、時折 爆発音をきく。市電の動くのを待って渋谷に来る。途中、大宮御所近くに も降灰甚だし。大宮御所また害を受くとか。麻布連隊付近も燃えつつあり。 青山南町にも被害家屋、帰宅して原宿一丁目にも落弾ありときく」二十六 日は夜通しの雪があがり、快晴となったが、市電は途絶して午後まで回復 しなかった。省線がようやく動き出していた。その中で空襲の被害視察が 続く。「午後二時、翼壮本部に出勤、上野方面の惨禍をきく。いよいよ穏 やかならず。三時に上野署に至り、被害、災害をきく。途中、神田駅の両 側の惨禍甚だしく、また上野広小路及び上野駅前、御徒町周辺はほとんど 一物をのこさず、本建築のビルのみ空しく焼け跡に建つあり。さらに上野 駅長室に至り、旅客を悉く上野の山に退避せる事実をきく。そして本日朝、 不定期の列車を出し、その列車また極めて遅々として、高崎に向かへるこ とも確かむ」

三月一日の日記は「二月二十八日夜半、電話あり。召集の報告なり」とあ る。三日、護衛の特高警察・H氏に見送られて上野駅を出発している。
「H君のみ手荷物を持って車内まで送ってくれた。何の因縁で人が一番い やがる商売の人に、こうまでも親切にして貰えたのか、自分には判らない」 と妻に入隊前に葉書を出している。本庁の特高刑事だけでなく原宿署のW 刑事、K刑事、T刑事からも信頼されていて、残された妻は夫を送り出し た後に二十七日に軍公用の切符で廃墟の東京を脱出することができた。
十日の空襲日記は妻の筆跡である。「B29百三十機来襲。本所、深川、 本郷、浅草、蔵前、千住等々下町の大半は灰燼に帰す。翼壮本部、翼賛会、 司法省、警視庁の一部、都庁も丸焼けなり。この日の罹災者百五十万人、 死傷者十七万人という。凡そ震災(関東大震災か)以上の災害なりときく」 と簡潔ながら三月十日の東京大空襲の模様を書き遺した。生きて「死の東 京」を脱出できるとは思わず、ひそかに死を覚悟したという。
その思いが二十七日の日記の最終章で綴られている。
「本庁のH氏、原宿署のW、K、T氏の助力が無かったら、恐らく”死の 東京”を脱出するは私には不可能であったろう」