戊辰戦争と太平洋戦争

古澤 襄

陸・海軍の将星を輩出した岩手の風土と歴史は、明治維新以降の日本近代史の興味あ るテーマである。現代史懇話会の『史』にいくつかの優れたエッセイを発表した古津 四郎が亡くなって久しいが、旧制盛岡中学の出身である古津四郎は、このテーマを晩 年の仕事の中心に据えている。

私はこの夏、十五年ぶりに盛岡を訪れ、郷土作家古沢元を再評価しようという記念講 演会に招かれた。明治40年生まれの古沢元は、生きていれば九十歳、講演会を詳し く報道した岩手日報は『生誕九十年を迎えた古沢文学検証の意義を印象付ける内容と なった』と評価した。

古沢元は、戦前のプロレタリア文学全盛期に登場し、武田麟太郎、高見順などと文学 活動をした岩手県出身の作家である。『昭和文学盛衰史』を書いた高見順は、戦後抑 留地のシベリアで病死した古沢元の死を悲しみ、戦後『中間小説』という言葉が流行 したが、そのルーツは、古沢元の雑文で使った『中間文学者』という言葉にある、と 回顧している。


古津四郎と古沢父子


古津四郎は、この古沢元と盛岡中学で一緒に通学し、古沢元の実弟行夫(戦前新漫画 家集団で活躍した岸丈夫)とは同級で、旧知の仲だった。古沢兄弟が下宿した筋向か いが古津四郎の家だった事情による。古沢元の長男である私に『古沢兄弟は超世間的 でさっぱり勉強しないのに、成績はよかった。兄は作家、弟は画家を志し、いずれも 風変わりだった。たしかに英俊だったが、世間との付き合いなどは無頓着で、軍人で 言えば石原莞爾型だった』と手紙をくれたのは、共同通信社を退社したあとだった。

私が共同通信社に入社したのは昭和32年、政治部記者になった。古津四郎は、同盟 通信社の政治・軍事記者。終戦後、同盟はGHQの圧力で解体され、共同と時事のふ たつの通信社になる。昭和32年の名簿をみると古津四郎は京都支局長になってい る。その後記事審査室長となり、昭和40年に局長待遇で定年退社した。

自分の古い友人の長男が同じ会社で、しかも同じ政治部記者の道を歩んでいたのだか ら、人間の縁しの深さ、運命のいたずらといったものを、この頃毎日のように考えて いたという。しかし、古津四郎は在社中は私に声ひとつかけていない。記事を審査す るという公平な立場を守るため、懐かしさからノドまで出かかった言葉を飲み込んん で、その縁しを明らかにしたのは、退職後だった。

私の手元には昭和52年5月発行の『史』第三十三号が一冊ある。『同郷の将星た ち』の表題で板垣征四郎、東条英機、米内光政を偲ぶ力作である。政治・軍事記者の 面目が躍如としている。しかしこの当時、北陸勤務を終えて本社の労務部長になって いた私は、いただいた本をパラパラのめくって読んだだけで、そのまま本棚に並べ た。労使の緊迫した交渉に明け暮れていた身にとって、歴史的なエッセイすら気の重 い読み物だった。

その後、古津四郎とは、手紙のやりとりがひんぱんとなったが、『同郷の将星たち』 の続編は送ってこなかった。東京に生まれ、東京育ちの私は、盛岡を訪れたことがな い。そんな私をみて、『同郷の将星たち』の続編を送る無駄を覚ったのではないかと 思う。


明治維新は屈辱の歴史


昭和57年、母が亡くなって、私は夫婦作家であった古沢元・真喜の遺稿集を出版し た。『びしゃもんだて夜話』という古沢元の初期の作品を表題にしたこの本は、地元 の岩手日報が夕刊の一面トップで『埋もれた作品に光 郷土作家古沢元の遺稿集』の 見出しで扱ってくれた。これが縁になって、15年前、盛岡を訪れ、父と盛岡中学で 同級だったという人達と懇談し、父の思い出を聞いた。その足で冬には2メートルを 超す大雪が積もり、交通が途絶する『陸の孤島』沢内村を訪問した。江戸時代には盛 岡藩の罪人を追放した流刑の地だった沢内村は、戦後、医療・福祉の村として全国的 に知られるようになるが、コメづくり日本一の農民を生み、今はリンドウの栽培に村 作りの運命をかけている。

