戦後政治の一系譜

古沢 襄


岸・福田・安倍・森・小泉の路線

このところ安倍晋三官房副長官の人気が急上昇気味で、テレビや新聞でモテモテぶりが目立つ。祖父が岸信介元首相、オヤジが安倍晋太郎という政界サラブレットの血筋だが、それよりもオヤジの外相秘書官当時から、北朝鮮に拉致された被害者の立場にたってきた真摯な対応ぶりが、今になって高い評価となってかえってきたといえる。政治家としては未知数。むしろ安保改定を強行した岸の孫ということからタカ派のイメージを持たれているので警戒する向きも少なくない。

これから官房長官や外相の枢要なポストにつくようになると一寸した言葉尻をとられて野党からアベ・パッシングを食うことが大ありと私は思っている。
人気というのは、ある日、突然に風向きが変わるものである。
あれほど人気があった田中真紀子が、議員辞職にまで追い込まれたのは、人気にあぐらをかいて、我が儘お嬢さんぶりを露呈したからだ。人気があれば、あるほど自らを持する謙虚さがあったら、真紀子が破局を迎えることはなかったと思う。
次の選挙で真紀子の当選がほぼ確実視されているが、今のままでは政界の”女・一匹狼”で終わってしまうのではないだろうか。田中角栄元首相の一人娘で、物怖じしないキャラクターの持ち主だっただけに政界に一人ぐらい彼女の様な変わり種がいても良いではないか、と思っているのだが・・・。

同じことは安倍官房副長官にもいえる。岸の孫であり、安倍晋太郎の次男という政界サラブレットの自負をまず捨て去ることが先決で、将来の総理・総裁候補とおだてられ、自惚れた時に破綻が始まる。
もっとも岸の娘で晋太郎夫人となった洋子は、息子の安倍官房副長官を大らかに育てている。オヤジも政界の手練手管にはまったくダメな方だったが、息子もその血をひいていて何か超然としたところが抜けない。大野伴睦や河野一郎を手玉にとった岸のDNAはまだみえてこない。魑魅魍魎が跋扈する政界で果たして生き残っていけるのだろうか。

安倍官房副長官のことで付言しておきたいのは、北の王者だった安倍一族の末裔だと東北では信じられていることである。とくに岩手県の中部地区は、安倍伝説の宝庫。「原姓安倍氏・豊間根家の栞」(石至下史談会資料)の古文書には、前九年役で滅亡した安倍氏について「三男宗任、五男正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦と伊予国桑村へ流罪、宗任は後に宗像郡大島で生涯を閉じ、地元の安昌院に眠る。享年七十七歳」とあるが、その宗任の末裔が亡き安倍晋太郎で、子息の晋三は父の跡を継ぎ衆院議員として奔走していると古文書の紹介文に記されている。

安倍貞任は猛将だったが、宗任は知将で知られ、その才幹を惜しんだ源義家が一命を助けて配下に置いたことは、平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されている。鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」とも出ている。元寇の役で活躍した水軍の松浦(まつら)党は、宗任の末裔。
宗任の様にしたたかな知将として生き延びることが出来るのか、一匹狼のタカ派で終わるのか、安倍官房副長官のこれからの成長にすべてが懸かっている。


保守合同・安保改定で燃え尽きた岸

最近になって岸が政治生命を賭けた保守合同と安保条約の改定を再評価する声を聞くようになった。戦後日本の繁栄は、この土台の上に築かれたという評価である。
戦後政治を検証する時に「保守本流」意識という言葉が用いられる。吉田茂首相の愛弟子だった佐藤栄作、池田勇人ら吉田自由党の流れが本流であって、保守合同の相方であった鳩山一郎の民主党系を意識的に傍流とする考え方である。この区分けからは、岸信介、河野一郎、福田赳夫、三木武夫、中曽根康弘らは傍流として括られる。この傾向は角福戦争で田中角栄が勝利者となり、田中政治の正当性を高めるために好んで用いられた。吉田自由党の本流は田中であって、傍流の福田ではないという位置づけである。さらに田中退陣後も久しく闇将軍として「田中支配」が続くに及んでこの用語が定着した観がある。

話は変わるが、東京・牛込の神楽坂には特別の思い入れがある。私は小学校の六年間を神楽坂近くの払方町で過ごした。家の前には日暦作家の古賀菊治が住んでいた。夕方になると父と母に連れられて、神楽坂を散歩することが多かった。
裏道には芸者の置屋が立ち並び、乙な三味線の音色が聞こえてきた。薄暗い置屋街を通り抜けると神楽坂の夜店の灯りがそこはかとない情緒をかもしだす。ビルが立ち並ぶ戦後の東京とは違う風景が戦前にはあった。

