巨匠・土門拳の習作 人民文庫の作家との交流

古澤 襄

東北が生んだ写真家・土門拳が亡くなって九年の歳月が去った。戦後が生 んだ写真界の巨匠として「古窯遍歴」「「筑豊のこどもたち」「東大寺」 「女人高野室生寺」「古寺巡礼」「生きている広島」「土門拳文楽」など 後世に残る作品集を残した。山形県酒田市の「土門拳記念館」を今でも訪 れる人が絶えないと言う。

 その土門拳が戦前、プロレタリア作家・武田麟太郎はじめ人民文庫の作 家たちとの交流が密であったことはあまり知られていない。土門拳という 不屈の精神に満ちた巨匠の作風は、その無名時代に人民文庫にこもった作 家たちとの交じわったことが土壌になって、戦後の華麗な業績の花が開い たとさえ言える。

 もっとも私自身は、土門拳という写真家を久しく誤解していた。
 作品から受ける印象は、ダイナミックで妥協を許さない厳しさが基本の ように見える。だから、その作品の前に立つと土門拳の迫力に圧倒されて しまい、一種の疲れさえ感じてしまう。

 学生時代に一時、写真に凝ってプロの写真家になりたいと思ったことが あったので、カメラ雑誌でいろいろな写真家の作品を見てきたが、いつの 頃からか土門拳を敬遠し、むしろ優しさをたたえた木村伊兵衛の人物写真 に惹かれていった。


千代さんの叱責と土門拳論


 その私に土門拳の本質を見なさいと教えてくれたのは武田麟太郎の愛人 だった藤村千代さんだった。千代さんは優しさと教養の深さを感じさせる 佳人だったが、私の母と親友だったこともあって、高校時代から東京・中 野の藤村宅に泊まりがけでよく遊びにいった。

 そんなある日、私は生意気にも土門拳論を得々と喋っていたら、黙って 聞いていた千代さんから「土門さんは貴方のお父さんやお母さんと親交が あったのよ」とまず諭された。

 これは初耳だった。その時私は、土門拳の無機質な迫力は、人間の血が 通っていないので、どうも好きになれないと言った記憶が残っている。尊 大さが鼻につくまでこき下ろした。

 佳人・千代さんは、喋る時に少し声が震える。
「土門さんの古い写真を多分、貴方のお母さんが持っているから、それを 見てから、土門批評をしなさい」
 この時の千代さんは、いつになく厳しかった。

 そこで家に帰ってから母に千代さんに言われた話をした。母は文箱に大 切にしまってあった十二枚の写真を出してきた。

 一枚は机に向かって原稿を執筆している武田麟太郎のアップ写真。後年 「評伝 武田麟太郎」の大作を発表した大谷晃一は、母からこの写真を見 せられ「どこか憂いをたたえた涙をみせない泣き顔だが、その奥に不屈の 気迫がこもっている」と作品に書いた。武田麟太郎の写真は都合三枚。

 さらに東北の芥川と言われた古澤元の孤高を保った風貌に惹かれた土門 拳が撮影した父の写真が五枚、母の写真も三枚あった。いずれも背景を際 だったブラックで塗りつぶし、人物を浮き出す手法を使っている傑作であ る。

 十二枚の写真について千代さんは「昭和十一年夏頃、土門さんがふらり とタケリンのところに現れたから、その頃の作品」と言い切った。まだ無 名時代の土門拳は、ライカーのカメラをひとつ下げて、武田麟太郎や人民 文庫の若い作家と交流を深め、人物写真を撮り続けた。土門拳が二十七歳 の頃である。

 大谷晃一の評にもあるが、土門拳の人物写真はその人物の心の中に入り 込む鋭いレンズの視線がある。それと同時に、ファシズムに押し流された 時代と葛藤し、ひたむきに小説道に取り組む若き作家たちに対する共感と 畏敬の念が滲み出ている。