沢内村を訪問して驚嘆したのは、総人口4000人あまりの僻地の寒村でありなが ら、明治以降幾多の人材を輩出していたことである。よく知られた人から言えばNH K解説委員、国連外交官として活躍した平沢和重、吉川英治文化賞を受賞した雪の写 真家・高橋喜平、開戦時の海軍報道課長・平出英男海軍大佐の母も沢内村の出身であ る。法曹界では大審院検事の石井喜兵衛、長野地裁所長の石井寿太郎、仙台高裁判事 の石井義彦、軍人では海軍中将・侍従武官長の小山田繁蔵、海軍中佐で軍事評論家・ 原水恊常任理事の高橋甫、学界では京大法学部長・日本学士院会員の加藤新平、北海 道森林百年計画の東大名誉教授・高橋延清、金沢医科大学学長の小田島粛夫、実業界 では岩手銀行頭取の石井富士雄などざっと数えあげただけで十指に余る。

再び盛岡を訪れた私は、そこで太田秀穂(としほ)に会う。毎日新聞記者を振り出し に岩手日報編集局長、岩手放送社長と新聞・放送の経営で非凡な手腕をみせたこの人 物は、日本文芸家協会会員、日本音楽著作権協会会員の肩書でわかるように、『最後 の南部藩士』など数多くの著作をあらわした著名な岩手文化人である。

盛岡中学で古沢元よりも3年後輩だったというのが、太田秀穂を知るきっかけだった が、話をきいているうちに『明治維新は南部藩にとって、屈辱の歴史であった』とい う強烈な問題意識に圧倒された。いつの間にか明治維新以降の岩手県の苦難の歴史 と、それをハネ返そうとした岩手県人の数多くの物語りに引き込まれ、時間のたつの を忘れた。太田秀穂も故人となったが、古津四郎によって知った岩手県人に生きざま に深い関心をもったのは、この時からである。それはまた古沢元を父としてではなく 岩手県人として、新しい目で再吟味するきっかけともなった。


戊辰戦争は政見の異同のみ


『東北を理解するには、戊辰戦争まで逆上らないとわからない』と言ったのは、共同 通信社仙台支社長になった私の友人、高木早苗の言葉である。青森県出身の高木早苗 は、東北人であるが故に戊辰戦争を人よりもよく知っていたが、仙台支社長になって 改めてこの凄絶な戦いの歴史が、現在も生きていることを思い知った。

私にも同じ経験がある。福岡支社長になって、管内の新聞・放送各社に赴任の挨拶回 りしたときに、沖縄で一夜の歓待を受け、宴たけなわの頃『ところで明日はどちらに お回りですか』と聞かれ、軽い気持ちで『鹿児島に行きます』と答えたら、一瞬座が 白けたことが忘れられない。沖縄にとって、今でも島津藩の軍船が琉球に攻め込み、 琉球王朝を滅ぼした歴史は屈辱の1ページとして忘れられない出来事である。

江戸城を明け渡し、朝廷に恭順の意を表した徳川慶喜だったが、東北・北越の各藩は これに納得せず、奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と干戈を交えた。藩士上下をあげ て城とともに滅びた会津白虎隊の悲劇は、歴史に悲しい物語として残るが、北越の河 井 継之助の壮烈な戦い、薩摩の官軍と戦って負けなかった庄内藩など東北・北越の 兵は辛抱強く、戦いに強かった。この伝統は日本陸軍に継承され、玉砕するまで、最 後の一兵となっても戦う東北の兵の強さは、満州事変、支那事変、太平洋戦争でも遺 憾なく発揮された。

岩手の盛岡藩が、この戦争に参加したのは、奥羽越列藩同盟の敗色が濃厚となった末 期のことで、官軍に寝返った秋田藩を討つために明治元年8月9日に秋田藩領に進 入、大館を落とし、県北の中央鷹巣まで攻め込んだ。しかし増強された官軍と近代兵 器の前に血涙を飲んで9月24日降伏する。盛岡藩が何故、不利を承知の戦争に参加 し、戊辰戦争の最後の抵抗者になったのかという点については諸説がある。藩の筆頭 家老だった楢山佐渡が京都にあって、薩・長の専横を恐れた岩倉具視の策謀に乗り、 藩論を参戦に持っていった説、東北になだれ込んだ官軍、とくに薩軍から残虐な乱 暴、狼藉を受けた会津の農民・婦女子が船で逃れ、下北半島に漂着し、南部藩によっ て救助されているが、これが藩論を決めたという説、盛岡藩の戦意を支えていたのは 薩・長政権に代わる新政権を自らの手で樹立し、新しい統一国家を目指したのだとす る説があるが、いずれも真実であろう。

  楢山佐渡は敗戦の責任を一身に負って『反逆首謀』の名のもとに切腹して果てるが、 大正6年盛岡市内の報恩寺で挙行された『戊辰戦争殉難者50年祭』で、時の政友行 総裁の原敬が出席して、『戊辰戦争は政見の異同のみ』と祭文を読んだのは有名であ る。

