再びシベリア墓参の旅へ

古沢 襄



風雨の中で慰霊追悼式

十二日間のシベリア墓参の旅が終えて、九月一日に無事に帰国。四年前のシベリア墓 参の時は、日本遺族会の主宰でハバロフスク、イルクーツク、ウランウデ、ウラジオ ストックという大都市中心のコースだったので、2キロしか体重が減らなかったが、 今回は北限の収容所があったニジネウデインスク、タイシェットなど僻地の墓参が後 半の日程に含まれたので、苛酷な条件下の墓参が続いた。出国前に七一キロだったの が帰国時には六七キロ、十二日間で四キロも体重が減ったことになる。
新潟での結団式で私がブリヤート共和国巡拝の遺族代表に選ばれた。遺族たちの年齢 は、上が七十七歳、下が六十二歳、男十人・女二人で、各県から一人、私のところの 茨城県だけが二人の選出になっていた。これに厚生労働省から二人、通訳一人、現地 ガイド延三人という構成の日本政府派遣慰霊巡拝団。

ハバロフスクで最初の夜、私は「ハバロフスク、イルクーツク、ウランウデのコース は四年前にきているので、その経験を生かしながらお役目を果たすつもりでいるが。 その後の第二シベリア鉄道沿いの北辺コースは、私にとっても未知の世界になる。日 程をみるとかなりのハード・スケジュールになっているので、皆で助け合いながら落 伍者を出さない覚悟が必要になる」と前置きして、二つのことを言った。
一つは風邪をひかないこと。日本を出る時はハバロフスクの温度が二〇度くらいと聞 いてきたが、来てみれば十七度、夜になれば十度は低くなる。酷寒にはマイナス三十 度。イルクーツクはこれが五度は低くなる。日中は十二度、夜は二度、酷寒はマイナ ス四十度。ウランウデはさらに五度さがる。日中は七度、夜は零下、酷寒はマイナス 五十度になる。北辺にいくとさらに厳しくなる。日中は暖かいと感じても、夜は寒さ に震えるのがシベリア奥地の気候だと認識すること。シベリア鉄道の中はスチームが 通っているので暖かいが、デッキに出ると寒い、さらに連結器のドアを開けるとモロ に外気が入ってくる。列車を降りる前に外気の寒さを肌で感じて、防寒の支度をしな いいけない。

もう一つはロシアの食事は動物性の油をふんだんに使うので、チーズやバターをあま り食べ過ぎないことが必要。ロシア名物のボルシチも油をたっぷり使っているので、 胃にもたれる。二.三日の短期旅行なら良いが、一週間を超えると旅行になると腸内 発酵して消化不良を起こす。腹八分目というが五分目ぐらいのつもりでいないと下痢 を起こす。風邪をひいたり、下痢がとまらないと体力を消耗してしまう。酷寒に耐え ねばならないロシア人にとって必要な食事なのだが、温暖な気候の日本人にとっては 重過ぎると覚らねばならない。

四年前の経験だが、ブりヤート共和国の首都・ウランウデでトップクラスのガゼル・ ホテルですらシャワーのお湯が出なかった。マイナス五度の寒さの中で冷え込んだ身 体を温める術がなかった辛い経験をしている。今度もそのガゼル・ホテルに二泊する という。シベリア墓参は日本での墓参りと根本的に違う。墓地は市の中心部から離れ た山林の中にあることが多いので、雨が降れば泥濘の道を歩かねばならぬ。革靴では 泥濘に足をとられて動きがとれなくなるので、登山靴が一番安全である。

案の定、ウランウデ翌日の現地追悼式では、第九百四十四特別軍病院墓地に向かう途 中でシベリア名物の驟雨が襲ってきた。風も強く、凍える様な寒さに身を包まれる。 ここには私の父も眠っている。五百三十二人が葬られているブリヤート共和国で最大 の墓地である。朝鮮半島出身の元日本兵も葬られている。遺族十二人のうち八人の父 や兄が、この墓地に眠っている。私以外は初めての墓参になるので、前日にこの墓地 で肉親の墓探しが始まって、幸いなことに全員の肉親の墓がみつかった。

前日にはまずウランウデの第三〇収容所タリツイ駅の墓地を詣でる。七十一人が小高 い丘のうえで眠っている。団員の千葉県女性の父が葬られているが、五十八年の歳月 を経ているので多くの墓石が倒れたままになっている。
墓参の旅は、その家族の戦後の物語でもある。女性の父は農家の生まれ。父に嫁した 母は「戦争花嫁」で、長女の彼女を含めて四人姉妹が母親とともに父の家の農家で抑 留された父親の帰国を待ったが、きたのはシベリアの収容所で病死したという悲しい 知らせだった。それからのご苦労は言葉では言い尽くせない

