亡くなった児の「子守唄」

菊池 今朝和

テレビの人気番組の地口を真似ると、家のリフォームは腕のいい職人へ。 家庭のリフォームは、司会の「みのもんた」へと、なるらしい。しからば、 壊された自然のリフォームは誰がするの、と、なるのだが、ここは昂ぶり を抑え、亡くなった児を偲ぶように、情緒的に、失われた東海市の自然を 回顧してみたい。

1963年(昭和43)6月、長野県白馬村より就職の地、名鉄大田川駅に降り立っ たときは、いささか失望感にうたれた。それは、目の前に山が見えず、足 を浸せるような川も目に映らなかったことが起因であった。しかし、それ は是非も得ないことであったかも知れない。

岩手県釜石生まれの私は、1960年より3年間長野県白馬村に住民票があった。 職業は今でいうフリーターであった。夏は3000m級の白馬岳の村営の山小屋 (天狗山荘、白馬岳頂上小屋、猿倉小屋)で働き、冬季は八方尾根の国民宿舎 や旅館でスキーをしながら働いていた。春と秋は地元で農業を営む山仲間宅 に居候をし、農業を手伝っていた。

当時このようなライフスタイルをとる、根からの山好きの男女が結構存在し ていた(現在でも存在するが)。みずから山乞食や高嶺乞食などと自称し、生 活は安定しないが、自然に依存した奔放な生き方をしていた。

四季折々、崇高な日本アルプスに抱かれ、褥(しとね)としていた生活から一 転して開発途上の東海市では落差が多かった。しかし、仔細にカメラを持っ て市内の雑木林、ため池、田畑、などを歩き回ると、魅力ある生き物たちが、 「写して」とばかりポーズをとり、招いてくれた。


ザリガニの行進


子供のころアメリカザリガニなど見たこともなかったが、1964年の6月ころお びただしい、ザリガニの行進をみた。0時ころ自転車で今の富木島小学校前の 未舗装の道を自転車で通ると、小学校の裏手にあった濁り池(息子が小学生の ころザリガニ池と呼んでいた)の方向から、今では上の台公園として整備され た山田池に向かい、何百を超え、数えきれないザリガニが行進していた。車に 轢かれたものもあったが、憑かれたように障害物を越え、いまのラクビー場の あたりの草地に向かい、さらに山田池の方へと行進は続いていた。

霧の夜に、ハサミを降りたて、ライトを向けると黒い体に目だけが光り、陸続 と続くザリガニの行進は異観であった。今、子供たちに親しまれた濁り池無く、 湿地部分が魅力だった山田池は、美観面を強調した公園整備で、生態系上単純 になった。今一度、あのような光景を観察したいと思うのだが、その日は来る だろうか。


コサギとキジの出会い


昭和40年代中ごろ、新日鉄の荒尾地区に建てられた、洞ケ山社宅建設のとき、 野うさぎが飛び出した、等という噂を聞きながら歩き回っていると、大田川に 生息するコサギの群れを知った。宅地化が進んだ木庭の辺り(大田川と渡内川 に挟まれた三角地帯、現伏見町五、六、七丁目)だが、当時はアシ原で覆われ ていた。

コサギは単独で採餌していることが多いが、ここのコサギは群れで採餌いるこ とが多かった。当時(1975年ころ)写した写真で一枚気になるものがある。5羽の コサギが5~6mの円陣を囲んでいるなかに、1羽が中央で足をバタッかせ、水中の 餌を驚かせている光景である。

円陣の5羽は鋭く水中を睨んでいる。言い換えれば、これは6羽の狩であつた。 時間は記録していなが、その狩は暫く続いた。しかし、その後、同地は開発さ れたこともあるが、コサギの集団の狩に出会わないことをみると、偶然そのよ うな位置関係に6羽が配置されていたためであろうか。

300mmと800mmのレンズを抱えて木庭のコサギを観察しているうちに、木庭周辺 にキジの多いのを知った。ある日、上ノ台から新日鉄まで出勤バスに乗って窓 外をみると、木庭周辺だけで7羽のキジを確認したこともあった。その後の休日 は、キジとの出会いが楽しみであった。

