心をこめて生きる◆ 終戦の年に旧制の女学校に入学した。三年生で学制改革にぶつかった。そのまま高校 に進学できたのだが、私の生家は山村の貧しい農家だった。六年間も町の学校に通え る筈がなく、私は自分の意志で高校進学を諦めた。戦後の混乱期に、中卒娘の適当な 働き口も無くて、私は村に帰って生家の手伝いをする身になった。本来なら四年で女 学校を卒業して、日赤の看護婦になる筈だった。 ◆ 当時の日本人の誰もがそうであったように、国の歴史的な転換期の渦の中にまきこま れたわけである。いっしょに学校を去った仲間も、各クラスに二、三人は居たらしい が、私は自分の挫折感から他人のことなどを思う余裕がなかった。すべての価値観が ひっくり返った世の中を、どう受けとめたらいいか分からず、学業に対する熱意など とっくに失ってもいたのである。 ◆ 私は小学生時代から、手当たりしだいに大人の本(キング・講談本・婦人雑誌の類) ばかり読みあさる、早熟な少女だった。身近にそういう本しかない環境だったから、 子供が菊池寛や久米正雄の恋愛小説に熱中していても、大人は気にもしなかった。時 代は軍事色が強化され、私は従軍看護婦の手記などを読んで、すぐその気になる軍国 少女でもあった。 ◆ 村に帰ってからの私は、三年間でも女学校へ行ったという自負心と、高校進学ができ なかった挫折感で落ち込み、かなりシニックになっていた。といっても、大人から見 てなにを考えているのか分からない、という程度の娘だったのだが。私にデカダン娘 のニックネームをつけたのは、村の青年達だった。 ◆ その頃の農村は、農地改革によって根本からゆさぶられ、どこの村にも自由解放のか け声が満ちていた。ダンス・楽団・やくざ芝居が流行り、自由恋愛に憧れ、脱線する 若者達で村はてんやわんやだった。 ◆ 気がついたら、私もその混乱の中にとび込んでいた。若者達の熱気はやがて”家”か らの自己解放を目差す運動にしぼられてゆき、青年団活動が盛んになった。その活動 に関わることで、私は村の一人の青年と愛し合うようになった。昭和二十六年当時、 私はまだひそかに、唐木順三著の「自殺について」などを愛読していたのだが、彼を 知って重い挫折感から脱けられた。 ◆ 二十七、八年には、アメリカ直輸入の4Hクラブ活動が普及し、新しい農業技術の導 入もあって、村は着実に変っていくかに見えた。私は彼との結婚に希望を持った。新 しい農婦像を夢見ていたのである。農家の一人息子だった彼も同様で、二人は村の文 化活動にに揃って熱中した。五年間、それは悔いの無い充実した青春時代だった。 ◆ だが、私と彼は結婚できなかった。二度目の挫折で私が村をとび出したのは二十代の 後半になってからである。以来ずっと私は独りで生きてきた。勤めながら、小説を書 くようになって、二十余年になるだろうか。 ◆ 農民文学会に入ったのは村に居た頃である。自然発生的な短編小説を書いた後上京し たのだが、数年間は生きるための仕事に追われ、ろくに本を読む心の余裕もなかっ た。 ◆ 三十五過ぎて二度目に書いた小説で農民文学賞をもらった。それから数年後、短編を まとめた一冊の本で田村俊子賞を受けたのだから、私はついていた。幸運としか言い ようがない。 ◆ 私の小説は自己流である。無知ゆえの怖いもの知らずで書いてきた。カルチャーセン ターのような身近な勉強の場もチャンスも無い時代だった。手さぐりで言葉を重ねる ことが、独りで生きる支えになった。 ◆ 私は、郷里での挫折にこだわり続けた。愛し合った彼が、最後に親の反対に折れて、 私を裏切ったことが許せなかった。狂おしい憎悪とうらはらに、愛の記憶が未練と なって私を苦しめた。心に地獄を抱いた日々だった。家出の翌年父が死んだ。
出合いに学ぶ◆ そのいきさつを、小説として書くことで私は脱皮した。少しずつ身軽になるにつれ、 独り暮らしにもゆとりが出てきた。 ◆ 最近の私は自分と無関係のフィクション小説を書いている。書けるようになったとい うべきか。現在は六冊目の書き下ろし中である。フィクションで書くようになって、 私はようやく小説を書く自由とたのしさを知るようになった。同時に自分の知識素養 の浅薄さを厭でも思いしらされる。 ◆ 時には、なぜ無理をしてでも高校に行かなかったかと、昔の自分を悔やむこともあ る。基礎知識は若いうちに身に付けるべきだと、しみじみ思う。学歴が欲しいのでは なく、勉強する時間と心の余裕が欲しかった。