旧約聖書の世界

古沢 襄


イスラム教世界を考える時に旧約聖書の世界を理解しておく必要がありそうです。だいぶ昔のことですが、犬養道子さんの「旧約聖書物語」(新潮社)を読んで、あの犬養さんですら旧約聖書は”わかりにくい”永遠のベストセラーだったと思っていたそうです。それが北オランダで、パーター・ウルフと呼ばれていたオランダ人老司祭から旧約聖書の解説を受けて、彼女のホビーの世界が一変したと書いていました。打ち明け話をすれば、この本は母の蔵書です。

犬養さんは「旧約聖書」の本質は何か?という疑問に対して「西洋文明や回教、ユダヤ教文明の源」と規定して「唯一絶対なる創造主によって介入されつつ、人間が形成していくものが歴史だという”歴史観”」で書かれた本だといっています。そして旧約聖書が書かれなかったら、ヨーロッパ文明もイスラム文明も生まれなかったと断言しています。

小説「氷点」で一躍有名になった三浦綾子さんも「旧約聖書入門」(光文社)を書きましたが「旧約聖書はカトリックの聖書で、新約聖書がプロテスタントの聖書だと思い込んでいた」と打ち明け話をしております。その三浦さんは「おもしろいことからいえば、旧約聖書はドラマチックで、人間性の美醜がいたるところに展開されていて、最高の文学」と絶賛しています。

キリスト教に門外漢の私でしたが、旧約聖書が繰り広げる歴史・伝説の世界は魅力的で、読んでいても飽きがきません。ただ宗教書として読むと正直にいって息が詰まります。創造者なる神から人間が離反し、堕落して、神の罰を受ける厳しさは言語に絶するものがあります。「ヨシュア記」でカナンの地のジェリコを囲んだイスラエル軍に神の使いが訪れ、神託を受けたヨシュアは「この街は不潔な街」と呼号して女も男も牛も駱駝もすべて滅ぼしてしまいます。すべてが主モーセの意志で、不正義を許さない神の掟です。

戦後日本人の大部分は、宗教心が薄い無宗教派です。強いていえば「カネとモノ」しか信じられないカネ・モノ派です。敗戦の廃墟の中で宗教では腹がふくれない、頼りになるのはカネとモノだけだという即物的な拝金思想が、今も尾をひきずってきています。跡を絶たない政治家の金権体質、汚職構造もカネ・モノ万能の延長線上にあるといえます。
この不正義を許さない知識層にクリスチャンが結構多いのは、キリスト教の断罪思想に共鳴するものがあるのだと考えます。

ブッシュはアメリカ合衆国が建国以来、もっとも敬虔なクリスチャン大統領です。毎日祈りを欠かしたことがありません。チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官らは、キリスト教原理主義者といわれています。彼らにとってフセインは異教徒であるのみならず不正義の徒で断罪すべき相手で、イラク戦争は聖戦だということになります。

では世界のキリスト教徒が同じ様に十字軍的な思想で固まっているかというと違います。私の先輩ジャーナリストで敬虔なカトリックである酒井新二さん(共同通信社の元社長)は、イスラム原理主義のテロに対するブッシュの「クルセード」(十字軍・聖戦)を厳しく批判し、キリスト者は原理的に戦争を否定しなくてはならず、聖戦はあり得ないといっております。

酒井さんの古い友人である緒方貞子さんも「八十路を超えてなお旺盛な酒井さんの活動を支えているのはキリスト者としての矜持であり、ユニラテラルからマルチラレラルへの変化を求められている国際社会の未来に私たちは責任を負っている」といっています。酒井さんが最近出版した「日本の進路 キリスト者の選択」の巻頭に掲げられた緒方さんの推薦の言葉の一節です。ここでは断罪すべき相手がキリスト教原理主義者に向けられている点を注目したいと思います。