コンスタンテイノープルへの夢

古澤 襄

塩野七生さんの「コンスタンテイノープルの陥落」を読んで以来、東西文明の 接点であるボスフォロス海峡を一度は訪れたいという想いに駆られて久しい。 東ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンテイヌス十一世の悲劇的な死とオスマン ・トルコの大軍を率いた若きスルタン・マホメッド二世の卓越した戦術が彩な すこの物語は、ひとつの文明が滅びる妖しい瞬間を見事に描き出し、現代人の 心を捉えて放さない何かがある。

しかし、私の心を揺さぶるものは、勝利したオスマン・トルコが、中部ヨーロ ッパに覇権を拡げ、ウイーン攻略を目指す勢いを示しながら、攻略で挫折し、 その後は、ゆるやかな衰退の道をたどり、近代化された西欧の力の前に、征服 者だった大帝国も崩壊した歴史と再生の苦悩である。

落日のオスマン・トルコは、西欧から「瀕死の病人」と言われるようになった が、南下するロシアの脅威にさらされ、版図のルーマニア、セルビア、ブルガ リアが独立し、内憂外患の状態の中から、ムスタファ・ケマル・パシャによる 急進的な近代革命が生まれる。トルコ共和国の誕生と再生である。


橋本欣五郎とケマル・パシャ


私のコンスタンテイノープルに対する思い入れは、このような栄枯盛衰の歴史 と旅情だけでなく、さらに身近いものがある。極東国際軍事裁判でA級戦犯容 疑者として裁かれ、「昭和ファシズム」の中心人物として、終身刑を宣告され た橋本欣五郎の謦咳に接したことがあったからである。橋本欣五郎は1927 年9月に在トルコ大使館付武官として、イスタンブール(コンスタンテイノー プル)に赴任した、

折からトルコはケマル・パシャ大統領のもとで、イスラム1300年の伝統に 固執する保守派の抵抗を排して、強引な近代化政策を推し進めていた。宗教的 な狂信者によるリンチ事件に対しては、軍隊を派遣して鎮圧し、首謀者を処刑 するという強権政治を強行した。近代化革命の厳しさとそれを支持する大衆の 熱狂的な運動を橋本欣五郎は目のあたりにしたわけである。

ケマル・パシャに触発された橋本欣五郎は、1930年1月に帰国するが、そ の年に陸大出身者を核とした「桜会」を結成、翌年には未発に終わった「三月 事件」のクーデター計画の首謀者となる。

私が橋本欣五郎に初めて会ったのは、1943年で太平洋戦争がサイパン玉砕 という破局を迎えた頃である。中学一年生だった私は、父・古澤元に連れられ て、東京・原宿にあった大日本赤誠会本部で橋本欣五郎と会った。
「将来、何になりたいのか」と聞く橋本欣五郎は、耳がやけに大きい猿のよう な顔をしていた。「秀吉もこんな顔をしていたのか」と一瞬、感じながら「陸 軍の軍人になるつもりですが、父が幼年学校の受験を許してくれません」と正 直に答えたら、怪訝な顔をして、父があわてた素振りを見せていた。

父は「頭が固まっていない中学一年で幼年学校に入ると片輪者になるから、中 学四年まで勉強して士官学校に進学するようにしなさい」と私の受験志望を許 してくれなかった。今では父の判断が正しいと思うようになったが、その当時 は多くの同級生が真新しい幼年学校の軍服に身を固めて、颯爽と闊歩する姿を 見せつけられて、頑固者の父を恨むことが多かった。

橋本欣五郎は話題を変えて「科目は何が得意か」と聞いたので「数学が好きで す」と答えたら「それなら砲科だな」と言って呵々大笑した。後でわかったこ とだが、橋本欣五郎も砲科だった。その年の十二月に私は信州の上田中学に疎 開・転校することになるが、その間、何回か橋本欣五郎に会うことがあった。 その度に、「数学をしっかり勉強しているか」とよく声をかけられた。大学を 出て、政治ジャーナリストになり、やがて経理局長を務めたが、中学時代に数 学を勉強していたので、まごつくことがなかったのは、橋本欣五郎のお陰だっ たのかもしれない。