政治部記者となって池田内閣当時のことになるが、岸が親しい政治記者を神楽坂の料亭に招いてくれたことがある。福田赳夫も顔を出して、初めてまじまじと福田の顔をみたが、第一印象は「貧相なひょうたん顔」でしかなかった。これが池田内閣に真っ向から対決していた党風刷新連盟の総帥なのかと意外な感じを持ったことだけは確かである。
その料亭が保守合同の舞台裏となった料亭「松が枝」。神楽坂近くで育った私だが、初めて二階にあがって、岸が語る保守合同の裏話に興味を惹かれ、昔を思い出す余裕もなかった。それ以来クリスマスの夜になると「松が枝」で岸を囲む親しい記者との会が恒例のように毎年行われた。

保守合同の立て役者だった三木武吉も「松が枝」をよく使った一人だった。昭和二十九年に吉田自由党に対抗する鳩山民主党が結成され、岸、三木の二人は民主党の結成以前から保守合同の構想を「松が枝」で語り合っている。
この時に民主党幹事長だった岸は、「人事の神様」といわれた実力者・松野鶴平を味方に引き入れようと腐心している。
やがて保守合同がなり、自由民主党が誕生して、衆院298議席、参院155議席の「五五年体制」ができたのだが、初代幹事長になった岸は、鳩山一郎総裁と相談して、世話になった松野鶴平の処遇を考えている。岸は「松野参院議長」を考えたが、参議院側の事情もあって、鳩山・松野会談では運輸相のポストを提示し、見事に蹴られてしまった。結局は松野参院議長で落着したのだが、これが縁になって岸・松野の太いパイプが出来るようになる。岸内閣になって息子の松野頼三を労働大臣に登用するなど岸の松野鶴平に対する気配りはかなりのものであった。

岸は一時、松野鶴平を自分の「政治指南役」に擬す入れ込み方だったが、岸派の中で台頭してきた川島正次郎の猛反対で潰れている。すでに安保条約の改定を視野に入れていた岸にとって参議院対策のうえからも松野鶴平が欠かせない存在になっていた。「川島君がうるさくてね」とこぼしていた岸は波乱の安保国会を川島幹事長で乗り切ったが、この頃から川島と岸、福田の関係は疎遠となり、やがて川島は岸に反旗をひるがえし、池田寄りになって福田と対立したのは、しばらく後のことになる。岸派の跡目を福田にした反撥があるともいわれた。

岸というとマスコミは、赤坂の料亭政治を連想するのだが、実は保守合同の裏舞台となった神楽坂の「松が枝」の方に特別の思い入れがあった。維新前夜に長州藩士が京都の料亭に屯して倒幕の策謀を練ったように長州っぽの岸は、一人で盃を傾けながら来るべき安保改定に向けて秘かに不退転の決意を固めていたという。


岸退陣を諫言した二人の政治記者

私が初めて岸信介という政治家に接したのは、六〇年安保の前年の一九五九年ことで、岸番記者として南平台の私邸に詰めたのがきっかけである。庭で盆栽いじりをしている岸をよく見かけたが、これが戦前の革新官僚のホープといわれ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった東条首相と閣議で単身対決した男なのか、と興味を持ったものである。あれから四十三年の歳月が去った。

長州っぽらしい熱血漢で、若い後進の面倒見の良い人物という前評判を聞いていたが、私などは戦争拡大の指導層の一人でA級戦犯というイメージが強烈で、何となく違和感を持っていたというのが正直なところだ。
岸信介という人物像にあらためて興味を持ったのは、総理・総裁の座を下りた池田内閣時代に東京を離れて御殿場で不遇の時を過ごしていた頃からだ。
裸の岸は、よく語り、よく笑った。弟の佐藤栄作が政界入りする時に巣鴨の拘置所にきたので「立候補するなら社会党から出ろ」と勧めたのは、奇怪な話の様に思われるが既成の保守政治に飽きたらない革新派らしい発想である。だから西尾末広の民社党が生まれた時には、自民党と民社党の連合政権を模索している。警職法や安保改定の印象が強烈なので超タカ派のイメージが定着しているが、内政面では「最低賃金制」や「国民年金制度」など社会保障制度を岸内閣の手で創設している。このことを知る人も少なくなった。

晩年の岸は御殿場の別邸に籠もりがちで訪れる人も少なくなったが、私が顔を出すと「歳をとったら転ばない、風邪をひかない、義理を欠く三つが長生きするの秘訣でしゅよ」とよく冗談をいった。安保改定を果たしたことで自分の役割が終わったと達観している様子だった。

六〇年安保騒動で世間には知られていない秘話がある。岸が退陣を決意したのはかなり早い時期だった。国会デモが警官隊と衝突して東大の女子学生が圧死する不幸な事件が発生したが、その夜、岸は総理官邸に秘かに数人の側近を集めて対応策を協議している。六月十五日のことである。弟の佐藤、政権を譲るつもりでいた池田、防衛庁長官だった岸派の赤城宗徳、官房長官の椎名悦三郎、それに娘婿の安倍晋太郎。興味があるのは、SとOの二人の政治記者が呼ばれていた。安倍は元毎日新聞の政治記者、SとOは安倍の盟友で岸側近記者といわれていた。

