時評「カジカのつぶやき」(2)
古沢 襄
平沢和重夫人からの手紙
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私が旅行中に平沢和重さん(故人)の夫人・朝子さんから二通の手紙が届いて
いた。岩手県沢内村の玉泉寺に建立されている「胸は祖国におき、眼は世界に
注ぐ」という平沢和重さんの碑文の由来について、現代史懇話会の雑誌に書い
たのだが、元参議院議員の国弘正雄さんがこれを読んで、朝子夫人にコピーを
届けてくれたという。
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それで矢もたても堪らなくなり、亡夫の故郷を十数年ぶりに訪ねてきたとあっ
た。十月中旬のことである。玉泉寺の全英和尚から私の住所を聞いて、「突然
のお便りをお赦るし下さいませ」という達筆の書き出しで、長文の手紙を頂い
た。平沢和重さんの碑の隣に建立されてある私の父と母の文学碑にも手を合わ
せて頂いた様子が記されてあった。
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「旅の途中、北上駅からほっと湯田に向かいます列車の窓からは、緩やかに蛇
行する和賀川の美しい流れが続きますし、沢内の豊かに濃い緑も昔のままの姿
を見せて呉れました」という情景描写は、年齢を感じさせないしっかりとした
筆使いである。
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平沢一家は太平洋戦争の末期に湯田村に疎開、沢内村と隣接する湯本に一時住
んでいる。幼い娘さんを背負って、自転車で朝子夫人は左草の親戚の農家に買
い出しをする毎日だったという。湯田町左草には和重さんの父親の姉さんが嫁
いでいた。佐々木キサさんという。朝子さんの顔をみるとキサさんは、台所の
揚げ板の下から蔵ってあった卵や野菜、お米を甥・和重さんの嫁さんに渡して
くれた。戦時中に疎開先であった風景である。
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信州に疎開した私の母も同じ様な買い出しの毎日だった。朝子夫人のように自
転車に乗れないので、重いリックサックを背負って、歩いて農家に買い出しに
行っていた。私たちの世代は、そうやって母の力で守られ、育ったものである。
まさに「母は強し!」である。
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この佐々木キサさんの一族に左草の旧家・佐々木家がある。左草は西和賀と秋
田を結ぶ街道の要衝の地で、風によって草が靡く情景から付けられた地名だと
いう。佐々木家も江戸時代に秋田から、この土地に移り、土着していた。
六月のある日、私は佐々木家を訪問した。
私の先祖の五代・善治は、佐々木家から妻を迎えている。陸中国湯田村佐々木
市右衛門伯母・クマがその人。文化十四年(1817)に生まれ、明治十一年
に六十二歳で没したと古沢家過去帳に出ていた。古沢家のルーツを求めていた
私は、思い立って佐々木家を訪問したわけである。
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玄関に私を出迎えてくれた佐々木保夫さんは、佐々木家の九代目。古沢家の十
代目になる私と百年の知己のようにうち解けて、尽きせぬ歴史談義で時間を忘
れて話し込んでしまった。佐々木保夫さんは、話の途中で平沢和重さんとも縁
があるとふっと語っていたのだが、朝子夫人の手紙でそれが裏付けられたこと
になる。縁を辿ると平沢和重さんと私の家は細い糸で繋がっていたわけだ。
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玉泉寺の境内に平沢和重さんの碑と古沢元・真喜の文学碑が並んで建立されて
いるのだが、縁(えにし)の不思議さをあらためて思い知った。世の中にはこ
ういう偶然があるものである。
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朝子夫人の手紙は、最近は自然の環境に心が惹かれると心境を述べて、「こん
なに自然に惹かれる自分は、多分、天然の素材に還える日が近いに相違ありま
せん」とさりげなく結んであった。心憎いばかりの達観ぶりである。恥ずかし
いのだが、私はまだ、その心境に達していない。
みちのく・雪の旅
みちのく・雪の旅
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東北新幹線で仙台、一関を過ぎても関東平野の風景と変わらない。それが北上
に近づくと一変した。一面が雪景色で、吹雪とまではいかないが、強い風で粉
雪が舞っていた。
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駅の改札口を出ると教育長の高橋繁さんと長老の佐々木吉男さんがわざわざ出
