私の本棚(3)北 一輝

古澤 襄

 伊豆・下田に住む義姉のところに泊まった夜のことだ。何となく寝苦しくて 夜中に眼を覚ましたら、枕元に置いてあったガラス・ケースの人形が妙に気に なって、しばらく寝付かれなかったことがある。大きな古い人形で、多分、有 名な人形師の作品だから、義姉が大切にしているのだろうと昼間は思っていた のだが、夜中の人形は何か不気味だった

 そこで朝食の時に「あの人形は誰の作品なの」と義姉に聞いてみた。「北の 伯父さんから貰ったのよ」が、その返事だった。義姉は四人姉弟の長女で、私 の妻は次女である。父親は佐渡の生まれで長男でありながら、農業を継ぐのを 嫌い、家出して鉄道員になった。千葉の小さな駅長を最後に退職した。

 この父親に連れ添った妻、四人姉弟の母親は、娘の頃、北一輝のところで、 住み込みの行儀見習をしていた。「毎晩のように突然のお客がやってきて、そ れは大変だった」というのが母親の述懐であった。
「何でお前のお母さんが、北一輝のところで行儀見習したんだ」
「あら、親戚だもの・・・」

 うかつにも、私は自分の妻が、北一輝の血筋の者だとは、知らないでいた。 そう云われてみれば、浮気のような不正(妻にとって・・・)を決して許そう としない正義感(夫にとって迷惑至極だが・・・)、極端な潔癖ぐせ、かなり の右翼的社会主義思想、その一つ一つが思い当たる。
 義姉の人形は北一輝から貰ったものだった。


北 一輝と岸信介


 政治部記者になった私の初仕事は、岸首相の張り番だった。朝から晩まで岸 首相を追いかける肉体労働の毎日だが、折から六〇年安保の疾風怒濤の時代だ ったので、危険と隣合わせの「おまけ」がついた。
 岸首相が総理官邸で暴漢に刺されて、瀕死の重傷を負った時にも、すぐ隣に 立っていたが、あっと云う間の出来事で、暴漢を遮ることもできなかった。

 こんなことが縁となって、総理退陣後の岸さんのところには、よく遊びに行 くようになった。ニュースを取るという職業意識ではなくて、戦前戦後を生き た岸信介という一人の政治家に興味を持ったからである。

 とは云うものの岸さんの新聞記者嫌いは徹底していた。その私が岸さんから 警戒されずに、御殿場の別邸にフリーパスで通えるようになったきっかけは、 「北 一輝」だった。何かの折りに私は妻が北一輝の縁戚だということを岸さ んに洩らしたことがある。
岸さんは身を乗り出してきた。

「国家改造案原理大綱は読みましたか・・・」と岸さんに聞かれて、私は
「ええ、まあ・・・」
とあいまいな応えをした。実は読んでいなかった。大綱の内容で質問されると 困るな、と少し気になった。

しかし、岸さんはそれ以上は聞いて来なかった。
「戦前、大綱を筆で模写したものでしゅよ」
 岸さんは、「ですよ」を「でしゅよ」と云うのが口癖である。そう云って何か 思い出している風情だった。戦前の革新官僚と云われた時代に思いを馳せていた のかもしれない。長州っぽで一途なところがある岸さんは、サイパン玉砕の後、 東条首相の退陣を求めて、単身、喧嘩を売ったことがある。

 このことがあって、私は岸さんの信用をかちえたようだ。実弟の佐藤内閣の頃 には、御殿場にある岸さんの別邸に行って、オフレコ話をよく聞いた。もっとも 北一輝のことをまた聞かれると困るので、渡辺京二氏の「北一輝(朝日選書)」 を購入して、にわか勉強をした。

 そのお陰で「国体論と(正確には”及び”)純正社会主義は名著でしゅね」と 岸さんが云った時には、すかさず
「日本の近代政治思想史で五本の指に入りますね・・・」と切り返すことが出来 た。実はこの本も読んでいなかった。

本格的に北一輝の著作を読むようになったのは、第一線の政治部記者を退いて からのことである。正直に云って北一輝の文体は、かなり難解で、読み安さを追 求してきたジャーナリスト泣かせの文章である。おまけに長文ときている。
 だから著作を理解しようとすれば、岸さんのように模写することが、一番手っ とり早いのかもしれない。難解だから北一輝の研究家の解釈も様々である。


丹波哲朗の妻・貞子


怠け者の私は、だから自分流の解釈を決め込んでいる。そして北一輝の血筋を 汲む人達の生きざまの方に関心が移っていった。
 俳優の丹波哲朗の亡妻・貞子さんも北一輝の血脈の人である。長男が誕生して 間もなく、若くして下半身が不随となったこの人は、稀に見る気丈な才女だった。

丹波哲朗の見かけは、人を人とも思わない大仰な態度が人気の的である。だが これはテレビが作り出したキャラクターで、本質は細かい気配りの人である。貞 子さんを寂しがらせてはいけないという思いがあったのだろう、夜は撮影の収録 旅行が無いかぎり西荻窪の自宅で過ごすことが多かった。身体の不自由な妻に寂 しい思いをさせない、そんな優しさが丹波哲朗にはある。

 貞子さんは貞子さんで、夫のために麻雀メンバーを集め、自分も加わって、家 庭麻雀をセットする気使いをみせた。「今晩遊びにきてよ」と貞子さんから私の ところによく電話が掛かってきた時期がある。俳優・丹波哲朗の麻雀は、一口で 云えば大物ねらいで、あがる時は満貫ものだが、振り込みも多かった。その点貞 子さんは、きれいな平和・三色がらみで、サッとあがるのが得意で、麻雀には多 少の自信があった私もよくやられた。丹波邸では大勝した記憶はない。

 俳優という人気稼業の夫を助けた内助の功が大きかった。死後、丹波哲朗のこ れまでの記事やパンフレットをきれいにスクラップした貞子さんの保存帖が一杯 出てきたことを義姉に聞かされ、もらい泣きした。親族だけでなく誰にも気配り を見せた優しい人であった。

社会主義と共和政治の理想を掲げた北一輝は、昭和の2・26事件に連座して 昭和十二年八月十四日、決起した青年将校とともに刑場の露と消えた。「慷慨と 涕泣を以て社会主義を説くものにあらずして、科学的宿命論の上に理論を主張す」 が北一輝の言葉である。

 佐渡の生まれの北一輝は「天才と狂人は紙一重」の一生だったと云われる。難 解な北一輝の理論は、私には到底、理解出来ないものだが、その生きざまは人の 心をとらえて放さないものがある。