ある炭坑夫からの寝聞き

菊池今朝和

炭坑で働いていてね


2001年9月、健康のためと片道8キロの通勤路を自転車で走り、秋のマラソン大 会に備え炎天下帽子もかぶらず駆けていたら脳血栓で倒れてしまった。高校時 代から二十代前半まで続けていたボクシングで身につけた、「水分を取らずに 運動」という誤った習慣のためと、医食同源を省みない食生活、そしてストレ スと疲労の蓄積も原因だったろう。三年がかりの童話を書き終え、たった一時 間床につき、小用に起きようとしたら右手右足が麻痺して歩けなかった。たっ た一時間で50キロ近い握力が10キロを下回っていた。このときは2週間の入院で 済んだが、また4週間ほどで再発した。

脳血栓男のお隣は心筋梗塞男のベッドだった。彼は不思議な男で食事、検診、 検温が済むとベッドから消えてしまい、そして、消灯近くなるとふらっと布団 にもぐりこんだ。私は妙にこの男が気になってしまった。朝など、3階の病室か ら敷地内の駐車場を凝視しているときがあった。「変わった車でもありますか」 と声をかけると、「みんなは車種しかみないけど、俺はナンバープレートを読ん でいる」と鋭い目つきでいった。

だいぶ昔、警視庁公安部公安2課の関係者で、沖縄で公にできない仕事をしてき た帰り、という男と接触したことがあった。彼は「パンツ以外、パッチから作業 服、帽子、靴、手袋、懐中電灯まで全部支給になる・・・。こんな、裏の仕事で は家庭もうまく行くはずもなく、子供がいたが妻とは離婚サ」と口をつぐんだ。 それ以来感じたことのない、危ない雰囲気を漂わせた男だった。

こうなると生来の好奇心が頭をもたげ、彼の来し方に興味をもった。彼のことを 知りたいとおもった。話していただくには、信用していただかなければならない。 公安氏と接触したときのように、彼の興味の奈辺はと、露わに自分のことを開陳 した。職業、生地、年齢趣味と話がすすんだ。病室に持ち込んでいたカメラにも 彼は興味を示したが、脳血栓の影響で思考パターンが変わったのか、突然「私は、 鉱山が好きでネー、高い山の鉱山を調べているのですよ」と意識外のことを口に だしてしまった。と、彼ははじめて笑みをうかべ「じっは、俺は若いころ炭坑で 働いていてねー」と語り、彼の一代記の扉がひらいた。

といっても、彼は消灯直前でなければベッドに戻らなかった。私は消灯近くなる と病院を抜け出し、近くのコンビニでレギュラーコーヒーを2杯買い求め、退院ま であと4日という彼を待った。炭坑の話は魅力的であった。握力のない指にペンを もち、毎夜2時間から3時間、薄明かりのなかで漱石の小説『鉱夫』を意識しなが ら彼の話を書き取った。毎夜が楽しいリハビリであった。


よんよんという言葉


その心筋梗塞男は、ベッドのプレートによると梅庭孝二という、芸能界にあるよ うな名前だった。昭和16年北海道生まれの彼は、24歳から29歳まで(昭和40.3から 昭和45.826まで)の6年間近く、北海道の太平洋炭砿で働き、エネルギー政策転換 の余波を受け本土に渡ってきた。彼は数字に滅法つよく、その記憶力見事だった。

彼はのっけから「4、4(よんよん)という言葉知っているかい」と、私にヤマの知 識を試してきた。首を横に振ると、彼は笑みをうかべ炭山のレクチャーに本腰を いれた。
「坑道の炭層にしたがって掘り進んでゆく面を切り羽と言うのは知っているだろ う、その切り羽の下の部分の長さを4、4というんだ」と、両手で半円を書き下の 直線の部分を指し示した。
「4、4というのは坑道の幅で、幅が4m40cmを4、4、太平洋炭砿では一般に5、3が 多かった。たまに7、0というのがあり、これは本坑道の幅だ」

