怨念を超えたシベリアの旅

古澤 襄


近くて遠い国・ロシア


 ロシア・・・戦後の日本人にとって、ロシアは近くて遠い国だった。
 スターリンの圧政、北方領土を返還しようとしない頑な態度、何よりも 一九四五年八月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、北満に侵攻して きたソ連軍の暴行・略奪を日本人は忘れるわけにいかない。しかも降伏し た関東軍の将兵は、シベリア鉄道の貨車に乗せられて、酷寒の収容所に送 られて山林伐採など苦役を強いられた。十一年の歳月をかけて抑留者の引 き揚げが行われたが、帰国者は四十七万三千余人。

 抑留された人数の正確な数字は今もって正確には判らない。
 一九五五年六月一七日の外務省発表によると五十七万五千人がソ連軍に よってシベリア、外蒙、中央アジアに移送されたとなっている。
 また「留守業務部資料」によると東満地区二十一万三千人、北満地区七 万七千百人、中南満地区十七万二千五百人、北鮮地区八千百人、千島・樺 太地区七万八百人の合計五十四万千五百人というデータもある。
 もう一つの計算方式としては、帰国した人員は正確に四十七万三千余り と把握され、日本遺族会が掌握しているシベリア戦没者も六万三千人とみ られているので合計五十三万六千人という基礎数字もある。もっともこの 数字には現地での行方不明、中国に戦犯として引き渡された人数は含まれ ていない。

 シベリアで死亡した「死亡告知書」、いわゆる「公報」の死亡日も、戦 後ナホトカから舞鶴に帰還した引き揚げ者からの聞き取り調査を基にして いるため記憶違いがかなりある。私の父・古澤元を例にとれば、公報の死 亡日は昭和二一年五月三日、しかしソ連側の資料では五月六日となってい る。

 日ソ中立条約の破棄について、戦後、進歩的文化人から「ソ連は一九四 五年四月以降は条約を自動延長をしないことを事前に日本政府に通告して おり、二月一一日のヤルタ協定の約定に従って対日戦争に参加したのだか ら、国際法上も違約ではない」という説が唱えられたことがある。
 果たしてそうであろうか。

 モロトフ外相が佐藤駐ソ大使に条約第三条に基づいて日ソ中立条約を自 動延長しないことを通告したのは一九四五年四月五日。しかし第三条は条 約の有効期限は五年と定められていて、一方から廃棄通告がなければ、さ らに五年間の自動延長が定められている。また廃棄通告は期間満了の一年 前と規定されているので、佐藤大使はこの点を質すとモロトフ外相は「条 約の失効は一年後のことになる。ソ連の中立義務は変化ない」と答弁して いる事実がある。

厳密に言えば、中立義務期間に対日参戦のヤルタ協定に調印すること自 体が、相互に両立しない約束違反を犯したといえいる。熾烈な国際政治の 駆け引きの中で、騙し合いは日常茶飯事だから、騙される方がお人好しだ と言ってしまえばそれまでのことだが、日本側としては言うべきことは言 っておく必要がある。

 相手国のモロトフ外相が、日ソ中立条約が一九四六年四月一三日まで有 効に機能していると認めたのだから、一九四五年八月九日の北満侵攻は条 約違反している主張を簡単に引き下げる必要はない。
 まして降伏した関東軍の将兵をシベリアに拉致し、長期間にわたって拘 束して多くの死亡者を出した無法は「許されない暴挙」という態度を一貫 して貫く姿勢が求められる。

 最近、ロシア旅行の案内本に「日ソ中立条約をソ連側が一方的に破棄し て対日参戦をしたと非難はできない。日本も、対米戦の戦況が好転すれば ソ連へ侵攻して支援する旨の密約を当時の同盟国ナチス・ドイツと交わし ていたと言われる」とソ連側を擁護する記述があった。まさにシベリアで 祖国の土を踏むことが出来ずに亡くなった者の遺族の気持ちを逆なでした 無神経な解説である。

 祖国・日本の土を踏まずにシベリアの土となった六万三千人の遺族は、 すでに孫の時代に入り、その多くの人たちの心には、ロシアが、非人間的 な国家として焼きつき、怨念は戦後、半世紀を超えた今日でも消えていな い。
 私の父・古澤元も生きて祖国の土を踏むことが出来なかった一人である。 古希を目前にしている私は、今もって心の奥底でロシアを受け入れられな い憎しみが小さな炎となって燃えている。

 一九九九年九月、私は茨城県のシベリア墓参団の一員として、父が葬ら れているバイカル湖のほとりのウランウデを訪問することになった。怨念 の旅である。

 しかし、シベリア出発の前から、私の怨念の心の扉が少しづつ開いてき たことを感じている。スターリンの非条理な圧政を憎む気持ちは、静まる どころか、ますます強まる一方だが、ロシアの風土や国民性については、 若い時にトルストイやドフトエフスキー、ゴーゴリやチエホフの作品を耽 読した経験があるだけに憎しみとは別の親しみすら心の奥底に残っていた。 それが閉ざされた怨念の心の扉を開いてくれていたのである。シベリアの 旅は、私にとっても一つの転機になるのかもしれない。

 司馬遼太郎の作品に「ロシアについて」という本がある。
 一三世紀までのロシア史は、史料も少なく、わからない点が多いが、モ ンゴル軍の一部がロシア平原に残って作ったキプチャク汗国の建国が一二 四三年。一五〇二年に滅亡するまでの二百五十九年間は「タタールのくび き」と言われるモンゴル人による圧政だったと記している。

 僅か一万のモンゴル騎兵を率いるツアーリ(汗)が広大なロシア平原を 支配していた。ロシア人の農民は、この遊牧民族によって、徹底的に収奪 された。このキプチャク汗国は、内部抗争からあっけなく滅びてしまう。 そして、やがて帝政ロシアが誕生した。

 広大なシベリアは、帝政ロシアの東進のターゲットとなった。米国が西 部を目指す伝統的な動きと一対を為す歴史を繰り広げている。シベリア制 覇の先兵となったのは、剽悍なコザックの騎兵だった。バイカル湖を中心 とする高地には、先住民族であるモンゴルの遊牧民が割拠していた。この 遊牧民は東進するコザックによって粉砕され、イルクーツクにはコザック が築いた城塞が作られた。以後、イルクーツクは帝政ロシアがシベリアを 統治する中心的な政治都市となった。

