若死の予感

古澤 襄

いつの頃からか、私は自分は四十歳になる前に死ぬ運命だという予感に取 り付かれていた。二十歳台のときは、漠然とした予感ですんでいたが、三 十歳を過ぎると予感が不安になった。そのせいか酒量がすすんだ。

祖父の行道が没したのは、三十二歳の若さだった。北上山系の懐に抱かれ た山村の地主だった祖父は、大金を持って山越えの途中、村のならず者に 襲われて命を落とした。

父の元は満州で敗戦を迎え、ソ連軍に連行されて。シベリアの地で病死し た。三十九歳だった。古澤家は二代にわたって戸主が若死している。

祖父と父の不幸な死が、私に若死の予感を与えた。
「四十歳までは生きられないだろうな」
と口に出しもした。

「一生分を早く飲んでおかねば・・・」
仲間と酒を飲むとピッチが早い。コップ酒を四、五杯あおるように飲むの が癖だった。先を急ぐ癖が身について、酔うのも早い。若死の不安を深酒 でまぎらわしていた。

三十五歳の時にジン臓病で倒れた。
自治省の記者クラブで、おきまりのクラブ麻雀をやっていた。つもろうと したパイが、何度も手から滑り落ちてしまう。

「何をやっているんだ」
相手がイライラして私をなじった。じらされていると思ったのだろう。私 の手を掴んだが、突然、大きな声をして、
「お前、すごく熱いぞ」
それで身体の変調に気がついた。クラブの給仕が持ってきた体温計で計っ たら三十九度二分。高熱だった。

救急車を呼ぼうという仲間の好意を振り切って、国電で川崎の公団アパー トまで帰った。電車の中で、膝にはさんだコウモリ傘が、何度も床に滑り 落ちて音を立てた。意識もかなり朦朧としていた。


胃に刺さったミガキニシン


救急車には、良くない思い出がある。
その頃、九段の旧制中学に通っていた。朝、体調が悪かったが、学校に着 いて間もなく、身体にジンマシンが出た。朝食のミガキニシンがいたんで いた。

食糧難の戦時中のことなので、いたんだご飯をよく食べさせられた。
「ご飯が臭うよ」
神経質な少年が抗議すると、母はゆっくりと私の茶碗を鼻のところに近づ ける。
「臭わないわよ。気になるなら、お湯で流して食べなさい」
無神経な母の鼻をいつも呪ったものだ。

ミガキニシンは母の大好物だった。少々アンモニアの臭いがしても、平気 で母の胃袋は受けつける。その朝のアンモニアの臭いは、かなりきつかっ た。下目づかいに父と母を見ると二人とも黙って食べている。たき立ての ご飯が白い湯気を立てていた。

頑固者の父が怖かった。何か言うと
「男が食べ物のことを言うものではない」
と一喝され、下手をすると往復ビンタが飛んでくるのは、目に見えていた。 目をつぶってアンモニアを飲み下すしかない。飲み込んだミガキニシンが 胃に鋭く刺さった。

登校して二時間目の授業の時に身体中がアレルギーでかゆくなった。その うちに顔がはれ上がり、ほっぺたが鼻の高さまでむくんで、まぶたも腫れ、 目が見えなくなった。

医務室で寝かされたが、間もなく知らせを聞いた母が飛んできた。慌て者 の母は、私の姿を見て、動転し、ウロウロするだけだった、その姿が痛快 だった。わざとウンウン唸ってみせると、母は一層あわてた。

見えない目をこじあけて盗み見ると、いつの間にか母の姿がなかった。
小柄な母は身体を丸くして、医務室を飛び出し、近くの消防署に駆け込ん でいた。

「息子が重体です。すぐ救急車を出して下さい」
血相を変えた母の剣幕に若い消防署員たちは度肝を抜かれたが、親切だっ た。
相手は色白の美人。おまけに母は信州の旧家育ちで、当時では珍しい女子 大出のインテリ女性。ツンとしてとっつきの悪いところがあるが、この時 はか弱い女が、とり乱して途方に暮れていた。

五分もすると、けたたましいサイレンを鳴らして、救急車が中学の正門に 横付けとなった。昼休み時なので、校舎の窓は好奇心の固まりとなった少 年たちで鈴なりとなった。

「何だ。あいつは・・・。水ぶくれだよ」
「消毒しないと感染するね」
「死ぬのかな・・・」
担架の上で観念して目をつぶった私は、心の中で思い切り母をののしった。
「慌て者め、恥をかかせて・・・」