怒濤のような国会デモは警察機動隊の手に余る状態になっていたのは、誰の目にも明らかであった。佐藤と池田は自衛隊の出動によって鎮圧する強硬論を吐いている。低姿勢内閣を看板にする池田が、この時に強硬論だったのは知られていない。これに真っ向から反対したのは赤城だったが、意見が真っ二つに割れたのをみてとった岸はSとOに意見を求めている。岸は自ら退陣することによって事態を収拾する決意を秘かに固めていた。
SとOはこもごも「総理が退陣することによって事態を収拾する以外に道はない」といったのだが、佐藤と池田は「何をいうか」と血相を変えてSとOに詰め寄っている。それを引き取った岸は「自分の腹は決まっている」といって話を打ち切っている。

この会合は厳重に秘匿することでお開きとなったのだが、数日たって副総裁の大野伴睦が「岸は退陣を決意したらしい」と早耳で聞きつけている。しかし確証を得ていない。大野は岸からの政権禅譲を期待していた一人である。SとOはすでに故人となったが一介の政治記者が佐藤と池田という実力者と渡り合ったのは、岸の決意を察知してのことであったのだろう。安保改定で岸はすでに燃え尽きていたといえる。新安保条約の批准書交換を終えた二十三日に岸内閣は総辞職、国会デモは潮が引くように消えた。

御殿場にひき籠もった岸だったが、アメリカの共和党筋には太いパイプを持っていた。ニクソン大統領との交友が有名だが、CIAからも情報が絶えず入っていた。私は岸からアメリカの最新情報をオフレコで聞かされ、それがニュースに出来ないもどかしさを何度か経験している。
そのアメリカでは田中角栄の評価は低いが、佐藤栄作や中曽根康弘よりもA級戦犯だった岸の評価が今もって高いのは、日米同盟を築いた功労者という位置づけをしているためであろう。アメリカの高い評価に反比例して、日本の岸に対する評価は低いまま今日に至っている。「昭和の妖怪」「巣鴨プリズンのA級戦犯」のレッテルがそれである。

求めたのは精神的な自立


岸退陣を諫言した二人の政治記者

最近になって岸再評価がいわれ出したのは、保守本流意識を強烈に持っていた田中支配が崩れ、さらに旧田中派の流れである経世会が力を失ってきたことと無縁ではあるまい。このところ森喜朗、小泉純一郎と二代にわたって続いた政権は、傍流である福田赳夫の愛弟子である。本流とか傍流という区分けは”死語”になって、今では無意味だが、田中支配の時代には、まさに錦の御旗だったわけである。

岸が後事を託したのは福田だったが、戦前の商工省時代からの名コンビだった椎名悦三郎でもなく財界から三顧の礼を尽くして政界に迎い入れた藤山愛一郎でもなかったのは、池田内閣を短命政権とみて、弟の佐藤栄作による本格政権を描いていたためである。
佐藤政権を福田が支え、やがては自分の目が黒いうちに福田内閣を実現するつもりであった。岸の頭の中には占領下で自信を喪失した日本人のエスプリ(精神)を取り戻すことがあった。不平等といわれた安保条約の改定にもその視点がある。A級戦犯だった自分がその旗をふると戦前への逆コースという批判を浴びるので、佐藤、福田にバトンタッチする道を選んでいる。しかし、田中角栄という岸にすれば”鬼っ子”の政権が誕生し、それが長らく日本の支配構造を握ったのだから目算が曲ってしまった。晩年の岸は憤懣やる方がないものがあったといえる。佐藤に対する不満も隠さなかった。

まして政治生命をかけて保守合同、安保改定に取り組んだ岸のお陰で世界第二の経済大国への道が開けたという再評価については、「それは少し違う」と墓場に下で岸は首を傾げる様な気がしてならない。求めたのは物質的な豊かさではなくて、精神的な自立だったと思うからである。
(註)改定前の日米安保条約は占領下に作られたので、一方的な片務条約であった。これを日米間の相互防衛、対等の双務条約にすることが改定の狙いである。具体的には在日米軍の配置や行動について政府間で事前協議の対象とすること、日本の内乱に在日米軍が出動する条項の削除、条約の期限を十年とし、それ以後はどちらかの通告によって一年以内に失効とするのが主な点。それのひき換えに在日米軍は日本以外の「極東地域」の防衛にも当たれる条項が付けられた。アメリカは改定に消極的だったが、一年三ヶ月間の交渉で改定に応じ、一九六〇年一月一九日に両国がワシントンで妥結、調印をみている。


