若死の予感◆ 祖父の行道が没したのは、三十二歳の若さだった。北上山系の懐に抱かれ た山村の地主だった祖父は、大金を持って山越えの途中、村のならず者に 襲われて命を落とした。 ◆ 父の元は満州で敗戦を迎え、ソ連軍に連行されて。シベリアの地で病死し た。三十九歳だった。古澤家は二代にわたって戸主が若死している。
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祖父と父の不幸な死が、私に若死の予感を与えた。
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「一生分を早く飲んでおかねば・・・」
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三十五歳の時にジン臓病で倒れた。
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「何をやっているんだ」 ◆ 救急車を呼ぼうという仲間の好意を振り切って、国電で川崎の公団アパー トまで帰った。電車の中で、膝にはさんだコウモリ傘が、何度も床に滑り 落ちて音を立てた。意識もかなり朦朧としていた。
胃に刺さったミガキニシン◆ 救急車には、良くない思い出がある。 その頃、九段の旧制中学に通っていた。朝、体調が悪かったが、学校に着 いて間もなく、身体にジンマシンが出た。朝食のミガキニシンがいたんで いた。
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食糧難の戦時中のことなので、いたんだご飯をよく食べさせられた。 ◆ ミガキニシンは母の大好物だった。少々アンモニアの臭いがしても、平気 で母の胃袋は受けつける。その朝のアンモニアの臭いは、かなりきつかっ た。下目づかいに父と母を見ると二人とも黙って食べている。たき立ての ご飯が白い湯気を立てていた。
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頑固者の父が怖かった。何か言うと ◆ 登校して二時間目の授業の時に身体中がアレルギーでかゆくなった。その うちに顔がはれ上がり、ほっぺたが鼻の高さまでむくんで、まぶたも腫れ、 目が見えなくなった。 ◆ 医務室で寝かされたが、間もなく知らせを聞いた母が飛んできた。慌て者 の母は、私の姿を見て、動転し、ウロウロするだけだった、その姿が痛快 だった。わざとウンウン唸ってみせると、母は一層あわてた。
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見えない目をこじあけて盗み見ると、いつの間にか母の姿がなかった。
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「息子が重体です。すぐ救急車を出して下さい」 ◆ 五分もすると、けたたましいサイレンを鳴らして、救急車が中学の正門に 横付けとなった。昼休み時なので、校舎の窓は好奇心の固まりとなった少 年たちで鈴なりとなった。
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「何だ。あいつは・・・。水ぶくれだよ」
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母の上気した手が、私の額に置かれた。 ◆ 九段の坂を一気に下った救急車は、救急病院に滑り込んだ。待ち受けた看 護婦が玄関に勢揃いしていた。救急車の後ろ扉が開くのを待って、私は担 架から飛び降り、一人で廊下を歩きだした。
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「お前、どうしたの。担架に乗ってよ」
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水ぶくれの顔で母をにらみつける私に
健康人の三分の二の腎臓◆ 川崎のアパートに倒れ込むように戻った私は、近所の町医者の往診を受け たが、悪性のインフルエンザという診断だった。 しかし三日経っても高熱が下がらず、診立てが良いと評判の町医者は、首 をかしげるばかりだった。
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寝汗がきつく、布団の下の畳がジットリと濡れた。65キロの体重が、6
0キロを切り、52キロにまで落ちた。
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「それにしても親父の年まで生きたかった」
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ある日、町医者が、
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「ジン臓病ですよ」 ◆ とにかく生き残った。この時ほど妻と二人の娘が愛おしく思ったことはな い。ひとりで涙が流れてならなかった。
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しかし、酒がやめられたのは、年内までだった。
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酔うと若死の不安がまたしのび寄ってくる。
痛みもなく、暗闇へ◆ 大学院を卒業してロイター通信社に入った次女は、今になって 「あの頃のパパは古澤家の当主は若死すると信じていた。私も本気にして 悲しくてならなかった」と、間もなく五十五歳になる父親を半分なじり、 半分はからかう。 ◆ 四十歳は気がつかない中に越えていた。三十九歳で支局長という末端管理 職になり、四十歳で総局長になって、政治記者の時のような気楽な身分で なくなったから、若い頃と違って酒量も押さえ、自制することが多くなっ た。 ◆ 四十五歳で労務部長という不向きなポストを与えられた。もともと青白い 文学青年で、政治記者にも違和感があったが、労働組合と渡り合う労務屋 はもっと違和感が残った。 ◆ そんな時に、国会の廊下で旧知の社会党の総務局長とバッタリ出くわした。 この男とは不思議とウマが合い、特ダネを貰ったこともある。しかし、こ の日は少し違っていた。
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「フルさん、労務屋になるんだって・・・。労働者の敵だな。これからは
手加減しないぜ」
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「人の心配よりも、手前の頭の蠅でも追えよ」 ◆ いつの間にか労務屋が板についてきた。新聞協会の労務委員長も大過なく勤 め、団体交渉を苦にしない余裕もできた。
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三年目の春闘で身体の変調をきたした。数日前から、酒を飲んでいないのに
帰りの車で連続して吐いた。
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「調子が悪い。病院に行きたい」
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こんどは真剣な顔で ◆ 横浜の病院に担ぎ込まれて、検査の最中に洗面器にいっぱい血を吐いた。鮮 血の名通りきれいな血だった。少しづつ意識が薄れていった。
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「すぐ救急病棟へ・・・」
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「四十八歳、親父より十年近く生きた」
長寿の先祖たち◆ 長女には結婚を前提にした恋人が出来ていた。巣立ちする若鳥が、懸命に羽ば たいていた。
◆
新橋の朝鮮料理屋で、その恋人と長女の三人で食事をしたことがある。
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恋人にピッタリ寄り添った長女は、焼き上がった肉を恋人の皿に運ぶことに気
を取られていた。突然、無性に腹が立って、押さえられなかった。 ◆ 今死んでも、長女は立派に巣立っていくだろう。次女が気になるが、慶応女子 高校なので、進学の心配はない。妻と二人で何とかやっていける。父親の勤め はなかば終わった・・・生に対する執着は不思議となかった。その夜、再び血 を吐いた。
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楽天家の妻は二度目の吐血を知って、はじめて取り乱した。主治医から電話で
◆
一人よがりで、酒と仕事と女におぼれた夫だった。おまけに死の亡霊を楽しん
でいる気配がある。しかし、結婚して二十三年間、二人で今の家庭を築いてき
た。
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「酒とタバコは止めて下さい」 ◆ 労務屋を卒業した私は、福岡の支社長になって三年間、博多に住んだ。ニュー スを追う仕事は、若い記者やデスク、それを束ねる部長に任せて、九州各地や 沖縄の新聞社、放送局の幹部と親しくなる”外交”が主任務になった。
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そんなある日、お盆休みで博多に来た次女が閑を持て余して仏壇を整理し始め
た。仏壇はあるが、母も私も妻も不信心で、滅多に手を合わせたことはない。
突然、次女が大きな声をあげた。
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「古澤善蔵 万延元年八月九日没 享年七十八歳」 ◆ 古澤家は何と長命の家系だった。
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