時評「カジカのつぶやき」(3)

古沢 襄


神楽坂・松が枝と岸信介

牛込の神楽坂には特別の思い入れがあります。私は小学校の一年から六年まで神楽坂近くの払方町に住んでおりました。夕方になると父と母に連れられて、神楽坂の散歩することが多かったからです。
裏道には芸者の置屋が立ち並び、乙な三味線の音色が聞こえました。勝新太郎は奥村君といい、小学校では六年間一緒でしたが、喧嘩好きの腕白者で、私はなるべく近寄らないようにしていましたが、この置屋街に住んでおりました。

戦後、昭和二十二年に疎開先の長野県から上京し、払方町や神楽坂を歩いたことがありますが、一面の焼け野原。神楽坂の高台から国電の飯田橋が見渡される変わり様でした。神楽坂名物の夜店を思い起こしながら、戦争の悲惨さをあらためて思ったものです。

政治部記者となり池田内閣当時に岸前総理が、親しい政治記者を神楽坂の料亭に招いてくれたことがあります。福田赳夫さんも一緒でした。そこが保守合同の舞台となった料亭「松が枝」でした。それ以来クリスマスの夜は、松が枝で岸前総理を囲む会が毎年行われるのが恒例となったものです。

保守合同の立て役者だった三木武吉も松が枝をよく使った一人です。昭和二十九年に吉田自由党に対抗する鳩山民主党が結成されましたが、岸と三木は民主党の結成以前から保守合同の構想を持ち、民主党幹事長だった岸信介は、「ヅルヘイ」こと松野鶴平を味方に引き入れる工作を行っています。「ヅルヘイ」は松野頼三さんのオヤジ。

保守合同によって自由民主党が誕生し衆院298議席、参院155議席の「五五年体制」ができたのですが、初代幹事長になった岸信介は、鳩山総裁と相談して、世話になった松野鶴平を運輸相に擬します。これが失敗でした。組閣が難航し、調停工作の鳩山・松野会談も不調。

松が枝で岸・三木会談が重ねられ、松野鶴平参院議長が実現して事なきを得ていますが、後になって岸幹事長が強力に参院議長に推薦して、世話になった義理を果たしたことが判ります。さらに岸内閣になって息子の松野頼三を労働大臣に登用しております。

松野鶴平は「人事の神様」といわれた実力者で、安保改定を視野に入れていた岸信介にとって欠かせない人物だったといいます。一時は松野を「政治指南役」に擬す構想も持ったのですが、岸派が増えるにつれて、台頭してきた実力者・川島正次郎の猛反対で潰れています。「川島君がうるさくてね」と岸はこぼしますが、後に川島は岸に反旗をひるがえして、池田・田中寄りになって福田赳夫と対立します。

岸信介というと赤坂の料亭を連想するのですが、ご本人は保守合同の裏舞台となった神楽坂の松が枝に特別の思い入れがあったといえます。
維新前夜に長州藩の浪士が、京都の料亭に屯して倒幕の策謀を練ったように長州っぽの岸信介は、盃を傾けながら来るべき安保改定に向けて秘かに不退転の決意を固めていたといえます。


大久保利通と岸信介

鹿児島を訪れると西郷隆盛を敬愛する人が多いのに較べて大久保利通が不評なことに驚かされます。長州の大村益次郎が西郷嫌いだったことは良く知られるところですが、征韓論を唱えた西郷が政争に敗れて郷里で挙兵し、城山で自刃して果てたことを思うと世界の大局に疎かった人物という評価を私などは下してしまいます。

一方、大久保利通は明治新政府の基礎を築いた業績を残していますが、暗殺者の凶刃に倒れています。公平にみて西郷と大久保では、大久保利通の方が、実質的に歴史的な業績を残していると思うのですが、鹿児島県人の受け止め方は違います。それが人気というものでしょう。

源頼朝と義経、徳川家康と豊臣秀吉・・・やはり庶民にとっては、派手な立ち回りをする人物に人気が集まります。福田赳夫と田中角栄も然り。生まれながらに絵になる人物と絵にならない人物が居ると思わねばなりません。
小沢一郎さんが大久保利通を高く評価しているそうですが、私にはその心情が何となく分かる気がします。

同じ様なことを思うのは、戦後政治史における岸信介の歴史的な評価です。大久保利通が今もって嫌われているように岸信介は、情け容赦のない権力者というイメージが増幅して語り継がれ、定着しています。
最近になって、岸信介が政治生命を賭した保守合同と安保改定が、戦後日本の安定と繁栄をもたらす基礎となったという再評価が出ていますが、地下の岸信介は「今更、評価して貰っても・・・」と苦笑していることでしょう。