 もっともエニセイ川を連戦連勝の勢いでさかのぼってきたコザックは、 バイカル湖周辺に勢力を蓄えていたブリヤート・モンゴル人の抵抗に会っ て手痛い敗北を喫している。一六三一年、コザックはアンガラ川流域のブ ラトースクに拠点となる柵を設けたが、ブリヤート・モンゴル人に襲撃さ れて全滅の憂き目に会った。イルクーツクの柵を設けたのは、それから二 十年以上も後のことである。コザックのシベリア進出は一五七一年のこと だから、イルクーツクにたどりつくのに百年近い歳月を費やしたことにな る。

 シベリアのパリと言われるイルクーツクには、ロシアの文豪・チエホフ が一八九〇年に訪れ、友人に宛てた手紙で「シベリアのあらゆる町の中で、 イルクーツクが一番良い町です。イルクーツクはすばらしい町、まったく 知的な町です」と絶賛している。
 また、この地には、函館戦争で敗れた榎本武揚が訪れたほか、江戸時代 には、漂流民・大黒屋光大夫の一行も滞在していて、日本との縁も深い。


シベリア抑留の悲劇


 しかし、イルクーツクに抑留された日本軍人にとっては、十八の収容所 と労働大隊(詳細は現在でも把握できない)で一万八千二十九人が強制労 働に駆り出され、千五百十一人(八・三%)が死亡した痛恨の土地である。 死亡者の九〇%までが、敗戦の最初の冬に命を落としている。

 イルクーツクの第一捕虜収容所に抑留された伊藤登志夫(本名 伊藤俊 郎)は、一九七九年に「白きアンガラ河」の著書を発表した。抑留のドキ ュメント・ストリーである。一九四五年九月二九日に行く手も知れぬ心細 いシベリア鉄道の貨車の旅の果てにイルクーツクに着いた印象を「それは、 ぼくらが初めて踏むソ連の都市だった。石造り建築と小さな丸木組みの家 々が遠く拡がり、ところどころに教会らしい尖塔が、曇り空にそびえたっ ていた」と記している。
 駅から千人の部隊が徒歩で、一時間近く収容所まで行進をしなくてはな らなかった。自動小銃で武装したソ連兵に監視され、小雪の舞う黄昏の行 進は身震いするほど寒かった。収容所は工場を改造したらしいドーム型の 殺風景な建物だったが、スチームで暖められた空気に包まれて、生き返っ た心地になったと言う。伊藤登志夫はこの収容所で三度の冬を越すことに なる。後続部隊五百人も続いてやってきた。

 満州から送られた抑留者は千人規模の部隊編成で収容所に着き、収容所 の人員は千五百人規模が基準になっている。
 やがて本格的な冬がやってきた。イルクーツクはソ連全土のなかでも屈 指の寒冷地で、一月の平均気温は零下二〇度まで下がる。厳寒の冬期には 零下三〇度から四〇度近くまで下がることもあった。ほとんどの兵士は夏 の軍服を着用していたので、シベリアの寒さが身にしみて堪えた。

 寒さと飢えに苦しみながら、千五百人の日本人捕虜は重労働を課せられ た。イルクーツク第一収容所だけで、九十七人が栄養失調で死亡している。 遺体はゴザに乗せられて、丘の向こうの凍土に掘られた共同墓地に埋めら れた。シベリア全土の収容所で、このような悲劇が繰り広げられていた。 栄養失調は、エネルギーの収支が赤字になるとそれを補うために身体の成 分を消費して、体重が減少し、やがて全身の脱力感が現れ、末期には昏睡 状態になって死亡する。身長の高い者ほどエネルギーの消費が多いので、 死亡率が高かった。望郷の思いを抱きながら、シベリアの土となった人た ちを思うと言葉も発することも出来ない。

 抑留された捕虜が飢えに苦しんだことについて、ナチス・ドイツによる ロシア侵攻でソ連は全土が飢餓状態にあったので、ロシア人も同じように 飢えに苦しんでいた、日本人捕虜だけを差別したわけでないと擁護する見 方もある。事実、この大祖国戦争で死亡したロシア人は二千五百万人を超 え、シベリア各地にも祖国のために散華した勇士の記念碑が建てられてい る。

 しかし、歴史はもうひとつの事実を伝えている。
 日本が連合軍に無条件降伏した時に、中国全土に展開していた日本軍は 二百万。蒋介石は八月十五日の対日戦勝利の告示をラジオ放送で、有名な 「怨みに報いるに怨みをもってせず」と中国民衆に布告した。この布告の お陰で日本軍の将兵と居留民は無傷で帰国することが出来た。
 「老子」に「怨みに報いるに徳を以ってす」(以徳報怨)の言葉がある。 蒋介石は中国の古い教えをひいて、中国の国民に報復行動を戒めた。
 一九六七年、私は台湾で蒋介石総統に会う機会に恵まれたが、一人の日 本人として彼の英断に謝意を述べた。私の手を握った総統は、「当たり前 のことをしただけです」と謙虚な姿勢を崩さなかった。

 飢餓状態のシベリアに抑留者を送ったスターリンと徳治主義を貫いた蒋 介石の違いは歴然としている。しかし、この歴史の教訓も日本人は忘れよ うとしている。

 捕虜たちを苦しめたのは、寒さと飢えだけでない。ソ連全土の収容所に 吹き荒れた「シベリア民主運動」という思想教育の嵐があった。この運動 に日本人捕虜の一部が加担し、同胞の上に権力を振るうことになる。ソ連 政治将校と一緒に収容所を回る日本人オルグは、最初は予備士官学校出の 幹部候補生が多かったと言う。
 一般の兵士には、初めて聞く社会主義の理論は、難解で取り付き難かっ たのであろう。もとっも幹部候補生たちの社会主義の理解度は、兵士たち と五十歩百歩で、やがて兵士の中から筋金入りのマルクス主義者が生まれ るに従って淘汰されていく。

 生かじりの行き過ぎた洗脳によって、軍隊方式のオルグたちは、戸惑う 同胞たちに「反ソ分子」の烙印を押し、理不尽な「つるし上げ」大会に引 き出すことも発生した。なかには頬ヒゲを生やしていただけの理由で「資 本主義の残滓が抜けきらない」とオルグやアクチブ(活動家)から罵倒さ れ、酷寒の最中に丸裸にされて営倉に入れられ、ソ連政治将校に救出され た例もある。長期にわたった抑留は、日本人の人間性まで破壊した。