明治以降の日本近代史のなかで、岩手県人がきわめて特殊な、際立って目立つ存在と して足跡を残したのは、戊辰戦争以降、薩摩や長州に牛耳られた藩閥政治を打破しよ うという現状打破の思想が行動原理として存在したからである。


軍人しか道がない岩手県人


明治維新以降の岩手県のは、貧困と蔑視に耐えた忍従の歴史である。終戦によってど ん底から、奇跡的な経済復興を遂げ、経済大国になった戦後の日本と較べることは出 来ない。

だから軍人になるのが、貧困と蔑視の桎梏から逃れる数少ない道であった。『太平洋 戦争は岩手の東条英機が起こし、同じ岩手の米内光政が収めた』というのは、よく言 われることだが、明治維新以降、朝敵の汚名を着せられた岩手県人には、軍人にな り、天皇陛下の忠節を誓うしか道が残されていなかったと言える。陸軍大将の東条英 機と海軍大将の米内光政が、昭和天皇の信頼が特に厚かったことは周知の事実だが、 陸軍のトップに躍り出る過程で東条英機は、山県有朋以来の『長州人にあらざれば、 陸軍にあらず』の長州閥と対決している。東京生まれの東京育ちだった東条英機だ が、陸軍切っての俊才と言われた父東条英教が、盛岡藩士だったという理由だけで、 陸軍中将で退役された非合理を忘れていない。

  海軍は長州・陸軍と並んで、薩摩・海軍と言われたが、陸軍とは事情を異にする。明 治海軍は、薩摩の西郷従道によって育てられたが、明治6年にイギリスのA・L・ダ グラス海軍少佐を招請して、近代海軍へ脱皮を図った。士官5人、下士官12人、水 兵16人からなるダグラス・ミッションは築地兵学寮で、徹底した近代的な海軍士官 の養成に努めた。西郷 従道に次ぐ薩摩海軍の山本権兵衛は、明治7年に兵学寮を卒 業した。山本権兵衛は後に海軍大佐でありながら、海軍大臣西郷従道のもとで、大臣 官房主事(軍務局長)となり、海軍人事の大刷新で手腕を発揮する。山本権兵衛をと ことんまで信頼した西郷従道は、明治21年当時の海軍将官16人のうち7人が薩摩 出身で『薩摩海軍』と言われた海軍人事に大ナタをふるい、広く人材を集めるため将 官8人を退役させたが、このほとんどが薩摩出身者だった。日露戦争以降、薩摩出身 の海軍大将は数えるほどしか出ていない。明治海軍は『薩摩海軍』だったが、日清戦 争、日露戦争を経て、日本海軍に脱皮した。陸軍の東条英機のような荒療治は必要と しなかったのである。


戊辰戦争の屈辱が人材輩出のバネ


幕末の慶応元年、盛岡藩士の子弟を教育する藩校明義堂が、作人館と改められた。修 文所と昭武所のふたつの学館からなる文武一致の人材教育が主眼で、水戸の藩学・弘 道館をモデルにした。明治13年に、南部藩校・作人館の伝統を引き継いで旧制盛岡 中学が創立される。創立当時は、岩手県下には、盛中のほかに、一関、遠野、福岡の 三校があったが、盛中は別格で三校に先駆けて、全県下のえり抜きのエリートを集め て選抜した。しかも各学年の生徒数は、僅か2クラス100人という狭き門だった。

盛中の前身である南部藩校・作人館からは、東洋史の第一人者那珂通世、日本陸軍 切っての英才といわれた東条英教、そして平民宰相として首相の座にのぼり南部人の 喝采を浴びた原敬が輩出している。

盛中になってからは、野村胡堂、石川啄木、宮沢賢治、金田一京助という文人が育 ち、軍人では陸軍の板垣征四郎(陸軍大臣)、海軍の米内光政(総理大臣)を双璧に して、山屋他人(海軍大将)、栃内曾次郎(海軍大将)、及川古志郎(海軍大将)、 原敢二郎(海軍中将)が生まれた。海軍大将は薩摩が17人で断然トップだが、岩手 は斎藤実を含めて5人、薩摩海軍に次ぐ南部海軍とまで言われた。総理大臣も長州の 7人に次いで岩手は原敬、斎藤実、米内光政、東条英機、鈴木善幸と5人出してい る。