しかし、そのアシ原等の三角地帯には土木機械が持ち込まれ、見事な水田と畑 になってしまつた。野鳥などの営巣には良好なアシ原では、地権者に経済的恩 得を生まないし、田畑ならまだ自然度を有するかなどと、半ば諦めつつ得心し ていると、数年もまたず建設機械が持ち込まれ、住宅街となってしまった。


与五八池を包み込む世界


東海市で、はじめて「いいなー」と思った地が、横須賀高校の裏手にあった与五 八池周辺(字名でいうと、清水脇、広脇、膝折、砂原、西原、藤塚、与五八の広 大な地域)だった。三方を里山に囲まれ、東海市の奥座敷といった感想をもった。 与五八池は二つあり、奥の大きな池を上池、下の田畑に面した小さな池を下池と 呼ばれていた。200~300mも離れると幹線道路が四方に走り車が疾駆していた。

高見に登ると海岸沿いに、近代的な工場群の建物が林立し、稼動の象徴として煙 突からはえもいわれぬ煙を吐き出していた。与五八池周辺は、日本の現状と乖離 (かいり)せず、当たり前のように、ブレーキの利かない経済優先、利便性第一の 世情にさらされていた。だから幹線道路から、徒歩10分による環境の激変は驚 きであり喜びだった。この地に入るとホッとした。

カメラを抱え、おにぎりを持って通った。休日だけでは物足りず、仕事帰りも立 ち寄った。開発され抹消されるまで繁く通った。水田と雑木林の世界は時間まで も、ゆったりと流れているように感じた。もともと、国木田独歩の「山林に自由 存す」の詩句に魅せられ、高校の時分から雑木林、いまでいう里山に、情緒的気 分で親しんだ。昂じて高山に入り浸るようになったが、与五八池を包み込む世界 は、私の原点、故郷の写し絵のようなものだった。

ここでは、四季折々、色々な生き物とめぐり合い、心を豊かにさせていただいた。 ある時、池の堤でトンボの写真を撮っていると、けたたましい鳥の声がした。振 り返ると、一羽のホオジロがくちばしを大きく開けながら、片方の羽をいびつに 広げ、何かを誘導するように跛行(はこう)していた。それは必死の声と動作であ つた。

よく見ると、ホオジロに近づくものがあった。ホオジロの懸命さとは違い、妙に 落ち着いた目をしたシマヘビだった。シマヘビが近づくと、なお、いっそうホオ ジロは千鳥足で片方の羽を振るわした。ここで私は気がついた。これは、怪我を した振りをして、子供を逃がすための擬傷行動だと。

擬傷行動は、白馬岳で山小屋番生活をしているとき、ライチョウが何度か行うの を目撃したことがあった。子連れのライチョウが、カメラを持った登山者や、テ ン、オコジョなどの天敵に追われたとき、大胆にも敵の前に進み出て、怪我をし た振りをし、天敵を子供とは違った方向へ誘う行動だった。私はホオジロの親鳥 が誘う反対側を探してみた。案の上、ヨチヨチ歩きの、ホオジロのヒナが声をた てず、大きな口を結んでいた。

そうしているうちに、不敵にも、ホオジロの親は、しゃがみこみカメラを抱えて いる私のほうへ跛行し、羽を震わし私に近づいてきた。ホオジロの親は必死であ った。そんなとき、ホオジロの親を追尾してきた、シマヘビと目が合った。 シマヘビは、もう少しというところで、追尾を挫折し、忌々しさの目を私に放ち、 池の方へ方向を変え、草叢に姿を隠した。そこで、ようやく私は、一枚だけ悲し そうな顔をしたホオジロの子供にカメラ音を放った。