カネとモノ政治に立ちふさがった福田

福田赳夫というと池田内閣の看板だった高度経済成長施策の批判者として安定経済成長政策を掲げ、田中内閣の目玉であった日本列島改造計画に対しては「カネとモノの政治」 と終始追及の手を緩めなかった印象が強く残る。角福戦争は経済政策論争の形をとっているが、根底にはカネ・モノよりも”心の豊かさ”を重視しようというという精神論が福田の基調となっている。人間がカネとモノに執着すれば、相対的に心が貧しくなるという帰結を政治哲学の基本に据えて、池田、田中の前に立ちふさがったのである。

六〇年安保騒動で国論を二分した傷痕を癒すためには、政治主義の岸政治から経済主義を旗印にして豊かさを求める高度経済成長施策を池田内閣が掲げたのは、まだ貧しさの中にあった国民の琴線に触れるものがあった。
トイレ、バスなしの六畳一間で世帯を持ち、夜はサントリーの角ビンを横目でみながら、トリス・バーやニッカー・バーでハシゴ酒をしていた時代である。貧しくても心の豊かな社会といわれても国民の大多数は、やはり今よりも少しでも豊かな生活の方に魅力を感じていた。2DKの団地が庶民にとってまだ高嶺の花だった頃のことである。
豊かさを求める池田路線に対して福田は最初から強烈な批判者として名乗りをあげているが、それが庶民の共感を得るのには、まだしばらく時間が必要であった。物質的な豊かさを求めて世界第二の経済大国になり一億総中流意識を持った時代になったのに教育現場が荒廃し、青少年犯罪が激増する思ってもみなかった社会的な危機状況に日本は直面した。何か大切なものを忘れていた、それは心の豊かさを追求してこなかったことではないか、と国民が考える様になって福田が唱えた”心の政治”が実感をもって迫ってきた。

池田内閣の末期になると過剰設備投資、中小企業の倒産が出るようになって過熱した成長政策の弊害が、池田内閣の中枢にあった前尾繁三郎、宮沢喜一などから問題意識として指摘され出した。池田首相の信頼が厚い前尾は幹事長として内閣の屋台骨を支えたが、前尾からは福田の考え方に対するあからさまな反撥、苦情が聞かれなかった。二人は大蔵省の同期入省ということもあったかもしれないが、バランス論者だった前尾は池田の成長政策を支持する一方で、高度成長のアクセルを緩め、むしろブレーキを軽く踏む必要性を痛感していた。

この点は前尾を池田の唯一の後継者と早くから目していた宮沢も同じスタンスをとっている。福田と前尾、宮沢の間には一脈通じるものがあったと思う。違いは、福田が経済政策論にとどまらず精神の自立論を色濃く持っていたことである。この意味では福田はまさしく岸の後継者であった。これに対して前尾は岸の強権的な側面を批判し、穏やかなニューライト路線を唱えている。対立よりも宥和を身上とした。手法の違いともいえるが、半面、権力に対する執着心が稀薄な前尾の性格が出ている。それが熾烈な権力争奪の気迫に欠けるという前尾の弱さを露呈したことは否めない。

路線からいえば池田の高度成長政策は、佐藤派の田中角栄にストレートに継承され、日本列島改造論に装いを変えて登場することになったとみるべきである。その繋ぎ役になったのが大平正芳。池田内閣当時には田中(蔵相)と大平(官房長官)の力関係は、大平が上位にあって「大平・田中盟友」と称されていた。ともにニューリーダーを意識していたが、大平は田中と結び、まず大平政権を秘かに描いていた。二人の関係が逆転したのは、佐藤内閣になってからの後である。いずれにしても前尾・宮沢と大平の間には微妙なズレが生じ、池田の死後、前尾派内の主導権争いが顕在化する。

池田から佐藤に政権が移って、経済財政政策は福田が取り仕切った。これによって安定経済成長路線が始動し、過熱気味の日本経済にブレーキがかかった。まさに福田時代が到来したかにみえた。しかし自民党の支持層は減り続ける。工業立国、輸出立国を目指した池田の高度経済政策は、農村の若年労働者を太平洋ベルト地帯に集中し、都市集中型の社会に大きく変化していた。農村はカーチャン、ジイチャン、バアチャンの三チャン農業といわれる様に過疎化が深刻になってくる。自民党の支持母体が崩れ、この構造変化は福田の手をもってしても押しとどめることが不可能になっていた。

新しい保守の理念が求められたが、有効な手立てがないまま佐藤内閣末期には国民の支持率が低下し、むしろ閉塞感に包まれいた。危機意識が自民党の中に生まれ、ダイナミックな政策転換を求める動きが当の佐藤派の中から出てきた。福田を後継者とみていた佐藤の下で雌伏していた田中角栄の出番の条件が熟してきたといえる。


