雫石の古澤理右衛門義重考◆ 書き出しの記述は説明が必要である。戦国大名の南部氏は甲斐源氏の流れを汲む鎌倉 以来の名門で、源頼朝の奥州征伐に従って軍功を立て、論功行賞を得て、青森県八 戸、三戸地方と岩手県北九戸、二戸地方を領地に与えられた。二十五代晴継が十三歳 で夭折したあと後継をめぐって甲斐源氏の流れを汲む南部信直と九戸政実が血族の争 いをする。写本に出る「此年、古大膳様」は、南部信直のことである。この争いは結 局、九戸政実が敗れるが、「富また宗家を越ゆ、大望を懐いて機会をうかがう」九戸 政実は、二十六代信直の支配を認めず、深刻な両者の抗争が始まった。天下統一を目 前にした豊臣秀吉は、この北辺の情勢を憂慮し、小田原攻めで北条氏を滅ぼしたあと 関白秀次に命じて、蒲生氏郷、浅野長政、石田三成、井伊直政ら十万の軍勢を差し向 けて、九戸政実の五千の守備軍を激しく攻めたてた。天正十九年九月、九戸政実は降 伏するが、その一族はことごとく斬られて、滅びるという悲劇を招いた。 ◆ 南部を血で染めた凄惨なこの出来事は、「九戸政実の乱」として歴史に残ったが、九 戸政実の人望を慕う家の子・郎党は東北の各地に散り、その遺徳を永く後生に伝えた と言う。古澤理右衛門義重は、忽然として雫石の地に現れ、南部根元記、九戸軍記、 雫石の万用歳代記など多岐にわたった写本を残して、忽然として姿を消すが、九戸軍 記の写本からは滅びた九戸政実に対する哀惜の情が偲ばれる。また写本の書き出しに 「九戸政実の乱」を据えたのも偶然とは思えない。滅びた九戸政実に従う縁者の末裔 だと見るのが妥当かもしれない。 ◆ 九戸政実が秀次麾下の軍勢と血みどろの戦いをした舞台は、岩手県の九戸城である。 十万の軍勢を五千の手兵で激しく抵抗し、これに手こずった浅野長政は一計を案じ て、政実の菩提寺・長興寺の僧侶を勧降使に立て、一族の命を助ける条件で、開城を うながした。しかし、この約束は守られず、降伏した一族は皆殺しになった。九戸城 は、現在の二戸市五日市に城址が残っている。福岡城、白鳥城、宮野城とも呼ばれ た。城の周囲は馬淵川、白鳥川、猫淵川に囲まれた要害の地である。 ◆ 剛勇をもって聞こえた武将の九戸政実が、菩提寺の僧侶の説得に従ったのは、十一歳 だった一子亀千代を想う父親の愛情だったと言う。自分の身はどのようなことになろ うとも、「含める花の栄もなく徒らに散らすのは難しく・・・」と述べた。しかし、 開城とともに繰り広げられた老若男女を問わない虐殺劇を目の当たりにして、落ち延 びようとした亀千代母子は、森のなかで捕らえられ無惨にも斬られて果てる。亀千代 だけでなく九戸城士の子弟は、皆ことごとく殺戮され、その悲鳴は九天に響いたとい う。 ◆ 後世の説話では、斬られたのは亀千代でない別人で、亀千代は顔に鍋墨を塗って人足 風に身をやつし、無事に津軽に落ち延びたという説もある。さらに三歳の末子が岩手 県南部の正法寺にかくまわれ、その後江戸に出て徳川家に仕官して、直参となり、三 千石の知行を貰ったという話も伝わっている。 ◆ この北辺の悲話は、人の世のはかなさと戦いの無情さを、後の世に永く伝えることに なったが、古澤理右衛門義重はどのような思いで、写本をしたのであろうか。写本を して間もなく雫石の地を去ったとみられるが、九戸城で散った人々の菩提を弔う漂泊 の旅に出たのかもしれない。
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