大いなる自然、大地の魅力


この地では、色々な生き物を見させて頂いた。
厳冬期のメジロの生活のひとコマは羨ましかった。一本の枝先に二羽、三羽とス キンシップよろしく連なり、喧騒逞しく押しあうばかり光景は、冬木立に暖色の 花が咲いたようで、愛らしくその仲のよさは羨ましかった。カワセミの初見はお 隣の大光寺池だったか、この池だった。まだ東海市では珍しい鳥だった。ヌート リアの初見もこの池だった。

キジ、サギの厳しい瞳から野生の生き物たちの逞しさ、強さを学んだ。冬季、こ の池のアシ原は、野鳥たちの食料貯蔵であるとの確信も得た。冬季、アシ原には、 スズメ、シジュウカラ、メジロ、ウグイスなどの鳥がよく訪れていた。よく観察 して見るとアシの茎の内で越冬している昆虫などの幼虫、蛹などを、目ざとく探 し出して、食することが越冬の秘訣であるように感じた。その意味では、野鳥に とってアシ原は、厳しい冬の食料倉庫なのかも知れない。

まだまだ、沢山の生き物たちとの出会いがあったが、何より嬉しかったのは、道 々行き合う土地の人、農家の人と触れ合うことのできる喜びだった。
私は中学のころから、現在に至るまで、農業に憧れ、農業を信奉している。それ は、子供のころから読み続けている、宮沢賢治、石川啄木などの本の影響もある のかも知れないし、父の実家で農作業を手伝ったという経験に導かれているのか も知れない。

高校は、農業高校を目指したが、当時、農家の子弟優先の門戸と、農業高校が近 くになく、両親に経済的負担を掛けたくないという気持ちで断念した。
そんな想いもあり、農地は自然でないという、意見を述べる方も多いが、私は、 農地、田んぼ、畑に大いなる自然、大地の魅力を感じている。
いまでも基調は変わらないが、農業のための、農民、国民のための(抽象的だが) 開墾という開発には賛意というか、心が動かされ、実践したいと思っている。


諦めと、憎しみと、慚愧が


私は1945年に、岩手の釜石で生を受けたが、山間の僅かな平地に、父親の生業 「製鉄所稼ぎ」の恩恵として木造造りの長屋(社宅)を貸与されていた。しかし、 「製鉄所稼ぎ」とちがい、小学生、中学生に進級すると2時間余もかけて、山を 越え登校する少数の同級生達がいた。山林に職を得る親や、開墾を営む両親の 子弟達だった。その同級生に、一抹の羨望に近い感情も当時、少しばかり抱い ていた。

戦後の混乱、食料不足の時代の反映で、当時社宅近くの少しばかり空き地で、両 親は野菜を作っていた。
養豚業の祖父が、一時間以上かけてリヤカーを引き、酒やけした赭い顔に汗をひ たたらせ、堆肥を運んできた光景も懐かしい。農業第一、食料増産は当時の国民 の合言葉だったように思う。

高校に入り、農業の憧れを詩にして曲も付けた。お粗末だが開陳する。
ここは 岩手の未開の果てだ
荒れ野に立つは 岩手の男児
すすめ すすめ
両手に鍬もち 荒れ野を開拓
すすむよ 我らは (2番割愛)

こんな心情的な背景もあり、与五八池周辺の、箱庭のような美しい谷田地形に、惹 かれた。ここに故郷を感じていたのかもしれない。
この地も、数年前に黄泉の世界へと旅立ってしまった。 この、箱庭のように美しい与五八池周辺が、連日ブルドーザーなどの大型機械で掘 り返えされていた時、私は木田山の高台に時々登り、覚めた目でその状況をカメラ に収めていた。

ある日、その高台に登ると三人の先客がいた。三人は「あー」とか、声にならない、 ため息を洩らすばかりであった。顔を覗き込むと、この地で幾十年という年輪を重 ねた人達ばかりのようであり、目じりの下の皺には、諦めと、憎しみと、慚愧が同 居しているようであった。

この地の、開発の青絵図は、市や、県の自然保護行政の協力者という立場から、い ち早く知っていた。
聞くところによると、この地の開発は予定より、土地の収用がすすまず、難航して いたようだ。開発の幹線部分に当たる場所を所有する、地主さんの反対があり、頓 挫していた。市の担当者が日参しても、与五八池の地を愛する地主さんは首を立て に振らなかった。

