みちのく旅日記戊辰戦争と二本松少年隊◆ 東京地方は五月中旬の陽気という日に上野駅を発って最初の目的地になった二本松 市(福島県)に向う。 二本松市は以前から一度は訪れたいと思っていた土地なので、心が弾む旅立ちとな った。戊辰戦争の歴史的な意味合いを作家・田宮虎彦の小説で教示されて以来、会 津若松市と二本松市はいつかは自分の足で思う存分、散策したいと思ってた。 ◆ 二本松少年隊十二人が自刃した二本松市は、会津白虎隊の華やかな悲劇の蔭に隠れ ているが、私にとっては戊辰戦争を問い直す恰好の土地柄のように思えた。高村光 太郎の「智恵子抄」で知られた妻・智恵子の生家跡も見ておきたいという思いもあ った。 ◆ 旅行の主目的は、東北酪農家百四十人が集まる会合。狂牛病問題や雪印食品の不正 で揺れる生産者のナマの声が聞ける興味があった。自分の政治記者時代を振り返る と、自宅と国会の間を伝書鳩のように往復する毎日の繰り返しで、介在する大衆が 欠落していたとの反省が残っている。この数年は機会があれば、この種の会合に顔 を出すことにしている。 ◆ 出発前に一冊の本を本棚から引き出し、丹念に読み直してみた。三十七年前に池田 元首相の政務秘書官だった伊藤昌哉さんから貰った「わが国農業の未来像」の副題 がついた日本経済調査協議会の調査報告書。伊藤さんは「十五年後にこの本をもう 一度開いて下さい。日本農業は見違えるように変貌している筈です」と言ったこと がまだ耳に残っている。 ◆ 東畑精一さんが中心となって二年半の歳月をかけてまとめた報告書は、一千百万人 の米作農家が短期間に三百万人に減少するが、代わって酪農と果樹栽培を取り入れ 多角経営に脱皮したヨーロッパ型の近代的な農家が出現する日本農業の未来像を描 いている。
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私の講演が終わって夜の懇親会になりましたが、集まった百四十人の酪農家たちの
年間平均売り上げは三千万円、年収一千万円クラスの人たちで、米作だけに頼る単
作農家の平均年収三百万円に比較すれば、安定した農業経営の人たち。 ◆ しかし狂牛病問題や雪印食品の不正は、豊かな筈の酪農家に将来の不安を与えてい ること否めない。「この事件をきっかけに酪農を止めようと思う」とソッと話して くれる酪農家もいた。あの事件が、生産者である酪農家に与えた影響は予想以上に 深刻といえる。 ◆ 日本農業の希望の星だった酪農経営が、暗いトンネルに入る懸念すら感じてしまう。 バラ色の「わが国農業の未来像」を実現するためには、よほどの実行力が伴ったリ ーダーが出現しないと絵に描いたモチのままになってしまうというのが率直な感想 である。
牧歌的な在来線の旅◆ 空の便と新幹線を使った旅行ばかりしてきた私だが、二本松市に行くためには、郡 山で新幹線を乗り換えて東北本線の在来線を使う必要がある。 1957年春、母や婚約していた妻、大学の学友に見送られて上野駅から赴任地の 仙台に向かった時のことが想い出された。石炭を焚いた機関車二台に牽引された東 北本線の初旅で、東京で生まれ、東京で育った私にとって「都落ち」の不安な出立 となった。桜が散りかけた上野から白河の関を越えると吹雪が舞い、仙台につくと 霙混じりの雪となっていた。このまま東京に引き返したい思いに駆られたものだ。 ◆ あれから四十五年、二十五歳だった私も七十歳の坂を越えた老境に達している。在 来線に乗り換えるためホームで列車を待つ間に来し方をぼんやりと想い浮かべる。 その回想を破ったのは、在来線の変わり様。ジーゼル車両が滑らかにホームに滑り 込んできたが、外からドアを開くボタンを押す仕掛けになっていて、あわててしま った。降りる時もボタンを押さないとドアが開いてくれない。 ◆ ようやく座席に座って、一汗ぬぐっていたら、前の座席に高校生ぐらい美少女が座 った。座った途端、大きな口を開けて隣の母親が口の中をしきりに覗き込んでいる。 虫歯が痛んでいたのだろうと思ったが、目のやり場がなくて、私はまたウロウロ。 こういう情景は東京周辺では見られなくなった。何となく田園に戻ってきたという ほのぼのとした思いに包まれ、本を取りだして読むことで時間をつぶした。
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翌日、二本松駅から福島駅に出るために在来線に再び乗ったが、隣の座席に座った
のは、初老の女性。小学校の先生を退職して、卒業生の集まりに呼ばれたのだ、と
話しかけてきた。
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突然、腹を指で突かれ、初老の元教員が車窓を見ろ、と言ってきた。難解な福島の
東北弁を要訳すると「見ろ。山の雪がすっかり消えている。今年の冬は短かったな
・・・」となる。在来線の旅にはこういう出会いがある。
古代米のどぶろく◆ 北上駅の改札口を出ると沢内村の高橋繁教育長と高橋雅一村会議員が待っていてくれ た。気心のしれた三人で、北上川の堤防にふらりと出ると対岸に白い水鳥が20羽ぐ らい羽を休めている。まだ北国の風が冷たい。 「白鷺かな・・・」と私。 「白鳥ですよ。毎年、この季節にやってくる」と雅一さん。北上川の水嵩がいつもよ り多い。 「かなり降ったのかな・・・」と聞くと繁さんが 「雪解け水ですよ。今年は早いですね」と目を細める。 私はこういう何気ない会話が好きだ。郷里に戻ってきた想いがわきあがる。