「この切り羽に発破をかけて爆破し石炭を掘り出すのだが、それには削岩機で切 り羽にダイナマイトを入れる孔を開けるんだ。俺たちは削岩機のことをハンマー といっていた。削岩機の先にはロットといって2mの錐の大きなものがついていて、 ロットの径は約50mm、それを回転させ、深さ1.8mの孔を切り羽に直角に開けた。 切り羽にはつごう半円状に53箇所の孔を開けることになる。でも、これだけでは 崩れないので、今度は2箇所互いに中央部に向かうように斜めに掘る。これは芯 抜きといって俺達は『ばか発破』と呼んでいた」

「孔を掘ることを『さっこう』といった。穿った孔には、先玉と呼ぶ保護材を詰 め、ダイナマイト2本、その後に雷管を挿入し、最後に『タツペ』と呼ぶ砂子を詰 める。ばか発破にはサイズの長い1008といったダイナマイトを3本詰めた」
「発破をかけて落ちればいいが、切り羽が硬く少ししか落ちないときの発破音を 『てつぽ』といった。音で崩れた量、上手く掘れたかどうかが分かった」
「発破をかけるときは、規定どおり50m離れた物陰にかくれた。そういえば坑道の 壁のことを『どべら』といっていた」

「崩した石炭は『ニトロ台車』に積み、バッテリー車で竪抗のところまで運搬し たあとは、巻き上げ機で地上まで運び上げた。竪抗の手前には、竪抗への転落防 止のため、交わし線のような脱線装置というものがついていた。狭い所は人が押 す人力車もあった。バッテリー車には12Vのバッテリーが48ケ積んであり、それが 4車あった。バッテリーは長くて10時間、短いと8時間しかもたなかった」

「甲種、乙種という言葉しっているか。甲種は甲種炭山のことで、太平洋炭砿は 甲種のヤマだ。甲種は坑内での発生ガスが少ないヤマのことだ。乙種は逆にガス の発生の危険の伴うヤマだ、太平洋は甲種のヤマで安全だから働くことにした」

「そうそう、ダイナマイトを知っているよな。ダイナマイトって面白いんだぜ。 ダイナマイトに油紙を巻くと、本来の強度が出て強くなるんだ。普段軟らかいけ れど、冬は要注意だ。寒さで硬くなったダイナマイトを、不用意に扱って折って しまうと発火源がなくても爆発するから危なくてどうしょうもない」
「またこんなこともあるんだ」といって彼はニヤット笑った。
「ダイナマイトのこと、俺たちニトロと呼んでいたが、これがゼリー状で軟らか いのだが、これが水虫の薬の代わりになるんだ、足に塗るとよく効くんだ。その ほかに、歯が痛いとき歯につけると、痛みがすぐ直る。でも付けすぎると歯がボ ロボロになるし、水虫も一緒、つけ過ぎると足の裏はボロボロに爛れてまずいこ とになる」


焼酎だって坑内で飲んだらうまい


「先山(さきやま)という言葉知っているか、切り羽に向かって掘る人のことだけ ど、太平洋炭砿では班長のことだ。切り羽では先になって掘るのが、『なかさき』 といった。
マァー先山の補助役だな。先山は『なかさき』の後ろについて棒を持っている。 夢中になって掘っている、『なかさき』が危ないと思ったら、先山が後ろから棒 で『なかさき』のヘルメットを叩いて、危険を知らせるんだ。なにせ削岩機を使 っていると音がうるさく、聞こえないからな。掘り方は炭層によって変わるから、 技術と経験が必要だった。発破で平均1m少し崩れたものだ」

「削岩機は圧縮した、10kg圧だったかの空気、エアーを使っていた。削岩機は重 くて、それを一人で運搬しなければならなかったから大変だった。掘り崩された 石炭はロッカーシャベルでベルトコンベアーに乗せ、それから台車に入れられバ ッテリカーで運搬されるが、あとはゆうべ話したとおりだ」