私は内心、「与五八池をいつまでも残して」と念じ、この状況に、心で拍手をして いた。行政側は開発のスケジュールに追われ、残った地権者に頭を下げ、通った。 老いた地権者の心情としては「市の言うことも分かるが、私の生きている間は、そ のままに」であっただろうか。否、この地を愛し、守ろうとするならもっと厳しい 言葉を吐いていたのかもしれない。しかし、一転開発の旗は振られてしまった。ま だだろうと高をくっていたら、突然測量杭が打たれ、ブルドーザが軋み音をたて、 障害物をけちらかした。

顛末はこうだった。頑なな、老いた地権者は一人住まいだったのか、ある日重い病 気に罹り苦しんでいた。そこに日参していた行政の担当者が出くわし、親身に送院 の労など、看病に手を尽くした。あとは、皆さんの推察どおりである。


何もかもキャタピラーに踏みつけられ


御林。おはやし、なんといい響きの言葉だろう。自然の恵みである、木々の集まり の総体である林に、尊敬を表す御を冠につける。この地に住む古き人々の自然観が 如実に現れまぶしい。それほどここの雑木林は素晴しかった。
その御林の林も、3年前に霧散した。数年前に左手(青果場の裏手)の谷が埋められ、 そして、止めを刺すように右手(坂角の裏手)の谷が埋められたとおもつたら、隣接 するみかん畑、ぶどう園、田畑、湿原などがことごとく、呆れるほどことごとく、 広大な地域の自然が消えてしまった。

この地は、山菜を常食する東北人の血が騒ぐ場所でもあった。春には、セリ、ゼン マイ、ワラビ、ノビルなどを摘み、秋には落下したクリの実を採集し、昨夏亡くな った母にどれだけ喜ばれたことであったか、母の思い出とともに、この地を回向し、 追善したい。

霧散するまで、週一、二回は上ノ台から、富木島大池、真池、御林、山の脇池のコ ースを、カメラを携え歩いた。富木島大池は、私にとってトンボ観察上特別な場所 であるが、このコース中で一番落ち着くところは御林であった。竹林のなかには300 株ほどのフユノハナワラビが自生していた。ため池にはショウブが群生し、棄田に はヌートリアが住み着き、繁殖をしていた。またこの棄田ではアゲハの仲間の給水 が良く見られ、カトリヤンマの生息も多く、側溝のコケに産卵する光景もたびたび 観察された。この地ではクロコノマチョウとツマキチョウに心を奪われてしまった。

夏の林中は、クロコノマチョウのお気に入りの場所のようで、木漏れ日に浮かぶ姿 は美しかった。陽のあたる草地は、春の女神とも形容されるツマキチョウの活動の 場だった。気をもたせるとび方にはゾッコン参いってしまった。ミッバアケビの巨 樹があり、クリなどシイ、カシの仲間も繁茂し、御林は花のシーズンともなれば、 香りのシンフォニーも楽しめた。

野鳥も多いのが御林の特徴であった。営巣はカラス、キジバト、モズ、キジを確認 した。冬ともなればジョウビタキ、ツグミ、カシラダカ、アカハラ、アオジ、コゲ ラ、メジロ、シジュウカラなどが常連のようだった。雨天イシガメの産卵を観察し、 秋の古井戸では、カマドウマの集団越冬を多年目撃した。キジバトの巣を襲う、ア オダイショウには心が痛んだ。ヘビの仲間では、他にシマヘビ、マムシ、ジムグリ を目撃した。またイタチ(ホンドイタチ)、モグラ(コウベモグラ・死体)の生息も確 認した。冬季、棄田の草地で小さなカヤネズミの巣を多数観察したときは感動して しまった。

