蛍を喰むシリーズ

菊池今朝和



蛍の絵

幼子の描く絵はまったく天意無心で、上手、下手を超越した至高の世界である。 その線は縦横無尽にくったくなく走り、用紙をはみ出してもその勢いは止まらない。そのうちグルグル回りだしたかと思うと、ジャンプまで飛び出し、あげくの果てが「おじちゃんの顔」などと説明されると、空いた口がふさがらないと同時に,その純真さが愛とまれる。

5月、6月は蛍のシーズンであるが、私は生態観察より、その尾灯の曳く光跡を楽しみに出かける。
蛍は蛍の事情があり、発光器を明滅させ、曲線を描いて飛翔するのだろうが、私にとって、それは一枚の光の絵のようにみえてしまう。
漆黒の闇に自由奔放のごとく標される、光のインパクトは、流れ星の直線とは趣をたがえ、幼子の描く線のように魅力に満ちている。

一時、この一景をカメラで切り取ろうと夢中になったが諦めた。感動が上手く表現できないのである。カメラでも撮りきれない蛍の描いた絵には、ダマシ絵やカクシ絵ように、絵に中に隠された秘密が封印されているように思える。
 たぶんそれは、環境とか自然の摂理、生命などといった言葉で表現されるものに近いとおもうのだが、まだまだ私には見えてこない。
子育てを終えた私ですが、幼児の絵とはもっともっとお付き合いをしなければならないようである。


数珠胃ミミズと蛍のわたり

大きな移動力を持つ鳥の渡りは、季節の風物詩として、雁ケ腹摺山(1880m・山梨県)などという山名が残されていることからも分かるように、我々の生活に密着していたようである。
しかし、それほど大きな飛翔力、移動力を持たない植物や虫の渡来、帰化となると話は別となる。もともと、移動する力のないものが、海を渡るには、台風のような自然の運び手に乗せられて移動するか、人間の介在を受けるしか術がないので、植物や虫の一つ一つの渡来、帰化には思いがけないドラマが秘められていることがある。

ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実(1901~1944)を兄に持つ文芸評論家の尾崎秀樹(1928~)の評論は、その目線の低さと歯切れの良さが、私には好まれるのですが、氏の講演録『歴史の虚実』(NHK編、昭和53年仙台市にて)には、実に興味深いことが述べられている。
大衆の中に影を落とす、歴史の実像と虚像とはどういうものだろうかと、考えることの多いという氏は、また、理科系の学校で医学を学んだ習いで、暇があると動物学とか解剖学などの報告書にも目を通すのだそうである。

氏は一冊の報告書に史実の予兆を感じ、遠く石川県金沢市の河北潟まで足を運んだ。同地では、近くの農家のお年寄りに頼んで鍬を借り、梅雨空の下、ぬかった田んぼの畔を苦労して掘り起こすのであった。目的は土中に巣くうミミズを見るためであった。
河北潟の一角、八田という限定された場所には、なんと体調60~70センチ、長いものでは1メートル近いミミズが棲息しているという。普通私たちが目にするものは20センチ弱ですから、5倍近い体長となる。
この俗に「八田のミミズ」といわれる巨大ミミズは、胃袋(砂のう)が6個から9個連続して連なっているところから「数珠胃ミミズ」とも称され、さらに心臓は4対、雌雄同体で相互受精をするなどの特徴を持っている。

結論を言えば、この「数珠胃ミミズ」は熱帯地方で良く見られる、巨大ミミズと同種で、いわゆる渡来、帰化種であつた。
氏がわざわざ河北潟まで足を運んだのは、鍬の先で蛇のようにとぐろする巨大ミミズをただ観察するだけでなく、渡来の裏に隠された真相を探るためでもあった。尚、氏を駆り立てた報告書はミミズ博士といわれた、東北大学理学部の畑井新喜司教授の『数珠胃みみずの研究』で、大正時代に発表されたものであった。