「トイレ、そんなもの坑道内で適当よ。先山たちが掘り進み、崩した石炭を片付 けたあとに、落盤防止に1mおきに鉄製の枠を組み立てるんだ。俺たちは『くちつ け』といっていたが、坑木(丸太)を鳥居状に組んだものも有ったが、アイビーム といってレールを半円状に曲げたものを使った枠か多かった。枠は3個で一組と なっていた。はじめ両はじに『足』とよばれる真っ直ぐな鋼材をたてる。そして その上に同じく鋼鉄製の半円状の『管材』(かんざい)とよばれる120から130Kgも の肩で持ち上げ、『足』の上に掛け声かけて乗せ、一人が枠をささえた。その間、 残りの人が『管材』と『足』との接合面の、おのおの四個の穴が開いたところと、 同じく4個の穴の開いた『ペース』とよぶ二枚の鉄板を合わせて挟み、その穴に ボルトを差込み、カシメて一丁出来上がりだった。これらの仕事をする作業者を 『掘進工』(くっしんこう)といった。4人1組と6人1組があった」

「枠は4mの高さがあった。1mおきに枠が立ったら、枠と枠との間に『矢木』とい う板を枠間にいれて盤圧による落盤を防いだ。作業道具はのこぎり、手斧(梅庭さ んは手まさかりと呼んでいた)、モンキースパナ、それと弁当と水を持って行けば 万全だ」
「坑内では機械小屋というのがあって、とにかく頑丈に作ってあったから、休憩 時間になるとなかで寝ッ転がって休んだものさ。ラジオも聞けてアースを線路か らとっていたな」

「太平洋炭砿の採炭場は海の底だ。太平洋炭砿は、俺がいた昭和41年頃で、坑口 から海にむかって直線で7kmの地点の下が採炭地で、一番深いところで海面の下 480mのところを掘っていた。このあたりがよその炭坑とちがうところかな」。 「こんな特殊な坑道だから、坑内の換気用に風管というのが張り巡らされ、ブロ アーという巨大な扇風機で風を送っていた。その風量は強く風管の前で寝ている と、つい転がってしまうくらいだ。また、甲種炭山といってもガスが出ないわけ でなく、ガス濃度が(Co濃度)25ppm以上になると退避さ」

「今晩の最後はこれだ」といって、梅庭さんは備え付けの整理棚の引き出しを開 けハイライトの箱をみせた。
「他の炭鉱はどうか知らないが、炭鉱はタバコを持つての入坑は厳しいんだ。入 坑口には操業繰り込み所という建物があって、坑人事課の連中が入抗者をチェッ クするんだ。もっとも、彼らは偉そうにしているけれど、ほとんど坑内で怪我を した連中ばかりの集まりでなー、きず者ばかりだ」と片目をつぶった。

梅庭さんはにやにやしながら、続けた「坑人事課の連中にタバコを見つかると罰 則があってなー、初犯はタバコ取りあげのうえ、翌日は入坑禁止だ」
「2回目、2回目は入坑禁止3日。3回目は入坑禁止5日。4回目は入坑禁止1週間。5 回目でクビ、解雇だ。坑人事課の連中はタバコ検査のほか手帳、ヘルメット、ズ ボンの裾などを重点的にチェックしていた」
そこで「梅庭さん、タバコ好きなようですけれど、掴まったことありますか」と 聞いてみた。
「最初、なんの気なしに胸ポケットに入れたまま入坑してな、それが癖になって イタチごっこさ。次はヘルメットの中に隠した。これはなかなか見つからなかっ た。ところが、真似る仲間が多くてな、でも一人見つかったらもうすぐお仕舞い だ。意外だったのが後ろのポケットだった。でもクビになるのが怖いから、3回目 でヤメタ」