母の上気した手が、私の額に置かれた。
「お前、大丈夫なの・・・」
腹が立って、額の手を振り払う気力も失せた。

九段の坂を一気に下った救急車は、救急病院に滑り込んだ。待ち受けた看 護婦が玄関に勢揃いしていた。救急車の後ろ扉が開くのを待って、私は担 架から飛び降り、一人で廊下を歩きだした。

「お前、どうしたの。担架に乗ってよ」
転がるように、追いすがった母は、私の手を引っ張った。

水ぶくれの顔で母をにらみつける私に
「お願いだから、担架に乗ってよ」
哀願する母の声は悲鳴に近かった。
それ以来、私は救急車が本能的に嫌いになった。


健康人の三分の二の腎臓


川崎のアパートに倒れ込むように戻った私は、近所の町医者の往診を受け たが、悪性のインフルエンザという診断だった。
しかし三日経っても高熱が下がらず、診立てが良いと評判の町医者は、首 をかしげるばかりだった。

寝汗がきつく、布団の下の畳がジットリと濡れた。65キロの体重が、6 0キロを切り、52キロにまで落ちた。
「やはり寿命がきたか」
なかば観念して、2DKのアパートの四畳半の部屋で、汚れた天井を見つ めるばかりだった。

「それにしても親父の年まで生きたかった」
三十五歳で死ぬには心残りがあった。パパっ子の長女が小学校の二年生、 ママっ子の次女が五歳で二人とも可愛い盛りだった。この子たちを残して 逝くには、心の準備が出来ていない。

ある日、町医者が、
「尿を取りましょう」
と言い出した。正直に言って身体から寝汗は吹きこぼれるように出るが、 尿はほとんど出なかった。しぼり出すようにして出た尿を検査したら蛋白 がドロっとあふれ出た。

「ジン臓病ですよ」
それから三ヶ月間、塩抜きの闘病生活が続き、秋風が立つ頃には快復した。 町医者の宣告は厳しかった。
「これからは、酒もタバコも厳禁です。ジン臓は機能が破壊されたら、も う使えない。あなたは健康人の三分の二のジン臓しかない」

とにかく生き残った。この時ほど妻と二人の娘が愛おしく思ったことはな い。ひとりで涙が流れてならなかった。

しかし、酒がやめられたのは、年内までだった。
体調が回復して、厳しい政治記者の夜討ち朝駆け生活が再開されると、身 体が酒を求めた。

酔うと若死の不安がまたしのび寄ってくる。
「それにしても三十九歳までだな・・・」
酒量が病気前よりも上がり、不安がまた酒を求めた。


痛みもなく、暗闇へ


大学院を卒業してロイター通信社に入った次女は、今になって
「あの頃のパパは古澤家の当主は若死すると信じていた。私も本気にして 悲しくてならなかった」と、間もなく五十五歳になる父親を半分なじり、 半分はからかう。

四十歳は気がつかない中に越えていた。三十九歳で支局長という末端管理 職になり、四十歳で総局長になって、政治記者の時のような気楽な身分で なくなったから、若い頃と違って酒量も押さえ、自制することが多くなっ た。

四十五歳で労務部長という不向きなポストを与えられた。もともと青白い 文学青年で、政治記者にも違和感があったが、労働組合と渡り合う労務屋 はもっと違和感が残った。

そんな時に、国会の廊下で旧知の社会党の総務局長とバッタリ出くわした。 この男とは不思議とウマが合い、特ダネを貰ったこともある。しかし、こ の日は少し違っていた。

「フルさん、労務屋になるんだって・・・。労働者の敵だな。これからは 手加減しないぜ」
顔は笑っていたが、目は冷たく光っていた。
「フン」
私は鼻の先でせせら笑った。人が右と言えば、左に走る持ち前のヘソ曲がり がムクムクと頭をもたげた。そうなると挑戦的な毒舌が機関銃の弾丸のよう に止まる事を知らない悪癖がある。

「人の心配よりも、手前の頭の蠅でも追えよ」
忠告したつもりの総務局長は、カッとなってその場を去った。
その夜は浴びるほど酒を飲んだ。いくら飲んでも酔わない。飲めば飲むほど 頭が冴え渡って、言いようもない寂しさだけが残った。

