みちのく旅日記(続)

古沢 襄



蝦夷の壮大なドラマ

五月の三泊四日の東北旅行だったが、爽快な充実感に満たされている。身体の不調を忘れるほどの豊かな旅になった。上野駅で新幹線に乗車するまで時間があったので、本屋で閑つぶしをしていたら、以前から読みたいとおもっていた高橋克彦の「北の燿星アテルイ・火怨」の文庫本上下二卷がみつかった。「火怨」は第三十四回吉川英治文学賞の受賞作品。NHKの大河ドラマとなった「炎立つ」と並んで高橋克彦が、東北の蝦夷の壮大なドラマを描いた代表作である。

新幹線で北上駅まで三時間、多少の飛ばし読みがあったが、一気に上巻を読み切って車窓の外をみたら北上川の鉄橋を渡るところだった。間もなく和賀川の鉄橋を越えて、北上駅に滑り込んだ。今夜の講演の要旨を新幹線の中で読み直すつもりでいたが、これではブッツケ本番にならざるを得ない。「火怨」を読みながら不覚にも涙腺がゆるむことが何度かあった。東北人の血をひく者にとって共通する感情であろう。次の列車でくる為田英一郎さんにも読んで貰おうと思いながら、駅のホームを改札口に向かって歩き出していた。

アテルイは蝦夷の平和な暮らしと風土を守るために、朝廷軍と戦った最初の北の英雄である。歴史とは残酷なもので敗者の史実は正史として残らない。僅かに「続日本紀」に朝廷軍からみた戦況が伝えられているだけだ。789年3月に5万3000の朝廷軍が、衣川を渡って、アテルイの蝦夷連合軍と1500と戦うが、大敗している。五年後の794年に一〇万の大軍をもってアテルイと再度激突するが、その頃の歴史書である「日本後記」には、この第二次東北遠征の部分が見事に欠落している。書き残すのも憚られるほど惨敗したと推定するしかない。朝鮮からの帰化人といわれる坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した朝廷軍が、第三次東北遠征の末にアテルイを降伏させたのは、802年。実に13年間に及ぶ蝦夷の抵抗戦争となった。

アテルイは都に護送されて、河内国杜山で斬首されたが、アテルイを失った蝦夷は再度蜂起している。朝廷軍は第四次東北遠征を計画する。しかし、相次ぐ戦争によって都の財政危機が深刻化して中止された。高橋克彦はこの様な朝廷側の正史には触れずに、もっぱら東北に残された地方史料から、正史が伝えない別のアテルイ像が浮かびあがらせ、それを掘り起こして敗者側に立った壮大なドラマを描いてみせた。

古代の蝦夷の抵抗は、その後の歴史でも繰り返されている。北の王者といわれた安倍一族の壮絶な戦い、藤原三代の栄華を誇った藤原秀衡にも蝦夷の血が伝わっているという。都人は蝦夷を戦好きな獣の如く怖れたが、蝦夷の側から戦いを仕掛けたことは一度もない。東北は金と馬、さらに大陸貿易によって、もともと豊かな国である。だから朝廷軍の攻撃を受けたことにもなるのだが、平和な暮らしと郷土を守るための抵抗戦争も徹底した熾烈な戦いになったといえる。攻めないが、攻められた時の防衛戦争が徹底していたことは、平和を守る現在の日本人にとって一つの教訓を残している気がしてならない。


世の中が右に左に揺れただけにこと

為田英一郎さんの講演は「日本はいま、おんなどき」。久しぶりに聴きごたえのある内容だった。前夜の私の講演で英一郎さんの姿を見かけると大いに気になって慎重に言葉を選ぶ緊張感に包まれたのだが、英一郎さんも同じだった様だ。杜父魚塾も120人を超える会員を擁する大きな組織になって、この日も70人の聴衆を集めた。五年前に沢内村の銀河高原ホテルの食堂で10人ほどの村の青年を中心にして始めた勉強会だったが、今では湯田町・沢内村中心の会合が、盛岡市、北上市、宮守村まで広がりをみせている。

年に二、三回の講演会を続けてきたが、講演会が終わった後の懇親会がまた楽しい。私のどぶろく好きが知れ渡って、この日もご自慢のどぶろくが三本もテーブルに立てられた。献杯を真面目にやると一升近いどぶろくを腹に納めることになる。それでは身体が持たないので五合を限度と心がけているのだが、懇親に夢中になるとつい度を過ごしてしまう。