禅譲を信じた福田の甘さ

福田は佐藤からの政権禅譲に期待した。佐藤三選がなかったら、その可能性があったのかもしれないと、私の同僚だった西村恭輔は回顧している。西村は共同通信社政治部から福田の秘書官になり、前尾を担当していた私が西村の後を受けて福田担当になったいきさつがある。前尾のところに挨拶にいった時には、池田と激しく対立していた福田担当になるので内心忸怩たるものがあったが、「福田君とは仲がいいんだよ」と打ち明けられて拍子抜けした記憶が鮮明である。

西村がいう「佐藤三選がなかったら」は水面下で動きがあった。前尾が福田に協力する姿勢をみせていたからである。前尾にとっては、派内で前尾おろしを画策していた大平を封じる必要性があった。田中・大平の盟友関係は池田内閣から続いていたが、福田は田中を意識し、前尾は大平を警戒する事情があった。だが福田は愚直に動かなかった。あくまで佐藤からの政権禅譲を信じていたからである。傍目にも福田の愚直ぶりがもどかしかった私は、野沢の福田邸で福田派議員や福田担当記者を背にして、福田の甘さを詰め寄ったことがある。福田から返ってきた言葉は「フルチャンのために政治をやっているのではない」だった。今から思えば若気の勇み足であったと思う。

振り替えれば、三選に続く四選によって佐藤の派内に対する支配力が衰えをみせたのは否定できない。田中はこの機を逃さなかった。力で佐藤から政権を簒奪する挙に出て、見事に成功している。同時にこの簒奪方式が田中から竹下への政権樹立にも使われたのは、皮肉な因果応報ともいえる。福田は間違いなく田中にやられると予感した私は、新天地を求めて富山支局長に転出した。一年半の短い任期だったが、この間、福田は二度、富山にきてくれている。政権奪取の意欲が少しも衰えていない福田の執念に触れていつしか私の血が騒いだものである。福田を追いかける様にして園田直も富山に遊びにきてくれた。

田中内閣の成立を氷見ロータリークラブの講演に向かう車中で聞くことになるが、その夜は福田の顔がちらついて寝付かれなかった。間もなく金沢総局長に転じて北陸勤務は都合五年間となったが、本社に帰任した夜、福田夫人から電話がかかってきた。「主人が古沢さんに会いたいといっているわよ」。それが外野から政界にタッチするきっかけになって今日に至っている。

角福戦争の第一ラウンドは田中の勝利で決着して、福田は池田時代よりも激しい批判者となって雌伏する。アメリカ発のロッキード事件がなかったら福田は雌伏のまま終わっていたのかもしれない。田中が打ち出した日本列島改造計画は、日本の北から南まで全国新幹線網と高速自動車道路で網に目の様に結び、大都市と地方の時間差を解消するという画期的な構想であった。日本全土で建設工事ラッシュとなり土地価格が高騰して国民資産が毎年増える好況を呈した。輸出も急増してその影響で日米経済摩擦が深刻化してくる。

日本経済が過熱し、土地価格の高騰が異常なバブル状態を迎えてもコンピューター付きのブルドザーはアクセルを踏み続けた。田中は全体のパイが大きくなれば、そこに過熱の矛盾が吸収されるという拡大生産方式が信じていた。ダイナミックな田中路線の前には福田の安定経済成長政策に基づくブレーキ論は、色褪せてみえたのは仕方あるまい。ロッキード事件で田中退陣後、三木武夫が総理の座についたが、三木おろしの党内抗争後、福田は念願の総理の座についた。しかし昭和五十三年の総裁公選で田中・大平連合軍に敗れ、無念の退陣を余儀なくされた。

これ以降、田中は膨張した田中派の数の力を背景に闇将軍として君臨し続け、田中支配の内閣を作り続けた。福田にとって雌伏の日が再び訪れる。派閥も安倍晋太郎に譲り、自らは水戸黄門と称して、OBサミットの創設に関わり、日本の首相経験者として各国首脳との交流を深めた。これは岸の発想ともいわれる。注目されるのは、後に総理となる森喜朗(第一回ウイーン総会)、小泉純一郎(第三回パリ総会)を福田は同行し、世界の指導者と顔合わせをさせていることである。福田の愛弟子といわれた森はカネとモノ重視から教育重視の政治の志向し小泉は経世会支配の構造打破の影響を色濃く受け継いでいる。

アクセルを踏み続けた田中政治の帰結としてバブル崩壊後、長引く不況の波に日本は洗われる様になる。バブルの山が高かっただけに不況の谷は深い。福田が唱えた抑制された成長政策に早めに転じていたら山は低かったかもしてないが、谷はこれほど深くなかったと思う。新しい問題は、深い谷の中でブレーキを踏み続けると縮小均衡経済に陥る危険性があることだ。小泉内閣はまさにこの課題に直面している。アクセルとブレーキはほど良く踏むことによって、日本経済という車が前に進む理屈であろう。角福戦争は、この常識論を押し流して、権力闘争と化した面があることを否定し得ない。


