新漫画派集団の人たち

古沢 襄

自民党の麻生政調会長が、漫画の愛好者だという話を顧問弁護士だった古沢昭 二さんから聞いたことがある。「いい大人が漫画を読んでいるなんて・・・」 と昭二さんは、私に同意を求めたが、「下手な小説よりも漫画の方が面白いで すよ」と私は自説に拘った。麻生さんが自民党の総裁選挙に出る前の話だから、 もちろん政調会長になっていない。吉田茂元総理の孫といった方が正確なのだ ろうが、分かりやすくするために麻生政調会長とさせていただく。

従兄弟同士ということがあって、昭二弁護士と私は、毎週のように築地の寿司 屋で酒を酌み交わしながら、お互いに勝手なことを言い合う仲だった。年に二 回は国技館の桟敷席で二組の夫婦同士で相撲を観戦し、終わったあとは浅草に 繰り出して、酒の続きが延々と深夜まで続いた。その昭二弁護士も一昨年、胃 ガンで亡くなった。深酒が昭二さんの寿命を縮めたと思うのだが、片割れの私 にはまだお迎えがきていない。


古風な戯画風漫画に反逆


私が従兄弟に逆らって麻生政調会長の肩を持ったのは、それなりの理由があ る。昭二弁護士は名前が示すように昭和二年生まれ、私は五年遅れの昭和七 年生まれだが、私が生まれた年に「新漫画派集団」も誕生している。
しかも、ここに集まった若き漫画家たちは横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄、 中村篤九、秋吉馨、岸丈夫、大羽比羅夫、石川進介、小山内龍など戦前、戦 後の漫画界で活躍し、大家となった漫画家がずらりと並んでいる。当時、よ うやく名前が売り出していたのは、横山隆一、近藤日出造両氏ぐらいで、あ とは無名の漫画青年であった。

一年後に「新漫画派集団 漫画年鑑」を横浜の文座書林から発刊している。 初版一五〇〇部、定価二円、一五一ページの本で、東京・神田の岡倉書房が 発売元になった。今では貴重本になっていて、神田の古書店をめぐっても入 手できなかったが、今年になって中村篤九さんの息子さんから「二冊持って いますから、一冊差し上げましょう」と偶然、頂戴した。漫画年鑑をパラパ ラとめくっていて、編集後記をみたら父の古沢元が「ほんの僅かばかりの編 集経験があるのと、一寸した面識があると云うことから委嘱された・・・」 と書いていた。

「一寸した面識」というのは、メンバーの岸丈夫が実弟、杉浦幸雄が義弟で あること指している。父はこの仕事が、ことのほか気に入ったようで「やや っこしい小説、論文を苦読するよりは、一目リョウゼン近代日本の匂ひと味 を直感し得る」とベタ褒めである。

昭和八年は、戦前の昭和文学史で異彩を放った同人雑誌「日暦」が作家の高 見順さんらによって創刊された年。二年後に父は「日暦」の同人となってい るが、この時代には「アサヒグラフ」に短編小説を書いていた頃で、「やや っこしい小説」という言葉には、妙に実感が籠もっている。

話が少し横路にそれてしまったが、「新漫画派集団」はスタートから順風満 帆、たちまち時代の寵児となっていった。
当時のメンバーで生き残っている漫画家・杉浦幸雄は「わが人生 一寸先は 光」の著書で「やる気満々の集団の仲間は、まさに”水を得た魚”。欧米の ナンセンス漫画の良さを巧みに取り入れた傑作を量産、ユニークな集団とい う珍しさもおおいに受けて、やがて注文が殺到するようになりました」と回 顧している。

日本の現代漫画の祖と目されているのは、北沢楽天。明治三八年に創刊され た「東京パック」の主筆として活躍し、楽天時代を作った。新聞や雑誌の発 行部数が増えるにつれて、漫画家の数も増えて、「漫画・漫文」という独自 に世界を切り開いた岡本一平が登場すると漫画界は一平時代に大きな流れが 向かう。

岡本一平は東京・青山に邸宅を構えていたが、近藤日出造、杉浦幸雄らの漫 画青年たちが屯して門前市をなす賑わいをみせていた。「一平塾」の塾生だ けで六、七〇人もいたという。ドテラ姿の岡本一平とオカッパ頭の岡本かの 子夫人のコンビが話題を独り占めする観があった。

しかし、北沢楽天を凌ぐ勢いをみせていた岡本一平ではあったが、当時の漫 画界は、下川凹天さんなどベテラン漫画家が、新聞や雑誌という発表の場を 押さえていて、一平塾の駆け出し漫画家が入り込む余地が無かった。ベテラ ン勢は毛筆で仕上げた古風な戯画風の漫画に長文の説明文を付けて、漫画市 場を独占していた。