いつの間にか労務屋が板についてきた。新聞協会の労務委員長も大過なく勤 め、団体交渉を苦にしない余裕もできた。

三年目の春闘で身体の変調をきたした。数日前から、酒を飲んでいないのに 帰りの車で連続して吐いた。
その朝、トイレで真っ黒な血便が出て、貧血を起こした。

「調子が悪い。病院に行きたい」
寝ぼけまなこの妻は取り合わなかった。
「ズル休みでしょう。お酒の飲み過ぎですよ」
「救急車を呼んでくれ」
それで妻は私の身体のただならぬ様子に気がついた。

こんどは真剣な顔で
「救急車はみっともないから、タクシーを呼びます」
鬼門の救急車アレルギーを忘れるほど、胸がむかつき、吐き気が切迫してい た。

横浜の病院に担ぎ込まれて、検査の最中に洗面器にいっぱい血を吐いた。鮮 血の名通りきれいな血だった。少しづつ意識が薄れていった。

「すぐ救急病棟へ・・・」
看護婦に指示する医者の声がかすかに耳に残ったが、痛みもなく、暗闇に引 き込まれていった。
「このまま死ねるのかな」
身体から力が抜けていく状態で、忘れていた若死の記憶だけが、鮮やかに甦 っていた。

「四十八歳、親父より十年近く生きた」
不思議と妻や娘たちの顔が浮かばなかった。


長寿の先祖たち


長女には結婚を前提にした恋人が出来ていた。巣立ちする若鳥が、懸命に羽ば たいていた。

新橋の朝鮮料理屋で、その恋人と長女の三人で食事をしたことがある。
物わかりのいい父親のつもりでいた。恋人は同僚の長男で、古風な礼儀正しさ が目立つ好青年だった。

恋人にピッタリ寄り添った長女は、焼き上がった肉を恋人の皿に運ぶことに気 を取られていた。突然、無性に腹が立って、押さえられなかった。
その夜、したたか酔った私は
「記者なら許すが、カメラマンでは駄目だ」
「夜間大学の出身では出世できない」
と、へ理屈を並べて長女に当たった。じっと耐えている長女の目に、父親に対 する憎悪の色が一瞬宿ったのを見て、私は物を言う気力を失った。言ってはな らないことを言ってしまった深い悔悟の念が身をさいなんだ。

今死んでも、長女は立派に巣立っていくだろう。次女が気になるが、慶応女子 高校なので、進学の心配はない。妻と二人で何とかやっていける。父親の勤め はなかば終わった・・・生に対する執着は不思議となかった。その夜、再び血 を吐いた。

楽天家の妻は二度目の吐血を知って、はじめて取り乱した。主治医から電話で
「ご主人の容態が思わしくないので、万一のために親戚に連絡する準備をして おいた方がいい」
と言われ、泣きじゃくるだけだった。

一人よがりで、酒と仕事と女におぼれた夫だった。おまけに死の亡霊を楽しん でいる気配がある。しかし、結婚して二十三年間、二人で今の家庭を築いてき た。
「あの時、ママは泣いていた」
退院した夜、長女と次女が妻をからかった。
「泣きなんかしていないわよ」
妻は照れて、台所に逃げた。

「酒とタバコは止めて下さい」
主治医は町医者と同じ事を言った。こんどは、妻も酒とタバコには厳しかった。 一年間は、酒もタバコも縁を切った。五十歳の坂を越えると酒も週に一、二度 のペースに落ち、酒量もビール一本程度になった。五十歳を過ぎて死んでも、 もう誰も若死と言ってくれない。

労務屋を卒業した私は、福岡の支社長になって三年間、博多に住んだ。ニュー スを追う仕事は、若い記者やデスク、それを束ねる部長に任せて、九州各地や 沖縄の新聞社、放送局の幹部と親しくなる”外交”が主任務になった。

そんなある日、お盆休みで博多に来た次女が閑を持て余して仏壇を整理し始め た。仏壇はあるが、母も私も妻も不信心で、滅多に手を合わせたことはない。 突然、次女が大きな声をあげた。
「パパ、見てごらん。ご先祖さんの年齢を・・・」
次女の手には過去帳が握られていた。

「古澤善蔵 万延元年八月九日没 享年七十八歳」
「古澤善治 明治十年七月四日没 享年六十五歳」
「古澤勇治 大正七年五月一日没 享年八十一歳」
「古澤善五郎 昭和十一年十二月二十六日 享年八十八歳」

古澤家は何と長命の家系だった。