目撃、観察のほんの一コマを列記したが、まことに御林は生物の種類が多い場所で、 訪れるたびに、興奮するような発見があった。
御林の真の魅力は林の中に入ることにあった。盛夏に重いカメラの三点セットを背 負い、長時間歩いていると体力の消耗が大きくドロップアウト状態におちいるのだ が、そんな時、御林の林中に潜り込めば、蘇生は間違いなかった。

太く豊かな木々の中は、夏の強い日差しを遮り、2~3度気温も低くなり、また林中 を風が通り抜けるためか、湿度も抑えられているようだった。何より嬉しいのは木 漏れ日の目に優しさであった。これまで偲んできた場所は、明るく開放的な場所ば かりであったが、御林は林の中での観察が多く、また違った魅力があった。

この地では、ブドウ、ミカン園を営むB氏ご夫妻と顔見知りとなり、いろいろご教示 を授かり、便宜をはかっていただいた。私も走る姿を二度目撃したが、B氏ご夫妻に よると、2~3頭のタヌキが生息しているとの情報や、あの松の木にカラスの巣がある。 あの田んぼのあぜ道にキジの巣があるなどと、ミカンをご馳走になりながら教わっ たこともあった。そのB氏から開発の数年前から、谷を埋め道路を築く構想をうかが った。「なぁに、加木屋の方から、船島小学校の脇を抜ける路を作るだけだ」と仰 っていたが、路という線だけの開発だけで済まず、大きな面を伴う開発となってし まった。

「この土地このままにしていても、子供たちは跡を継がないのでどうしょうもない、 かといって宅地にはならんし、将来のため路を築くと分担金が大きくてナー」と心 情を吐露されることもあった。折々開発業者の車もみたが、遠くからみているとB氏 と業者との話し合いは難しそうで、笑顔含みとはいかない厳しい様相だった。B氏は 最初谷にあたる棄田部分の埋め立てだけと言い、そのうち「雑木林も半分ぐらい切 るかな、上のほうの雑木とブドウとミカン畑は残す」などと後退したが、しまいに は何もかにもキャタピラーに踏みつけられてしまい、生き物たちは消えてしまった。

いまは田畑に生まれ変わる、兆しをみせているが、開発のシナリオの手順として数 年後には付加価値をプラスし、宅地化に転換されるだろう。これがなくては高い分 担金をペイにはでないだろし、農業を継がない子供たちを、親の方に引きつける方 法がないのかも知れない。個人の所有に関わる里山、雑木林などの自然保護は奥が 深く、多面な困難を内包しているため解決は難しい。


列島が重機の餌食


この他の地に、異常にヒバリの生息密度の高かった養父町の耕作地帯。飛び地のよ うに知多市と入り組んだ半ば丘陵状(真崎、野崎、北蔵谷、小僧谷、板ビタ等)の耕 作地を歩くと、おびただしいヒバリの繁殖地だった。また、東海市清掃センター前 の奥山池から、惣山池、大狭間池にかけてのコースも好きでたびたび通ったが、い ずれも偲ぶ対象となってしまった。

明治までは開発といえばたぶんに新田開発を意味した。その意味では開発は善であ った。その証左であろうか各地に「開発」という地名と「開発」という苗字いただく 人々を残した。それは「かいはつ」とも、また「かいほつ」とも読む。いずれにし ても名前の付けられた当時は、自身と誇りを形容したものであったに違いない。

開発という言葉には本来山地などを切り拓いて田畑にする他に、パイロット的な意 味合いがある。崩壊地や降雨などにより表土が露出した、悪環境の場所にいち早く 適応し根付くマツ、シラカバをパイロット植物と呼ばれるが、それは称賛をともな った言葉で『緑化への偉大なる開拓者植物』との謂いであろうし、NHKの人気番組 『プロジェクトX』に登場する、困難に挑戦し乗り越える、稀有の人々も「開発者」 であり「パイロット」であった。

田中角栄の「日本列島改造論」の鼓舞を受け、列島が重機の餌食となったとき、列 島人のなかに「開発」という言葉に極度のアレルギーが生まれた。いまマスコミの 紙面では「調和のある開発」という言葉が使われている。