現地追悼式で遺族代表の私が「追悼の辞」を雨中で読むとすすり泣く声が漏れてきた。 やがて雨も風もやみ、寒さは残るが、静寂に包まれた慰霊追悼式になった。
               追悼のことば
謹んで追悼のことばを申し上げます。本日、ここブリヤート共和国の地に眠る皆さん の御霊をお迎えし、慰霊追悼式が挙行されますことは、私たち遺族にとりまして、誠 に万感胸にこみあげるものがございます。
平和が甦ってすでに五十八年の歳月が流れ去りましたが、肉親を失いました私たち遺 族の悲しみ、心の痛みは決して消え去ることなく、肉親の眠る地に参り、お会いでき る日をどんなにか、待ち望んでおりましたことか。
今、祭壇に向かい静かに瞼を閉じます時、亡き皆様方のお顔が目に浮かんでまいりま す。在りし日の、あの優しかった皆様の声、幼児を残し戦場に出られたときのお気持 ちを今お察しいたしますと、一層切ないものを感じます。戦争の悲劇さえなければ、 いつまでも楽しく語り合えであろうと思いますと、胸が一杯にになり涙が溢れてまい ります。
私たち遺族が辿りました道は決して平坦なものではありませんでした。私たちは皆様 方が生きて帰国されることをひたすら念願し、一日千秋の思いで待ちわびました。し かし、私たち家族の願いもむなしく、皆様方は異郷の地に倒れ、帰らぬ人となられま した。残された私たちは、つらく、苦しい日も幾度かありましたが、その度ごとに、 あなた方の尊い犠牲を何よりの教訓ととして、皆様方の肉親であることを心から誇り に思い、今日まで生き抜いてまいりました。これからも強く生き抜く覚悟でございま す。どうかご安心下さい。
私たちは生命の尊さ、平和の大切さを身をもって体験いたしました。再び戦争の悲劇 が繰り返されることのないよう、日本の自由と平和を守り、皆様方のご意志にお応え することを、ここにお誓い申し上げます。
私たちは、御霊前に限りない思いを込め、心ばかりの品々をお供えいたしました。ど うか故郷の香りと味覚を心ゆくまでご賞味下さい。
お名残はつきません。私たちはこれから日本に帰りますが、祖国日本の繁栄と私たち 遺族の行く末をお守り下さるようお願いいたします。そして、とこしえに安らかにお 眠り下さいますようお祈りいたしまして、追悼のことばといたします。
        平成十五年八月二十五日
         日本政府派遣ソ連抑留中死亡者ブリヤート共和国慰霊巡拝団
                     遺族代表     古沢 襄


日本人と同根ののブリヤート人

司馬遼太郎の「ロシアについて」を読むとシベリア原住民のブリヤート人に対する思 い入れが伝わってくる。イルクーツクで司馬遼太郎のガイドについたのが、ブリヤー ト人の学生だったという。長身で涼しそうな目、聡明で誇り高く、つつましいこの学 生に好意をもって帰国している。
イルクーツク州やブリヤート共和国の街にはブリヤート人が圧倒的に多い。もっとも ロシア白人との混血なのだが・・・。驚くほど日本人に似ている。違うのは長身な点 だけで、しぐさも表情もまさに日本人的である。
イルクーツクでガイドについたビクトリアは、司馬遼太郎がいう長身で涼しそうな目、 聡明で誇り高く、つつましい女性の典型だった。イルクーツク外国語大学時代に冨山 大学に四年間留学した経験があるだけに流暢な日本語を喋る。ロシア白人のエリーナ を助手に従えて現れたが、金髪のエリーナが、黒髪のビクトリアには一目も二目置い て控え目な態度で終始していた。

ビクトリアはシベリア鉄道に乗車して、ウランウデに向かう私たちをイルクーツク駅 で見送ってくれたが、ロシア白人のポーターが荷物をぞんざいに扱うと、厳しい口調 で叱責する。「まるでロシア軍の女性士官の様だ」と団員がいうほど堂々としていた。 左指に指輪をつけていたので「結婚しているのか」と聞くと「どうして?まだ独身で すよ。ロシアでは女性の未婚者も左指に指輪をするのです」と歯切れのよい返事が返 ってきた。