人材輩出の理由は、盛中が単なるエリート校でなく、程度の差はあるが『白河以北は 一山百文の夷狄のなるぞ、攘夷の試練の場に至る。今ぞ、宸襟を安んじ奉る秋なり』 と官軍から蔑視された郷土の名誉回復に燃えた気風が全校に漲っていたからである。 太田秀穂、古津四郎の強烈とも言うべき郷土愛は、ここから生まれた。

古津四郎は、満州事変のときには現地特派員として満州にわたるが、そこで盛中の先 輩になる関東軍高級参謀板垣征四郎、山形県人の作戦主任参謀石原莞爾と出会う。板 垣征四郎は、南部藩筆頭教授佐々木(板垣)直作の孫で、盛中から仙台陸軍幼年学校 に入り、近衛、平沼内閣の陸軍大臣となり、敗戦によってA級戦犯として処刑され た。古津四郎は生前、『同郷の将星たち』という9回続きの連載で、板垣、東条、米 内を偲ぶ作品を発表したが、『歴史は過去の出来事の綴り方だが、時の愛憎、興亡、 権威の盛衰によって歴史観が違う。いつ、どこで過去の毀誉褒貶を逆転させるような 新発見が掘り出されないとも限らない』と正論を吐いた。

生前の古津四郎は、盛岡に戻ると日蓮宗・法華寺に詣で、板垣家の墓にお線香とお花 を捧げている。そのあと曹洞宗・久昌寺に寄り、東条家の墓に詣で、さらに米内光政 の墓所も訪れていた。


英知をもって新時代に


戦後の歴史評価は『陸軍悪玉、海軍善玉』が定着したように思われる。しかし果たし てそうであろうか。サイレト・ネービーは言うべきときに、断固として主張すること しない日和見に通ずる。政治的な動きを嫌うのは、第一線の艦隊勤務なら当然だが、 海軍省、海軍軍令部の責任者なら、国家の将来のために死を恐れずに発言すべきであ る。敗戦後『あの戦争は反対だった』と言っても、それは引かれ者の小唄でしかな い。

マッカサーによる占領政策の一環として国際法を無視した『東京裁判』は、一面では 戦前には知らされなかった歴史的証言を引き出したが、勝者が敗者を一方的に裁く強 引なやり方は、広田弘毅の死刑判決を持ち出すまでもなく公正な裁判史上の汚点を残 した。『陸軍悪玉、海軍善玉』説も、東京裁判史観を絶対視する戦後の軽薄な論調か ら派生している。

『戊辰戦争は政見の異同のみ』と原敬が言い放ったのは、盛岡藩が敗戦してから50 年たっている。終戦後、すでに50年以上の歳月が過ぎ去ったが、原敬のごとく言い 放つ勇気ある人物はまだ現れていない。やはり予想もしなかった経済復興で、経済大 国の夢をむさぼり、安逸な現状を是とする気分が、国民全体を覆っているからであろ う。

私はあの戦争を止むに止まれなかった聖戦だったと抗弁するつもりはない。むしろ支 那事変をずるずると拡大していって『勝った、勝った』と酔いしれた無策な政治家と 軍部、それに疑問を抱かなかった国民の愚昧さ、言論の無責任さには救いようのない 絶望感を抱く。伝統的にロシアの南進を警戒する北進論が主流だった陸軍が、南方に 資源を求める海軍の南進論に同調したのは、援蒋ルートに手を焼き、米英を直接叩く 発想だったが、それを指導した軍部の識見のなさを指摘せざるを得ない。

しかし隊付き将校をはじめ戦場にあった軍人には、何の責任もない。軍人は命令によ り、戦場で最善を尽くすのが責務である。客観的にみれば、太平洋戦争では戦線を拡 大し過ぎ、兵站線を補給困難になるほど伸ばし過ぎた作戦の誤りやミッドウエーで航 空戦力を失った戦略の欠如があげられるが、その責任はあげて参謀本部や軍令部に あって、戦場にあった軍人ではない。

政治部時代に参議院議員だった辻政信と会う機会があったが、まさに自己顕示欲の最 たる無責任な軍官僚そのものだった。戦後の大蔵官僚にも、同じような思い上がった 人物が居た。これこそ国を誤る獅子心中の虫である。軍人として最善を尽くした者 が、占領地で勝者の一方的な軍事裁判に引き出され、いわれなき罪を着せられて処刑 された例は枚挙にいとまないが、敗戦の無残さが心に焼き付く。

盛岡藩の敗北の歴史と太平洋戦争の敗戦の歴史を重ね合わせると、そこから立ち直る には半世紀を超える時間の経過が必要なことはよくわかる。しかし、そろそろ英知を もって、新しい時代に立ち向かう勇気が必要な時期がきたように思う。