 ウランウデの抑留から帰国した父の戦友の証言によると「マルクス主義 の原理・基本も知らずに、得意げに社会主義を賛美するオルグを苦々しい 思いで見ていた」父の姿があった。「日本に帰ったら、この惨状を必ず明 らかにする」とも言っていて、いくつかの記録を残し、父の死後は戦友が 手分けして記録をナホトカまで運んだが、そこで没収されたという。

 私の手元には昭和三年五月発刊の「ハウゼンスタイン 芸術と唯物史観」 の本が遺された。ところどころに赤線が引かれ耽読の跡が窺われるが、最 後のページに父の筆跡が残っている。
 「芸術家に言う。結合せよ、抱合せよ。愛もて、離散せる大衆と。調和 あれ、汝の力と。求めずして、罪を寄するこの技との間に」・・・大衆の 海の中にあるべきマルクス主義が、ソ連ではスターリンを頂点とする政治 主義官僚に壟断され、それに迎合する一部の日本人捕虜の醜さを見て、青 春時代に戦旗の編集部で活躍したマルキスト古澤元は、理想と現実の乖離 に言いようもない絶望感を抱いていたのではなかろうか。

 スターリニズムという冷酷な権力支配は、ロシアのインテリゲンチアは じめ多くの民衆を苦しめたが、これに迎合した日本人捕虜が同胞に対して 理不尽な権力を行使した「暗い歴史」があったことを忘れてはならない。 マルキシズムは封建的圧政から人間開放を目指した教えだった筈である。 オルグやアクチブのなかには、ソ連に迎合するのではなく、戦後の日本再 建にとって社会主義国家の建設が必要だと心底から信じた人たちがあった ことは否定しない。しかし、非人間的なスターリニズムを目のあたりにし て、何の疑問も批判も持たなかったのであろうか。心の底に権力に迎合す る弱さがあったのではなかろうか。


アンドレ・ジイドが見たソ連


 私は高校時代を東京のエリート進学校で過ごした。大学受験を目前にし た三年生の時に早稲田の新庄嘉章の「アンドレ・ジイド」を読み、受験勉 強をそっち除けにして、ジイドの作品を読み耽った。お陰で大学受験は三 度も失敗することになったが、青春時代にジイドに熱中したことが、その 後の人生でどれだけ役に立ったことか、後悔は全くしていない。

 一番影響を受けたのは、ジイドの「ソヴェト・ロシア紀行」である。ゴ リキィの葬儀に参列した最初のモスクワ訪問で、ジイドは「ソヴエト・ロ シアの未来にこそ全世界の運命がかかっている」と熱っぽく世界に訴えた。 しかし、滞在中にソ連の文化鎖国主義、新しい支配階級による人間性を無 視した政治主義に失望して帰国している。一九三九年に発表した「ソヴェ ト旅行記加筆」は厳しいソ連批判で貫かれていて、今日のソ連崩壊を予告 しているといっても過言でない。これが六十年昔のことである。この当時、 世界の進歩的文化人が、こぞってソ連を賛美していたことを思うとジイド という不屈の精神に満ちた文学者の素晴らしさには驚嘆せざるを得ない。

 大学を出て、マスコミの世界に入った私は、明日にも日本に革命が起こ るような社会主義思想の台頭に揉まれた。やがて世論を二分する六〇年安 保の疾風怒濤の時代を迎えた。国会の記者クラブで津波のように木霊する 国会デモの地響きを聞きながら、「デモが国会に乱入し占拠すれば、本当 に革命が起こるかもしれない」と身震いするような感慨に襲われた経験が ある。
仲間のジャーナリストには、むしろ革命を期待する者もあったが、社会 に出てからもジイドを引きずっていた私は、ソ連型革命には懐疑的だった。 むしろ本能的な抵抗感があったと言える。

 と言ってアメリカ民主主義が最高の政治形態だと思っていたわけでない。 フルブライト留学生が帰国して、アメリカ一辺倒の礼賛をする軽薄さには うんざりさせられた。最近はアメリカ型の弱肉強食の自由競争を是とする 風潮が大はやりだが、一人の強者が勝ち残る蔭には、多くの弱者が犠牲者 として葬り去られる。アメリカン・ドリームの成功物語よりも、全員が粗 衣粗食を恥とせず、身は貧しくても、心が豊かな社会造りの方が望ましい。 物質文明はいくら豊かになっても、さらなる欲望に駆られて、飢餓地獄を 彷徨するだけである。そして心は満たされず、精神の荒廃を招く。最近の 日本の世相は、このことを見事に証明している。

 ロシアについて私の閉ざされた心の扉を開いてくれたのは、袴田茂樹の 「沈みゆく大国」の著作だった。モスクワの留学経験があり、ロシア国内 を足で歩いて友人を作り、ロシア芸術やロシア文学を学んだ袴田茂樹は、 これまでのロシア研究家に無かった一種の文明論の持ち主である。
 ロシアでの数年間の生活を経て、袴田茂樹は日本で流布されたソヴェト 時代が理想郷だというイデオロギーが全くの砂上の楼閣であることを知る。 ソ連人の心理や行動が、一般に「社会主義的」と考えられているものとは 異なり、共産党の支配にもかかわらずソ連のなかに「ロシア」が生きてい ることに感嘆している。社会主義革命や共産主義のイデオロギーによって 支配されていても、ロシア人の国民性はトルストイやドフトエフスキーの 時代から少しも変わっていないのであった。

 日本人の独身女性でロシア科学技術アカデミーの営業部長になった山田 みどりも同じようなことを言って私を驚かせた。多民族国家のなかで白人 系のロシア人が特権を持っている国家のゆがみ、非効率・お人好しの国民 性など幾多の問題を抱えているロシアの現状を認めながらも、ロシア人が 自国の文化を大切にしている例証をあげて、「ロシアに魅力を感じる」と まで言い切った。

 ロシアでは「教養がない」というのは、最もきついことになると言う。 したがって、他国人がロシアにきて商売だけに熱中している姿を見ると、 「文化に欠ける」と秘かに軽蔑するそうである。さしずめスーツケースを 抱えて飛び回る日本人の商社員などは、まさに軽蔑の対象になっているの だろう。シベリア旅行の前に私が得たロシア知識は、限られたものだった が、あとは自分の目で確かめることだと考える。