私にとって女学校の三年間は、敗戦の どさくさで、右往左往した記憶だけである。 ◆ むろん、学ぶことは学校だけではない。他人に倍する努力と才能で、ハンデイを克服 した人は世間にはいくらでも居る。 ◆ 学ぶ、とは新しい自分に出合うことだ、という気がする。人間は、この世に誕生した 時から出合いが始まる。両親、きょうだい、友人、先生、上司。家や環境や動植物、 自然から文化、思想・・・。あらゆる出合いとの連続が、生きることではないか。 ◆ 出合いが、ある人にとっては一冊の本であったり、一匹の仔犬であったりしても、鋭 敏な感覚で受けとめる人には、発見があると思う。子供の日々が新鮮であるように、 運命的結びつきになって、深く内面に関わってくることもあるだろう。 ◆ 私の場合、先にも書いたように、進学と恋の挫折が人生を決めたといえる。もし進学 していたら、村の生活にはとび込まなかったろうから、失恋もせず、気楽に生きたか もしれない。それがよかったかどうかは分からない。深く生きれば悦びも深いが、傷 を負いやすく、難儀なことである。分かっていても気性がそっちを選んでしまう。私 は出合いを大切にけんめいに生き、自分の意志で決断してきた。 ◆ 出合った時代と、出合った人や村という環境に深々と関わることで、私は自分を発見 し創造してきたという気がする。憎悪も怨みも、生きるエネルギーに変えてきた。 ◆ 人との出合いは不思議なもので、心の通い合うつきあいがあれば、思いがけないよう な発展が生じることもある。 ◆ 昨年、私は戦争未亡人をテーマにした小説を出版したのだが、書くきっかけを作って くれた人は、郷里の村で暮らす戦争未亡人だった。Sさんとしよう。彼女は私の同級 生の母親で、四人の子持だった。 ◆ 東京からご主人の郷里である私の村に疎開して、そのまま住みついていた。ご主人は 昭和十九年に戦死されたとか。四人の子供を抱えたSさんの戦中、戦後の生活がどん なものであったか、後年まで私には想像もつかなかった。 ◆ 長男が私と同級だったが、無口なおとなしい少年で、彼はやがて中卒で東京へ就職し て行った。私は六年で女学校へ移ったので、彼とのつきあいはほとんど無かった。 ◆ 私がSさんと親しくなったのは、村の青年団活動の中でだった。婦人会や未亡人会と 接触があるたび、Sさんと話すようになり、彼女の息子の同級生である私に親愛感を 持ってくれた。話の分かるさっぱりした人だった。 ◆ Sさんは小説を読むのが唯一のたのしみだと言って、私たちはよく文学の話をした。 その頃はもう、二人の娘も就職し、末っ子の少年と二人暮らしだった。 ◆ ある時Sさんは、五味川純平の小説「人間の条件」を私に示し、「主人はここに生き ている・・・」と言って涙をこぼした。彼女は大恋愛の末に結ばれたというご主人と の思い出を、しゃれたウイットまじりでよく聞かせてくれた。 ◆ 私はそんなSさんが好きで、友人の母親という歳の差など忘れて、つい友だち扱いし て、なんでも打ち明けてしまうのだった。だから彼との仲も、別れの事情もSさんは みんな承知していた。私が村を出る時、彼女は眼が腫れるほど泣いて、励ましてくれ た。 ◆ 郷里を出てからも、私は彼女に対して折々の便りを欠かさなかった。帰郷すれば事情 のゆるすかぎり逢いに行った。 ◆ そのSさんが、一昨年ガンのために亡くなった。七十二歳だった。娘さんの知らせで 危篤の枕許に駈けつけた私の手を握ったSさんは、「長い間、よくまあつきあってく れたね、ありがとう・・・」と何度も涙をこぼされた。 ◆ 彼女の死に出合って私は、初めて戦争未亡人たちの老齢化を気付かされた。じっとし ていられなかった。書かねばならない。それをSさんは無言で私に促されたのだと 思った。図書館へ通って資料を集めた。 ◆ 多くの本の中で、昭和二十年代に書かれた未亡人たちの手記にめぐり逢った時、私は つらくて先が読めなかった。子供を抱えて戦後の地獄を生き抜いた未亡人たちの姿に は、すべてSさんがダブった。明るく健気にふるまっていた彼女の、耐えていた悲嘆 と憤怒を思い知らされた。手記を元に、フィクション小説を書き上げた時、私は真先 にSさんの霊前にその本を贈った。 ◆ どんな素晴らしい出合いも、育てなければそれで終わる。学ぶとは、心をこめて生き ることだと、私はSさんから教えられた。
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