「土門さんは貴方のお父さんやお母さんのような理想の結婚をしたいと私 に言ったのよ」と千代さんは取って置きの話もしてくれた。

 私にとって土門拳が身近な存在となり、表面的なハードな作風の内部に 潜む溢れるような人間愛を知ったのはこの時からだ。

 「古窯遍歴」や「古寺巡礼」「日本の仏像」を追求した土門拳が、溢れ るような愛情をこめて「筑豊のこどもたち」を撮影したのは少しも不思議 でない。


タケリンと土門拳の出会い


 無名時代の土門拳については、何人かの作家や評論家が作品でふれてい る。田村俊子賞作家の一ノ瀬綾は「幻の碧き湖」のなかで「九月に入った ばかりの頃、一人の若いカメラマンがふらりと麟太郎の前に現れて、しき りに彼を写し始めた・・・」と描写している。

 大谷晃一は「評伝 武田麟太郎」のなかで「幾日か、麹町に見慣れぬ顔 がやって来て、カメラで麟太郎をねらった」とある。

 この二人の作家は、土門拳が武田麟太郎のところに現れたのが昭和十二 年夏から秋にかけての時期と見ていて、千代さんの記憶と一年のずれがあ る。

 宮沢賢治研究家の吉見正信は、母から古澤元の写真一枚を借り受け、複 写して直木賞作家大池唯雄に送っている。複写に際して、吉見正信は東北 の芥川と評された古い写真を土門拳に見せて本人が撮影したものという確 認を取っていた。しかし土門拳も撮影年月日は覚えていなかった。

 吉見正信から送られた写真を見て、大池唯雄は言いようもない感動に襲 われたと言う。古澤元とは仙台の旧制二高時代の同級生で、上京すると必 ず私の家に泊まった。やがて河北新報の文化欄に「世には思いがけないこ とがあるものだ。そのころまだ現在のように有名でなかった写真家土門拳 氏が撮影した亡友の写真(昭和十五、六年のものか)を送られて、私はつ くづくとながめ、ただなつかしいというばかりでなく、深い感慨にうたれ ている」という書き出しのエッセイを発表した。昭和四十一年七月のこと である。

 この十二枚の写真を今、あらためて見ると裏に「撮影 土門拳」あるい は「写真 日本工房 土門」のサインが認められる。サインがあるのが五 枚、あとの七枚は無署名である。撮影の年月日はない。

 日本工房は写真家・名取洋之助が主宰したグループで、「アサヒカメラ」 に写真技術志望者を求める広告を出したが、土門拳はこの広告を見て応募 し入社している。昭和十年のことで土門拳は二十六歳。したがって、その 翌年に武田麟太郎のところに来たことになる。

 藤村千代の証言によると土門拳が、東京・麹町の武田麟太郎の家を訪ね たのは昭和十一年夏で、一ノ瀬綾、大谷晃一の調査とズレがあることは、 すでに述べた。

 実は千代さんの記憶が正しかったのである。その証拠を偶然、発見する ことが出来た。証拠は武田麟太郎の写真の裏に「写真・日本工房・土門」 とゴム印が押されてあって、その下に「1936・7・6」と黒いペン字 で古澤元が書き記していた。
 千代さんの記憶の正確さにはあらためて驚かされる。


疾風怒濤の昭和十二年


 人民文庫の作家たちと土門拳の交流を大谷晃一に指摘したのは、母・真 喜が最初だったと思う。「評伝 武田麟太郎」をまとめるために、大谷晃 一は実に百九十一人に直接インタビユーし、十年の歳月をかけている。母 も私も大谷晃一のインタビユーを受けた。

 その時に古澤真喜は十二枚の写真を大谷晃一に見せた。写真はすべてを 物語っていた。「これはいつ頃の写真ですか」と聞かれた真喜は、十一枚 の写真の裏を見たが、記録がない。記憶を呼び起こすしかなかった。
 実は、あと一枚の写真に昭和十一年夏の記録が残っていた。
 それを何故見なかったのか、というと運命のいたずらと言うしかない。

