解説 漫画家・中村篤九

古沢 襄


新漫画派集団の功労者


昭和七年六月のことになるが、当時の若き漫画家が集まって、「新漫画派 集団」の旗揚げがあった。横山隆一、近藤日出造、清水崑、杉浦幸雄、中 村篤九、小山内竜、岸丈夫らが、それまでの古風な戯画風の漫画から、新 しいスマートでセンスのある欧米流の「新漫画」を志して集まった。

このメンバーが戦後の漫画界をリードするわけだが、この頃は二〇歳前後 の売れない無名の漫画家の集まりでしかない。斬新奇抜なアイデアの持ち 主だった横山隆一が、ようやく頭角を顕わそうとしていた時代のことであ る。

この時代を回顧した杉浦幸雄は、「新漫画派集団のスタートに当たって特 筆すべきは、メンバーの一人だった中村篤九の大活躍だった」と「わが漫 画人生」の著書で紹介している。

貧乏だった仲間のために中村篤九は、新聞社や雑誌社を駆けめぐって、仕 事を貰ってきて、杉浦幸雄に言わせると「篤九さんは、名マネージャーだ った」ということになる。
注文の漫画を数人の漫画家が、手分けして「合作漫画」を作ると好評でそ のうちに仕事が殺到し、新漫画派集団は「時代の寵児」なって繁盛するこ とになった。


岡本一平仕込みの漫文


中村篤九は漫画家として一流だが、漫文の書き手としても一流の腕を持って いた。戦時中のヒット作品として、「完ちゃんもの」があるが、暗い世相の 中で少年の成長ぶりを夢豊かに漫文調で描いた。そこには漫画四割、漫文六 割の創作態度がみられる。

札幌生まれの中村篤九が上京したのは、俊子夫人との熱烈な恋愛の結果、手 と手を取り合って駆け落ちをしたのがきっかけとなった。俊子夫人も札幌生 まれ、二ヶ月違いの姉さん女房である。昭和六年六月に入籍しているが、上 京は一、二年まえのことではなかろうか。

中村篤九の漫画として初見されるものに「月刊マンガマン」昭和五年十月号 と十一月号のものが残っている。二十一歳の時の作品で、岡本一平の影響が 色濃くでている。
当時の漫画界の巨匠は、岡本一平と北沢楽天。中でも岡本一平は戯画と文章 を組み合わせた「漫画漫文」の世界を確立していた。政治や世相に対する辛 辣な風刺が基調で、若い漫画家志望の青年たちが青山・高樹町の岡本邸に蝟 集していた。

杉浦幸雄が岡本邸の門を叩いたのは、昭和四年、十八歳の時だったという。 後に無二の親友となった近藤日出造が、エラの張った顔で「一平塾」にいて 先輩風を吹かせていた。
「月刊マンガマン」は、弟子の面倒見がいい岡本一平が門下生に開放してい た漫画雑誌で、中村篤九や岸丈夫も習作を発表している。


中村篤九の理想の姿・阿宝


新漫画派集団に立て籠もった若き漫画家たちは、大なり小なり岡本一平の影 響を受けている。共通しているのは、漫画だけでなく、文章も達者だったこ とである。
戦後、読売新聞を舞台にして「一筆啓上」のタイトルで、師匠を凌ぐ政治漫 画の世界を確立した近藤日出造も達者な文章家だった。また戦後風俗を描か せたら右に出る者がいない杉浦幸雄も一角の文章家である。

中村篤九は「おもしろく、おかしく、たのしいもの(漫画)を書こうと思い ながら、二十年も漫画の仕事ととっくんで来たが、どうしたものか、ここ五, 六年の仕事の半分は漫画にあらざるいと怪しげなる一連の文章であった」と 「阿宝正伝あとがき」で述懐しているが、これこそが岡本一平仕込みの漫文 の世界なのであろう。

「阿宝正伝]が書かれたのは、筆者がいうように昭和十四,十五年頃、日中戦 争が泥沼化して、対米戦争に突っ込む前夜である。阿宝の名を借りて、一代 の阿呆男を描いたこの作品で、中村篤九は何を訴えようとしたのか。
村と言う一つの社会の中に適合できない「個」が、抹殺される悲劇を淡々と 描いてみせた。
世をあげて全体主義の「狂河」に流されていく悲劇を表現しているともいえ る。

阿宝の欲がない純真無垢な存在は、ある意味で中村篤九の理想の姿であった。 だからこそ戦後、「阿宝正伝]を出版したのであろう。
中村篤九が提起した問題意識は、時代を超えて現代に生きる私たちに永遠の 課題を突きつけているといえる・