気骨ある明治人・為田文太郎

菊池 今朝和



斯界の為に惜しむべし

為田文太郎という気骨ある明治人を知る人は少なくなった。私も北アルプス開発史を研究、調査して偶然に知った。同じ岩手県人であった。文太郎のことをもっと知りたくなり、出身地の岩手県沢内村を訪れたり、文太郎の六女・フミさんを東京の家に訪ねてメモをとったりした。フミさんは太平洋戦争が勃発した時の海軍報道課長だった平出英夫海軍大佐の妻である。
この家系から朝日新聞社のソウル特派員、ニューヨーク特派員だった為田英一郎さんや共同通信社の政治記者から常務理事になった古沢襄さんが出ている。

文太郎は明治四十五年六月三十日にこの世を去った。そのこと伝えた新聞記事がある。 『為田氏の訃報』鷲巣金山為田鉱業所主為田文太郎氏は、先年来新潟県北蒲原郡の古小屋鉱山と称する銅山を所有し、目下採掘中にて将来有望の鉱山なりとの評判なりしに、過般火薬爆発をし負傷せりとの事にて電報に接し親戚北島竹治氏急遽出発せし。甲斐もなく同氏着後数時間にして遂に死去せりと。電報簡にして爆発の時も其の原因は等は知るに由なく亦死傷者も氏一人にあらざるべきか後報を得て詳報すべきも、氏は本春長男理学士文造氏を失い、亜いで数年同氏の為に全力を漉ぎて事業を援けし藤澤拙蔵氏の急病にて鬼籍に入りたるさえあるに今又この変報に接す実に同情に堪へざるなり。(岩手日報)

『為田文太郎氏逝去』本郡鷲巣鉱山主の同氏は其の所有なる新潟県古小屋鉱山にて従業監督中発破にため重症を負ひ本月一日遂に死去せりとは洵に斯界の為に惜しむべし。氏はかって県会議員として県治に貢献し退いて鉱業会に身を投じてより相応に巾を利かせ常に東京に在りて実業に手を出しありしが、未だ成功の域に達せざる間に訃を聞く。一層同情に値す。遺骨は去る八日遺族と共に当駅に下車し郷里沢内村へ護送されたるが葬儀は今十一日午後一時執行すべしと。(和賀新聞)

明治維新の時に六歳だった文太郎は、明治二十二年の町村制執行に際して郷里の岩手県沢内村の初代村長に選ばれている。二十九歳の若き村長の誕生だった。その才覚を高く評価した後藤新平や沢内村を訪れた原敬から見出され、上京するが政治の道に進まず、財界人として立つ道を選んだ。東京市長だった後藤新平は、文太郎を後継者に擬する入れ込み様だったが、何故か断って北アルプスの大黒鉱山に入山して、これを第二の足尾銅山にする夢に賭けた。しかし不幸にも明治が終わる年の明治四十五年に不慮の火薬事故にあって生涯を閉じた。

文太郎の死後は、鷲巣鉱山の鉱業権は長男文造の遺児精一が継ぎ、大助氏が後見人となった。大黒鉱山はもっぱら地元白馬村(当時は北城村)の唯一の資産家であり、国会議員などを経験した横沢本衛(屋号は丸八、酒造業、麻問屋、銀行家など)に資本を仰いでいた経緯もあり(残されていた帳簿をみるとかなりの負債額だった)、鉱業権は丸八に渡った。丸八も積極的に経営に当たったが、仕事をできるのは夏場の3ヶ月だけのうえ、多大な道路の開削費、それに人背に頼る食料ならびに、資材の運搬費が経営を圧迫し、困難な中横沢本衛は亡くなってしまった。身内の人が引き継いだが、其のときはさしもの丸八の体力はうせ、丸八の息子と結婚した方にお話を伺ったら、部屋中の調度に赤紙が貼られてあったという。