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岩手も暖冬というものの周りの山はうっすらとした雪化粧で、福島とは違って風がま
だ冷たい。 ◆ 湯田町は温泉場だが、江戸時代の昔は金や銅山があって、鉱夫たちで賑わう栄えた街 だった。私の先祖も江戸時代のことだが、この地からお嫁にきている。しかし長引く 不況のあおりを受けて、一軒また一軒と古い温泉宿が街から姿を消しているのが侘び しい。 ◆ 私の目的は、湯本温泉から離れた湯川温泉のある武田工務店。親戚同様の付き合いに なった武田家の社長夫人・貞子さんが、丹誠をこめて作った古代米のどぶろくを造っ たとメールで知らせて頂いていた。二本松からわざわざ北にある湯川まで足を延ばす のだから私のどぶろく好きもかなりの重症になった。どぶろくが目当てだが、車座に なってとりとめのない会話を楽しむのも目的。 ◆ 貞子さんのお料理は超一流。亡くなった渡辺美智雄副総理の従兄弟・高木幸雄(旧姓 渡辺幸雄)さんが、一口食べて気に入り、「これを缶詰にして売り出す」と惚れ込ん だ腕前である。その幸雄さんも一昨年十一月に亡くなり、一年半の歳月が去った。 ◆ どぶろくといえば、前夜、二本松市の会場に岩手県宮守村の阿部信子さんが手製のど ぶろくをわざわざ持ってきてくれた。信子さんのご亭主は、宮守村の村議会議長だっ た文右衛門さん。お互いに歴史好きということがあって、家族ぐるみの濃密なお付き 合いが続いているのだが、信子夫人が東北酪農青年婦人会議の委員長だったのには、 正直に言って驚いた。 ◆ 委員長差し入れのどぶろくを一人占めして、「酒は一人で静かに飲むものです」と予 防線を張っていたが、酪農連の若い人たちに囲まれ、車座になって飲んでいるうちに どぶろくがあっという間に無くなってしまった。一人で静かに飲むのも乙なものだが、 やはり車座の酒もまた格別。 ◆ 私は共同通信社で八年間、労務を担当していたこともあって、労働組合員や市民運動 家の話を聞くのも好きだが、やはり土の温もりを持つ農村の人たちと時間を忘れて話 し込む方に軍配をあげる。父の代まで三百年続いた東北の農家だったDNAが、骨の随ま で染み込んでいるためなのだろうか。 ◆ 私が来ると聞いて、湯田町や沢内村から顔見知りの仲間たちが二〇人ほど集まってく れていた。貞子さんのお料理を頂戴しながら、武田工務店の二階で酒盛りが始まった が、湯田町も沢内村も不況と過疎の嵐に見舞われている。隣に座った湯田町会議長の 照井強吉さんや町長の細井洋行さんの話題も自然とその話になる。 ◆ 過疎の町や村にとってホテルや旅館が消えていくことは、人の流れの受け皿が無くな ることになる。まさに死活問題。沢内村の加藤昭男村長が隣にきて、「一月に閉鎖す ることになっていた東日本ハウスの銀河高原ホテルが存続することになりました」と 教えてくれた。これは朗報。 ◆ どぶろくの酔いが回った頃、湯田町の町会議員・家子勝也さんが腕によりをかけてソ バ打ちをしてくれていた冷たいソバが食卓に並んだ。心温まる交流会は、沢内村会副 議長の為田直助さんの一本締めでお開きとなったが、東北人が伝統的に持っている暖 かいもてなしは、時代を超えて続いている。 ◆ 世をあげて「都市化」に向かってひた走りの世相ですが、この農村文化だけは大切に 後の世代にバトンタッチしていきたいと心から思う。
大豆の葉摘み◆ 湯田町では、湯川の温泉宿に泊まる。私はホテルよりも鄙びた旅館が好きだ。何より も地場の山菜やおいしいお米とみそ汁でもてなしてくれる。教育長の繁さんが話相手 に同宿してくれる。 繁さんは売れっ子作家の高橋克彦さんの小父さん。雪の写真家・高橋喜平さんの親戚 だ。大きなグリグリとした目だが、その奥底に優しい温もりがキラリと光っている。 話題が豊富なので、話し込むと時のたつのも忘れてしまう。 ◆ 二本松市で在来線に乗った話をすると明日はほっと湯田駅から北上駅まで北上線の在 来線で出ようと話がすんなりまとまった。戦前はこの北上線の貨車で、木炭や建築木 材をひっきりなしに運んだそうな。いうなら都会の家庭エネルギーの供給源だったの が、この地方。 ◆ それが現在では過疎地の住民の貴重な足の役割に変わっておる。ジーゼル車は軽量な ので、風が強い日には鉄橋の前で一時停車し、風がおさまるのを待つことがあるとか。 東京では考えられない牧歌的な情景である。 ◆ 北陸で五年間の地方勤務を終えて、東京に戻った時に東京人の歩くテンポに合わなく て苦労したことがある。博多で三年間の勤務が終えて、東京に戻った時にも同じ経験 をした。前のめりになって、人の流れを縫って、セカセカ歩くテンポに慣れるのに一 ヶ月はかかった。
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東京に生まれ、東京で育った私だが、戦前の東京は違っていたと思う。山の手のお屋
敷街の静かな佇まいや、隅田川を中心とした下町には江戸情緒が残っていた。あれが
私が生まれた東京だった筈である。
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