迎えにきて頂いていた。風が冷たい。「このあたりは平地だからたいしたこと
はないが、山間に入るともっと驚きますよ」と高橋さんは事もなげに言う。オ
ーバーの襟を立てた私はただ頷くしかなかった。
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「私も92歳になったが、紅葉の季節に大雪が降るのは、生まれて初めての経
験ですな!異常気象なのでしょうか」と吉男さんがつぶやく。そういえば、上
野駅をでる時に紅葉が見れるのをひそかに楽しみにしていた。奥羽山系の紅葉
は関東の紅葉とはひときわ違う趣がある。
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高橋さんが言った通り山間に入ると雪景色が一変する。目が眩むような崖ぷっ
ちを村の公用車がノロノロ運転で進む。眼下には和賀川が蛇行し、仙人峠の周
りは雪の帽子をかぶった森と化していた。
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「この雪では今夜の集まりは減るでしょう」というと「2,30人くらいにな
るかと思っていたら、何と80人も集まってくれます」。近隣の湯田町や沢内
村だけでなく、峠を越えて北上市や金ヶ崎町、遠野市に近い宮守村からも杜父
魚塾のお仲間が駆けつけてくれるという。杜父魚塾とは、町おこし・村おこし
の勉強会で、私が塾長をつとめるが、気心の知れた人たちと交わす一夜の盃が
楽しみの集まりである。
東京生まれで、故郷を持たない私にとって、湯煙があがる温泉場で、とりとめ
のない世間話に花を咲かせ、時間を忘れて話し込むこの集まりが、かけがえの
ない命の洗濯の場となって久しい。
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東北は、市町村合併の気運がようやく高まってきた。県庁や県地方振興局、市
町村など行政の取り組みが、前回に東北旅行をした時とはまるで違ってきた。
同時に市町村議会の動きも前向きで具体的になっている。合併は避けて通れな
いという共通認識が地域のリーダーに浸透してきたためであろう。
ただ、それが末端の地域住民にまでいき届いているか、というとそうとは思え
ない。これからヒト山もフタ山もあるのだろう。
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受け身の合併論議ではなく、リード役の行政が、合併を地域の振興策につなげ
る具体的な青写真を示す段階に入ったというのが、私の認識である。杜父魚塾
の仲間は、いずれも地域でのリーダー。沢内村を発祥の地として、ささやかな
旗をあげた杜父魚塾が、今では湯田町、北上市、金ヶ崎町、宮守村と広域化し
た存在になった。沢内村の北嶋村会議長が、懇親会に集まったメンバーをみて、
「杜父魚塾が合併の先取りをしてきましたな」としみじみ述懐していたのが、
すごく印象に残った。
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全国で進行している市町村合併をみると大きな地域に弱小の町村が吸収される
傾向が拭えない。その結果、合併はできたもの新しい市や町で新たな過密過疎
が生じる可能性を残している。吸収された地域で、新たな人口流出現象がおこ
り、ペンペン草が生えることになっては、何のための合併か、ということにな
る。
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杜父魚塾は、合併への通過駅あるいは二段階の合併構想を唱えてきた。一気に
大きな市に吸収合併されてしまうのではなく、弱小の町村の合併を先行させて、
一定の人口規模を確保し、地域の独自性を保ちながら、次の合併に備える考え
方である。
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寄らば大樹の陰でなく、小さな根を太くしていこうという思想でもある。そこ
で西和賀地区では湯田町と沢内村の合併を先行させて、将来の北上市との合併
に備える考え方が生まれた。一本の矢では弱いが、二本の矢、あるいは三本、
四本の矢を束ね、力をつけようという「弱者連合」のテストケースといえる。
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懇親会の場で、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんが、「宮守村では花
巻市との合併が俎上にあがっているが、むしろ東の遠野市との合併を先行させ
て、次の段階で花巻市との大型合併を目指す戦略が必要ではないか」と私見を
述べていた。私も賛成である。