いまからちょうど140年前、河北潟を舞台に加賀藩をゆり動かすような騒動が持ち上がった。それは銭屋五兵衛事件といわれる著名な事件で、たまたま銭屋が埋め立て工事をしていた、河北潟で魚が死に、その魚を食べた者が死ねという事件から端を発したものであった。
この銭屋五兵衛事件について『日本の歴史』(読売新聞社)は、興味ぶかい記述をしているので、ちょっと長いが引用する。
「嘉永5年(1852年)の9月、加賀百万石の城下町金沢の外港、宮腰港を根拠に、持船大小百余艘、資産三百万両以上といわれた豪商の銭屋五兵衛が、藩当局に捕らえられて入牢した。それと同時に、長男喜太郎はじめ、家族や番頭、手代まで数十人捕らえられた。五兵衛はその年11月牢死、長男、次男は永牢、三男要蔵は「はりつけ」、手代の市兵衛は「はりつけ」の上「さらし首」という厳罰が加えられた。

罪名は金沢の北にある、河北潟の埋め立て工事について、不正行為が有ったというのである。
しかし、埋め立て工事の不正ぐらいにしては、罪が重すぎる。当時の人々のあいだでは、藩当局の発表は表向きのもので、「じっさいは、国禁の密貿易が発覚したのが原因だとのうわさがもっぱらだった」とし、続けて「このうわさは、いまからみてもある程度真実だったらしい」と、鎖国下での、銭屋の密貿易の事実を肯定している。

この銭屋の密貿易について尾崎氏は「宮越、金石を舞台にして七つの海を駆け巡ったといわれた銭屋五兵衛の貿易船が、密貿易に近いのですけれども、北は千島、南はタスマニア、東はアメリカ西海岸までその販路を広げていた」と述べ、八田の巨大ミミズ渡来の秘密を以下のように披瀝している。
「・・そして南からいろいろな木材、あるいは植物などを輸入した中に、このミミズが付着したまま金石まで伝えられて、たまたま河北潟の土質がそのミミズの棲息にふさわしいところから、そこに居座ってしまったのではないだろうか」。
つまり、銭屋の密貿易の落とし児、密貿易を確定させる証拠が巨大ミミズだというのである。
明治維新まで余すところ16年という、開明のきざし濃い幕末とはいえ、鎖国という国禁を破っての当時の商人の行動力、胆力に驚くと同時に、事態に押し潰された人々に憐憫の情を禁じえない。


海を渡ったホタル

平凡社の大百科事典によると、推定もふくめて縄文、弥生時代から江戸時代までに日本に侵入した「史前帰化植物」(旧帰化植物)は45種。江戸末から第二次大戦までに侵入「新帰化植物1」は67種。戦後に侵入した「新帰化植物2」7種で、合計119種が日本に渡来帰化したとなっている。
それらは、カタバミ、ハコベ、オニノゲシなど、あまりにも身近な野草ばかりなので、「本当かな」と、つい疑ってしまう。

昆虫類などについては、まとまった数字は示されていないが、日本へのおもな侵入害虫として、アメリカシロシトリなど22種が提示されていた。侵入害虫としては、日本からアメリカに渡来したマメコガネ(豆黄金)が大変有名である。
このマメコガネ、1916年に米国のニュージャージー州で最初に発見されたそうであるが、その後アメリカ全土を席巻しリンゴ、モモなどの果樹をはじめ、マメ類などの作物にも著しい被害を与えた。

日本から輸入したハナショウブの根のまわりの土に潜んでいた幼虫が、侵入の原初とみられ、当時、全世界の若者に旋風を起こしていた、ビートルズの名を冠してジャパニーズ・ビートル(Japanese beetle)とよばれ大変恐れられたそうである。
なお被害植物は約300種といわれ、日本からコツチバチなどの天敵を輸入して、鎮静化に向かっていると伝えられている(大百科事典・平凡社)。
江戸末期、加賀藩の銭屋五兵衛の密貿易によって、石川県の河北潟に渡来した八田のロング・ミミズ(数珠胃ミミズ)にしろ、マメコガネにしろ実に渡来にまつわる裏話は多様で興味はつきない。
生物の渡来、帰化においては、鳥類や植物は一般にそれほど大騒ぎの材料とされないようであるが、哺乳類や昆虫類ともなると、マメコガネの例もあるように、生態系に与える影響は大きく、簡単に容認は許されず神経質にならざるを得ない。