そこでまた聞いてみた「炭鉱って炭塵爆発などあり、火気厳禁ですよね、坑内で タバコ吸って大丈夫ですか」
鷹揚な梅庭さんの返事はこうだった「だから甲種炭山なんだよ。坑内は空気が薄 くタバコが上手いんだ。俺は酒をあまりやらないが、焼酎だって坑内で飲んだら 空気が薄いせいか回りが速くうまいんだよ。当時は水筒なんてなかったから、飲 み水はみんな2合ビン、4号ビンに入れて手に持って入坑したものだ。酒の好きな 奴は水代わりに焼酎を入れてくる奴もいた。仕事にならないほど飲む奴はいなか ったがね」


『電気があめてきた』


「俺の働いていた会社は北新鉱発といい、太平洋炭砿の下請けだ。太平洋炭砿に は他に大きいところでは葵鉱発など4社入っていたと思う。北新鉱発は全国で従 業員15000人、太平洋炭砿には300人働いていた。他にガスの多かった大夕張、三 笠、赤平の炭鉱にも入っていた」

「ガス発生や、炭塵爆発で坑内に取り残された時のため、坑道内に二つの避難用 具があった。ひとつは防毒マスクでこれは90分間もった。もうひとつはナイロン カーテンで、坑道内にナイロンカーテンで仕切られた空間があり、その空間内に は空気が充満する仕組みとなっており、その中に退避すると120分間もっといわれ ていた」

「炭坑は階級がはっきりしていた。キャップライトをみると階級、役付けの位置 が分かった。保安監督室長は赤い3本線。室長は緑の2本線。技師長が赤の2本線。 次長が緑の3本線。課長は赤3本線。係長は赤2本線。上席係員は赤1本線。区長は 赤1本線。係員(発破担当)は赤1本線。一般は緑1本線。その他に国家試験の合格 者(50馬力以上の巻き上げ機、発破補助員)は黒線だった」

「しくり(坑夫)というのは、2名で足場を造り、枠の取り外しをしたりして、坑内 を作り直す、保全の仕事をしていた。あるときしくりが、枠を掴まえた時、大きな 崩落があり指を落とした人がいた」

「枠は鉄製ばかりでなく木製もあった。丸太のことを『ちょろんぼ』といってい た。明るいところ、盤圧の弱いところには、丸太を井桁に組み、井桁の間に矢木 を差し込んだ。矢木を打ち込むときは、ハンマー代わりに手斧を使った。また、 のこぎりも大事な道具で片歯ののこぎりの目立ては毎日欠かさなかった」

「軌条はほとんど中古だった。軌条を敷く仕事は一日800円と給料が安かった、簡 単に雑に敷くことが多かった。この軌条の上を人が押して行く台車を『ニトロ台 車』といい台車と台車をつなぐ連結器のことを『棹とり』といった」

「坑内の照明は60ワットだったが、それは設備のあるところに設置されてあり、 外のところはくらかった。だから作業者は充電式のキャップライトを携帯してい た。ただし完全に明るいのは9時間だった。しかし、充電能力が落ちて、ボーッ と暗くなることを『電気があめてきた』といった。一度『あめる』と次も『あめ 易かった』」

「坑内作業者には作業服の支給はなかった。坑内では長袖のシャツ1枚あれば十分 だったが、半袖は危険なのでみんな長袖だった。安全靴も自分で買っていた。普 通は皮製の編み上げだが、水の多いところはゴム製を履いた。ヘルメットとキャッ プランプは支給になった。軍手と防塵マスクは自分持ちで防塵メガネは使わなかっ た」

「入坑にはのこぎり、手斧、弁当、焼酎が入っていた4号にビンは入った水、それ に『スコ袋』(硬い布で、自分で作る)を持っていった。ほかのスコップ、カッチャ などの道具は、各直ごとに道具箱があり、各直ごとに管理されていた。道具箱には、 炭鉱の人間で専門家が、パイプを加工して作った鉄砲錠というものを掛けていた。 1班6人だった」


カニのように横歩きをして


「給料は出来高制だから、少しでも採炭量の多い坑道に入るのを希望した。大体 1m掘って33.000円の見当だった。月平均40万取っていた。いい坑道は、掘って1年 たらずの新しい坑道だった。でも、昭和43年から採炭量は落ちてしまった」

