オーロラが輝いた村の旅

古澤 襄

北極でしかみられないというオーロラが、二百年昔に東北の山村で輝いた。 父の故郷であるその村に初めて訪れた。蝦夷の末裔が住む伝説の村である。


母の死と遺稿集


山伏峠は、岩手県の雫石町と沢内村との境にある。その昔、南部・盛岡藩 の”隠し田”と言われた沢内村に、北から入るためには、深い狭い谷を渡 り、険しい山道を伝わって、この峠を越えなければならなかった。

今はアスファルトで完全舗装されたドライブウエーになったが、それでも 狭いつづら折りの坂道を登り、見通しのきかない下り坂を、対向車を気に しながら走るには、かなりのドライブテクニックが必要となる。

横浜から、妻と二人のマイカー旅行で十時間、途中で盛岡に二泊したとは 言え、五十歳を越えた身には、やはりきつい。

この峠を越えると、私の祖先が大正年代の末まで二百五十年間、住み着いた 沢内村の大地が開けてくる。古澤家の過去帳では、初代の古澤屋善兵衛が雫 石村から沢内村に移村したのは、元禄年間だったと言う。
しかし、江戸は元禄の世を謳歌したのであろうが、東北は「元禄の飢饉」で 農民の逃亡が相次いでいた。盛岡藩は元禄九年に農民の他領移動を禁じる布 例を出したほどである。

そのような時期に、山伏ぐらいしか通らない峠を、古澤家の先祖たちは、ど のような思いを抱いて越えたのであろう。三百年昔のことなので、想像もつ かない。

「お母さんは、沢内村に来たかしら・・・」
峠を越えた先祖たちに思いを馳せていた私は、助手席に座っていた妻の声に 呼び戻された。考えてみたが、信州女である母が沢内村を訪れた話は聞いて いない。父が早く死んで、少年時代を母の故郷・長野県で過ごした私も、沢 内村には初めて訪れる

・・・1982年2月6日の夜のことだった。長患いの末、母は金沢文庫の 病院で息をひきとった。私は、身体が一回りちいさくなった遺体を自宅のマ ンションに連れて帰った。遺体が安置された部屋は、七年間、母の病室にな っていた。元気なときの母は、テレビでプロ野球を見るのが楽しみだった。 熱烈な読売巨人軍のフアンである。

しかし、この一年間はベットからおりることも出来ないくらい身体が弱って いた。この病気特有のボケも出て、しもの始末も自分ではままならなかった。 誇り高く、気が強い母にとっては、生きることが辛い毎日だった。
「早く死にたいよ」
二人切りになると、そんなことを言った。ぞっとするくらい暗い目をしてい た。

「あの小説を書き上げないと、死ねないじゃないの・・・」
息子にそう言われると、母は「うん、うん」とうなづく。今では、小説だけ が母に残された”誇り”なのだ。その時だけは、母の目に、ほんかな光が輝 く。この問答は、役者の脚本読みのように、同じせりふが死ぬまで繰り返さ れた。

母の小説は、同人雑誌「星霜」に連載され、未完に終わった。その夜、母の 枕元に座って「碧き湖は彼方」の作品を最初から読み直した。これが、家に 戻った母の供養に一番ふさわしい行為のように思えた。父と母の出会いを描 いたこの作品は、戦前の暗い弾圧の時代を生きたインテリゲンチアの苦悩の 歴史でもある。

読み終わって、父と母の小説を「遺稿集」として残したいと思い定めた。
すぐ電話を取り、前夜、母の危篤を知らせた富山の池田源尚さんに、母が死 んだことを告げて、
「父と母の遺稿集を出したいのです。お墓を建てるより供養になります」
と一気に喋った。池田源尚さんは父の文学仲間で無二の親友だった。

「よろしい。出版を引き受けてくれる人に心当たりがあります。青山さんを 紹介しますから、そこで相談してごらん・・・」
遺稿集「びしゃもんだて夜話」は、こうして出版された。


「一点山」の金打ちの大額


遺稿集の出版がひと区切りつくと、心は父の生まれ故郷・沢内村に飛ん だ。父の処女作・「びしゃもんだて夜話」に描かれた沢内村の山や川、 心優しい人々の集落が夢に浮かぶようになった。