角福戦争を脱する安部と森の模索

安倍晋太郎は角福戦争を脱した「安・竹連合」を模索した。福田の轍を踏むまいと考えたフシがある。竹下登にしてやられた面は否めないが、田中、福田を乗り越えた路線を志向したことは間違いない。しかし圧倒的な数を誇る竹下派の前では、竹下の協力を欠いた安倍政権は砂上の楼閣である。これは形を変えた田中支配の延長、竹下支配の政権となる運命を内包していた。帰京した私は赤坂プリンスホテルの福田の部屋を訪れる機会が多くなったが、意識的に安倍を避けたものである。安竹政権志向に何か割り切れない疑問を持っていたからである。安倍は不幸にして政権を目前にして、この世を去った。安倍の盟友だったSとOも後を追うようにして亡くなった。Sの葬儀は生前の華やかさとは較べものにならないひっそりとしたものだったが、最前列に安倍夫人の洋子が座っていて、その横顔が岸の生き写しだったのに息を呑んだものである。

小渕首相の急死によって橋本派の支持によって誕生した森内閣は、皮肉なことに安倍が目論んだ角福戦争を脱した政権の性格を帯びている。橋本派の協力がなければ、森内閣は砂上の楼閣になることを森が認識していたからである。
森が無所属で当選し、福田派の一員となった時に赤坂プリンスホテルで福田に森を紹介されて以来、交友関係が続いている私は、森内閣の誕生に当たって二つのことをいった。一つは橋本派の協力を失えば森政権は砂上の楼閣になること。もう一つは小渕の遺言となった沖縄サミットと不況対策のメドがついたら、福田の意志を継いで教育問題を政策課題の中心に据えることである。森はもともと文教族である。

少し遡るが、細川内閣の出現によって自民党が野党に転落した時に森は河野総裁を支える幹事長になっている。私は幹事長の森に「寄せ集めの細川政権は意外と脆い集団だから細川は半年、多分、羽田になると思うが羽田三ヶ月と思って、短い野党時代に思い切った自民党の脱皮を図るべきだ」と忠告した。そして「河野に代わる自民党の新しい星として、国連高等弁務官の緒方貞子を口説いたらどうだろう」と提案したことがある。突飛な思いつきの様だが日本の顔として「和製サッチャー」の出現を期待していたからである。森は「ウーン」といって押し黙ってしまったが、無理な注文なことは承知していた。幹事長の立場で、総裁の河野おろしをするわけにいかないだろうし、当の緒方だって固持した可能性が強い。

緒方総裁が一足飛びに実現できないまでも村山内閣で河野外相でなく緒方外相が誕生していたら、その後の自民党はかなりのイメージチェンジと脱皮ができていたであろう。少なくとも田中真紀子の外相は無かった。案外、小渕後に日本初の女性総理が誕生していたかもしれない。森はナンバー・ツーとして緒方の支えに徹し、むしろ「陰の総理」として政界で隠然たる力を発揮できたと思っている。これによって角福戦争から脱した新しい政治のページを開くことができた筈だと思っているのだが・・・。


江田に似た小泉手法

小泉内閣の成立は政党政治の常識をうち破る手法をとっている。古くは江田三郎が社会党の主導権を握るために党を越えた国民大衆の支持を集める方式を志向した。五万人の限られた党員組織は戦前からの労農派・左派が強く、大胆な右傾化路線の江田は苦杯をなめてきた。それを打破するために理論面ではイタリア共産党仕込みの構造改革路線を掲げ、労農派と鋭く対決した。江田ブレ−ンに代々木脱党派が多かったのはそのためである。

国民世論はむしろ江田ビジョンを好意的に受けとめたが、社会党という限られた集団組織の中では少数派であった。党内抗争に敗れた江田は社会党を離れ、憤死している。抗争に勝ったかにみえた左派路線も社会党の長期低落傾向を押しとどめることができなかった。小さなコップの中の争いは、結局、共倒れに終わって、社会党の歴史に終止符をうつことになった。しかし江田の現実路線が旧社会党の右派に継承されて、今日でも民主党内に命脈を保っている。

江田が描いた新しい政治地図は、自民党内の三木・松村派、改進党系、河野洋平グループと手を結び、旧体質の社会党左派を斬り捨てた国民政党を志向していたといえる。今の民主党とよく似た政党である。しかし六〇年安保から七〇年安保にかけての保革対決の時代にあっては、江田構想はまだ機が熟していなかったといわざるを得ない。