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それと忘れてはならないのは、合併によって地域の歴史と文化を大切に遺すこ
とでなかろうか。効率性とか便利性だけににとらわれると大切な地方の文化遺
産が破壊される。政令指定都市を目指す「さいたま市」の特別区の名前が社会
問題になっているが、全国の合併市で「ひばりヶ丘」とか「自由が丘」という
恰好の良い名前を付けてしまうと歴史遺産が遮断されてしまう。
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私のように地方の歴史に興味を持っている者は、昔からの地名に拘りを持って
いる。苗字とか名字は、あらかた地名からきているので、古い地名こそ大切に
遺して後世に伝えるべきものだと考えている。そうでないと歴史の手がかりを
失うことになる。地域の歴史を大切にしない者には、合併を語る資格がないと
さえ思う。繰り返すようだが、合併論議の中で地名の問題は、ひときわ大切な
課題であることを心すべきである。
”山師”の義兄弟
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十一月になると義兄弟だった渡辺幸雄君のことが思い出される。養子にいって
高木姓になったが、私にとっては、大学時代の旧姓の方がぴったりくる。その
渡辺幸雄君がガンで倒れ、亡くなってから二年の歳月が過ぎ去った。
昭和二十六年のことだった。那須の山奥から彼が東京に出てきた。当時、渋谷
から玉川線で二つ目の大橋というところに私は下宿していた。早稲田大学に籍
を置いていたものの日中は小説らしきものを書いていて、夜になると新宿の西
口に出掛け、ウメ割り焼酎をあおる自堕落な毎日に沈殿していた。
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その下宿に渡辺幸雄君が転がり込んできた。彼が渡辺美智雄さんの従弟だと知
ったのは十年以上も後のことである。法政大学に籍を置いていたが、私の影響
で大学には通わずにもっぱら毎晩のように西口通いをすることになった。いい
飲み友達で、酔うと映画の助監督になるんだ、と那須弁まるだしでわめいてい
た。
渡辺幸雄君の父親は、渡辺美智雄さんのオヤジの実兄で那須の山林地主。温泉
の権利を持っていたが、戦後、間もない頃なので無一文同様の貧乏暮らし。い
わば”温泉山師”の子が渡辺幸雄君。
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かくいう私も祖父が東北の”鉱山山師”。山師の末裔が同じ下宿で起居するよ
うになったのだから、意気投合しないわけがない。「兄貴!兄貴」と渡辺幸雄
君に慕われて、いい気持ちになってアルバイトで稼いだゲル(お金)をはたい
て焼酎のハシゴ酒で青春を謳歌していた。毎晩のように義兄弟のかための盃を
交わして、目をギラギラさせながら、いっぱつ山を当てることばかり考えてい
た。
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私の小説勉強も動機は不純なものである。父と母が小説家のはしくれだったが、
それだけに小説家の貧乏暮らしが身に沁みていた。だから純文学の精進にまっ
しぐらに飛び込む気などさらさら無かった。だいたい雪隠(便所)の匂いがす
るような私小説は、はなから嫌いで芥川賞などは見向きもしなかった。今でも
井上友一郎の小説本は初版本だけで五十冊は持っているが、大衆小説を書きま
くる夢を抱いていた。要するに大衆小説でひと山当てる気でいたわけである。
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こんな動機不純の小説家志望が通るほど世間は甘いものではない。夢が破れて
ジャーナリストというサラリーマン生活に入り、定年を迎えたのは至極当然の
成り行きだったと思う。鉱山山師の末裔は山を当てられなかったわけである。
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渡辺幸雄君は違っていた。息子が助監督志望と知って、那須の山奥から上京し
てきたオヤジは、渡辺幸雄君を張り飛ばし、山師の稼業を継ぐよう説教をした。
言うことを聞かねば、送金を絶つと一喝されて、大学を卒業して郷里に戻るこ
とになった。
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それから”山師”の義兄弟には、十年余りの空白期間がある。新聞協会の会合
を那須でやった時に懇親会で那須芸者に「渡辺幸雄という人を知っているか」
と尋ねたら「高木幸雄という人は知っているが、姓が違うわね」と首を傾げて
いる。ためしに義姉の名前を出したら「その人は高木幸雄さんのお姉さんよ!」
という返事がかえってきた。
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那須芸者の仲立ちで翌日、高木幸雄さんの豪壮な那須別荘で義兄弟の再会とな