こうした会合が続くといつしか仲間意識からくる甘えや気楽さに流されてしまう。その点、一人のジャーナリストの目が光っていると思うと緊張感にほどよく包まれて、自分の考え方を吟味するきっかけを作ってくれた。東北人は基本的は「反骨精神」が豊かである。それも意固地な反骨ではない。自己の反骨を吟味しながら、控え目な反骨精神をゆっくりと展開している。小型の米内光正海軍大将が、どこの町にも村にもいる。そういう東北に限りない愛着を覚える。

英一郎さんの話を聴きながら、ふっと「朝日人」という言葉を思い出した。四〇年間もジャーナリストの世界に沈殿してきたのだから、朝日新聞社のジャーナリストとの付き合いも広がったのだが、朝日の社員らしいな、と感じた仲間が多かったが、「朝日人」を感じた仲間や先輩に会う機会が少なかったというのが、正直なところである。

「朝日人」とは何であろうか。私はそれを時代の動きに左右されない座標軸がしっかりした中庸の精神が豊かな人と心得ている。私が尊敬する緒方竹虎さんは、戦前はコムニュストかぶれと指弾され、戦後は東洋的右翼とさえいわれた。その多くは政敵が流した風評の類なのだが、緒方竹虎さんの座標軸は戦前も戦後も微動だにしていない。世の中が右に左に揺れただけのことである。

福岡支社長時代に朝日の政治部長だった八幡次郎さんの知己を得た。九州朝日放送の会長だったのだが、茫洋とした大人で「朝日人」の名に相応しい人物。この人が私の父・古沢玉次郎と仙台の第二高等学校で同級だったのは、何かの縁であろう。正直にいって共同通信社の先輩で、これだけスケールの大きい人は今でも見当たらない。父や八幡さんの同級生で永山公明さんというカミソリの様に頭脳明晰な人物がいた。秀才というより天才に近い人物だったと八幡さんは、この同級生を評していた。

八幡さんと永山さんは、一緒に朝日新聞社の入社試験を受けたのだが、学科試験をトップで通った永山さんは、役員面接で「頭が切れ過ぎる」と評価されて入社試験に失敗している。八幡さんはビリに近いところで合格したそうだ。

永山さんは共同通信社の入社試験をトップで通り、常務理事、専務理事にまでなったのだが、ビリに近いところで朝日に合格した八幡さんと比較すると正直にいってスケールの小さい官僚的な人物という印象しか残らない。だから父の同級と分かった後も私は永山さんには近づくことをしなかった。口をきいたこともない。秀才といわれる人にありがちな「冷たさ」を感じて敬遠したのだ。

身びいきではないのだが、為田英一郎さんは久しぶりにあった「朝日人」という思いを抱いている。八幡さんも為田さんも東北人、控え目な態度に終始するが、自ら信じることで妥協がない。押しつけがましくないが、言うことに説得力がある。

英一郎さんは、どう思うか知らないが、中庸の精神の座標軸が揺らぐことのなかった朝日新聞が、読売新聞やサンケイの右傾化に影響されて、座標軸が少し左に揺れた気がしてならない。それが朝日に対する偏向攻撃を招いている。読売新聞やサンケイが右傾化の世相に応じて紙面作りをしようとも、朝日の座標軸が揺らぐことがない限り、読者は朝日新聞を支持するであろう。世の中が右傾化すれば、するほど朝日新聞の紙面は光芒を放つと思う。中庸の精神とはそういうものでなかろうか。


ボケのふりをする

岩手県沢内村に佐々木吉男さんという大人(たいじん)がいる。九十三歳の高齢で杖をついて現れ、杖をついて去る人だが、別れのあいさつはいつも「この次にお逢いするのは骨壺の中でしょう」。九十歳を過ぎた頃から、このあいさつを聞く様になった。

八十八歳の米寿の祝いのことである。東北大学の医学部教授から「日本一の肝臓」と折り紙を付けられたことが自慢で、佐々木さんは毎晩一升酒を欠かしたことがない。長生きをして貰いたいという周りの人たちが一計を案じた。トックリに酒の代わりに白湯を入れた十本を佐々木さんの前にさりげなく置いたのだ。