戦後、渋谷に向かうバスの中で、偶然、巣鴨から出所した橋本欣五郎に会うこ とがあった。近寄って挨拶をし、父がシベリアで戦病死したことを告げると私 の手を握り、「君たちの時代になったのだから、日本の再建をしっかり頼む」 と大きく目を見開いて激励された。1956年頃のことだと思う。翌年、橋本 欣五郎は六十七歳で肺ガンで死去した。私は今、その六十七歳になっている。


田々宮英太郎と橋本欣五郎


私は運命論者ではないが、人は目に見えない糸で結ばれて居ると思うことが、 屡々起こっている。私の父は、岩手県の盛岡中学(現在の盛岡一高)の卒業生 で、同窓に共同通信社の古津四郎記事審査室長(故人)が居るが、戦前の同盟 通信社の政治・軍事記者として活躍し、郷里の将星である米内光政、板垣征四 郎、東条英機らの足跡を現代史懇話会の雑誌「史」に寄稿していた。時流にお もねない骨太の歴史観に裏打ちされた重厚な作品に私は魅了された。

そこで、古津さんの死去後、その作品のコピーを欲しいと現代史懇話会の主宰 者である田々宮英太郎さんにお願いした。快くコピーを送っていただいたこと が縁になって、田々宮さんに請われるまま、私も「史」にいくつかの作品を寄 稿するようになった。発表した私の作品は、政治部の先輩・同僚に送りご批判、 ご叱正を仰ぐようにしていたが、ある時、同僚の葬儀で政治部時代の先輩から 「田々宮さんは元気かい」と聞かれた。考えてみれば、電話でのやりとりはあ るが、田々宮さんについては、私は何も知らないわけである。

失礼とは思ったが、先輩から田々宮さんの消息を聞かれたことをご本人に告げ、 「ところでどういうご関係ですか」と厚かましくお聞きしてみた。「私は戦前 の同盟通信社の記者で、戦後は共同通信社の政治部にいたのですよ」というの がその返事である。私の無知ぶりを露呈し、愕然とする羽目となった。

田々宮英太郎・・・1909年、石川県生まれ、すでに八十歳の高齢だが、今 もって健筆を振るい、豊富な政治部記者の経歴から、著作は「昭和の政治家た ち」「昭和維新」「二・二六叛乱」「中野正剛」「裁かれた陸軍大将」など枚 挙にいとまがない。最近は旧版「参謀辻政信・伝奇」を「権謀に憑かれた参謀 ・辻政信」と改めた力作を芙蓉書房から出版した。

何よりも驚いたのは、1982年に田々宮さんは「橋本欣五郎一代」の著作を 芙蓉書房から出版していたことである。この著書の存在は、中公新書「イスタ ンブールを愛した人々」松谷浩尚著の第八章の最初のページに「橋本欣五郎一 代」からとして、橋本欣五郎の写真が掲載されているので知っていた。しかし、 著者の名前が出ていないので、それが田々宮さんの著作だとは、本を送って貰 うまで知らなかった。

「橋本欣五郎一代」は私が知るかぎり、これだけ綿密な資料と客観的な見方で 書かれたものとして類例がないであろう。「権謀に憑かれた参謀・辻政信」に ついても同じことが言える。橋本欣五郎に関する資料は私も持っているが、田 々宮さんの該博な知識には及びもつかない。まさに脱帽ものである。