った。東京の山師の卵は、いまや北関東や東北で手広い別荘開発によって富を
築く大山師に化けていた。渡辺美智雄さんの従弟だということも、その時に知
った。
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山師でも渡辺幸雄さんは、一風変わっていた。オヤジから譲り受けた温泉の権
利だったが、那須山の頂上の温泉では、何の利用価値もない。せいぜい山小屋
を建てて、湯治客を待つだけの商売で終わってしまう。
そこで温泉を山裾の山林に引いてきて、温泉付きの別荘を売るアイデアを立て
た。今では至極当たり前のアイデアだが、敗戦の余燼が冷めやらぬ時代のこと
である。おまけに温泉の権利は、銀行の担保にはならないことが分かった。一
夜、考え抜いた末に知人の紹介で、第一勧業銀行合併の大立物の門を叩き、資
金の借り入れを強引に頼んだ。
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銀行からの借り入れは断れたが、渡辺幸雄さんのアイデアに惚れ込んだ大立物
氏は、自分のカネを貸してくれた。その代わり通常の金利の倍を吹っかけられ
た。それからが一世一代の勝負どころになる。
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突貫工事で山頂の温泉を引く一方で、オヤジの遺産の山林を分譲別荘に造成し、
道路を造り、井戸を掘って給水管を別荘地にめぐらす工事に入った。それから
がふるっている。高金利の借り入れなので、別荘販売を自力でやっていては、
完売まで時間がかかってしまう。支払う金利も馬鹿にならない。儲けが薄くな
るのを承知で、一括して大手の大京観光に売却して借入金をゼロにした。
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この方式は、その後、一貫している。別荘地の販売であこぎな儲けを狙うので
はなくて、別荘地に引いた温泉と水道の利用料で、将来長く収入を得ようとい
う長期戦略である。亡くなる直前には、北関東で7000カ所、東北で200
0カ所からあがる利用料は、年間十億円に達し、那須高原温泉株式会社は規模
は小さいながら優良企業にランクされるようになった。ただの山師ではなかっ
た。
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オイルショックの時のことである。手持ちの現金が数億円あったのだが、それ
を枕にして一年間寝てしまった。毎晩のように家の子郎党を引き連れて芸者遊
び。使った金は一億円に近くなった。「今、ジタバタしたら大損をする」と言
っていた。オイルショックが納まると一気に勝負に出て、多くの同業者が青息
吐息だったのを尻目に事業の拡大に突っ走った。そのあたりの動物的なカンは
並の山師ではなかった。
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「金を借りたら、返してはいけない」「金利が安い時には金を借りてはいけな
い」という名文句を、この頃吐いている。金利が高い時には経済が上向いてい
る時なので、借りられるだけ金を借りて、金利を上回る利益をあげれば良しと
する実戦経済に徹していた。最盛期には五十億円近い銀行借り入れがあって、
一億五千万円の金利を支払っていたが、年間十億円の売り上げがあって、それ
が渡辺方式で、ほぼ純利益に近かったから意に介する必要がなかった。金を借
りても金利さえ払っていればよいという考え方である。
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逆に超低金利になるとデフレ経済で、何をやっても空振りになる。その時はジ
タバタしないで、寝ているに限る・・・これも一つの経営哲学であろう。その
時は芸者遊びでもしながら、次の一手を模索する時期だと考えていた。今の中
小の経営者に聞かせたい経営哲学で、それを実践して成功した人物の言うこと
だけに説得力がある。
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愛すべき稚気があった。山師はもともとホラが付き物である。「兄貴、ジェッ
ト機を買うことにした。空からこれぞパリの灯りと言ってみたい」はご愛嬌で、
私も本気にしなかったが、「猪苗代湖にクルーザーを浮かべてある。これで沖
縄まで一緒にいかないか」には、騙された。
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ホラが気になって、那須高原温泉株式会社のことを帝国興信所で調べたことが
ある。何とAクラスの優良企業の太鼓判が押されていた。手堅い山師は、事業の
完結をみずに足早に冥界に駆け抜けていった。忘れられない人物である。