杜父魚塾の塾長ということで、佐々木さんの隣に座らされた私は、この白湯をしこたま飲まされる目にあった。宴もたけなわとなり、村人がトックリを片手にして佐々木さんの前にきて、祝いの言葉を述べるのだが、相手が座ると「まあまあ、私に注がせて下さい」と白湯トックリを取り上げる。酒の入ったトックリと白湯のトックリが、いつの間にかごっちゃになって分からなくなるのだが、佐々木さんは巧みに選んで、相手に白湯をつぐので、十本があっという間に無くなった。私も白湯を飲まされた口である。

無医村の沢内村を日本一の医療の村にした深沢村長に乞われて女房役の助役となり、四代の村長の下で二十年間助役をつとめた佐々木さんだが、「二十年間酒を飲んできただけですよ」と多くを語らない。西和賀を訪れると私は佐々木さんと宿の同じ部屋をあてがわれるのだが、初日は一升酒をこなすことができても、二日目、三日目になると胃が受け付けなくなる。「日本一の肝臓」の持ち主は、まったく変わらないペースで一升酒を飲み続けて、少しも乱れをみせない。オハコの持ち歌は「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい・・・」。老人とは思えない艶やか声をだす。

九十歳を過ぎた頃から「私はボケました」を連発する様になった。酒量も半分の五合のになったのだが、それでも私は五合酒が三日も続くと胃が変調をきたして、佐々木さんについていけなくなる。体調を崩していた私は、今度の東北旅行で思い切って佐々木さんに健康の秘訣を聞いてみた。しばらく黙っていた佐々木さんは、「ここだけの話ですが、早くボケたふりをするのが秘訣です」とタネあかしをしてくれた。

「ボケのふりをするには修練がいります。一日や二日では誰も信じてくれない」といって「目を半眼にして、口を半分開く」姿勢が、ボケのふりをする基本技だと教えてくれた。このスタイルはなかなか難しい。家に戻って鏡の前でやってみるのだが、佐々木さんの様に真に迫った演技にはならない。これが身につくと少なくとも宴会の席で、献杯攻勢をかわす手立てにはなる。口を少し開いて、目を半眼にしていれば、どうやら眠っていると思われるからである。講演の演壇でやるわけにはいかないが、せいぜい演技の修得に熱を入れようと思っている。もっともそれをやっている中に本当のボケがきたら、どうしようかと不安になるのだが・・・。


サスケ、サスケ

東北旅行の最終日は、花巻の大沢温泉・山水閣。年に一、二度はここを訪れるが、お目当ては女将の高田ケイさん。竹久夢二の絵から抜け出てきたようなほっそりとした美形で、しっかり者の典型のような賢い人である。私と同年の昭和ヒトケタというが、どうみても六十歳そこそこにしかみえない。

その高田ケイさんが「今度ばかりは岩手県人として恥ずかしい思いをしています」と柳眉を逆立てて、溜息をついた。山水閣には全国から泊まり客が訪れるが、話題となるのは、覆面で岩手県議会に登場するサスケとかいうプロレスラーの騒動である。
「なに、国会だってスポーツ芸能紙の世界になっているのだから、県議会も国会並になっただけではないですか」と無責任な取りなし方をしてしまったが、それが火に油を注ぐ結果になった。

「その恥ずかしい人を庇う小沢一郎さんもどうかしていますね。あれで小沢人気も冷えてしまうのではないですか」。義父が国会議員だった高田ケイさんは、政治の世界にもプロ級の眼を持っている。旅館の女将だから差し出がましいことを言わないだけのことだが、今度ばかりは違っていた。

プロレスラーが国会議員になろうが、県会議員になろうが、そう目くじらを立てることではあるまい。要は議員になって何をするか、何が出来るかに尽きる。ただ票集めだけの人気取りだったら、責められるのは軽薄な有権者でなかろうか。政治不信とか無党派といいながら、やっていることは、芸能界の人気投票の域を出ていない。いい加減にしろ!といいたくなる。大衆民主主義の悪い面がモロに出ているではなかろうか。

だが、高田ケイさんの様に「今度ばかりは岩手県人として恥ずかしい」という人がいる限り救われる。圧倒的な人気を誇った芸能人あがりの大阪府知事のなれの果てをみるがいい。大衆民主主義は、時にはどうし様もない愚かな選択をしてしまうが、同時に浄化作用を失っていない。むしろプロの政治家を自任する小沢一郎さんの失うものが、大きいのではなかろうか。