 十一枚の写真は「タテ22センチ ヨコ14・4センチ」で、母が大切 なものをしまう文箱に納められていた。撮影記録があるタケリンの写真一 枚だけは「タテ28センチ ヨコ20センチ」で文箱の納まらず、アルバ ムに貼られた。十一枚の写真の裏を見て、撮影の年月がなかったので、ア ルバムの写真を剥がして見るまでもないと思ったのは、さして不思議でも あるまい。

 この時、真喜が友人の千代さんに問い合わせていれば局面は違ったかも しれない。しかし、自分の記憶に頼った母はそれをしなかった。

 昭和十二年は、真喜にとって深い思い入れがあった。七月七日に北京郊 外で日支両軍が衝突、支那事変が勃発する。やがてこれが太平洋戦争に発 展し、戦争の嵐が真喜から夫・古澤元を奪っていった。

 真喜にとって昭和十二年は、もう一つの重要な意味を持った年である。
 前年三月に創刊号を発刊した「人民文庫」が年末から検閲に引っかかり、 この年の八月に「人民文庫」九月号が発売禁止、代わりに九月臨時号を出 す騒ぎがあった。そして九月にも「人民文庫」十月号がまた発売禁止にな った。真喜の記憶のなかには、その騒動の最中に土門拳が現れている。

 この年の暮れに人民文庫は当局の弾圧を怖れた高見順らのグループとあ くまで抵抗を主張するグループに分裂し、武田麟太郎は箱根の逗留先で苦 渋の廃刊を決めた。

 千代さんにとっても忘れられない昭和十二年であったろう。この年の四 月、ある書店に勤めていた千代さんは本庄陸男に勧められて人民社に入り、 会計と事務をとる。やがて武田麟太郎の私設秘書になり、二人は翌年結ば れた。千代さんは三十一歳。
 千代さんにとって人民文庫は自分史でもあった。

 その時、古澤元は千代さんと同年で三十一歳、妻・真喜は二十八歳。真 喜は土門拳と同年、正確には土門拳が明治四十二年十月の遅生まれ、真喜 が明治四十三年一月の早生まれだった。

 しかし、千代さんの記憶によれば、土門拳はすでに武田麟太郎とかなり 親しくなっていて、ライカーのカメラを下げて、フリーパスで出入りして いた。この頃、東京・麹町の武田邸の二階で武田夫人、千代さん、麟太郎 の長男文章、次男頴介、古澤元ら総勢十六人が写った記念写真のなかに若 き日の土門拳の姿がある。

 「武田門下生では土門さんは、私より一年先輩の古顔だったのよ」
 これは千代さんに軍配があがる。三歳年上の姉さん株の千代さんと三ヶ 月年下の妹株の母は、よく土門拳とお茶を飲んで他愛もない話に興じたと いう。

 ついでながら土門拳が武田麟太郎を撮影した昭和十一年七月六日の前日 は、2・26事件の決起将校ら十七人に死刑判決が下されている。まさに 疾風怒濤の時代であった。

 戦後、武田麟太郎が急逝したあと千代さんの周りには和田芳恵、三島正 六、古澤真喜、倉光俊夫、池田源尚、那珂孝平、青山鉞治らが集まった。 毎年暮れのお酉さまの日に東京・中野の千代さんの家に集まり、武田麟太 郎を偲んでいる。
 一方、高見順を偲ぶ人たちは、東京・浅草のお好み焼き屋「染太郎」で 同じお酉さまの日に集まった。

 土門拳はどちらの会合にも顔を出さなかったが、武田麟太郎、千代さん、 古澤元・真喜夫妻との交流の深さから言うと前者のグループに近い。土門 拳が撮影した高見順の写真はまだ発見されない。