「炭坑の坑内勤務は3組3交代で、一番方は6時33分に入坑した。二番方は13時36分 に、三番方は20時32分に入坑した」

「ゆうべ言った道具箱は、大工さんの当具箱に似ていたが、鉄製や木製もあった。 板厚は1Cmもありがっしりしたものだった。道具箱は通行の邪魔にならないように、 『ドベラ』、坑道の壁を加工して入れていた」

「採炭作業では、炭層の厚みによって、3尺層とか8尺層といっていた。3尺層では 『しょうあ』という爆薬を使い、8尺層ではドリルカッターを使った。落とした石 炭は5トン積みのシャトルカーで運んだ。掘っているときは音がうるさかったが、 危険性があるので耳栓は使わなかった。孔を掘ることを『さっこう』といったが、 『さっこう』が終わるまで絶対防塵マスクは外さなかった。」

「採炭作業に続く、くっしん(掘進)現場ではニトロ台車の脱線の復旧にはてまどっ た。面倒でも天井の枠にチェーンブロックを架け、台車をいちど吊り上げ、センタ ーをだしてからレール上に卸すようになっていたが、忙しいときや、一人のときは 危険で禁止事項となっていたが『五寸がけ』といった方法をおこなった。これは脱 線した車輪の前にペースという鉄板を置き、少しずつ台車を走らせて車輪をレール にはめ込む仕事だが、このとき手を持っていかれ、手や指を落とす人がいた。上手 い運転手だと一人で脱線を直す人がいた」

「ダイナマイトを入れる棒を『込め棒』といった。ダイナマイト、雷管、その後に 入れる『タッパー』は砂袋で薄いナイロン袋に入っていた。雷管からでている線に、 規定50mの母線を結線する。母線の反対側には発破器がついている。発破器の大き さはテッシュペーパーを入れる箱より少し小さいぐらいだ。結線をし、作業者全員 50m離れた場所に退避したことを確認したら、発破器に鍵を入れひねる。キューンと いった音がしたら、爆発音が響き、もうもうたる土煙で先が見えなくなる。一本で も結線が外れると爆発しなく、また不発のときは危険でなかなか現場に近づくこと ができない。よその現場で不発とおもい点検に近づいたら、暴発して犠牲者が出た こともあった。また先山がダイナマイトを充填中に爆発し、先山の頭が飛んできて、 後ろにいた管理職の顔にぶっかったことがあった、いつも厳しいことを言っていた その管理職も、ショックでノイローゼになり、勤まらずやめたこともあった」

「最初、坑内に入ったときは気味が悪く、カニのように横歩きをして坑内を歩いた。 怖いこと、危険なことにもあったが、一番怖いのは下から地面が盛り上がってくる 『盤膨れ』(ばんぶくれ)だ。坑道の天井のことを『天盤』(てんばん)といったが、 盤圧(地面の圧力)が強くなり崩落が起きたときは、ある程度枠で防ぐことができる が、下から来るやつは防ぎようがない。そのためか障害保険にはみんな、20口以上 入っていた。入院手当てが一日1万円から1万5000円でるもので、怪我をしても生活 が保証できるという計算だった」

「俺の炭鉱の話はこんなところだ、もっと聞きたいことあるか、明日は午後から退 院だから、聞きたいことあつたら午前中に話すから」といって梅庭さんは寝息をた てた。
彼は翌日、朝食を済むと諸手続きのためか、また姿が消えた。昼になると、縁しを 交わした患者、看護婦、事務員に挨拶を済ましてきたのか、晴れ晴れとした顔で戻 ってきた。

戻ってくると、ふさふさした髪に櫛をいれ、清潔な色の街着に身を包むと、私の手 を握ぎった。探偵屋の経験を有する彼は、目つきが鋭いものの柔和な顔で紙袋1つ を持ち、軽やかに病室を出ていった。どうやら、パチンコ店へ直行の気配が感じら れた。