黒いコートで闊歩する娘たち


 司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに「モンゴル紀行」がある。大阪 外語の蒙古語学科を卒業した司馬遼太郎はモンゴルには特別の思い入れが あったようだ。二十六年前に司馬遼太郎は、新潟空港からハバロフスクを 目指して飛び立ち、国内便に乗り換えて、イルクーツクに向かい、そこか らモンゴルのウランバートルに入った。奇しくも私たちはその道を辿るこ とになった。違うのはイルクーツクからモンゴルとの国境の国・ブリヤー ト・モンゴル共和国の首都・ウランウデに向かったことである。

 新潟の空港ロビーで出発便を待っていると若いロシア娘が三人、屈託の ない表情でお喋りに熱中していた。すらりと伸びた肢体、ブルーの美しい 目、白い肌に思わず見とれてしまう。これが中年を過ぎると雄牛のように 太り、典型的なロシア女に変貌してしまうのだから、不思議と言えば、こ れほど不思議なことはない。

 機内に入ると驚いたことには、蠅が三匹舞っていた。ロシアを代表する れっきとした国際線のダリアビア航空(旧アエロフロート)でハバロフス クまでの二時間、しつこいロシア蠅に悩まされたが、これは序の口だった。 国内線に乗り換えると蠅の数も増え、十匹まで数えたが、後は面倒臭くな り数えることを止めることになる。

 新潟とハバロフスクの時差は一時間。時計の針を戻すとハバロフスク空 港の時計と合わない。迎えに出たガイドのロシア娘に聞くとすでに終わっ た筈のサマータイムが、まだ続いていると言う。
 「何時サマータイムが終わるのか」と聞くと日本語の喋れるガイド娘は 首をすくめて「わからない」と笑う。そろそろ十月になろうという北の国 でサマータイムが続く不思議さにまた驚かされた。これがロシア的という ことだと私は自分を納得させるしかなかった。

 ガイド娘はエレーナという名前だった。ハバロフスク大学の五年生。新 潟でみたロシア女性より色が白く、目は澄んだブルーで足が長く、日本語 が流暢だった。ホテルに向かうバスの中で「ハバロフスクは夏は三十度、 冬はマイナス三十度になるが、ロシア人は夏の三十度の方が堪える」と言 った。雪は一メートルぐらいしか積もらないとも言う。「雨は八月、九月 に多いのが、今年は六月にうんと降った」と歌うように言う。
 なかなかの美人でロシアの大地に立った最初の印象は良かった。ガイド は若く美しい女性が良い。国際線の蠅の不愉快さは何時の間にか忘れてい た。

 エレーナに少し立ち入った話を聞くことにした。「ロシアの給料はいく ら位か」と尋ねると「二千ルーブル(約一万円)だが、千五百ルーブルの 人もたくさんいる」と答える。「それで生活できるのか」と言うと「物価 が安いから・・・」と言いながら「でも苦しい」と初めて暗い顔を見せた。
 ホテルのガイドの報酬は二十ドル。ドルとルーブルの交換比率は変動し ているが、私が交換した百ドルは二千四百八十ルーブルだったから、約五 百ルーブルがエレーナの報酬ということになる。

 それにしてもロシアの男性の身なりは貧しいが、女性の身なりは長い黒 コートに身を包み、中には高価なイタリア製の靴を履いて街を闊歩してい る。
 二千ルーブルの生活費では、とても買える代物ではない。一張羅が多い とは言うが、高価な洋装で身を飾るために、外国人相手の売春がかなり浸 透しているという。ホテルに泊まった夜、ドアをノックする音で起こされ た。墓参団の誰かが訪ねてきたと思ってドアを空けると、それと分かるロ シア女性が四人、英語で「遊ばないか」と誘いをかけてきた。ブロークン ・イングリッシュで断ったが、翌日、皆に聞くと全員が誘いを受けていた。 新潟で見たロシア娘たちは、セックスの出稼ぎだったのかもしれない。

 山田みどりは、「その手の女性は一部で、大部分は質素で堅実な若い女 性が多い」という。たしかにエレーナは小ざっぱりとした半コートに身を 包み、ケバケバしさは微塵もないが、品の良い学生だった。


ジプシーが屯するハバロフの銅像


 アムール川とウスリー川の合流点に位置するハバロフスクは美しい街だ。 満州クルミの葉が黄色くなっていたが、あと一週間もすると落葉すると言 う。エレーナの案内で日本人墓地を詣でる。広大なロシア人墓地の一角に あり、白樺の木立の中に百九十一人の戦没者が故国の土を踏むことなく、 静かに眠っていた。
 ふと見ると墓参団が建立した慰霊碑のステンレス製の墓碑銘が無惨にも はぎ取られていた。生活に困窮したロシア人が、金トコを使ってはぎ取り、 売ってしまったらしい。ステンレスの墓碑銘にせず、直接石碑に墓碑銘を 刻むべきであったろう。

四十三人の墓参団は,手分けしてまず落ち葉を拾い、周辺を清掃してから 慰霊祭を行った。団員の女性が家族の写真を胸に掲げて、黙祷をしている。 茨城県遺族会長の狩野参議院議員が、しめやかに弔辞を読み、全員が黙祷 を捧げた。静寂な一時、遺族のすすり泣きが耳に刺さった。

 墓地に入る時に気がついたが、花売りの老婆たちが立ち並んでいた。気 のせいか、花がしぼんで見える。墓参団は自由市場で花を買っていたので、 そのまま通り過ぎた。墓参や遺骨収集でベテランの団員が、「慰霊祭が終 わるとあの連中が花や供物をさらっていく」と呟いた。道理で花がしぼん でいる筈である。

 英霊に捧げた供物が、飢えに苦しむ貧しいロシア人の腹を満たすのなら、 あえてとがめ立てすることもあるまい。ロシア人の多くはロシア正教の信 者である。ロシア人墓地には花が綺麗に飾られていた。日本人墓地の花や 供物だけが狙われるのは、納得出来ない思いが残るが、これをとがめ立て しても仕方あるまい。

 帰路、船でアムール川を散策する。川の対岸は中国領。流れが速く、水 は土色に濁っていた。ロシア側に立ち並ぶ工場は、いずれも休業状態で荒 れ果てていた。ロシア経済の混乱は想像を絶するものだった。街の美しさ に較べて人々には活気がみられない。極東ロシアに中心地がこの有様だか ら、シベリア奥地の惨状は想像も出来なかった。

 ハバロフスク駅に出ると付近には乞食姿のジプシーが屯していた。油断 をするとスリ、かっぱらいに変わるという。商店は朝八時から夕方五時ま で開けることになっているが、三時を過ぎるとほとんどの店じまい。豊か な日本とは較べものにならない。