この路線は社会党内の主導権争いの枠から越えて、意識する、しないに拘わらず古くて新しい命題である「保守二党論」の水域にまで、結果として足を踏み入れようとした点を指摘しておきたい。
保守合同の時代にまで遡るが、強力な保守新党の樹立を目指した岸に対して、松村謙三は保守二大政党による政権交代の構想を掲げて対立している。これは改進党主流の基本理念でもある。江田は右傾化と呼ばれることを厭わなかったのは、進歩的保守主義との合流を視野に入れていたからである。
三木武夫もこの延長線上にあった。後に三木内閣が誕生した時に大物秘書官として擬せられたこともある内田健三は、この時代の江田に少なからず影響を与えている。熊本県人の内田は細川内閣の誕生に当たっても、ブレーン役とを演じたが、熱心な保守二党論者でもある。


岸退陣を諫言した二人の政治記者政権維持のために経世会の力を削ぐ

小泉首相の手法をみると江田のそれとと類似した面がある。自民党と社会党という違いはあるが、党の既成秩序を壊し、国民支持率を背景に党外の政治勢力を加えた新しい政治地図を描いている点は、まさに同じ手口である。いずれも党内の猛烈な反撥を招いている点でも似ている。
しかし、江田が「保守二党論」の水域にまで足を踏み入れようとしていたのに比較すると小泉はその点が明確でない。手法は類似していて、保守二党制度を意識している様にもみえるが、どうも目指すものが違う気がする。そもそも小泉が最大派閥である橋本派・経世会と対立する様になったのは、森内閣を支えた時に、野中幹事長やそれと気脈を通じた公明党から揺さぶりをかけられた苦い経験が根っこのところに残っているからである。野中に対する拭いがたい不信感が消えない。結局は保守二党論ではなくて、経世会に対する脅しの域を出ていないと感ずるのは間違っているだろうか。

経世会などを「抵抗勢力」と名指しで攻撃しているのに較べると小泉と公明党との関係は一時ほど悪くはない。公明党の野中離れが目立ち、森、小泉ら政権側に接近が目立つようになっている。参議院で自民党が劣勢に立っているので、小泉の方も公明党の支持を欠いては政権維持ができないことを覚った様である。同じ経世会でも青木参院幹事長の言うことには耳を傾けて、野中に対する頑な態度とは違いをみせている。
基本的に小泉のスタンスは政権維持のために経世会の力を削ぐことが大前提となっっている。「自民党をぶち壊す」という台詞はそこから発している。経世会を牽制するために、あえて民主党の保守系に秋波すら送ってきた。景気回復を先行させるべきとする経世会の提言に対して頑なに「構造改革なくして景気回復なし」と突っぱねる理由はそこにある。野中と青木に対する姿勢の違いも見方によっては経世会の分断策ととれなくもない。


日中から日ロ外交に傾斜

「攻撃は強いが守りは弱い」が私の小泉評。攻撃を最大の防御と信じているフシがある。野中に対する姿勢は明らかに攻撃型である。しかし、野中と青木が小泉批判で足並みを揃えたら守りの弱さを露呈してしまう。兄貴分の森が懸念しているのはその点であろう。森も小泉も福田の影響を色濃く受けているが、岸からの直接の影響が比較的稀薄な点でも似通っている。福田を介した岸しか知らないといえる。あるとすれば、外交政策で経世会が重視した中国よりもロシア外交に傾斜する傾向が目立つ点である。岸も福田も蒋介石の台湾派。森も小泉も台湾派ではないがその代わりロシア外交にウエートを置いている。

岸は晩年に二一世紀における石油外交を唱えている。尖閣列島を中心とした東支那海に中東を上回る埋蔵石油があることを早くから指摘し、これが掘削できれば将来の日本は世界の石油大国になる夢のような可能性まで示唆している。台湾重視の政策は尖閣列島から海上のパイプラインを台湾に敷設する構想と無縁ではあるまい。実際にはアメリカの技術力をもってしても、世界最深のエムデン海溝に連なる東支那海の海底油田を掘削することは困難な技ではあるのだが・・・。だから岸の話は夢の石油大国と割り切った茶飲み話の域を出ていない。

岸のこの発想は、日米同盟は安保改定によって基礎が固まったので、これからの日本は石油をいかに安定的に確保するか、その視点に立った資源外交が念頭にあった。この延長線上には、サウジアラビアに次ぐ原油埋蔵量を持つロシアが現在では浮上してくる。

福田は田中の遺言ともいうべき日中平和友好条約の締結を園田外相の手で実現した後、日ソ関係の改善を最大の外交課題と考えていた。岸の資源外交が念頭にあったと思う。しかし、田中・大平連合の前に不覚にも敗れ、総理の座を下りることになったので、いわば福田の遺言が森と小泉に託された。沖縄サミットを前にしてサミット首脳に対する訪問外交をした森は、迷わずロシアのプーチンを最初の訪問相手に選んでいる。日ロ関係の最大の懸案である北方四島の返還交渉でもシベリア奥地のイルクーツクに赴き、プーチンと差しの会談を行った。北方四島問題を解決し、シベリア開発に協力することによって、新たな日ロ関係を築くつもりでいた。