奥羽山脈のふところ深く抱かれたこの村は、冬になると二メートルを越 す雪が積もり、陸の孤島になる。


沢内年代記には「孝安天皇の頃まで、沢内の大部分は湖水ちょうちょう として波とう畳み」とある。やがて、山が崩れて、湖の水が流れ出し、 豊かな土地に人が住むようになった。
古代には中央政権に対抗する独自の文化を持った「まつろわぬ民」の国 であり、えみしの戦士たちが、野にひそみ、山に伏して、天子の征討軍 と激しく戦いを交えた伝説の秘境でもある。

・・・やがて車は峠の頂上に出た。うす暗いトンネルの天井からは、た えず冷たい水滴がしたたり落ちる。トンエルを抜けると、南北28キロ に細長く点在する沢内村が姿を現した。

明和七年七月二十八日、沢内村の北の空は、日没後赤くなり、次第に広 がって、満天残るところなく火のように赤気が走った。極北で見られる オーロラ現象である。村人は不吉の前兆としておそれ、おののいた。極 地で見られるオーロラが日本でも見られたことは、それだけ厳しい寒冷 化にさらされ、凶作の”お告げ”であった。

それから十年経ち、不吉な赤い光を人々が忘れた頃、浅間山が千百年ぶ りの大噴火を起こして、東北の悲劇が起こる。五百メートルまで舞い上 がった噴煙は、太陽の輝きを隠し、平均気温が三度も下がった。天明の 大飢饉が六年間も続き、奥州だけでも餓死者十万人を数えた。

入村して五十年経ち、ようやく生業が安定した古澤屋も飢饉の影響を受 けた筈だが、過去帳や墓碑で見るかぎり、犠牲者は出ていない。むしろ この危機を凌ぐだけの力を備えたのかもしれない。

古澤家の菩提寺は、一点山玉泉寺という名前の古刹だった。寛永年間に 建立され、三百五十年を越える歴史を刻む曹洞宗のお寺である。杉の木 立に囲まれた参道から、二体の仁王が左右を守る山門をくぐると本堂が 姿を現わす。

本堂の階段を上がると頭の上に「一点山」と書いた金打ちで漆塗りの古 い大額が掲げられてあった。


「この大額は、あなたのご先祖が寄進されたものです」
玉泉寺の住職である第二十二世寛洪全英大和尚が、末裔の私にそう言っ た。大和尚は寄進の札を見せてくれた。「文化三年 古澤屋」とある。 天明の飢饉後、三代古澤屋善兵衛が財をはたいて作らせたものであろう。 大額は、ずっしりと百七十年の歳月の重みに耐え、そこに生きた村人の 喜び、悲しみを伝えていた。

「あなたは古澤総本家の襄さんなのです。よく沢内村に来られました」と 言う大和尚の言葉から、郷里の大切さを教える心と、末裔を心から歓迎す る気持ちが滲み出た。


村の共同墓地


沢内村にきて、一番行きたいところは、村の共同墓地だった。父の小説 「少年」には、「誰よりも生前自分を可愛がってくれた亡父の墓がある」 と書いてある。
五つの時に父を亡くした少年は、つらいことがあると、この共同墓地に 来て、亡父の俗名をそのまま彫ったみかげ石の墓石に、小さな背中を向 けて座り泣いた。
総本家の跡取りでありながら、後見人になった叔父からいじめ抜かれた 父の少年時代の不幸を、母から聞かされていたので、小説のこの部分に くると少年の哀れさに胸がつまり、涙を抑えることが出来ない。

大正元年に三十二歳で、人手にかかって非業の死を遂げた、私にとって は本当の祖父に当たるその人の墓の前で、じっと手を合わせて目をつぶ ると、小説の場面のように、少年が小首を傾げて田圃のあぜ道を通って 現れた。


今にも駆け足で、共同墓地に入ってくるような錯覚の世界に吸い込まれ た。ほのかな香りがただよった。目を開けると親族の古澤和子さんが、野 菊を摘んで墓前に供えてくれていた。

共同墓地は、昔のままの檜と桜、杉とクルミの巨木に囲まれていた。木 陰のせいか、夏だというのに秋の深まりを思わせる涼しさだった。


沢内村の旅が終わって、横浜に帰って、しばらくしてから、あの涼しさ は何十年に一度の異常低温だったと聞かされた。沢内村では、ことしは お米の実りは期待できないという。青い穂のまま稲は刈り取られたそう だ。江戸時代の飢饉の悲劇は、現代では見られないが、ことしは出稼ぎ が増えるという。気にかかることである。