「釧路コールマイン」と名を代え


価格の高い鉄鋼向けの原料炭ではなく、廉価の電力向け一般炭を採掘していた太平 洋炭砿(本社・釧路市)は、2002年1月30日に閉山した。これで国内の採炭地はゼロと なった。(最盛期、道内で約160、国内で800を越す炭鉱が稼動していたと統計され ている)
創業は大正9年であり、約80年に亘る採炭活動であった。梅庭さんが働いていたこ ろの坑内の様子は聞き書きのとおりだが、閉山時には手組みの「枠」は、技術革 新のなかで放逐され、自動化された「自走枠」が開発されていた。採炭の進捗に 応じ、枠が自動的に前進し作業者の安全を確保する機械であった。手組みの枠と 違い、簡単で重筋労働も回避できた。その自走枠の下をドラムカッターという採 炭機(木材工場で使っている丸鋸を肉厚化し、回転した歯で炭層を削り取る機械) が唸り音をたて、石炭を効率よく削りとる、連携、連続した採炭システムに変わ っていた。

このシステムについて、北海道新聞の記事によると、「太平洋炭砿が1967年、当 時の三井三池製作所と共同開発した画期的システム。人力で枠を動かす場合に比 べ、落盤事故の危険度は格段に少なく、今では世界中の採炭現場で使われている。 同炭鉱は現在、最新の自走枠(独製)とドラムカッター(米製)に更新。50年に従業 員1人当たり年間113トンだった生産量が、99年には1838トンまで向上した、なお、 幅1.5mの自走枠は100台以上連なり作業をするが、国産メーカー品で一台1000万 から1500万円。太平洋炭砿が使う特注の米、独製は総額で13億円以上とみられて いる」と報じている。

梅庭さんの話によると、太平洋炭砿は甲種炭山だからガス発生面では安全であっ た、とあったが、2001年1月27日海面下620mの知人(しれと)地域の坑道のCo濃度 が異状に上昇した事故があった。このときは、通常10ppm未満のところ、感知器 が社内基準値(100ppm)を超える180ppmに達し、入坑していた300人のうち現場近 くの180人が退避し、注水し密閉するという事故も発生していた。
しかし、安全面でも技術革新はすすんでいた。「坑内の集中監視システムも83年 に太平洋炭砿が開発した。坑内の一酸化炭素やメタンガスなどの有毒ガスの濃度 や風量、風速、ドラムカッターの作動状況など、2000ものデータをコンピュータ ーで管理し、他にさまざまな安全対策をとり、2000年の災害発生率は、30年前の 40分の1以下に激減した」(北海道新聞)と報じられているように、採炭という攻 撃と安全という防御の両輪がコストの壁を突き破り開発されていた。この技術は 北国の海面下という、最悪の環境下での採炭活動の中から生まれたのであるが、 その苦労はいかばかりであろうかと、山仲間を2名、同じ職場で労災の名の下に 失っているだけに、賛意をもって感じた。

2002年1月30日に閉山した太平洋炭砿は、3ヵ月後の4月9日「釧路コールマイン」 と名を代え採炭活動を再開した。
採炭場所を海面下約760mから500mの浅場に移し、最盛期の約3分の一の年間70万 トンの採炭が生産規模で、547人の再雇用者(閉山による解雇者1500人中、雇用枠 の1.5倍の656人応募。雇用期間3年で原則1年ごとに更新。平均年収は太平洋炭砿 時より3割ダウンの440万円)の期待をになっての出発であった。
この再開事業には、「炭鉱技術移転5ヵ年計画」という国の支援がバックボーン にあった。消滅する日本の技術を海外の採炭国に伝えるのが目的で、計画にもと づきベトナム、中国の研修生を、年間150人ほど受け入れ技術の継承伝達をはか るという側面であった。
しかし、いずれにせよあと5年で石炭は枯渇という矛盾を胚胎しての再開であり、 5年後を睨んだ、事業の展開を注目したい。