北アルプス開発の先駆者

為田、横沢と大きな名家が大黒鉱山の経営で倒れたが、彼らの築いた路が今に至るまで登山道として、登山者に重宝されている。松本、糸魚川を結ぶ大糸線の白馬駅に下りたつと。眼前に右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓が岳、唐松岳、そして五竜岳と立ち並び圧倒する。五竜岳と唐松岳の間に小突起がある。大黒岳である。大黒鉱山は明治39年開業だが、当初は宇奈月方面(当時宇奈月なく、無人の地で桃原といった)から黒部側沿いの厳しい小道を伝い、黒薙温泉、祖母谷温泉をへて尾根道をよじ登る南越ルートと、大黒岳へ突き上げる谷をよじ登り、大黒の尾根に出る二本松ルートがあった。

最初は南越しルートが主力のようで、文太郎も始めは富山のほうから入山したようである。其の後、白馬村の八方地区、昔で言うと細野の一農家が定宿となっていた。横沢の代になって登山コースであり、スキーゲレンデとなっている八方尾根に牛道が切り開かれた。今でも為田の築いた道も、横沢の築いた道も、名残をとどめている。

いずれにしても、文太郎の生涯は鉱山に手を出してからは失意の連続で気の毒になるのだが、参謀本部の詳細な地図もなく、登山の黎明期で北アルプスに入る登山者も限られていた時代、あえて敢然と困難な山に挑戦し、黄金色に輝く銅を掘り出そうとした、決意、信念に男気をみる。
明治まで、広大な北アルプス地籍は、加賀藩の御締り山で江戸期は入山禁止の極めて厳しい山であった。それが明治になり自由に入山できる山となった。また一定の鉱業権法の範囲内で採鉱、採掘の自由も公布、奨励され、途絶の地は一躍注目を集め、明治後半から大正時代は、北アルプスの地籍めがけ試掘、採鉱のラッシューとなった。
また、この時代の富裕な人達にとって鉱業権はステータスシンボルの面も見え隠れするし、掘ることよりも株券や、債権のように売り買いの中で利ざやを得る、蓄財の一つでもあった。その意味で、己の力と才覚で、実業で身を起こそうとした、文太郎に明治人の気概を感じる。


二十九歳で初代村長に選ばれ

北アルプス開発の先駆者である文太郎の生涯に魅せられ、興味がわくままに文太郎の年譜を作ることになった。文太郎の本籍は、岩手県西和賀郡沢内村大字新町二十三番戸。
1835(天保6年2月7日)   * 父為田安太出生(治太郎長男)。(1)
1860年(万延元年7月23日) *為田文太郎生まれる(安太25歳の子)。(1)
1868年(明治元年)     *明治維新時、文太郎は6歳であった。
1879年(明治12年10月6日) *稗貫郡の鈴木コト(慶応元年5月7日生、)と結婚(19歳)。(1)

1880年明治(13)   *長女ヒテ生まれる。(1)
1882、3年(明治15、16年ころ) *黒沢尻の平野清吉、江釣子の佐藤新蔵等と上京明治法 律学校(現、明治大学)に学ぶが、半ばにして郷里に戻る(22 、3歳ころ)。(3)
1883年(明治16)    *長男文造生まれる。(1)
1884、6年(明治17,19年)  *父安太新町村、村会議員に当選。(2) P89
1886年明治19) *次男荘吾生まれる。(1)
1888年(明治21)    * 新町村外5カ村戸長(町村制実施前。28歳)。(2)P257
     為田文太郎「町村制実施之義ニ付建議」をまとめる(8月20日 )。(2)P257
          *「町村制御執行ニ付願い」文書では新町村の欄に安太の名 が(村議?)、西和賀郡新町外5ケ村戸長為田文太郎とある(8 月30日)。(2)P259
*次女トヨ生まれる。(1)
1889年(明治22)   *町村制執行後初代村長に選ばれる(29歳)。(2)P186
1890年(明治23)   *村長。県会議員3月16日~家産を相続す。(2)・(1)
1891年(明治24)   *村長。(2)P186
          *三男安造生まれる。(1)
1892年(明治25)   *県、勧業諮問会員(18名中)
1894年(明治27)   *県議3月16日~
1895年(明治28)   *「明治28度等級別戸数割各自課額申請書」中、為田安太、等級一 等、税率5円91銭とある。県会議員。(2)P453