新漫画派集団の旗揚げは、明治以来の日本の伝統的な漫画に対する新感覚派 の反逆であった。スマートでセンスに満ちた欧米漫画の洗礼を受けていた若 手漫画家たちは、毛筆スタイルの保守的な漫画から、シャープなペン画にウ イットが富んだ短いキャプションを付けるという手法を考え、これを武器に して新聞や雑誌に猛烈な売り込みを図っていった。この売り込みで特異な才 能を見せたのが中村篤九。「篤九さんは名マネージャーで、彼のお陰で新漫 画派集団の仕事がはかどった」と杉浦幸雄は語っている。

漫画家・中村篤九は都会風の垢抜けた漫画を得意として、新漫画派集団の会 計だった山根俊子さんを射止めて結婚するなど当時から公私ともに目立った 存在だったが、終戦後間もない昭和二二年六月に生まれ故郷の札幌市で急性 劇症肝炎のため三八歳で急死している。


オレは日本一の政治漫画家


新漫画派集団は、たちまち時代の寵児になっていったが、集団の稼ぎ頭とな った横山隆一さんがスター的存在になるにつれて、仲間の漫画家たちは新た な悩みを持つようになる。旭日昇天の勢いをみせる横山隆一さんの画法を模 倣する漫画家もあったが、”横山流”はしょせんは模倣に過ぎない。
一番悩んだのは、近藤日出造と杉浦幸雄の二人で「横山隆一にできないもの、 彼が不得意とするもの、苦手とするものをやるしかない」ということになっ た。

「よし、ナンセンスは横山隆一に任せた。オレは、得意な似顔絵を生かして 政治漫画をやる。日本一の政治漫画家になるぞ!」と近藤日出造が叫んで、 杉浦幸雄と連れだって銀座に繰り出し、スエヒロのビフテキを食べにいった エピソードがある。戦後、読売新聞を舞台に「一筆啓上」漫画・漫文で、一 躍、岡本一平を凌ぐ政治漫画の大家となった近藤日出造が誕生したいきさつ である。

私がジャーナリストになって最初の赴任地が仙台。昭和三二年のことで、近 藤日出造の長男・凡さんと一緒になった。彼は読売新聞の新人。蔵王おろし の寒風が吹きすさぶ仙台でアノラックの襟を立てて、一緒に警察回りをやっ たのが四十五年も昔のことになった。

お父さんが政治漫画を書いているのだから、当然、政治部にいくものと思っ ていたのだが、社会部に戻り、私の方が政治部に戻ったのですから世の中は 分からないものである。その後、私が福岡支社長に転出したら、凡さんは後 を追いかけるように西部本社の編集局長にになって九州にやってきた。不思 議な縁としか言いようがない。

近藤日出造が日本一の政治漫画家になると宣言した時に杉浦幸雄は「オレは 女をかく。女が主役の風俗漫画をかいて、女をかかせたら日本一の漫画家に なってやる」と大見得を切っている。昭和六三年に「当世おんな風俗画集」 の著作を青蛙房(せいあぼう)から発刊したが、女性の美しさ、優雅さだけ でなく、その醜さや業の深さまで余すところなく描き尽くしている。九十歳 を遙かに越えた年齢となったが、日本の古典でエロテイシズムの極致と思っ ている「漫画。古事記」の書き下ろしを脱稿するまで死なないと私にハガキ を送ってきた。

太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和一九年暮れに母と私たは、長野県 の上田市郊外の村に疎開したが、その村に横山隆一さんの一家が偶然にも疎 開してきていた。野菊の花のように可憐な奥さん(前妻)の印象が残ってい る。まだ小学校にあがる前の横山さんの長女が、遊びにくるので、この子を 連れて近くの川でカジカ突きにいった思い出がある。高知県出身の横山隆一 さんが長野県に疎開していた事情を聞こうと思いながら、それが果たせぬま ま昨年、他界された。長女の方も還暦を超えた筈である。

中村篤九さんの一家とは、とりわけ因縁が深い。戦前からのつき合いで、篤 九夫妻は古沢元を「兄貴!」と呼び、いつもどちらかの家で両家が団欒の親 密な関係であった。
私の生まれた翌年の一九三三年二月一七日に篤九夫妻は長男・菁哉さんが生 まれたが、小学校に入る前に夭折した。生きていれば六九歳になる。菁哉さ んの弟になる完治さんと紀介さんの兄弟は、私のことを「襄兄貴」と呼んで くれている。

友人の女流作家・一ノ瀬綾は「合縁・奇縁」という言葉を好んで使うが、新 漫画派集団の人たちとは、まさに「合縁・奇縁」を感じている。ご本人との 関わりもあれば、二世たちとの関わりもあって様々だが、漫画の世界が取り 持つ縁の不思議さに何か運命的なものさえ感じている。