 駅前に大きな銅像が立っていた。一六四九年、この地に初めて訪れた探 検家・エロフエイ・ハバロフの像だというが、ハバロフはモスクワの人と いうだけで詳しいことは何も記録が残っていない。ハバロフの名にちなん で、一八五八年にハバロフスクの名前がつけられたというにしては、何と も大ざっぱな話である。像の回りにもジプシーが、数人、所在なげにタバ コをふかしていた。ロシアには記念碑のオベリスクやレーニン像が立つ広 場がやたらに多い。その壮大さと庶民生活の貧しさのコントラストが旅行 者には奇異に映る。

 ロシアはスラブ系白人によって支配される多民族国家である。アムール 川の下流には先住少数民族であるナナイ人が暮らしているが、スラブ系白 人はナナイ人をロシア人とは認めていない。スラブ系白人の国内他民族に 対する人種差別、偏見はシベリア奥地の旅が進むにつれて、嫌というほど 思い知らされるようになる。シュワルナゼ元外相ですらグルジア人なるが 故にロシア人とは認知されないお国柄である。

 スラブ系白人の日本人観は「金を持った東洋のモンゴル」という差別意 識が根底にあるのではなかろうか。そうでなければ、国際法を無視して五 十数万人の日本人をシベリアに拉致し、使役に酷使した無法が説明出来な い。

 その意識がある限り、極東ロシアが日本を頼りに、シベリアの開発を進 めようとしても、日本人の理解がなかなか得られないのではないか。まず ロシア国内の民族差別を払拭し、極東ロシアがアジアの一員という自覚を 持つことが先決だと思う。
 私は今度のシベリア旅行を通して、三つ揃いの背広、ネクタイで身を固 め、スラブ系白人に対しては毅然たる態度に終始したつもりである。その 一方でブリヤート・モンゴル人などアジア系ロシア人に対しては、同じア ジア人として、出来るだけ丁寧な応接を心がけた。時には同じルーツを持 つ人種として、スラブ系白人に対してもっと対等の姿勢を保つように呼び かけた。人種差別は相手の高飛車な態度にも起因するが、こちら側が卑屈 な態度になることからも誘発する。


知的な街、イルクーツク


 ハバロフスクからバイカル湖のほとりにあるイルクーツクまでは、ロシ アの国内便で飛んだ。三時間の旅だが、隣の席にスラブ系白人とアジア系 ロシア人の混血とみられるロシア人が坐った。旧アエロフロートの技術者 で私と同様のブロークン・イングリッシュだが、話が通じ、退屈しなかっ た。イルクーツクの住人で「空港に着くと四度位の温度になる」と言った。 「冬はマイナス二十度平均だが、慣れているので寒くない。しかし時には マイナス四十度になるので、その時は戸外に出ないようにしている」と笑 った。

 「チエホフがイルクーツクをシベリアで一番知的な街と褒めている」と 言うと「ダー(そうだ)」と身を乗り出してきた。「トルストイもシベリ アに流刑されたことがあるのではないか」と聞くと首を傾げて「イルクー ツクではない」と言った。ふと後部座席を振り返るとロシアの子供が好奇 心に駆られたのか、われわれの会話を聞いていた。バッグからチョコレー トを出すと最初はモジモジしていたが、「スパシーバ(有り難う)」と小 さな声で言って受け取った。

 子供は万国共通で可愛い。しばらくすると後ろから肩を叩かれた。振り 返ると子供の父親がロシアのチョコレートを差し出している。今度はこち らが「スパシーバ」の番だった。ハバロフスクからイルクツーツクまでシ ベリア鉄道だと車中二泊の旅になる。航空便を利用するロシア人は、やは り限られたエリート階級なのであろう。

 「シベリアのパリ」とロシア人はイルクーツクを自慢するが、どう贔屓 目に見ても、パリとはほど遠い街のたたずまいだった。美しい街だが、や はり活気がない。街中を赤と白のツートンカラーの市電がノロノロと走っ ていた。小高い丘に立つとバイカル湖から流れ出たアンガラ川がゆったり と流れ、水の色は青かった。ところどころにロシア正教会の緑の屋根がそ びえ立つ。教会の入り口には物乞いが屯している。小銭を皿に入れてやる と上目づかいのこちらを見るが、目はぞーとするくらい暗い。

 ロシアに来て三日間になったが、印象はシベリアのどんよりとした空の ように暗いものだった。それが救われたのは、アンガラ河畔の公園に出た 時だった。ロシアの少年・少女があちらこちらで陽を浴びながら、体操に 余念がなかった。くったくのない笑い声も聞こえる。橋のたもとで写真を 写すとこぼれるような笑顔でポーズをとってくれた。どの顔も人なつこい、 健康そうな顔、顔だった。茶髪が横行する日本とは、比較にならない次世 代の顔である。この少年、少女が成人する頃には、ロシアがもう少し変わ って欲しいと心底から願って、公園をあとにした。

 貧しくても良い。粗衣・粗食を恥とせず、心豊かなロシアの再生を願わ ずおられなかった。満ち足りた飽食の中で、心が荒廃している日本よりも 遙かに素晴らしいロシアの未来が待っている。ロシア人の自国の文化に対 する誇りと自信は、日本人も学ぶべきである。「物が無いから、文化しか 誇るものがない」と皮相な見方をするべきでない。自国の積み上げた文化 を大切にしない民族は、いずれは精神的に亡国の道を辿ることになる。

 ホテルはハバロフスクと同じインツーリスト。国営当時よりサービスが 改善されたというが、水道の蛇口をひねると赤茶色の水が出た。水道管が 老朽化し、鉄サビが混じっているという。イルクーツクのインツーリスト は、シベリアで一番良いホテルだと聞いていたが、建物の大きさに比較し て、室内設備は日本のビジネスホテルにも及ばない。飲み水の衛生も悪く、 ペットボトルのミネラルウオーターだけが頼りである。
 タバコの値段も同じホテルの中で、セーラムが四〇ルーブルと三十五ル ーブルと違っていた。ロシアのパンは黒パン、普通の白パン、フランスパ ンといろいろあったが、おいしいパンに慣れた日本人の口にはとても合う しろものではない。しかし、三日もするとロシアパンが苦にならなくなっ た。