ロシア旅行を快適に過ごすには、ちょっとした物をプレゼントするのがコツである。 日本の街で配られるテイッシュ、百円ライター、ボールペン、タバコなどが喜ばれ る。3Aサイズのパンテイ・ストッキング、日本のチョコレートなどはロシア旅行の 必携品。今回はパンテイ・ストッキングを持ってくるのを忘れてしまったが、同宿の 地主氏が四つ持っていた。これをシベリア鉄道で客室乗務員にプレゼントしたら、私 たちの個室だけは特別扱いにしてくれた。
シベリア鉄道では個室でタバコを吸うのは禁止されている。一つの車両に二人の女性 乗務員が乗っているが、いずれも十七、八歳の若い女性だった。それぞれにパンテイ ・ストッキングをプレゼントしたら、タバコを黙認してくれた。おまけに朝五時半に 起きると紅茶を二つサービスしてくれる特別待遇で、他の団員から羨ましがれる始 末。トイレも黙って鍵を開けてくれて、私が使い終わると鍵を閉めてしまった。袖の 下が幅をきかすお国柄である。女性乗務員は英語も多少はできるので、会話を交わす こともできる。
ロシアのホテルでは各階のエレベーターの入り口に女性が頑張っている。そこで部屋 の鍵を貰う仕組みだが、その女性にタバコを一箱あげるとサービスが格段と良くな る。前回はパンテイ・ストッキングをあげたら、四人もまとめて売春婦を紹介され て、断るのに往生した経験がある。あまり過大な物をプレゼントすると勘違いされて しまうことがある。

しかしビクトリアは団員が差し出すプレゼントを決して受け取ろうとしなかった。
「ガイド料をいただいていますから・・・」と笑みを浮かべて辞退する。それだけ誇 りが高いということであろう。なかなかの美人なので冨山大学に留学中も男子学生か らモテモテだったに違いないが、時折みせる誇り高さが近づきがたい感じを与えたか もしれない。
帰途のことになるが、私はハバロフスク空港で前に座ったブリヤート人と思われる若 い女性と話を交わした。きっかけは彼女が「ゆうパック」の袋を持っていたからであ る。英語で「新潟に行くのか」と聞くと流暢な日本語で、里帰りのためにハバロフス クに戻ったが、世帯がある博多に戻るという。北海道大学に留学していた時に、知り 合った日本人男性と結婚して一年になると身の上話をして「サッポロ・ラーメンより も博多ラーメンの方が好き。早く帰りたい」という。あっさりとしたサッポル・ラー メンよりもラードがたっぷりの博多ラーメンの方がロシア人の口に合うのかもしれな い。ご主人はロシア語ができるのかと質問すると「ダメ、ダメ」と手を振る。英語と 日本語で会話しているそうだ。
日本の農村では嫁不足からフィリッピン人や中国人の花嫁が増えているが、人種的に いえば日本人もブリヤート人も同じモンゴル系で同根になる。しかも長身のブリヤー ト美人だからシベリアに行く日本人が増えてくれば、ブリヤート花嫁が流行るのかも しれない。


トルコ系遊牧民とシベリア

モンゴル史の造詣が深い司馬遼太郎(東京外語蒙古語学科の卒業生)は、日本人の ルーツの一派はシベリア諸民族だという説をとる。地理的にいうと東北の蝦夷の先祖 はシベリア系という仮説も成り立つ。古来、東北は大陸との交易が盛んだった。
信じ難いことだが、不毛の低湿地だったシベリアには紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇 年にかけて青銅器文化が興っている。ミヌシンスク遺跡の発掘がそれを裏付けている。 その頃の日本は縄文時代の闇の中にあった。古代オリエントから伝わった青銅の冶金 技術がシベリアで開花して、中国の殷・周に影響を与えたという説もある。

中国の歴史資料でも紀元前三世紀から五世紀にかけてシベリアのバイカル湖周辺の丁 零(ていれい)にトルコ系と思われる遊牧民国家が成立して交易を行っている。また 高車(こうしゃ)というトルコ系の遊牧民国家も存在した。このほか堅昆(けんこん) というトルコ系の遊牧民族もいて、高度の冶金技術を持っていたとある。これらの遊 牧民国家は匈奴によって滅ばされ併合の憂き目に合っている。
今の世界地図のトルコからみれば、シベリアとトルコを結びつけるのは困難だが、ト ルコ族の故郷はイラン北方にある。北インドで王朝を築いたキルジー部族やトウグラ ク王朝もトルコ種だといわれる。草原の剽悍なトルコ遊牧騎馬民族は、この頃四方八 方に草原を求めて散り、その一部がバイカル湖周辺に至ったのであろう。そして原住 民のブリヤート人との混血が行われた。

