献上蛍(ホタル)の追跡
菊池今朝和
滋賀の献上ホタル
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会誌「ほたる」の12号(1998年)に、蛍を喰うシリーズとして「滋賀の献上蛍
と蛍の調査報告書」と題した記事を書いた。さらに昨年、会誌「ほたる」の15
号(2001年)に、番外編として「献上蛍の追跡・・蛍業のまち守山をたずねて」
を書いた。これは12号に書いたものの補強という意味合いで、好奇心の趣くま
ま、現地滋賀県守山市を訪ね、調査したことの報告書であった。
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その、最終章に『「献上蛍」のその後』という文を書いた。それは昆虫学者の
矢島稔氏の「わたしの昆虫記2」に依拠してまとめたものだった。公に出版され
た本とはいえ著者に無断で引用したことは、心の滓となっていた。今年一月、
長年テーマとしている北アルプスの開発史に関する資料を、探しに国立公文書
館を訪ねた。その折、電話番号を調べてお電話を差し上げ、無断引用のことを
述べた。そして、後日会誌「ほたる」12、13、15号をお届けした。これは礼儀
であった。
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一週間ほど経て、矢島氏より会誌「ほたる」落掌との、温かみのある返書を戴
いた。封書には便箋4枚のお手紙と、日本ホタルの会(お便りによると12年前発
足、平成11年より矢島氏会長)の機関紙「人里へのニュースレター」第11号
(1999.3)、第19号(2001.10)と「インセクタリウム」(動物園協会発行、矢島氏
創刊)中の34巻5月号の『皇居にホタル飛ぶ・・・定着までの試み』(矢島稔著)
の増刷りが同封されていた。
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早速、矢島氏のレポート「皇居にホタル飛ぶ・・定着までの試み」を拝読させ
ていただいた。このレポートは会誌15号で援用した『わたしの昆虫記2』の中
の「皇居にホタルを定着させるまで」の元となった、矢島氏にとっては貴重で
思いで深いレポートのように感じられた。
皇居にホタル飛ぶ
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昭和天皇と皇太后様が多摩動物公園に行幸啓になり、ご熱心に動物をご覧<
いただいたのは1971年(昭和46)6月29日でした。その日は朝から激しい雨で
したが、昼頃に止んで晴れ間がひろがり、職員はほっとしたものです。午
後、開館2年目の昆虫園本館においでなつた両陛下をお迎えし、ご説明申し
上げた時のことは、本誌8巻8号の昆虫園ニュース欄に報告してありますが、
陛下は特にホタルの飼育装置の前で足を止められ、飼育方法やカワニナの
こと、またゲンジボタルの羽化の様子などについてご下問がありました。
昆虫園開設当初からホタルの生態について調査を担当してきた荻野主任と
私(矢島氏)は、それまでの10年間でゲンジボタル・ヘイケボタルの生活史
や生息条件についてはほぼ把握していましたので、それに基づいてお答え
しました。陛下のご下問は実に鋭く、自らご体験されなければお気づきに
ならないことが次々に出てくるので、お答えするのに汗をかいたのを憶え
ています。
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翌1972年(昭和47)10月、宮内庁からの連絡を受けて初めて皇居に伺いまし
た。皇居の中でホタルが自生できるか否か調べて欲しいというご依頼でし
た。さっそく御殿の庭と御苑の中を拝見したうえで、私は流水や周囲の状
態を調べることを提案しました。その結果、庭園課の方々と一緒に調査す
るお許しを得て、この業務は開始されました。以来今日まで25年間、庭園
課の方々が中心になってホタル復元のための方法が講ぜられ、私(矢島氏)
はアドバイザーとして時々伺うかたちで協力させていただきました。これ
から報告するデータは、すべてその方々が作成したものであり、夜間の観
察など困難なことをいとわず続けられていることには敬意を表します。ま
た、本稿をまとめるにあたり庭園課の渡辺忠明課長と飯塚文夫専門官には
適切なアドバイスを頂きました。記してお礼申し上げます。
昭和天皇のホタルについてのご関心
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昭和天皇が生物学者として幾多のご研究を発表され、国際的にも高い評価
を得ていたことについてはご存知の通りです。同時に身近な動植物につい
てもよくお調べになっていたことは、ニュースなどでしばしば伝えられま
した。中でも特にホタルについて興味をお持ちだったことが田中徳著『天
皇と生物学研究』(講談社1949)のなかに述べられています。
以下にその一部を要約して紹介します。
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昭和19年の5月か、6月の初めころのことであった。さわやかな初夏の夕暮
れであった。小倉侍従が帰り途を乾通りの道灌掘の付近に差しかかったと
き、すーいと弧を描いて目をかすめたものは確かに蛍光であった。「或い
は?」。小倉侍従の胸は妙にときめいた。ただ一匹の蛍をなおも見つづけて
いたが、蛍は道灌掘を渡って吹上の森に消えていった。小倉侍従派はその
ままひき返して陛下に申し上げた。「それは一匹だけでしたが、吹上の池
のほうに飛んで行きました。今年こそ成功しておればいいのですが」と気
ぜわしくお話した。「そう、それは成功しておればいいがね」。陛下も御
興味深くお聞きになった。
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小倉さんが宿直の人達を誘って吹上御苑のなかを行くと、草の葉にとまっ
て盛んに光っている。「確かに成功しました」と報告すると陛下も内々お
待ちかねの様子で、見聞の模様をいろいろと尋ねてお喜びになった。陛下
と側近の多年の苦心が遂に成功したのである。「吹上にも蛍をいつかせた
い」。陛下の念願がとうとう実現したのである。
