私の本棚(2)大池唯雄◆ 戦災の復興が遅々として進まず、空襲で焼け落ちた樹木の植栽がようやく 緒についたばかりで、杜の都の面影がなかった。冬になると蔵王おろしの 風が吹きすさび、アノラックの襟を立てて、サツ回りの毎日だった。 ◆ 県警記者クラブに配属になったが、手薄な共同通信社に較べて、地元紙の 河北新報は、菅原キャップ、亀さんこと亀山サブ・キャップはじめサツ回 り記者は、最強のスタッフを擁していた。事件記事の書き方は、河北新報 の仲間たちから手ほどきを受けた。
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白河以北に来たのは、生まれて初めてという西も東もわからない私の様子
をみて、見るに見かねた後輩教育だったのだろう。東北弁がままならない
ので、東京言葉で喋ると警察官からソッポを向かれ、取材も思うようにな
らなかった。 史談にこだわる大池唯雄◆ そんなある日のことである。柴田町公民館長をしていた作家の大池唯雄さ んが仙台に出てきた。東一番丁の「幸福堂」というレストランでご馳走に なった。痩身で、眼鏡の奥に光る鋭い眼は、明治生まれの気骨に満ちてい て目映いばかりだった。 ◆ 大池唯雄さんは本名・小池忠雄、昭和十三年下半期に「秋田口の兄弟」「兜 首」で第八回直木賞を受賞。当時は東北初の直木賞作家ということで話題 になった。大佛次郎に認められ、山本周五郎からも上京して、作品を書く ように勧められているが、郷里に踏みとどまり、歴史物を主題とする小説 を書き続けた。 ◆ 昭和三十九年には原田甲斐をテーマにした戯曲で「文藝朝日」戯曲第一席 を得ている。昭和四十二年には朝日新聞社から「史談 セントヘレナの日 本人」の短篇集を出版した。昭和四十五年五月二十七日、仙台市内を歩行 中に倒れて不帰の人となった。遺作に戊辰戦争を描いた「炎の時代」があ る。 ◆ 田宮虎彦はフィクションの歴史物に独自の境地を開いたが、大池唯雄はむ しろノンフィクションの歴史物に終生こだわりをみせた。「史談とはヒス トリカル・ノンフィクションであり、いわゆる時代小説とは対蹠的な立場 のもので、少なくともこれは歴史の真実を追求しようとしているものであ る」とは大池唯雄が遺した言葉だが、史実の宝庫である仙台の地を離れな かった生き様を貫いた。
遺稿集より小説道◆ 大池唯雄さんは、東北大学の前身である旧制仙台第二高等学校で私の父と 同級生で親友だった。父・古澤元は東北学連のリーダーで、昭和二年初夏、 二高によって口火を切られ全国の旧制高校に波及したストライキの首謀者 として二年の時に、放校の処分を受けるが、大池唯雄さんは無事に卒業し、 東北帝国大学文学部国史科を卒業して、文筆の道に入った。 ◆ 二高時代にクラスの文学同好雑誌「くさむら」を父と一緒に創刊し、ニー チェの研究家で二高教授になった小野浩氏も仲間。 二高の正門の近くに「ハイデルベルヒ」という洒落た喫茶店があって、日 本風の若い美人ママが二高生の憧れの的だったが、大池唯雄さんも父も入 り浸っていたという。 ◆ こんな思い出話をしてくれた大池唯雄さんは、突然、座り直し「ところで いつまで新聞記者をやっているんです・・・」と詰問調で私に質問した。 駆け出し記者で、まだ一年になっていない時なので、面食らった私は返事 に窮したことを覚えている。 ◆ その後、昭和四十一年頃のことになるが、古澤元の遺稿集を出版する話が 持ち上がった。事の起こりは、外務省の霞記者クラブにいた私は、郷土の 先輩である椎名悦三郎外務大臣のところに夜回りと称して遊びにいってい たが、ブランデーの勢いもあって、話が父の遺稿集のことに及んでしまっ た。 ◆ その時は椎名さんは何も云わなかったが、数日後になって秘書の人が「オ ヤジが一肌脱いでもいい」と云っていたと教えてくれた。そこで喜び勇ん で大池唯雄さんに手紙で相談してみた。中学二年の時に父を失った私にと って、大池唯雄さんは父親代わりだった。
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喜んで貰えると思っていたら案に相違して愕然となった。「遺稿集を出す
ことよりも、君がお父さんの志を継いで、小説道に精進することの方が大
切です」と手紙に厳しい叱責の言葉が連ねてあった。 ◆ 河北新報のエッセイから十六年後に私は遺稿集を出版した。自らの才能に 見極めをつけ、ジャーナリスト一筋に生きる覚悟を遅蒔きながら定めたか らである。あの世で大池唯雄さんは、「この親不孝者奴が・・・」と舌打 ちしているのかもしれない。
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