1894年(明治28年4月25日) *妻コト死す。(1)
1895年ころ(明治28ころ)  *高橋嘉太郎等と岩秋鉄道を計画するが断念。(3)
1896年(明治29)    *郡会選挙で得票1票。(2)
             *この頃、中島文次郎、阿部忠五郎等と平和鉄道会社を創立 しょうとしたが、戦後の財界の余響を受け不成功に終わる。( 3)
*この頃東京に在住、牧牛に従事し、搾乳の営業をしていた 。(3)


六女は開戦時の海軍報道課長の妻

1898年(明治31)  *中沢ヨネと再婚(明治5年生まれ)。(1)
          *三女シケ東京市牛込区新小川町三丁目で生まれる。(1)
1900年(明治33)  *四女トシ、シケと同様東京市で生まれる。(1)
1901年(明治34)    *原敬の逓信大臣就任を祝う在京人等による祝賀会に出席。任大臣 祝賀会出席名簿には、職業牛乳商とある。(原敬関係文書)
1901年(明治34)   *鷲巣金山発見される。(東北鉱山風土記、和賀郡誌)
          *五女ツネ生まれる。(1)
1902年明治35)    *鷲巣金山を為田安太外1名で経営。(4)
      *六女フミ生まれる(海軍少将平出英夫氏と結婚)(1)

1903年(明治36)   *鷲巣金山を為田安太、個人経営で営む。(4)
*長女ヒテ、婿養子の小川大助(埼玉出身)と結婚。二人の間の子が 為田大五郎氏(為田英一郎氏の父親)(1)
1905年明治(38)   *四男巳三夫生まれる。(1)
          *三男荘吾死亡。三女シケ死亡。(1)
          *次女トヨ、古沢善五郎長男、古沢行道と結婚。二人の間に生まれ た子が、後のプロレタリア作家古沢元.。(1)

1906年明治(39)   *為田文太郎鷲巣金山を継承。(4)
          *大黒鉱山を経営(富山県地籍、北アルプスの黒部奥山、フミさんの 話では、四男の巳三夫さん身体が弱かったため、転地療法を兼ね信          濃大町に一軒家を借り暫く家族で住んでいたそうである)。(7)
*為田大五郎氏生まれる。(1)
          *文太郎、玉泉寺に雪江筆の「三尊十六羅漢」大掛け軸を寄進。(一 点山玉泉寺物語・古沢襄著)
1907(明治40)  *古沢玉次郎生まれる(後の作家古沢元)。(6)

1909年(明治42)*冬の大黒鉱山で越冬していた16名中6名が死亡するという惨事が起 きた。これは新鮮な野菜不足からくる壊血病であった。偶然か生存者は 和賀郡内7名、秋田県1名と富山出身の両親を失った3歳の女の子であ った(当時この病気は解明されては居なかった)。(5,7)
        *鷲巣鉱山一体に大洪水発生、設備等に被害甚大。(4)
*古沢行夫生まれる(後の漫画家岸丈夫)

1910年(明治43) *長男為田文造、青森出身の小川ふみと結婚。(1)
1911年(明治44) *長男文造に長男清一うまれる。(1)
1912年明治(45年)*長男文造(理学士、東京帝大卒との情報もある)朝鮮から帰着直後、牡 蠣にあたり死す(毒殺との噂もあったとか、この後為田家では牡蠣を食 べないそうである)。
   6月30日 為田文太郎、火薬調合中タバコの火が引火、火焼死したと伝えられる。 (5)
<参考資料>(1)為田直助氏より提供資料より。(2)沢内村史資料No5。
 (3)和賀新聞(4)和賀郡誌、日本鉱山見物、東北鉱山風土記。
 (5)岩手日報、信濃毎日新聞、富山新聞。高岡新聞。新潟新聞。
 (6)古沢襄著・「沢内農民の興亡」。「一点山玉泉寺物語」
 (7)井上忠雄(江花)「黒部山探検」