「昭和の妖怪」の素顔

古沢 襄
最近になって岸信介元首相のことが、あらためて話題になっている。私のところにも田原総一郎さんのスタッフから「テレビで岸さんの回顧をしてみませんか」と誘いがあった。「老ジャーナリストの出る幕ではありませんよ」と丁重にお断りしたのだが、人気が急上昇気味の安倍晋三官房副長官の祖父ということでマスコミが思い出したのかもしれない。

六〇年安保の前年の一九五九年に政治記者となって、岸番記者として南平台の岸私邸に詰めたのたが、早朝に庭で盆栽いじりをしている岸をよく見かけた。これが戦前の革新官僚のホープといわれ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった東条首相と閣議で単身対決した男なのか、と興味を持ったものである。あれから四十三年の歳月が去った。

岸について語るのは毎日新聞政治記者の安倍晋太郎、共同通信政治記者の清水二三夫、日経新聞政治記者の大日向一郎の三人が、秘話を含めて最適なのだが、いずれも故人となった。安倍晋太郎は岸の愛娘・洋子を妻に迎え、その次男が安倍晋三官房副長官。
洋子夫人には清水二三夫の葬儀の時に垣間見たのだが、横顔が岸そっくりの美形だったのに息を呑んだものである。葬儀の最前列に座り背筋を伸ばして身じろぎもしなかった。安倍晋三はこの母におおらかに育てられている。しかし心中では父親が果たせずに終わった総理・総裁の座を狙っていることだけは間違いないと思う。

一九六〇年七月一四日は私にとって生涯忘れられない日となった。この日,岸は総理官邸の大広間に足を踏み入れた時に,暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。岸番記者だった私はその真横に立っていて、暴漢がふるう短刀の白刃が二度、三度岸首相の大腿部に刺さるのを目の当たりにしている。崩れ落ちるように倒れた岸首相を思わず跨いで官邸の電話に飛びつき、夢中で「岸が刺された。生死は不明」と一報を入れたのだが、このことが後々まで「君は人が死んだと思って私の頭を跨いだのだから・・・」と言われるはめになった。頭を跨いだというのは岸の脚色で足を跨いだのだったが。

六〇年安保は疾風怒濤の時代だった。国会の中にいると津波の様な国会デモの響きが伝わってきて「革命というのは、こういう風にして起こるものなのか」と身震いする様な気持ちにとらわれたものである。この頃の私は岸についてこだわりがあった。戦争拡大の指導層の一人でA級戦犯というイメージが強烈で、何となく違和感を持っていたというのが正直なところだ。私は父をあの戦争で失っている。

その国会デモの最中に東大の女子学生が圧死する不幸な事件が起こった。その夜、岸は総理官邸に秘かに数人の側近を集めている。六月十五日のことである。弟の佐藤、政権を譲るつもりでいた池田、防衛庁長官だった岸派の赤城宗徳、官房長官の椎名悦三郎、それに娘婿の安倍晋太郎。興味があるのは安倍晋太郎の盟友だった清水二三夫と大日向一郎も呼ばれていたことである。会合は極秘のうちに行われ、その後も関係者の口からは漏れていない。

怒濤のような国会デモは警察機動隊の手に余る状態になっていたのは、誰の目にも明らかであった。佐藤と池田は自衛隊の出動によって鎮圧する強硬論を吐いている。低姿勢内閣を看板にする池田が、この時に強硬論だったのは知られていない。これに真っ向から反対したのは赤城だったが、意見が真っ二つに割れたのをみてとった岸は二人の政治記者の意見を求めている。岸は自ら退陣することによって事態を収拾する決意を秘かに固めていたいう。

二人はこもごも「総理が退陣することによって事態を収拾する以外に道はない」といったのだが、佐藤と池田は「何をいうか」と血相を変えて二人に詰め寄った。それを引き取った岸は「自分の腹は決まっている」といって話を打ち切っている。
数日たって副総裁の大野伴睦が「岸は退陣を決意したらしい」と早耳で聞きつけている。しかし確証を得ていない。大野は岸からの政権禅譲を期待していた一人である。安保改定で岸はすでに燃え尽きていたといえる。新安保条約の批准書交換を終えた二十三日に岸内閣は総辞職、国会デモは潮が引くように消えた。

私が岸に親しく接する様になったのは、池田内閣になって御殿場に岸がこもり不遇をかこった頃からである。岸を訪れる人も少なくなり、閑があったのであろう、夕方まで昔話を聞くことができた。日曜日にも御殿場詣でをすることになった。権力の座にあった総理時代の岸と違って話好きな一介の老人といった印象を受けている。

私ごとになるが、妻は二・二六事件に連座して銃殺刑となった北一輝の血縁に当たる。俳優の丹波哲郎の亡妻・貞子も血縁で妻の従姉。何かの拍子にこのことを喋ったら岸は思わず身体を乗り出してきて、「北一輝の国家改造法案要綱を全文筆写したことがありましゅよ」と言った。それで岸は私に対する警戒感を解いた様だ。

戦争中のことになるが、サイパン玉砕の破局を迎えても徹底抗戦を唱える東条首相と単身対決し、倒閣に持ち込んだことも聞かされた。土壇場の最終閣議で同調してくれる筈だった重光外相と内田農相は約束を破って発言せず、最年少の岸商工相だけが東条に退陣を迫るはめになってしまったという。閣議が終わって私邸に戻った岸のところに東条の腹心だった四方東京憲兵隊長がやってきて、「叩き斬ってやる」と恫喝されたが、「黙れ、兵隊!帰れ」と一喝。その時は斬られることを覚悟したと言う。「だが四方は私の頭を跨がなかった」というのは戯れ言である。