ブリヤート人はブリヤート・モンゴルといわれるのを好まない。もともとモンゴル高 原にあった蒙古族は水辺は病の元だと信じている。水を飲まず羊の乳を発酵させた飲 み物を常用している。また包(パオ)という異動に適した天幕に住んでいる。バイカ ル湖周辺にあったブリヤート・モンゴルは天幕の包を用いず、形は包なのだが木の皮 で葺いた屋根に土を盛って住む。異動の便利さよりも酷寒に耐える住家を選んだので あろう。同じ遊牧民であっても蒙古族が高地モンゴルと呼ばれ、シベリアのブリヤー ト・モンゴルは低地モンゴルと呼ばれている。
同根の民であっても、長い歴史の中で異種ともいうべき違いが生まれている。目が細 く、小柄な高地モンゴルに較べて、バイカル湖周辺の低地モンゴルはパッチリとした 大きな目、さらには長身の特徴がある。トルコ種、ロシア種の混血によって違ったモ ンゴルが生まれたのだろう。だからブリヤート人は”モンゴル”と呼ばれることに抵 抗感がある。

それだけでない。十三世紀にチンギス汗とその子孫がロシア全土を征服し、その版図 は西のロシアから東のシベリアに及んだ。これも信じ難いことだが、サハリン(樺太) もモンゴル帝国の支配下に置かれた。この壮大な版図を支配したキプチャク汗国は、 一万のモンゴル騎兵とその配下にあるトルコ系遊牧民族だけで圧政を行っている。草 原地に根拠地を置いてロシア人を監視し、ひとたび反乱の兆しがあれば、機動力に優 れたモンゴル騎兵が殺到して、殺戮を繰り返し、町を焼き、破壊し、住民を皆殺しに した。西欧で花のルネサンスが咲き誇っていた時期のことである。その時代にロシア 人は「タタールのくびき」と呼ばれた暗黒時代に置かれている。”モンゴル”という 言葉はロシアでは禁句だと覚らねばならない。
しかし二百五十九年間に及んだ「タタールのくびき」は、あっけなく崩壊する。キプ チャク汗国の分家筋に当たるクリム汗が、ロシア大公イヴァン三世と結んで、キプ チャク汗国にとどめを刺した。そのクリム汗国も、ロシアのエカテリーナ女帝の時代 に近代化された軍勢によって滅ぼされた。一七八三年のことである。クリム汗国は今 のクリミア半島を中心とした草原を支配地としていて、クリム共和国の人たちは混血 を繰り返しているが、まさしくモンゴル騎兵の末裔である。

帝政ロシアが成立するまで、これだけの歴史が存在する。帝政ロシアになって、シベ リア征服の先兵となったコザックはロシア人だが、辺境に住むカザークという種族 で、剽悍な騎馬民族である。一五八一年に数百のコザック騎兵がロシア皇帝・イヴァ ン四世(雷帝)の命を受けてシベリアを目指したが、大砲や銃を携行した。最大の難 関はバイカル湖湖畔の草原で遊牧していたブリヤート人であった。このブリヤート騎 兵の集団に対して、コザックは大砲を使って殲滅している。

日本では江戸時代にコザックのことを「赤蝦夷」と呼んで、早くも知っていた。
徳川幕府の命で工藤平助なる人物が「赤蝦夷風説考」という本を書いたが、そこには 「シベリアはもともとダッタンの故国だったが、オロシアが大軍を送って、法を改 め、政をただし・・・」とコザックのシベリア征服を肯定的に叙述している。間宮林 蔵のカラフト探検は、この本を読んで触発されたという。
ダッタンについて司馬遼太郎は「韃靼疾風録」上下二卷を書いている。その受け売り になるが、韃靼はタタールの漢字表記である。元が亡びて、モンゴル騎兵が北の草原 に戻っていった時に、明王朝の漢人たちは、モンゴル人を卑しんで「韃靼」とよん だ。
ついでながら満州族を「女真」と呼んでいる。モンゴル騎兵は、女真は豚を飼うと いって卑しんだが、女真騎兵も精悍さではモンゴル騎兵に劣らない。むしろ足の短い モンゴル馬よりも、女真が用いた足長の馬は騎走力で優れていた。やがてモンゴル騎 兵は女真騎兵の支配を受ける様になり、明王朝末期には万里の長城以北は、満州族が 勢威を示して強力となった。「満州」は女真族の中核となったマンジュ(漢字表記で は満州または満住)部族の呼称。
万里長城の山海関(さんかいかん)を突破してきた女真の騎馬軍団によって、明王朝 の歩兵が蹂躙され、北京城が陥落して辮髪の清王朝が誕生している。


私は将軍・ジェネラル?