香華が絶えない雨谷菊夫の墓


「橋本欣五郎一代」にも登場するが、赤誠会八紘塾長だった雨谷菊夫も忘れ得 ぬ人である。私は戦前は、東京・原宿の赤誠会本部の裏手にあった長屋に住ん でいた。台所を挟んで、東の八畳間と六畳間が私たちの住処。西の八畳間に雨 谷菊夫が居て、食事はいつも一緒だった。坊主頭の村夫子然とした風貌の人だ が、ひとたび口を開くと舌鋒鋭く橋本欣五郎が一番信頼していた人物だった。

二・二六事件のあと陸軍の皇道派は、粛正人事によって、予備役に追われるが、 橋本欣五郎も陸軍大佐で軍服を脱ぎ、大日本青年党を結成する。青年党はケマ ル・パシャの「青年トルコ党」を目指したものであろう。予備役に編入された 建川美次中将は、橋本欣五郎の先輩であり、盟友だったが、青年党の統領代理 として橋本欣五郎の後ろ盾となった。

支那事変の勃発によって、橋本欣五郎は応召し、野戦重砲兵第十三連隊長とし て北支に転戦する。この時期に統領代理の建川美次は、松延繁次、藪本正義ら 国家社会主義者を追放し、新たな大衆運動を担うメンバーを入会させて、青年 党は赤誠会に改組する道筋をつける。雨谷菊夫、古澤元はこの新しいメンバー で、やがて赤誠会の中核人物になる。

雨谷菊夫は1904年生まれ、古澤元とは三つ違いで、山口県萩の出身。水戸 高等学校から東京帝国大学、さらに大学院を卒業、内務省に入って、1931 年から関東軍嘱託となった。満州事変のあと国際連盟から派遣されたリットン 卿調査団の案内役を務めた。「長州っぽ」と言うより「水戸っぽ」と言った方 が正しいのではなかろうか。最期まで水戸を愛した人物である。

戦後は水戸に引きこもり、晴耕雨読の生活だった。ヤミ米を拒絶し、栄養失調 から失明したが、意に介しなかった。私は経理局長時代に水戸を訪れ、いばら ぎ新聞社の後藤社長ら幹部と会食する機会があったが、たまたま雨谷菊夫の話 をしたら翌日、雨谷菊夫の墓に案内して貰った。

質素な墓標の前に立つと新しい供花がほのかな香りを漂わせ、誰が供えたか、 わからないが香華が立ち上っていた。お寺の和尚に聞くといつも誰かが墓前に お線香を供えていると言う。水戸の地で永遠の眠りについた盲目の革命家に合 掌して去ってから十年の歳月が流れた。毀誉褒貶があろうが、あの時代を力の かぎり自己の信念に基づいて生きた人の一生にはやはり心を打たれる。

後日談になるが、共同通信社に日本愛国党の青年に押し掛けられたことがある。 盛岡で開かれた日教組の会合で、愛国党と日教組組合員のもみ合いになり、そ のとばっちりを受けた共同通信社の社員が負傷して、愛国党員を告訴したため 盛岡署に留置される事件があった。このために本社の編集局に乱入しようとし た数人の愛国党員を前にして、共同通信社は一騒ぎとなった。

ペンを握らせれば、ジャーナリストは無敵の強さを発揮するが、右翼の暴力に は意外ともろいものである。結局、総務局にいた私が単身で応対する羽目にな った。赤尾敏の息子がリーダーだったので、棒立ちになっていきり立つ青年た ちに、「まあ、座れ」と声をかけ、「私も戦前の右翼の倅だが、橋本欣五郎や 雨谷菊夫を知っているか」と聞くと、「よく承知している」と言う。

いくつかのやり取りの末に、彼らは大人しく帰っていった。「お父さんは元気 か」と別れ際に聞くと、息子は直立不動で「元気であります」と答えた。赤尾 敏は戦前からの正統派右翼で、戦後の暴力団まがいの右翼とは同一視してはな らない。「右翼も人の子」と言うのが私の信条でもある。盛岡署に留置された 愛国党員は、私の指示で釈放されたのは言うまでもない。