岸の旧姓は佐藤。父は官吏をつとめて後に酒造業を営んだ佐藤秀助で、十人兄弟(男三人、女七人)を生むという子沢山だった。その五番目が岸。佐藤家から岸家に養子に出ている。長兄の佐藤市郎は海軍兵学校を卒業して海軍中将になったが、兵学校時代の成績は平均点が九七・五点で日本海軍はじまって以来の秀才と言われた。兄貴に比べると岸は旧制第一高等学校の入学試験に失敗し、予備校に通ってようやく翌年入学している。高等学校時代の成績もあまり芳しくなかった。ところが東京帝大に入った頃から頭角を現し、我妻栄氏(東大教授)や三輪寿壮氏(社会党代議士)とトップ争いをしている。
「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と言うのが岸の口癖、何度か聞かされた。

これも岸の得意の話だが、弟の佐藤栄作が政界入りする時に巣鴨の拘置所にきたので「立候補するなら社会党から出ろ」と勧めている。奇怪な話の様に思われるが既成の保守政治に飽きたらない革新派らしい発想である。だから西尾末広の民社党が生まれた時には、自民党と民社党の連合政権を模索している。警職法や安保改定の印象が強烈なので超タカ派のイメージが定着しているが、内政面では「最低賃金制」や「国民年金制度」など社会保障制度を岸内閣の手で創設している。このことを知る人も少なくなった。
「歳をとったら転ばない、風邪をひかない、義理を欠く三つが長生きするの秘訣でしゅよ」とよく冗談をいったが、安保改定を果たしたことで自分の役割が終わったと達観している様子がみえた。

A級戦犯の岸が台湾の蒋介石と刎頸の交わりを結んでいるが、このいきさつは諸説あって定かでない。ただ私はベトナム戦争の最中に台湾の軍事視察に出掛けたが、岸の名刺ひとつで蒋介石や息子の蒋経国に会うことができた。金門島や左衛の海兵隊基地にも荘南園という日本の士官学校を出た大佐の付き添いで現地視察をすることができている。
アメリカ共和党のニクソンが不遇の時代に岸は面倒をみていて、ニクソン大統領になってからはアメリカとも太いパイプを持っていた。日本では「昭和の妖怪」「巣鴨プリズンのA級戦犯」と死後も評判が良くないが、海外では岸の評価が高いのも不思議といえば不思議である。やはり警職法や安保改定でみせた強権的なイメージが強烈なので、超タカ派が定着しているためであろう。

岸については保守合同で果たした役割を見逃すわけにいかない。A級戦犯だった岸が戦後政界の中枢に躍り出たきっかけは、三木武吉と呼吸を合わせて実現した保守合同に外ならないからである。
同時にこれは、松村謙三ら改進党主流が唱えた保守二党論と真っ正面からぶつかり、その後の保守政治で二つの流れを決定づけた。
話は変わるが、私は東京・牛込の神楽坂には特別の思い入れがある。小学校の六年間を神楽坂近くの払方町で過ごし、夕方になると父と母に連れられて、神楽坂を散歩することが多かった。

裏道には芸者の置屋が立ち並び、乙な三味線の音色が聞こえてきた。薄暗い置屋街を通り抜けると神楽坂の夜店の灯りがそこはかとない情緒をかもしだす。ビルが立ち並ぶ戦後の東京とは違う風景が戦前にはあった。
政治部記者となって池田内閣当時のことになるが、岸が親しい政治記者を神楽坂の料亭に招いてくれたことがある。
その料亭が保守合同の舞台裏となった料亭「松が枝」。神楽坂近くで育った私だが、初めて二階にあがって、岸が語る保守合同の裏話に興味を惹かれ、昔を思い出す余裕もなかった。それ以来クリスマスの夜になると「松が枝」で岸を囲む親しい記者との会が恒例のように毎年行われた。

昭和二十九年に吉田自由党に対抗する鳩山民主党が結成されたが、岸、三木の二人は民主党の結成以前から保守合同の構想を「松が枝」で語り合っている。
民主党幹事長だった岸は保守合同がなり、自由民主党が誕生した時の初代幹事長になって鳩山一郎総裁を支えた。
岸というとマスコミは、赤坂の料亭政治を連想するのだが、実は保守合同の裏舞台となった神楽坂の「松が枝」の方に特別の思い入れがあった。維新前夜に長州藩士が京都の料亭に屯して倒幕の策謀を練ったように長州っぽの岸は、一人で盃を傾けながら来るべき安保改定に向けて秘かに不退転の決意を固めていたという。

このとろ岸再評価がいわれ出したのは、吉田自由党の流れを汲む保守本流意識を強烈に持っていた田中支配が崩れ、さらに旧田中派の流れである経世会が力を失ってきたことと無縁ではあるまい。このところ森喜朗、小泉純一郎と二代にわたって続いた政権は、系譜からみれば傍流の岸、福田、安倍の系列である。
岸自身はどうかというと本流、傍流の意識を排除して、一つの強力な保守政治に最後までこだわりをみせた。実弟の佐藤が吉田学校の優等生だったこともあるかもしれないが、本流、傍流の意識が亀裂を呼ぶと岸が嫌った保守二党論が息を吹き返すからである。 しかし現実には細川内閣の誕生以来、岸の思惑とは違って保守政治は二つの保守の方向に動いている。政界再編があるとすれば、タカ派保守とハト派保守の分水嶺を築くことになるかもしれない。これは改進党の理念でもあるわけで、歴史がみせる一つの皮肉な出来事ともいえる。(敬称略)