四年前の日本遺族会主宰の墓参と今回の日本政府派遣の墓参では、ロシアの州政府や 行政府の対応が明らかに違っていた。ブリヤート共和国ではナンバー・ツウが経済局 長を従えて表敬を受け、長時間真摯な対応をみせた。やはりロシアは官僚優位の国家 である。
ナンバー・ツウ氏はわれわれにコヒーを振る舞い「日本の墓参団にはロシアも教えら れるものがある。ロシアは大祖国戦争で二五〇〇万人の犠牲者を出したが、ドイツや ポーランドなでの遺骨収集が進んでいない。戦後五十八年も経って日本政府派遣の墓 参団がくることをわれわれの教訓としたい」と目をうるませ、夜のパーテイには経済 局長氏が参加して懇談する力の入れ方をみせた。このブリヤート人の女性局長は翌日 八時にホテルにきて、出発する私たちをわざわざ見送ってくれた。ロシアのこの姿勢 はイルクーツク州でも同じだった。州政府だけでなく末端の行政府(市町村長)でも 町村長が一日中われわれと行動を共にして案内役をするサービスぶりをみせた。墓参 は遺骨収集や巡拝だけでない。地域の行政府との交流が、草の根の友好親善を積み重 ねることになる。

それにしてもロシアは四年前とすっかり変わっていた。街をいく男女の服装がカラフ ルになり、物乞いやスリ、かっぱらいの姿が消えていた。工場の煙突から煙が立ち上 がっていたのは、プーチン大統領の経済重視政策が軌道に乗りつつある証拠である。 沿海州やシベリアで、アパートなどの建設工事が各所でみられたのも、四年前と趣を 異にする風景だった。ロシア経済は確実に立ち直りつつある。一番、変化が著しかっ たのは日本からの玄関になるハバロフスクだった。行きも帰りも国際線は、日本人客 が八割を占め、街には日本人が溢れていた。日本とロシアの絆は目にみえる形で強ま りつつある。見方を変えれば、ロシアはそれだけ日本を必要としている証拠ではなか ろうか。

ウランウデからシベリア鉄道でイルクーツクを通り抜けて北上し、一路ニジネウデイ ンスクに向かう十五時間の旅が始まった。時計の針が十二時を過ぎる頃、私は午前二 時まで眠らないで起きていることを提案した。停車時間が短いこともあるが、中途半 端な寝かたをすると宿舎で眠られなくなる。少しでも睡眠時間をとるために宿舎で短 時間でも熟睡する方が良いと判断した。北辺での強行軍が目の前に迫っている。
北辺にはホテルがない。最初に利用させて貰うのはシベリア鉄道の保養所。翌日はタ イシエットの身体不自由児施設。食堂がないので、駅の職員食堂を使わせて貰う手筈 になっていた。シベリア鉄道はニジネウデインスク駅に滑り込んで停車した。大急ぎ で団員のトランクをおろす。深夜なので気温は零下五度くらい思わず身震いをする。 出迎えにきた車は中型車で、荷物を載せると人間は僅かしか乗れない。三回に分けて ピストン輸送するというので、とっさに大声で「車に乗るのは女性と七十五歳以上、 あとは歩く」と声をかけた。ピストン輸送を待っていたら、この寒さで駅で待つ者が 凍えてしまう。保養所まで百メートル少しだというから、歩く方が良いと判断して、 先頭に立った。歩けば身体が少しでも温まる。まさに「歩け!歩け!」だ。保養所に 着いても入り口の鉄柵が開かない。足踏みをしながら門番の女性がくるのを待った。 三時から七時まで四時間の仮眠を保養所でとる。七時半にニジネウデインスク駅まで 歩いていき、職員食堂で朝食をとるが、ウランウデまでは元気だった団員の顔が皆、 青白くなり、食事も進まない。皆、おし黙っている。

食事を早々に済ませ、ニジネウデインスク行政府を訪問。この地域の日本人墓地の現 況を聞くが、あまり定かではない。愛知県の教員氏の父が、ここで果てた。抑留者の 遺体は貨車で運ばれてきたが、凍っていたという。そのうちの一つが、まだ暖かいの で、救出して手当をしたのだが、数日後に亡くなったという。この遺体だけはロシア 人墓地に葬られていたが、氏名は分からない。

ニジネウデインスク行政府の町長は素朴な村長さんといった感じだった。墓参団がき たのは二度目だといって地図を開きながら、試掘した山中の位置を示したが、遺骨は 出なかったそうだ。当時のことを知る人も少なくなり、墓地だったと思われる位置も 深い山林と化している。町長さんは「この街ができて三百五十年になる。皆さんの訪 問の目的はよく理解しているので、ラジオやテレビ関係者にも連絡し、皆さんと行動 をともにする手筈をとってある。今のところ霧が深いので、それが晴れたら出掛けま しょう。それまでここで家に帰ったつもりでくつろぎ、コーヒーを飲んで待ちましょ う」といってくれた。