さて前置きが長くなったが、肝心のホタルについての渡来や帰化の話についてはあまり聞かれないが,実際のところはどうなのだろうか。ホタルに関心をいだくものとして興味はつきない。
先日、他の調査のため明治期の新聞のダイジェスト版をくくっていたら「宇治の蛍がフランスへ」の見出しが飛び込んできた。
まさかホタルの渡来、帰化はあるまいと決め込んでいた矢先に、この見出しで驚いてしまった。
「宇治の蛍がフランスへ」記事は、6が六つ並んだ明治16年6月6日付けのいろは新聞に載っていたもので、ここにも歴史の埒外のところで、ひっそりと移動させられた生き物がいたのかと思うと、素直に喜べない内容の記事であった。
記事の内容は、フランス人のチャイブレン氏なる人が、ホタルの名所として誉れ高い宇治のホタルをみて、「げに、名所とは聞きしに勝る蛍にて、他に稀なるものなければ」と感動し、ぜひ本国にホタルを送り、飼育したいという決意を「見込み」言葉であらわしたもので、「洋銀50ドルだけ買い入れたき旨、ある人へ依頼されたる由」と結んでいる。

この記事に関する後日譚を探したが見つからず、この記事だけでは実際に洋銀50ドル分のホタルがフランスに渡ったのか、それとも渡らなかったのかは判然としないが、当時のホタルの生態の解明度、飼育技術力などから類推すると、相当困難な企画であったことと推定される。
さらに当時は飛行機なく、人間の移動の主体は船便であった。約3ヶ月に及ぶ船便では、幼虫や蛹などの状態で輸送したとしても、無事フランスに生きて渡ることは至難なことだったろう。

フランス人のチャンブレン氏についても、いろいろ文献を当たったが似たようなお雇い外人の名が見つかったが、現在のところ不明で、謎の人物として措く。
もう少し、集中的に明治期のお雇い外人関係の資料にあたれば、チャイブレン氏のことも、同時にホタルの行く末なども明らかになるのかもしれない。
当時は日仏交流が盛んで、技術史関係の書物でも述べられているが、鈴木明氏の『追跡』なども当時の日仏交流史を理解するうえでの好著かもしれない。

さて、100年もすると渡来した虫も草も木も、しっかりとその土地に染みこみ、伝説の材料となったりして、何千年もまえからそこに住んでいるような顔をして、うごめきゆれている。
渡った可能性は薄いが、わが宇治のホタルはどんな風にフランスの地に溶け込み、光を放っていることだろうか。 いつか機会
ができたらフランスの地を訪れ、次のようなねぎらいの言葉を掛けたいと思う。
         ほ、ほ、 ほたる こい
         そっちの水は にがいぞ
         こっちの水は あまいぞ
         ほ、ほ、 ほたる こい
         ひかって ともして おもいを かたれ

医師でもあり植物学者でもあったフォン・シーボルトは、採取した植物を押し葉にして持ち帰るだけでなく、生きた状態で本国にもたらし研究したいと、心を砕いていた。
あるとき、クリの実の一種を、鉄分を含んだ粘土に包み、夏の間まで保存しておく日本人の知恵から学び、同じ粘土をいっぱい詰めた箱に茶の種子(1925.6・インドネシアの首都ジャカルタの旧称バタヴィアへ)、ドングリ(シイなど・1930)を詰めオランダに送ることを思いついた。実生は非常によい保存状態で送り先に着き、茶はバタヴィアの地で数千の株が育ち、日本産のナラ、カシ類やツバキはかの地の植物園を豊かにした『シーボルト・日本の植物』(著者P,F,Bフォン・シーボルト、訳・解説、瀬倉正克、大場秀章)。
このような事実を知るにおよび、あながちフランスへ渡ったホタルのその後のことも、一笑に付すことは出来ないとつくづく感じ入るのである。