犬の骨折り鷹の功名

古澤 襄

NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」が好調なスタートを切った。司馬遼太郎の「最後の 将軍」も売れているという。女子大の卒論で徳川慶喜をテーマにした人が多いという 話を聞いたこともある。私の住んでいる茨城県も水戸を中心に慶喜ブームに沸いてい る。

しかし私は同じ水戸でも藤田東湖のほうに心を惹かれる。大河ドラマでは東湖がほん の脇役でしか扱われていないのが寂しい。

東湖は安永三年水戸に生まれ、烈公と言われた徳川斉昭に仕えた。酒を愛し、大義に 生きた一生で、薩摩の西郷隆盛は「われ先輩においては藤田東湖に服し」と最大級の 賛辞を呈して憚らなかった。当時の勤王の志士たちは東湖を師と仰ぎ、水戸を訪ねて 教えを乞うのが一種の流行となった。

徳川御三家の陪臣でありながら、アヘン戦争に始まったヨーロッパ列強のアジア侵略 から日本を守るには三百年の太平の夢から醒めようとしない幕府に見切りをつけ、天 皇親政による近代国家の建設を唱え、幕府の自発的な大政奉還を主張した。しかし不 幸なことに安政の大地震のさいに母を助けて、圧死し五十年の生涯を閉じた。明治維 新に先立つ十三年前のことである。

東湖の大政奉還は武力による討幕でなく、徳川宗家に朝敵の汚名を着せない自発的な 政権交代を目指したところに特徴がある。しかし東湖の不慮の死によって、これまで 逼塞していた門閥保守派が息を吹き返し、改革派に対する弾圧が高まり、安政の大獄 という虐殺事件が発生した。これに反発した水戸藩士が幕府の大老井伊直弼を桜田門 外で襲い,斬るというクーデターを呼ぶ。これ以降、水戸藩士の行動は絶望的で過激 なテロ活動に走り、東湖の四男小四郎による天狗党の挙兵は三百二十八人の死罪とい う悲劇を招いた。

桜田門の変から明治維新までの間に殉難した水戸藩士の数は二千人にのぼり、一藩の 人材は悉く死に絶えている。この数は薩摩、長州,土佐、越前の殉難した志士の総数 に匹敵し、薩長による明治維新は幕末を血で染めた水戸の犠牲のうえに築かれたと言 える。  鷹狩りで、鷹は空中でゆったりと回っていて、犬が鳥などを追い出してくれるのを 待っている。地面で犬は一生懸命走り回って獲物を追い出すが、苦労して見つけた獲 物はむざむざと鷹にさらわれてしまう。「犬の骨折り、鷹の功名」とは水戸藩の幕末 の悲劇的な姿を象徴している。

もっとも徳川御三家だった水戸藩が「犬も功名」を得ては本意ではあるまい。水戸藩 の出である徳川慶喜が維新後はもっぱら多芸な趣味の世界にひたり、世間とは没交渉 まま七十七歳でこの世を去っている。司馬遼太郎は「最後の将軍」のあとがきで,徳 川慶喜を窮地に追い込んだ薩摩の策謀家大久保利通に対する意趣の根深さを伝えてい る。歴史の加害者に対し,自らを歴史の被害者に置くことによって,薩長を仇役とし て世間に印象付け後世の歴史にアッピールすることが、慶喜の手に残された最後の 「カード」だったと結論付けた。

明治維新以降の日本の国造りは「薩長藩閥」政治の弊害を残したことは改めて言うま でもない。薩長にあらずば人にあらずという風潮すら生んでいる。最後の賊軍と言わ れた南部岩手県の苦難の歴史も、東湖の不慮の死がなかったら,あるいは違ったもの になっていたかも知れないた。会津白虎隊の悲劇も,西郷隆盛を失った西南の役も避 けられたという仮説も成り立つ。一人の傑出した人物の欠落が,その後の歴史を変え たと言うのは思い過ごしであろうか。

古澤元は昭和十七年の同人雑誌「正統」八月号に「水戸に学ぶ」という歴史小説雑記 を発表したが、東湖資料を集めるのに四年の歳月を費やした。個人で集めた東湖資料 としてはトップクラスであろう。この豊富な資料をもとに東湖の雌伏時代から、斉昭 公の側近として台頭し、藩学弘道館を建学した天保九年まで筆を進め、八十四枚の未 完の小説「回天詩史」を残したまま昭和二十年に弘前の部隊から風雲急な満州の大地 に向かって、輸送船で玄界灘を渡り,再び祖国の土を踏まなかった。心残りがあった と思う。