霧が晴れて、用意されたオンボロバスで目的地に向かう。ニジネウデインスクの行政 地域は広い。行けども行けどもシベリアの白樺林が続く。しばらくして右折し、今度 は草原の道なき湿地帯を戦車の様にばく進するが、大きな溝をお構いなしに突っ走 る。急に下ったり、それを駆け上がったり、その度に女性たち悲鳴をあげる。しっか りつかまっていないとバスの天井に頭を打ち付ける。案内役に立った町長さんは、い ささかも動じない。誰かが「シベリア鉄道も凄かったが、シベリア・バスはもっと凄 い」と皆を笑わせるが、笑うと舌を噛みそうになる。
草原の先にまた白樺林があった。そこからは徒歩で谷を越えて墓地があったと思われ る目的地に向かう。林の一角に試掘した跡地があった。そこに日章旗を掲げ、にわか 造り祭壇を設けて追悼式をあげた。教員氏は跪いてひたすら祈っている。ここでは全 員が防虫ネットをかぶった。猛烈な蚊の大軍が襲ってくるので防虫スプレーなどは役 に立たない。バスに戻ったら蚊がかなり侵入していた。手で叩くと血を吸っている。 この頃から体調の不調を訴える者が出てきた。

バスはさらに北上し、第二シベリア鉄道の要衝タイシェットに向かう。三時間の行程 というが距離にすると百八十キロ、横浜・高碕間の距離だ。オンボロバスは時速百キ ロにスピードをあげたが、舗装されていない道路にくると人間の身体が宙に舞う。突 然、バスがエンストを起こして止まってしまった。運転手が慣れた手つきでボンネッ トを開けて、エンジンをかけ直すが、動かない。みかねた町長さんが同行したテレビ の車でニジネウデインスクに戻り、整備士を連れてくることになった。エンコしてか ら早くも一時間がたった。最悪の場合はバスの中で野宿するしかないと腹を固めた。 みるとエリーナが寒さに震えている。冬のトックリ・セーターを着ているが風を通す ので寒いのであろう。防寒用具を持ってきた私がゴルフ用のレインコートを着せてや る。ビニールは風を通さないので、日本の登山などでも必携の用具である。号令をか けたり、装備を持っているので「フルサワさんは軍人か」とエリーナが聞いてきた。 冗談に「将軍・ジェネラルだ」というと目を丸くしていた。

町長さんが整備士を連れて戻った時には正直にいってほっとした。エンジンを点検 し、ガソリン・タンクの蓋を開けて、短いホースを突っ込み、口で吸ってバケツにガ ソリンを抜き取る。ロシアの安いガソリンは不純物が混じっているとは聞いていた が、それを抜き取り新しいガソリンを入れて、エンジンをかけるとブルンブルンとエ ンジンベルトが回りだした。もう大丈夫、と思うと眠気が襲ってきた。予定よりかな り遅れたが、タイシェエットの身体障害者施設のフロントで部屋のキイを受け取り、 部屋に入るとベッドに倒れ込み寝てしまった。前夜に十分な睡眠をとっていないの で、夕食まで死んだ様になって寝るしかない。ここで一泊して第二シベリア鉄道の線 路沿いにある日本人墓地を詣でて、その夜のシベリア鉄道に乗り、イルクーツクに戻 ることになる。


シベリアの良心・クズネツオフ教授

タイシェットはシベリア抑留の歴史でもっとも悲劇の場所となった。戦後、発刊され た抑留記もタイシェットやブラーツクなど第二シベリア鉄道(パアム鉄道)の建設工 事で倒れた戦友を悼むものが圧倒的に多い。
その全体像を明らかにしたのは、イルクーツク大学教授で歴史学博士のセルゲイ・イ リイッチ・クズネツオフである。ロシアには「知らなければよく眠れる」という諺が ある。ラーゲリ(収容所)での悲劇は、スターリン時代には堅く伏せられていて、一 般のロシア人には知らされていなかった。ゴルバチョフの時代になって多くの古文書 保管所の資料が公開され、それを読んだクズネツオフ教授は強い衝撃を受けた。それ から十五年の歳月をかけてイルクーツク州やブリヤート共和国の日本人墓地を巡り、 さらに内務省の公開資料を読み解く作業が始まった。