小泉のモスクワ訪問は思いつきではない。森と違う点は、北方四島の返還を棚上げではないが、長期的な課題と位置づけ、エネルギー資源を武器に国家財政の再建を目論むプーチンとの間で、新しい日ロ友好関係を結ぶ現実的なアプローチに乗り出したことである。東シベリアのアンガルスクから極東ナホトカまで敷設する「太平洋ルート・パイプライン」の構想に並々ならぬ関心を寄せている。

経世会が日中関係にウエートを置くのは、日中正常化の井戸を掘った田中の遺産を受け継いでいるからだが、福田の後継者を自認する森と小泉が、新たな日ロ関係に意欲を燃やすのと奇妙な一対をなしている。靖国神社の参拝問題で中国の反撥を受けても小泉は意に介さず、むしろ冷淡ともみえる対応ぶりは、日ロにウエートをかければ、相対的に日中が冷え込む図式を予想させる。橋本派も森派も日米同盟を基軸とする点では一致しているが、日中、日ロに対するウエートの置き方の違いは、いずれ新しい火種となって降りかかってくるであろう。


「太平洋ルート」の問題点

常識的にみれば日本の近隣国家として日中も日ロもゆるがせに出来ない外交課題である。これまでは日中が先行してきたきらいがあるが、性急に日ロにウエートをかけ過ぎると 中国との関係が悪化する懸念がなしとしない。ロシアの「太平洋ルート・パイプライン」は、その危険性を内包している。何故なら「太平洋ルート」構想の前にロシアは「中国ルート」のパイプラインを中国との間で協議、計画していたからである。

これはアンガルスクから中国黒竜江省の大慶までのパイプライン敷設のことで、中ロ両国は協定を締結し、敷設費用の一部を中国側が負担することで合意している。しかし、中国側が費用回収のめどが立つまでの石油の購入価格を現在一バレル当り三〇ドル前後の国際価格の半分以下となる一二ドル程度に抑えるよう要求し、これを拒否するロシアと折り合いがつかないまま交渉は暗礁に乗り上げている。

ロシアとしては同時並行してこの二つのパイプラインを建設することが事実上不可能であるから、二者択一で「太平洋ルート」をロシアが選択する可能性がでてきたわけである。建設コストは大きくなるが、将来の経済性を考慮すれば「太平洋ルート」にロシアが魅力を感じるのも不思議ではない。
しかし、世の中は経済性だけで律し得ないことも事実である。「太平洋ルート」を選択すれば中国は反撥し、中ロ・日中関係が悪化するのは目にみえている。ロシアとて中国との関係が悪化することは望まないであろう。日本の財界は「太平洋ルート」に関心を寄せているが複雑な国際関係をはらんでいるだけに早急な進展はないとみるべきであろう。

小泉外交の目玉となった北朝鮮との国交正常化も拉致問題がネックとなって早急な進展は望めなくなった。加えて日ロ関係が急進展をみせる可能性が薄いとみなくてはなるまい。目立つのは日米軍事同盟の色が濃くなってきたことである。
吉田の単独講和、鳩山の日ソ共同宣言、岸の日米安保条約改定、佐藤の沖縄返還、田中の日中共同声明に比較して小泉の日朝ピョンヤン宣言はまだ一つの時代を画するものになっていない。外交面ではまだ見るべき成果をあげていないというべきであろう。

そうなると問題はやはり内政問題になる。長引く不況の谷間でブレーキを踏み続けることはもはや限界点に達している。深刻なデフレ状況から脱するためにアクセルをどう踏むのか、大胆な政策転換の時期にきた。インフレターゲット論が登場してきた理由もそこにある。デフレ状況からの一日も早い脱出なくして、財政構造改革はかけ声だけの画に描いた餅になるからである。

福田の安定成長論はバブルに向かってひた走る高度成長に対する警鐘としての意味があった。深刻なデフレ状況の最中に、性急に財政構造改革を進めようとしても、置かれている社会経済状況が福田の時代とは違うことに小泉は気がついているのだろうか。国民は小泉の財政構造改革を支持しつつも当面のデフレ脱却をより強く求めている。手順を誤ればカケ声だけの改革に終わる可能性を孕んでいると知るべきである。
さらに懸念すべきは国民の支持率頼みの政権になっていることからポピュリズム政治の傾向が顕著になってきたことである。国民に背を向けた政治は、あってはならないことだが、政治が人気とりに堕すると将来に禍根を残すことになる。その危険な水域に近づいているのではなかろうか。小泉丸の前途は多難といわざるを得ない。(敬称略)