 イルクーツクのガイドは、ヴァレリーという若い男。大学の日本語学科 を卒業して、ガイド歴三年という。「シベリアの松は赤松四〇%、から松 三五%」と説明しながら「おそ松もあります」とジョ−クを飛ばす。シベ リアの森林を彩る白樺の樹は、建築用材としては役に立たず、冬場の薪と して使うほかはない。この男は自らスラブ系ロシア人と言って胸を張った が、なかなかの商売人で「商売上手のアルメニア人ではないか」と揶揄す ると「生粋のスラブだ」と口をとんがらかした。

 日本人がロシアに来るとまず求めるのはチョウザメの卵であるキャビア だ。ヴァレリーは「チョウザメは乱獲で絶滅寸前になったので、来年から 捕獲禁止となった。しかし、私は業者を知っているので、今ならいくらで もキャビアを入手出来る。値段も二十五ドルで最高級品」とバスの中で注 文を取りだした。「税関では三個しか持ち出せないのではないか」と質問 が出ると「ロシアの税関はフリーパスで何個でも持ち出せる。五十個でも 平気です」と自信たっぷりだった。これを真に受けた団員が五十個購入し たら、ウラジオストクの空港税関で四十七個分の持ち出し税を百ドル近く とられ、高い買い物になった。しかも同じ品物がウラジオストクの店では 十五ドルで売っていた。


戦没のお祖父さんと同名


 墓参団はイルクーツクで二班に分かれた。一班はバイカル湖沿いに北上 したチェレンホボ。一班はバイカル湖の水がアンガラ川に注ぐリストビヤ ンカ。慰霊祭はリストビヤンカで行われた。チェレンホボは悲劇の炭坑地 帯で多くの犠牲者を生んだ。酷寒の炭坑で作業する抑留者には、すでに消 滅した日本陸軍の階級差別が依然として残り、死亡者は兵が多い。遺体は 凍り、まさに人柱となった。犠牲者はまとめて埋葬され、墓の目印も慰霊 碑もなく、今は小高い山林と化している。イルクーツク大学のセルゲイ・ クズネツオフ教授が戦後、イルクーツク地区の日本人墓地の調査をたんね んに続けていて、チェレンホボを訪れる日本人の案内役をしてくれる。ロ シアにもそういう人が存在している。

 リストビヤンカのホテルに入った時のことだ。ハバロフスクの空港で見 かけた三人のアジア系の男女がロビーに坐っていた。中年の品の良い女性 と息子と娘で、身なりからして裕福さが見とれた。秋のバイカル湖を見に 来た韓国の財産家の一行だろうと勝手に想像し、ハングルが分からない私 は、声をかけることもしなかった。娘の涼しげな目だけが印象に残った。 この一行とはウラジオストクに向かうイルクーツクの空港で再会すること になる。試しに声をかけると横浜市に住む日本人だった。夫人の父親をシ ベリア抑留で失っていると言う。遺族の墓参は、こういう形でも続けられ ていた。

 リストビヤンカには、一八四六年に建てられた聖ニコライ教会がある。 そこから急坂を登った小高い丘のロシア人墓地の一角に日本人墓地があっ た。私の父の墓所は、厚生省の調査でイルクーツクからシベリア鉄道で七 時間、バイカル湖沿いに走ったモンゴルとの国境の街・ウランウデにある ことは承知していたが、市内には三つの日本人墓地があり、巡拝はウラン ウデで一カ所と決められていた。

 果たして父の墓地をお参りすることが出来るのか、自信がなかったので 慰霊祭が行われるリストビヤンカで供物を捧げることにした。真言宗の僧 籍を持つ団長に書いていただいた卒塔婆と父の好物だったオールド・パー のウイスキーがまだ少し残っていたので、ビンごと供え、合掌した。
 残念なことに、ここでもステンレスの墓碑銘がはぎ取られてあった。し かしハバロフスクの日本人墓地よりも清掃が行き届いていた。お線香の立 ち上る煙を浴びながら、団員一同は敬虔な黙祷をして、戦没者の霊を弔っ た。団長の海外墓参は八回になるという。また今回は三十歳の孫が参加し ていた。「お祖父さんと同じ一夫という名前なのです」とこの好青年は、 はにかみながら語ってくれた。

 バイカル湖は「シベリアの真珠」とも言われる。バイカルの意味はタタ ール語で「豊かな湖」。琵琶湖の五〇倍の広さは、湖というより海に近い。 水温は一三度までしか上がらず、冬は凍結する。世界でも珍しい淡水のア ザラシが生息しているが、その昔、バイカル湖がレナ川によって北極海と つながっていたのが、地殻変動で閉ざされ、アザラシが取り残されたとい うのが定説である。水深は世界最大の一七四二メートル。透明度は四三メ ートルで、ヴァレリーは「この湖で泳ぐのはアザラシと酔っぱらいだけで す」とまたジョークを飛ばす。ゴロニヤンカという名の浮き袋のない魚が 生息しているが、深くもぐり、水温が五度を超えると死滅するそうだ。
 リストビヤンカの港から遊覧船で対岸に渡ることになった。対岸まで二 時間。小舟だったので、港を出たとたん波浪にもまれ、木の葉のように揺 れた。船酔いに襲われ、二回もどすはめになった。船のトイレにたどりつ くまで、二度床に叩きつけられ、美しいバイカル湖の恐ろしい顔をたっぷ り味わった。対岸に着くと粉雪が舞い、猛烈な寒さに襲われた。ブリヤー ト・モンゴル人のガイド娘が待っていたので、温度を聞くと「マイナス四 度くらい」とこともなげに言う。バスのヒーターもなかなか暖まらない。 襟巻きを首に巻き付け、毛糸の帽子を耳まで下げた。

 ブリヤート・モンゴル共和国はモンゴルと国境を接する。首都はウラン ウデ、そこから山を越え、二四〇キロ行くと広大なモンゴルの草原が広が る。街にでると日本人と変わらないアジア系の黒髪、黄色い顔にぶつかる。
 ガイドはブリヤート・モンゴル人の娘のほかに、ウラウデ大学を出たブ リヤート・モンゴル人の若い男性が加わった。しかしヴァレリーは、彼ら と口をきこうとしない。

 若い男性ガイドは日本語が喋れた。「君はブリヤート・モンゴル人か」 と聞くと「ロシアのブリヤート人だ」と首を振った。モンゴルという言葉 を嫌う。
 ロシアでは「ジンギスカン」という言葉は禁句だと聞いていたが、スラ ブ系白人を殺戮し、農奴として従えたジンギスカンの末裔は、ジンギスカ ンの死後も、モンゴル軍の作ったキプチャック汗国として残り、二百五十 九年間も「タタールのくびき」と言われる殺戮の恐怖政治をしいた。
 ロシア人にとって、モンゴルはロシアの侵略者という思いが、今も消え ないのであろう。