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陛下も皇后陛下とお出かけになった。そして確かに自生しているのを確認
された。はじめて池や小溝にシジミ貝を放たれてから10年振りのことであ
る。皇居にはずっと以前は山吹の流れ(乾門の近く)に蛍が自生していたと
語り伝えられていた。陛下は皇居の何処かに蛍をいつかせたいと念願して
おられた。季節になると京都や岐阜、遠くは九州から献上される蛍があっ
たので毎年御苑に放しておられた。しかし、いつも自滅していた。何とか
自生できないかと事務官や侍従にも相談され、そして蛍の幼虫が寄生する
というシジミ貝を池や溝に初めて放たれたのは昭和7,8年の頃であった。
貝の放流は毎年のように続けられたが一向に成功の様子はなかった。
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昭和15年、京都の大宮御所にお泊りになったとき、ちょうど蛍の季節で京
都の人達から蛍が献上された。すると庭の小川にカワニナ(原文はこの箇所
のみ「ニナ」となっている)入れるようにという陛下の御指示があった。
蛍の幼虫がカワニナという巻貝を食べるのを陛下がお知りになって側近た
ちに申しつけたのです。御所の小川は加茂川の水を引いていたので宮内庁
の職員が早速カワニナを集め、小川の中で飼育しはじめました。翌年の初
夏、カワニナを食べているゲンジホタルの幼虫が確認され京都から両方共
送られてきました。陛下はそれを御覧になり御苑の流れに幼虫とカワニナ
を放されました。しかし次ぎの年もその次の年も蛍は出ませんでした。そ
して3年たった昭和19年に冒頭の小倉侍従による発見となったのです。
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ところが調べると赤い背中の中央に十字形の紋があるゲンジボタルではな
く帯状の紋を持つヘイケボタルで体調も1センチでした。ゲンジの幼虫とカ
ワニナを放していたのに、なぜヘイケが出たのか誰にもわからぬまま毎年
少数のヘイケボタルが御苑に飛んでいたのです。
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この記述から明らかなように、昭和天皇のホタルに寄せられるご関心は深
く、したがってご下問が鋭かった理由もよくわかりました。昭和初期から、
ホタルの復元のために貝を放たれ、毎年続けられていたことは驚くべきこ
とで、おそらく当時日本ではほとんど行われていなかった<復元活動>と思
われます。
矢島氏の私信に新たな情報
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さて矢島氏の「皇居にホタル飛ぶ」を読んで驚いたことは、蛍の献上地が
私の調査している滋賀県守山市だけでなく沢山あったということです。
孫引きの『天皇と生物学研究』(田中徳著)によると、献上地は岐阜、京都、
遠くは九州から献上されていたと書いてありますが、これは大変な驚きで
した。滋賀守山産の献上数だけでも大変な頭数ですから、全国各地からの
献上頭数を合わせましたら、どれだけの蛍が皇居へ向かったのでしょうか。
前号で滋賀守山産の献上蛍をまとめた段階で、おおよそ解明したと一人合
点をし、次ぎのテーマ「教科書にあらわれた蛍」のため資料探しを考えて
いましたが、まだまだ早いようです。手許に田中徳氏の『天皇の生物学研
究』もなく、他の献上地の資料がないため手詰まりの段階ですが、ヒント
というか、新たな情報が矢島氏の私信のなかに書かれていました。
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「この中に書いてありませんが、宮中への献上蛍は京都御所にある宮内庁
出張所が受つけ、そこから皇居の宮内庁本庁へとどけられていたという事
で、関西各地の蛍が集められたようです。ただ昔から守山には沢山の蛍問
屋があり、全国に売っていましたから、ここのものが多かったようです。」
矢島氏のお手紙を読み、新しい献上地の手がかりは、京都にあるように直
感しました。また田中徳氏の著作にも鍵があるようです。
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話は変わりますが今年の6月16日名古屋市科学館で「ヒメボタルサミット
in愛知」が開催された。その目玉として「ヒメボタルの魅力」と題して、
蛍の研究家として著名な大場信義氏が講演された。いま話題のDNAを駆使
し、日本産ヒメボタルの発生と伝播の過程、そして新たな分類の枠組みな
ども視野に入れているのかなと、思われるようなロマン溢れる素晴らしい
講演だった。私も大場氏から、DNA解析用に知多地域のヒメボタルのサンプ
ルの提供を依頼されているのですが、さてその話はさておいて、このDNAが
あらたな献上地特定の有望な武器になることを、矢島氏のお手紙で知りま
した。前出の私信に続きます。
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「近年、蛍が産地によってDNAが違い、発光パターンが違うことが分かりま
した。従って関西のものを東京にもってくるのは、いけない事になりました。
従って皇居の蛍(わずかに残っていたと思っています)は殆ど西日本型で、今
では、あってはならない事ですが、昭和天皇のご存命中はこの点が知られて
いなかったので、やむをえないと思います」と、ありました。
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2002年9月21日、第3回日本ホタルの会懇話会のテーマは「ホタルの遺伝
子をみることの意味」との案内が届いたのですが、新世紀のいまや疑問の解
明の宝刀はDNAという代物。明智小五郎よろしく、虫メガを振り回していて
は、なかなか事実は遠いようです。最後に矢島氏の私信をもってこの項を終
わります。 「私は昭和47年から皇居の蛍の復元に努め、既に30年間経ちま
したが、昨年も1100頭以上羽化していて、東京の中心で蛍は定着してい
ます。今の両陛下も発光の時期にいっしょに御苑の中でご覧いただき、私が
解説しています」。
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