沢内前史、雫石のルーツを求めて

古澤 襄

雫石町は、九月の震度6の大地震で、全国に名前を知られることになったが、私に とっては三百年の歴史を刻んだ沢内村の古澤家のルーツの土地として、以前から心に 懸かっていたところである。沢内村に始めて足跡を記した初代古澤屋善兵衛は、17 00年(元禄13年)頃、雫石村から境の山伏峠を越え、新天地の沢内村に移村して きた。

初代の古澤屋善兵衛は、1773年(安永2年)に永眠したが、古澤家過去帳には 「雫石生まれ」と明記されてある。移村の年代と死亡年を計算すると初代の善兵衛の 前に父なる人物が居なくてはならないことになるが、この人物の墓碑、過去帳の記録 は現存していない。初代の善兵衛は、玄質道了信士の戒名が付いている。初代の死去 から遡る二十五年前の1748年(延享五年)の墓碑が確認されているが、墓碑銘は 風雪に洗われて、読みとれない。戒名も読みとることが出来ない。あるいはこの人物 が、初代の父だったのかもしれない。

沢内村の古澤家は、移村した時から古澤屋と「屋号」を名乗り、その後急速に沢内村 の豪農にのし上がったことから類推すると、雫石村の本家筋はかなりの家柄を誇る豪 農か商家だったのではないか、というのが、私の立てた推理であった。しかし、現在 の雫石町には、古澤家を称する家は一軒も残っていない。そこで手がかりは途絶えて しまった。

ことし(1998年)夏に沢内村を訪れた私は、教育長の高橋繁氏から、貴重な発見 を知らされた。手がかりが無かった雫石の古澤家が、古文書で発見されたと言う。高 橋氏は、忙しい公務の間を縫って、私が追い求められなかった古澤家の雫石のルーツ を探求し続けていてくれたのであった。

雫石町の旧家に伝わる古文書に「岩持忠兵衛家本」という1591年(天正十九年) から1864年(元治元年)までの記録(写本)が現存している。書き出しは「天正 十九年、此年、古大膳様、九戸左近将監御退治也、太閤秀吉公の御名代として、浅野 弾正長政・蒲生飛騨守・伊井兵部少輔・長崎軍奉行として、石田治部少輔、上使ニ而 御退治也」とあるが、この筆跡の人物の署名が、雫石町古澤理右衛門義重となってい た。

この写本は二百七十三年間の記録だが、裏表紙に「寛政九丁乙歳六月初旬写之、雫石 町理右衛門義重」とある。もっとも理右衛門義重の筆跡は、写本の一部、1591年 から1801年までの二百十年間で、その後の筆跡は別人のもとなっている。この古 澤理右衛門義重は、当時の雫石では、かなりの教養人だったようで、写本は南部根元 記、九戸軍記、雫石の万用歳代記など多岐にわたっている。門弟もかかえていた。

雫石の下久保、末永久右衛門家に伝わる「九戸軍記」の奥書に「滴石町古澤屋理右衛 門、門弟兵助主」と記されてあった。1810年(文化七年)の記述である。また岩 持忠兵衛家には「南部根元記」の写本が残っているが、この奥書にある「寛政八年」 は1796年である。

このことから古澤理右衛門義重なる人物は、1796年から1810年までの14年 間は雫石町に居住し、活躍していたことが古文書で実証されている。しかも沢内村の 古澤屋と全く同じ「屋号」を名乗っていたことが注目される。しかし、1866年 (慶応二年)に雫石地方の検地が実施されたが、その時には古澤理右衛門義重やその 一族のの名前は出てこない。この人物は雫石に忽然と現れ、忽然と消え去った謎多き 人である。

一方、沢内村の古澤屋は1779年(安永八年)に二代善兵衛が死去し、三代善兵衛 の時代になっていた。三代善兵衛になって沢内村の古澤屋は興隆の階段を上り始め、 1806年(文化三年)に菩提寺の一点山玉泉寺に、今日まで伝わる金打ちの大額を 寄進したり、村に伝わる古文書に名前が登場してくる。しかし、この頃、雫石の古澤 屋は没落したのか町の歴史から永遠に姿を消してしまった。

古澤理右衛門義重という士族ではないにしても、郷士クラスの”たいそうな名前”の 一族が突然姿を消したことは、ミステリーの世界を思わせる。想像の世界にひたれ ば、分家で成功した沢内村の古澤屋を頼って、客分扱いで一生を終えたというスト リーを描きたいところである。もっとも沢内村の古澤屋の墓碑、過去帳には、古澤理 右衛門義重の存在を実証するものは何も残っていない。

私の父の古澤元は、私と同じように古澤家のルーツを追い求めた時期があった。「甲 州が古澤家の出身地だ」と言っている。しかし、その証拠となるものは、父の死後、 探してみたが、発見出来なかった。古澤理右衛門義重については、雫石の地付きの家 でなく、外部から来て、やがて消えていったと見られるが、甲州から雫石に現れ、そ の地方の教養人として珍重されたが、何かの理由で雫石を捨てたという仮説も捨てき れない。

もし、古澤理右衛門義重が甲州から東北に流れてきたという仮説が成り立てば、農民 の出自ではないことが明らかである。すでに徳川幕藩体制が確立し、農民の移動は逃 亡とみなされて、禁じられていたからである。逃亡できても、南部・盛岡藩の所領で 古澤理右衛門義重を名乗り、写本を広く行うことは許されない。

もう一つの仮説は、南部・盛岡藩の下役で、何らかの罪を負って雫石に左遷されたこ とも考えられる。沢内村に左遷された高橋子績と同じケースである。ただ古澤屋とい う屋号を名乗ったことから、この可能性は低いと思っている。甲州の郷士で何らかの 理由で、郷里を捨て、雫石に流れてきたと見るのが妥当のような気がする。

小説というフィクションの世界なら、古澤理右衛門義重が初代古澤屋善兵衛の父に擬 した物語を構成する方が夢があって、面白い。しかし、その裏付けがない現状で は、”謎の人物”として、そのまま残すしかない。