父の魂魄が宿る墓標


 ウランウデに運ばれた抑留者は約一万八千人。イルクーツクと同規模で ある。千五百人ずつ収容所に入れられた。主として山林の伐採業務につい た。抑留者の死亡率は、地域によって異なるが、平均して八%から九%の 統計数字が出ている。ウランウデだけで、千五百人前後の死亡者が出たと 思われる。そのほとんどが栄養失調だが、他の地区と違って軍の病院に収 容されて、遺体は病院の墓地に葬られた。私の父はウランウデ病院に収容 されて死亡、遺体はブリヤート自治共和国第九四四特別軍病院墓地に埋葬 となっている。

 ウランウデだけで、日本人墓地は三カ所ある。今では九四四特別軍病院 墓地の呼称も無くなっているので、何日もかけて調べないと父の墓所を発 見するのは難しいと思われた。墓参団一行には三十三人の遺族が参加した が、ハバロフスクでは埋葬地が河川の氾濫で埋もれていたり、イルクーツ クでは埋葬地が小高い山林と化していて、肉親の墓所を探すことは困難を 極めていた。

 墓参団が巡拝したウランウデの日本人墓地は、市内で一番大きい墓地と 分かったが、ここに父が眠っている保証は何もなかった。墓守の老婆は意 外と親切だった。通訳を介して墓所ナンバーである「五〇〇」の数字を見 せると「この墓地に間違いない」と断言してくれた。
 それだけではない。管理事務所にいる市の責任者に連絡してくれ、墓地 台帳を持った責任者がジープで駆けつけてくれた。墓所にはナンバーは消 えていて、「五〇〇」を手懸かりに墓所を探すことは不可能だった。しか し墓地台帳には「五〇〇 ΦΥΡΥCΑΒΑ ΤΑМΑД3ИΡО」とロ シア文字で記載されていた。

 あとは責任者と老婆の記憶を頼りに「五〇〇」の位置を手探りで探すこ とになった。一〇〇〇に近い墓所から「五〇〇」の位置を探し出すことは 困難を極めた。
 慰霊碑の前での行事もそろそろ終わりに近づいた。ふと見るとここの慰 霊碑の墓碑銘が剥がされずに残っていた。墓地の管理も行き届いている。 ロシア国内でも場所によって日本人墓地の管理の濃淡があることが分かっ た。

 再び、この地を訪れて、時間をかけて父の墓所を探すしかあるまいと腹 をくくった時、一つだけ外れかけたステンレスの墓標が目に止まった。手 に取って見ると「古澤玉次郎」の日本文字とロシア文字が刻まれていた。 裏を見ると探していた「五〇〇」のナンバーもあった。奇跡が起こったの である。

 「あった!」という私の声に女性の団員が数人駆けつけてくれた。皆、 自分のことのように涙を浮かべ、お線香を立て、供物を供えて手を合わせ てくれた。頭の中が真っ白になり、立ちつくす私の傍らに団長が立ち、即 席のお経を読んでくれた。ようやく我に帰った私は、ホテルから持ってき たペットボトルの口を開け、水をたっぷり墓に注いだ。私には父の魂が呼 び止めてくれたとしか思えない。酷寒のウランウデで父はどんなにか冷た い寒い思いをしたであろう。ステンレスの墓標は、そのまま肌身につけて、 暖めながら日本に持ち帰ることに心を決めた。「これで父の魂魄は日本に 帰れる」としみじみ思った。

 管理者の話では「ロシア政府の許可が降りれば、遺体を掘り起こし、遺 骨にして日本に持ち帰ることが出来る」と親切に言う。墓地の帰途、その 言葉を噛みしめながら、やはり遺体はシベリアに残そうと決心した。多く の戦友を残して、自分だけが日本に帰国することは父も望むまい。律儀な 父が生きていれば、帰国するにしても最後の人となるのを希望するであろ う。私は一人息子だから、父の気持ちがよく分かる。それよりも生きてい る限り、この墓地に巡拝の旅を繰り返そう。そのことが、ロシアと日本の 新しい絆を結ぶことになる。

 ウランウデからイルクーツクに戻るシベリア鉄道の食堂車でロシア・ワ インを一本空けて、涙を流してくれた女性団員と乾杯した。深夜のイルク ーツクに列車は滑り込み、そのままホテルに直行したが、その夜は、尽き せぬ思いがこみ上げてきて、寝付かれなかった。肌身につけたステンレス の墓標が、今度は無事に帰国出来るお守りとなった。


さらばシベリア


 イルクーツクからウラジオストクに向かう朝のことである。チェレンホ ボの墓参の案内をしてくれたセルゲイ・クズネツオフ教授がホテルのロビ ーで三人の日本人と立ち話をしていた。三人はかつてイルクーツクに抑留 された人たちで、この地で果てた戦友の墓参を二年毎にしているという。 いずれも八十歳を超えた老齢の身で、自費で墓参を続ける真摯な態度に心 を打たれた。リストビヤンカで会った三人の親子といい、残された遺族や 戦友の墓参の旅は、戦後半世紀を超えた今も続いている。奥地シベリアの 旅は決して楽な旅行ではない。その苦難を乗り越えて、亡き人を弔う心に 打たれる。

 イルクーツクからウラジオストクまでは、国内便で三時間。ロシア流の 時間のルーズさで出発が一時間以上遅れた。旧アエロフロートの中古機で ようやく飛び立ったが、ウラジオストクの空港上空でアクシデントが起こ った。折からの強風雨を冒して、着陸姿勢に入ったが、滑走路の途中で着 陸に失敗し、急上昇して機体のバランスを失い、激しく揺れた。上空で三 〇分旋回し、再度、降下して、胴体着陸に近い荒っぽい操縦で着地した。 まさに遭難事故と紙一重の着陸であった。モスクワ周辺での事故は報道さ れるが、シベリアでの事故は報道されても小さな扱いしかされないと言う。

 ウラジオストクのホテルは韓国との合弁事業なので、これまで宿泊した ホテルに較べて格段と良い設備が整っていた。ウランウデのホテルはシャ ワーのお湯が出ない不便さを我慢しなければならなかった。このホテルで はトイレット・ペーパーも日本と同じ柔らかい白い紙を使っていた。これ までのホテルは、幅の狭い新聞紙と変わらない硬い紙のトイレット・ペー パーで、日本からわざわざ持ち込んだトイレット・ペーパーを使う不便さ があった。便座も汚く、アルコールをしみ込ませたペーパーでいちいち消 毒して使わなければならなかった。