クズネツオフ教授は「スターリン体制がロシア国民や他国民に対して犯した犯罪行為 は、とても容認できるものではない。それらについて、真実を語り続けることは絶対 に必要なことである」と断言する。シベリアの良心ともいうべきクズネツオフ教授は 自国民に向けてラーゲリの不条理を暴露した著作を多く出版したが、このうち三冊が 日本語に翻訳されている。最新作は「シベリアの日本人捕虜たち」(集英社・一九九 九)がある。

四年前にイルクーツクのホテルで偶然にクズネツオフ教授と会うことができたが、帰 国の航空便に乗る時間が迫っていたので、短時間の挨拶で終わっていた。タイシェッ トの墓参後、イルクツークのホテルでクズネツオフ教授と会う日程が組まれていた。 しかもシャマンカの墓地巡拝に同行してくれるという。
クズネツオフ教授の調査によるとタイシェットの日本人墓地は三十四カ所、第二シベ リア鉄道の沿線に集中している。それだけの数のラーゲリが密集していたことにな る。これに対して用意された病院は第三三七〇ラーゲリ病院一つ。しかも資格を持っ た医師がおらず、医薬品もなかった。タイシェットだけでなくブラーツクからも病人 が運ばれてきたが、公開された病院報告書によると日本人の多くが、病院に運ばれて 数分後には死亡したとしている。この結果、この地域では一二・七%(シベリア全土 では八%)という高い死亡率を記録した。第二シベリア鉄道の枕木の数だけ抑留者の 死亡数がでたというのは、誇張でない。苛酷な扱いに対してタイシェット・ラーゲリ では、抑留者が抗議のビラ貼りをしたが、工作・秘密警察が反ソビエト行動、ファシ スト反動行為として鎮圧に当たった。
墓参団は第二シベリア鉄道沿いの墓地を詣でた。線路のすぐ近くに墓地があったが 「友よ安らかに眠れ」の木柱が立てられていた。帰国した戦友が訪れ、立てたもので あろう。

尽きせぬ思いを抱きながら午後十時半、タイシェット発のシベリア鉄道に乗車した が、なかなか寝付かれなかった。ここからイルクーツクまで十一時間の旅となる。墓 参の旅はシャマンカを残して九割方終わった。しかし気を緩めてはいけない。ハード な日程の旅で病人が出るのは、最後の二,三日である。その兆しがあった。皆の疲労 が最高潮に達している。
朝九時半にイルクーツク駅に着いた。休む間もなく二台の車に分乗して最後の墓参地 となったシャマンカに向かう。クズネツオフ教授が私たちを待っていた。「四年前に お会いしています」とクズネツオフ教授に握手を求めると「ご苦労様です」と日本語 で返事が返ってきた。私はクズネツオフ教授の車に同乗させて貰って、シャマンカま で行くことになった。

シャマンカには大阪の女性の父が眠る墓地がある。イルクーツクから車で北上して二 時間かかるイルクーツク川の畔だが、高い崖によって遮られているので、左岸から筏 で急流を渡河しないと近づけない。一一九名の遺体が葬られたままだが、クズネツオ フ教授の調査では大洪水で墓地が流され、厚い泥土の覆われているという。酷い話な ので、その現実を大阪の女性に伝えることはできなかった。現地をみて納得して貰う しかない。
途中でシェレホフ市を通り過ぎる。クズネツオフ教授が「プライムミニスター森のお 父さんの墓がここにあります」と教えてくれた。エレーナが「森総理がきた時に私の 勤めている旅行社がお世話しました。森さんはイルクーツク外国語大学に日本文学全 集など三百七十五冊を寄贈してくれて、私はその本を読んで勉強しました」と口を添 える。

森前総理の父・茂喜さんは石川県根上町の町長を十一期つとめた地方政治家。その人 の墓がイルクーツク市外にあることは知っていたが、詳しいいきさつは聞いていな かった。プーチン大統領との日露イルクールク首脳会談がこの地で行われ、プーチン 大統領も森前総理と一緒に茂喜さんの墓を詣でている。
「何故、森町長の墓がシェレホフ市にあるのですか」とクズネツオフ教授に思い切っ て聞く。クズネツオフ教授の説明は詳しかった。生前、森町長がイルクーツク市を訪 問し、シェレホフ市のたたずまいが気にいって、根上町と姉妹都市の関係を結んだ。 イルクーツク市も金沢市と姉妹都市になっている。そして遺言は「自分が死んだら分 骨してシェレホフ市の墓地に埋めてほしい」。父親の死後、森前総理は遺言を果たし たという物語である。「シャマンカの帰途、その墓地に寄りたい」とクズネツオフ教 授に頼むと大きく頷いてくれた。