岸信介という政治家に初めて接したのは、60年安保の前年の1959年ことでした。岸番記者として南平台の私邸に詰めたのですが、庭で盆栽いじりをしている岸信介をよく見かけ、これが革新官僚のホープといわれ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった東条首相と閣内で単身対決した男なのか、と興味を持ったものです。43年昔の話です。

長州っぽらしい熱血漢で、後進の面倒見の良い人物という前評判でしたが、私などは戦争拡大の指導層の一人でA級戦犯というイメージの方が強烈で、違和感を持っていたというのが正直なところです。岸信介という人物にあらためて興味を持ったのは、総理・総裁の座を下りて池田内閣時代に不遇の時を過ごした頃からです。

裸の岸信介は、よく語り、よく笑いました。弟の佐藤栄作が政界入りする時に「立候補するなら社会党から出ろ」と巣鴨の拘置所で勧めたのは、当の佐藤栄作の言葉ですから、間違いありません。既成の保守政治に飽きたらず社会党から西尾末広の民社党が生まれた時には、自民党と民社党の連合政権を模索しています。

不遇の時代には、御殿場の別邸に籠もりがちで、訪れる人も無くなりましたが、休日には必ずといって良いほど御殿場を訪れて、戦前・戦後の秘話を聴くのが私の楽しみでした。「歳をとったら、転ばない、風邪をひかない、義理を欠くことが長生きの秘訣でしゅよ」というのが口癖で、むしろ達観したところがありました。マスコミは昭和の妖怪と揶揄したのですが、私が接した岸信介は高齢になっても、なお現状変革に情熱の火を燃やす熱血漢でした。

アメリカでは、岸信介を戦後の最大級の日本宰相という評価が定着しております。日米同盟の基礎を作った人物というわけで、相対的に日本では人気がある田中角栄の評価が一顧だにされていないのは奇妙な現象です。
佐藤栄作、中曽根康弘よりもA級戦犯の岸信介が海の向こうでは死後も変わらぬ評価を保っているのをみると人気とは何か、を考えさせられます。


人気がある安倍官房副長官

安倍官房副長官の人気が昨年来、急上昇しています。祖父が岸元首相、オヤジが安倍晋太郎氏という政界サラブレットの血筋ですが、それを表に出さずに北朝鮮に拉致された被害者の立場にたって、真摯な対応を長年とってきたことから、絶大な信頼を得ていることが人気の原因です。

その一方で安保改定を強行した岸さんの孫ということからタカ派のイメージを持たれ、警戒する向きも少なくありません。今のところ人気があるものですから、面と向かって叩かれる場面に出くわしていませんが、官房長官や外相のポストにつくと一寸した言葉尻をとらわれて野党からアベ・パッシングを食うことが大ありです。

今の人気にあぐらをかいているといずれ痛い目に遭うのだろな、と人ごとながら懸念を持ちます。アベチャンにとって必要なことは、バランスのとれた政治感覚を磨くことでしょう。拉致被害者と接している様な人情味が溢れた謙虚な姿勢が、これからも持ち続けることができるのか、まだまだ雑巾がけをする位の気持ちが必要です。

あれほど人気があった田中真紀子さんが、議員辞職にまで追い込まれたのは、人気にあぐらをかいて、我が儘お嬢さんぶりを露呈したからです。人気があれば、あるほど頭をたれて、自らを持する謙虚さがあったら破局を迎えなかったと思います。

今のままでは次の選挙で当選しても政界の”女・一匹狼”で、相手にされないでしょう。目白の私邸に籠もって捲土重来を狙っている様ですが、田中角栄の娘という自負を捨て、我が儘お嬢さんぶりから脱皮する気持ちにならないと孤独な真紀子で終わります。

同じことは安倍官房副長官にもいえます。岸元首相の孫であり、安倍晋太郎の次男であるという政界サラブレットの自負を捨て去ることが先決です。安倍晋三は安倍晋三でしかありません。将来の総理候補と自惚れた時に破綻が始まります。

岸夫人は人前に姿をみせない人でしたので、私もよく知らないのですが、安倍晋太郎夫人になった洋子さんは、出っ歯の岸さんの娘とは思えない凛とした美形でした。おっとりとした風情で、横顔は岸さんそっくりでしたが、見惚れるくらいの上品な顔立ちが印象深く残ります。安倍官房副長官は、この母の影響もあって、大らかに育てられています。

考えてみれば、洋子さんの叔父の当たる佐藤元首相は、政界団十郎の名をとった美丈夫です。洋子さんが美形であっても不思議ではありません。総理官邸の床屋の秘話ですが、佐藤さんも昔は出っ歯だったとか。差し歯にしたら、良い男っぷりになってびっくりしたそうです。「岸さんも差し歯にすれば、もう少し人気が出るのだろうに・・・」というのが床屋の弁。もう四〇年以上も昔の話です。