 海を渡れば、日本に帰れるという期待が、疲労の溜まった一行の気持ち を和らげた。

 ウラジオストクのガイドは極東大学で日本語を教える女性講師。ボイコ ・ユリアという気さくな美人だった。交換留学生制度で、日本にも滞在し たことがある。
 大学の給料は千ルーブルにしかならないので、不足分をガイドのアルバ イトで補っているという。ハバロフスクのエレーナはわれわれより背が高 いスラブ系ロシア美人だったが、ユリアは日本人の女性並の背丈しかない。 純粋のスラブ系白人でなく、アジア系ロシア人の血が混じっていると感じ たが、詮索は止めた。

 ロシアの恩給制度について質問すると「一般は三百ルーブル、軍人恩給 は六百ルーブル」という返事がかえってきた。
 なかなかのインテリで「エリツインはもうお仕舞い。あとはプリマコフ の時代になる」と断言する。エリツインは最近、テレビ演説をしたが、酔 っていて何を喋っているのか、ロシア人にも分からなかったと笑う。街を 走る車は日本の中古車で、ポンコツ車ばかりのため事故が多発し、死者も 多いという。「でも、ウラジオストクは好き」と目を輝かせた。「きれい な景色でしょう」とこちらに同意を求める。

バスでウラジオストクの軍港に出る。ロシアの軍艦が四隻係留されてい た。バスを降り、肌身につけていた父の墓標を外して、日本海を見せた。 抑留者がどれだけ故国につながる日本海に憧れを持ったか、言葉には言い 尽くせない。この海を見ることなく異郷の土と化した六万三千人の物故者 の無念さを思うと言葉も出ない。復員船でナホトカから祖国に帰還した人 たちとナホトカにたどり着くことが叶わなかった人たちの運命は紙一重だ ったことを改めて覚った。

 ウラジオストクはアムール川沿いの「風の街」だ。ここからシベリア鉄 道で七日間・九二八八キロの旅をするとモスクワに着く。考えただけでも 気の遠くなる話だ。
 ロシアは歌の国でもある。一人が口ずさと歌の輪が広がり、自然と大合 唱となる。帰国の前夜、ユリアの案内でジプシーが歌うロシア民謡の酒場 に連れていかれた。ギターをかなでながら、歌う哀調あるロシア民謡に耳 を傾けると故国・日本に対する思いがつのってくる。戦後、新宿にあった 「歌声酒場」に通った記憶が鮮明に甦った。

 ユリアに「ロシアが再び、共産主義国家に戻ることがあるか」と意地の 悪い質問をしてみた。「今のロシアは疲弊しているが、自由がある。努力 すれば、豊かな国になる可能性を秘めている。少なくとも若い世代はそう 信じているので、共産主義に戻ることはあり得ない」ときっぱり言い切っ た。
「ですから、アルバイトをしながら頑張っているのです」とも言い添えた。 生活苦にあえぐ高齢者には、住宅も交通機関もタダで済んだ昔のソ連時代 を懐かしむ声があるのは事実だが、若い世代による新しいロシアの胎動が 確実に始まっている。

 今度のシベリア旅行で印象的だったのは、革命ロシアで弾圧された筈の ロシア正教が国民の中に広く浸透していて、見事に復活していたことであ る。どこの教会に行っても、数多くの民衆がキリストのイコンの前で、細 いロウソクの火を灯し、十字を切って敬虔な祈りを捧げていた。文学も宗 教も人間の弱さを知ることから出発している。自然の大きさに較べると人 間の営みなど比較にならない小さいものである。

 謙虚に神の存在を信じ、現世の苦難を乗り越えようとする民衆の信仰を 誰が否定出来ようか。「宗教は阿片」という共産主義の理屈は、太古の昔 から自然と神を信じてきた民衆の知恵によって、跡形もなく否定されてい た。

 帰国の空港に向かう途中に日本人墓地があった。ウラジオストクは軍港 として、外国人には久しく閉ざされていた。ロシア唯一の不凍港でもある。 ソ連太平洋艦隊の前進基地だったため、ウラジオストクに送られた抑留者 はソ連側から反動の烙印を押された受刑者が多かったという。反動の烙印 は同じ抑留者の密告によるものもあった。シベリア抑留の暗い裏面史とい える。

 伊藤登志夫はナホトカで復員船に乗船するときの光景について、百数十 人が名前を呼ばれず、「何故呼ばれないか」と抗議するとソ連将校は落ち 着き払って「取り調べのためだ」と言い放ったと記録している。
「反動分子」の烙印を押されたその百数十人は、そのままウラジオストク の収容所に送られ、刑法第五八条九項によって二十年の刑に処せられ、さ らに奥地の収容所送りとなった者もいる。
ナホトカの海を見ながら、帰国出来なかった無惨さを考えると、これ以上 の悲劇はない。

 シベリア抑留者には二つのタイプがある。今もってシベリアに果てた戦 友の死を悼み、老齢の身で墓参を欠かさない人たちがある一方で、シベリ ア抑留について固く口を閉ざして語りたがらない人たちがある。多くの抑 留者は高齢化し、物故者も多くなったが、中には日本を脱出して、モスク ワに逃げ、ロシアの若い娘を囲って楽しんでいる者もあるという。日本の 年金なら月に二十万円ぐらいになる。一万円のロシアの平均給料に比較す れば、月に五万円、年間六十万円でかなり裕福な生活がモスクワで送れる。 山田みどりは「不愉快ですね」と言ってはばからない。ある男は足におで きが出来て、汗が異常に出ることから、あわてて日本に帰国し、抗生物質 で治療して、性懲りもなく、モスクワに戻ってきたという。
 これが同胞を売った密告者なら地の涯てまで追いかけ、糾弾したいと思 うのは私だけであろうか。

 シベリアの旅は終わりに近づいた。怨念の旅だったが、会ったロシア人 は人が良く、礼儀正しかった。貧しいが、少年・少女の明るさにロシアの 未来に希望を持たせた。ロシアは美しい国である。民族差別など問題は残 しているが、新しい日露友好関係を築くことは十分可能だと考える。過去 の日露の関係は、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン事件、そして第二 次世界大戦と戦争の歴史であった。われわれの手で平和な日露友好関係の 一ページを開く時が来たと思う。