政界の「禅譲」とか「密約」

古沢 襄
政界の「禅譲」とか「密約」という言葉ほど当てにならないものはない。古くは昭和 46年の総選挙で第一党となった自由党の鳩山一郎総裁が一ヶ月後にGHQから追放 パージを受けて、吉田茂が後継総裁を引き受けたのだが、鳩山がカンバックしたら総 理・総裁を返すという「四条件の約束」を二人の間で交わしていたといわれている。 戦前・戦中を通して仲が良かった二人のことだから「密約」の必要もなかったという 説もあるが、五年後にパージが解けて政界に復帰した鳩山に吉田は政権を渡そうとせ ずに世にいう鳩山・吉田抗争が繰り広げられたのは歴史が示すところである。

昭和34年1月24日に帝国ホテルで岸首相、大野副総裁、河野総務会長、佐藤首相 の四人が一つの文書に署名している。「萩原、永田、児玉三氏の外川島正次郎立会の 下に於いて申し合わせたる件については協力一致実現を期すること。右誓約する」と いう俗に大野総裁実現の「密約」である。この直前に岸、大野、河野による熱海会談 があった。

これらの動きは河野が舞台回しの主役だったが、岸は官僚派の池田と組むか、党人派 の河野と組むかの岐路に立っていた。この時点で岸は河野に傾いていたから熱海会談 での口頭の約束をあえて文書化したといえる。事実、岸は「約束したことは口頭であ ろうと文書であろうと同じだ」と語っていた。

その代わり大野、河野には岸に全面協力することを求めた。池田が松村謙三と組んで 倒閣の気配をみせていたからである。「私は約束を守るが、あなた方が私を裏切れ ば、誓約書はその瞬間に反故になるとご承知いただきたい」と凄んでいる。五ヶ月後 に岸は内閣改造に着手するが、池田は「岸とは政治理念を異にする」と入閣を拒ん だ。河野は佐藤の蔵相留任に真っ向から反対した。池田、河野、佐藤の三人を入閣さ せた強力内閣を作ろうとしていた岸は完全に行き詰まり、良子夫人に内閣を投げ出す 腹を打ち明けている。

驚いた岸派の幹部が駆けつけ、佐藤蔵相留任を前提に池田か河野のいずれかを入閣さ せる次善の策を進言して、岸もその線で説得工作をすることを了承したのだが「二人 とも拒否すれば、その時は投げ出す外はない」と言っている。翌日、栃木遊説に行っ ていた河野が呼び戻され岸は入閣を説得するが、すでに岸内閣が死に体になった判断 した河野は大野後継内閣に向かって走り出していた。次いで池田に会った岸は河野か ら入閣を蹴られたいきさつを述べて「君から断られれば、内閣を投げ出し大野後継を 推さざるを得ない」といった。池田は周章狼狽したという。

この時に池田が断っていれば、大野・河野内閣が生まれていたであろう。また、最初 の岸・河野会談で、河野が約束通り岸に全面協力していれば、後継内閣は間違いなく 大野・河野に渡り、池田内閣は生まれなかったといえる。岸は河野が蹴り、池田が降 りることまで先を読んで誓約書に応じたという穿った説もあるが、切羽詰まっていた 岸にはその余裕がなかったとみる方が妥当である。六〇年安保の前年の秘話である。

池田と佐藤の間に「密約」があったのは、あまり知られていない。池田内閣の最初の 選挙があった昭和35年秋に大磯の吉田邸に池田と佐藤が呼ばれ、吉田を証人にして 佐藤は次期政権を自分に譲る様に迫っている。池田は「やるよ」と短く答えたが、約 束が果たされないとみた佐藤は昭和39年7月の総裁選挙で池田三選の前に立ちはだ かり決戦を演じている。この時に池田を追い詰めたことが、病に倒れた池田から政権 を奪取できたと佐藤支持陣営は信じている。

福田・大平の間の二年密約説は当時から囁かれていたが、仲介役となった園田直外相の政務秘書官だった渡辺亮次郎さんがその実在を証言している。「禅譲」とか「密約」がなかなかその通りにいかないのは、当事者同士の密室での約束事は、いざその場になると実行が難しい周囲の状況が生まれることがあると思う。そして残るのは約束を果たさないという相手に対する不信感と怨念だけである。人間の世界はかくも因果なものか、と思ってしまう。