シャマンカの対岸に着くとイルクーツク川の流れが速かった。向こう岸までかなりの 川幅がある。両岸を結ぶ鉄索に大型の筏を滑車で繋ぎ、動力を使わずに急流と大型の 舵一つで川を渡るという。「この仕掛けを考案したのはシャマンカ・ラーゲリの抑留 者たちです」とクズネツオフ教授が教えてくれた。大阪の女性を手招きして、クズネ ツオフ教授を紹介する。対岸に渡れば、厳しい現実を彼女に知らせねばならない。涙 もろい私には到底いえないことなので、クズネツオフ教授にお願いした。
日本人墓地の跡地は河原にあった。泥土の上に夏草が生い茂っている。クズネツオフ 教授の説明に大阪の女性は気丈にも堪えている。やおら河原におりて、持ってきた花 束を置き、お線香を焚いて、ひたすら祈りを捧げていた。洪水のあと泥土を堀り起こ し、遺骨の一部を集めて小高い丘に改葬したそうだが、大部分の遺骨は河原に眠って いる。シャマンカで聞いた話でもブラーツク市の七十六人の墓地は、ブラーツク貯水 池に水没して湖の下で遺体が眠っている。五十八年の歳月とはそういうものである。

再び、イルクツーツク川を筏で渡り帰途についた。皆、おし黙っている。酷い現実が そうさせるのであろう。間もなくシェレホフ市の大きな墓地に着いた。正面入り口に 近いところに森茂喜さんのお墓があった。ロシアのお墓は墓石に顔写真が彫って填め 込まれている。岩手県沢内村にある私の父と母の文学碑にも写真家・土門拳が撮影し た写真が彫り、填め込んである。「森さんとそっくりだな!」と誰かが声をあげた。 「そりゃ、父子だもの!」と誰かがまぜかえす。

翌日はイルクツーク市郊外にあるマラトボ村の日本人墓地で、イルクーツク州の現地 追悼式を行う。その夜はイルクーツクで一泊、翌日はハバロフスクで墓参して、帰国 するだけとなった。


ロシア人の花好き

ハバロフスクで最後の墓参をするためにバスをとめて、街角の花売りから献花する花 束をいくつか買った。選んだ花をのんびりと束ねてくれるので少し時間がかかった。 坂の街・ハバロフスクには自転車の姿がない。坂がきついので自転車がないという。 四年前に較べて道いく人の服装が格段と良くなっている。街の清掃も行き届いてい て、沿海州の玄関にふさわしい綺麗な街の佇まいだ。
ふとみると母親に連れられた男の子が花束を抱いて通る。ネクタイを着用してミッ ションスクールの制服の様な背広姿。この様な母子が後から続いてくる。皆、一様に 花束を抱えている。女の子の姿もあった。「教会にいくのか」とエリーナに聞くと首 を振る。ロシアでは九月一日が始業式になる。花束は担任の先生に贈るそうだ。

ロシア人の花好きはモスクワの山田みどりさんから聞いていた。わざわざヨーロッパ から花を輸入しているそうだ。だから他の物価に較べて花の値段が高い。それでもロ シア人は花を買う。ロシア女性の歓心を買おうとするならパンテイ・ストッキングな どよりも花束の方が効き目があるという。

日本から沿海州に花卉を輸出したら商売になると感じた。遠くヨーロッパから花を輸 入するよりも、日本から船で輸出した方が輸送コストが安上がりになる筈だ。ただ、 日本の花卉商売は花の大きさ、色合いなどあまりにも精選し過ぎる。それでないと日 本の消費者が買わないからだ。日本では売り物にならない二級品は捨てられる。それ を大量に集めて安く輸出すれば、ロシアの花の消費量は膨大なので、いくらでも売れ るのではなかろうか。

ハバロフスクのホテルに日本から団体さんが二百四十人もきていた。旅の恥はかき捨 てとばかり酒とビールをしこたま飲んで夜の街に出ていった。一人一人の日本人は臆 病なくらい大人しいのだが、団体さんになると羽目を外して憚らない。島国・日本の 国民性なのだろうか。

極東ロシアを訪れたら日本海を目の前にして帰国することが叶わなかった日本人抑留 者の墓をまず詣でてほしい。この人たちの犠牲があって戦後日本の繁栄が築かれたこ とに思いを致すべきである。また時間が許すならロシア正教の教会を訪れてほしい。 ガイドのエリーナは行く先々の日本人墓地でお線香を立て、祈りを捧げてくれたが、 イルクーツクの古い教会ではイコンの前に身を投げ出して敬虔な祈りを捧げていた。 祈りには宗派も国境もない。私は仏教徒だがイコンの前にロウソクを立て、慣れぬ手 つきで十字を切って祈りを捧げた。