写真のリアリズム


 戦後の土門拳は、「写真はリアリズムが本道」と唱え、独自の境地を開 いた。このリアリズム精神は武田麟太郎を総帥とする人民文庫の作家たち がまさに戦前に唱えた合い言葉であった。左翼の観念主義や政治主義には ついていけないが、右傾化する時局やファシズムに協力したくない青年作 家たちが人民文庫に立てこもって、現実正視のリアリズム文学の旗を高く 掲げ、散文精神の合い言葉のもとに抵抗の文学を志した。広津和郎はこの 文学運動を高く評価した。もっとも人民文庫派と対極をなした日本浪漫派 からは「クソ・リアリズム」と酷評された。

 土門拳は坊主頭のエッセイを書いているが、尼さんは清らかで美しい顔 をしていても、頭をみると、変にデコボコでいびつな格好をしている。だ から電車やバスで美しい女の人がいると、この人の頭もやっぱりデコボコ なのかと変な想像をたくましうする癖がついて、自分ながら困ったと述懐 したが、まさに地についたリアリズム作家だったと言える。

 やがてファシズムが日本を覆い、無謀な太平洋戦争に突入するとリアリ ズム文学運動は当局によって圧殺され、転向文学が輩出し、武田麟太郎は 庶民の哀歓に立脚した”市井もの”に活路を見いだそうとする。古澤元は 日本の古典に回帰した。

 この頃、土門拳は日本の民族古典の記録を思い立ち、文楽人形浄瑠璃や 仏像の撮影を始めている。戦後、「日本の彫刻」「室生寺」の大作を次々 と発表したが、その下地は戦前からスタートしている。思えば土門拳は幾 山河を越えて、巨匠の座についているのである。

 土門拳が武田麟太郎のもとを訪ねた動機はつまびらかではない。旧制中 学時代には白樺派の志賀直哉の作品に傾倒している打ち込み方をみるとか なりの文学青年だったことが想像できる。千代さんや母は「猛烈な読書家 で、写真家にならなかったら、作家としても通用する教養と文章力があっ た」と述懐していた。残されたエッセイを読むと確かに優れた文章力が伺 われる。単なる写真技術を越えた文学的才能が、土門拳の写真に流れる詩 情となって表現されたとも言える。土門拳と文学という視点で、この非凡 な巨匠を再評価することが必要なのかもしれない。
土門拳研究はまだ続く。


人民文庫資料館と土門拳の習作


 古澤元の故郷である岩手県・沢内村には、昭和の疾風怒濤の時代を生き た元・真喜夫妻の文学碑が平成十年に建立された。その記念事業として武 田麟太郎はじめ人民文庫の作家たちの資料館が計画されている。

 この地には四百年近い歴史を刻む曹洞宗・一点山玉泉寺という古刹があ る。三百年の古澤家一族の菩提寺で、きだみのる、檀一雄、平沢和重ら文 人の顕彰碑が寺の庭園に建立されている珍しい東北の文学寺である。人民 文庫関係の資料は、玉泉寺境内に建てられた「いろは堂」に集められてい る。

 昭和十一年三月から発刊された人民文庫は、度重なる当局による発売禁 止の措置にかかわらず昭和十二年末まで発売されたが、全冊が揃った初版 本は東京・駒場の日本近代文学館に合本二冊が残っているだけである。復 刻本があるが、限定出版だったので全国の古書店でもなかなか見当たらな い。この日本近代文学館の初版本二冊を岩手県に返却するよう交渉が進め られているが、資料館の最大の展示物になるであろう。

 また武田麟太郎の初版本二十一冊。高見順の初版本十五冊、新田潤の初 版本二冊、田村泰次郎の初版本三冊はじめ田宮虎彦、井上友一郎、平林彪 吾、古澤元、那珂孝平、池田源尚、上野壮夫、小坂多喜子、堀江朋子、一 ノ瀬綾、大谷晃一、辻橋三郎、古澤襄など武田麟太郎にかかわりのあった 作者の初版本が集められている。
 さらに土門拳の習作十二点も展示される。人民文庫に関係した作家の初 版本、写真、資料がこれだけ集められた資料館は、おそらく日本で初めて となるであろう。完成が待たれる。