シベリア抑留の記録

小松崎 三郎(監修・古澤 襄)


ソ連軍が侵攻直前の関東軍


満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、昭和20年8月9日。終戦の一 週間前である。日ソ中立条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告 してきたのが、四ヶ月前の4月5日、在モスクワの佐藤駐ソ大使は条約第 三条の規定に「廃棄通告は期間満了の一年前」と記されてあるので、この 点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は一年後のことになる。ソ連の中 立義務に変化はない」と答えた。外交的にみれば、日本はソ連の不意打ち を食らったことになる。

外交的にみれば、これは疑う余地のない事実だが、軍事的にみて果たして 不意打ちだったのだろうか。日本の大本営や関東軍は無策のまま8月9日 を迎えたのであろうか。昭和19年のソ連革命記念日に、スターリンは日 本を侵略国と決めつける演説を行い、昭和20年2月11日にはヤリタ協 定で対日参戦の合意を連合国の間で結んでいる。
また欧州における独ソ戦は、5月8日にドイツの降伏という事態を迎え、 ソ連の極東軍は確実に兵力を増強していた。ソ満国境に配置された関東軍 の向地監視部隊からは、シベリア鉄道の部隊輸送は自動車類が増加し、兵 力や軍需品を国境に向かっていることが報告されている。

昭和19年末の大本営・関東軍が推定した極東ソ連軍の兵力は兵員70万、 戦車1000両だったのが、昭和20年7月の時点で兵員130万、戦車 4000両と修正され、大本営の対ソ判断は「ソ連の対日作戦準備は、予 想を上回る進展を示し、8月末ごろには武力発動可能の態勢を一応既成し 得て、軍事上からみるときは、本年初秋の候、対日武力発動の公算が極め て大きくなった」としている。

この時点における関東軍の配備兵力は、兵員70万で兵力・装備とも劣勢 で、しかも精鋭師団を南方作戦に抽出(兵力転用)され、総合戦力は精鋭 師団の30パーセント程度まで低下していた。このために昭和19年9月 18日に大本営は関東軍に対して「対ソ持久戦作戦」の作戦計画を命令し た。

満州事変以降の対ソ作戦の方針は、日ソ戦争が起これば、日本本土の航空 攻撃の基地となる沿海州のソ連基地攻撃を主眼とし、満州東部地域の戦力 強化を図ってきた。
この攻勢防御の作戦計画から、満州全土の三分の二を反撃しつつ後退し、 新京南東の長白山地を背にした通化に軍司令部を移し、パルチザン戦を展 開するという持久戦作戦に切り替えた。

この持久戦作戦は6月14日に関東軍隷下の方面軍に示達され、9月下旬 までに全軍の移動・配備が行われる計画だったが、8月のソ連軍の侵攻に よって日の目をみないで終わった。


関東軍の配備状況


中途半端なままに終わった「対ソ持久戦作戦」計画だったが、終戦当時の 関東軍の配備は次のようなものである。
主要兵団は24個師団、9混成旅団、1機動旅団で、兵員70万。抽出に よって弱体化した関東軍を補強するため、支那方面から4個師団(支印) が満州方面に転用されている。
この4個師団は、以前に支那戦線にいたことがある部隊としてシベリアで は「衣部隊」の通称で呼ばれ、第117師団長・鈴木啓久中将、第59師 団長・藤田茂中将、第39師団長・佐々木真之助中将、第63師団長・岸 川健一中将らは、中国側に引き渡され、戦争犯罪人として裁かれた。

関東軍・軍司令部 山田乙三大将    新京(8月12日通化に撤退す るが、14日に新京に戻る)
第一方面軍         喜多誠一大将     敦化
 第3軍          村上啓作中将     延吉
第79師団       太田貞昌中将     図們
  第112師団      中村次喜蔵中将・自決 琿春西方
  第127師団      古賀竜太郎中将    図們南方
  第128師団      水原義重中将     羅子溝
  独立混成第132師団  鬼武五一少将     大咸廠

 第5軍          清水規矩中将     掖河
第124師団      椎名正健中将     穆陵
第126師団      野溝武彦中将     掖河
  第135師団(イルクーツク) 人見与一中将     掖河
  第122師団      赤鹿 理中将     南湖頭
  第134師団      井関 仭中将     方正
  第139師団      富永恭次中将     敦化

第三方面軍         後宮 淳大将     奉天
 第30軍         飯田祥二郎中将    新京
  第39師団(チタ州)  佐々木真之助中将(支)四平
  第125師団      今利竜雄中将     通化
  第138師団      山本 務中将     撫順
  第148師団(チタ州) 末光元広中将     新京

 第44軍         本郷義夫中将     奉天
  第63師団(チタ州)  岸川健一中将(支)  奉天
  第107師団(チタ州) 安部孝一中将     索倫北方
  第117師団      鈴木啓久中将(支)  大賚
  独立戦車第9旅団    北 武樹大佐     四平

  第108師団      磐井虎二郎中将    錦県
  第136師団      中山 惇中将     奉天
  独立混成第79師団   岡部 通少将     安東
  独立混成第130師団  桑田貞三少将     奉天
  独立混成第134師団  後藤俊蔵少将     臨江
  独立戦車第1旅団    阿野安理少将     奉天

 第4軍          上村幹男中将     ハルピン
  第119師団(チタ州) 塩沢清宣中将     ブハト
  第123師団      北沢貞治郎中将    孫呉
  第149師団(チタ州) 佐々木到一中将    ハルピン
  独立混成第80旅団   野村登亀江少将    ハイラル
  独立混成第131旅団  宇部四雄少将     ハルピン
  独立混成第135旅団  浜田十之助少将    愛琿
  独立混成第136旅団  土谷直二郎少将    嫩江

第十七方面軍(朝鮮軍管区) 上月良夫中将     京城
 第58軍         永津佐比重中将    済洲島
  第96師団       飯沼 守中将     済洲島
  第111師団      岩崎民雄中将     済洲島
  第121師団      正井義人中将     済洲島
  独立混成第108旅団  平岡 力少将     済洲島

  第120師団      柳川真一中将     京城
  第150師団      三島義一郎中将    井邑
  第160師団      山脇正男中将     裡里
  第320師団      八隅錦三郎中将    京城
  独立混成第127旅団  坂井 武少将     釜山

 第34軍         柳淵宣一中将     咸興
  第59師団       藤田 茂中将(支)  咸興
  第137師団      秋山義允中将・自決  定平
  独立混成第133旅団  原田繁吉少将     新京
  大陸鉄道隊(チタ州)  草場辰巳中将     新京


終戦、武装解除、シベリア移送


南方戦線の戦況悪化により、関東軍から抽出されて転用された兵力は、昭 和18年の第二方面軍司令部(チチハル)に始まり、終戦まで24個師団 にのぼったが、装備・編成とも精強師団で、昭和20年3月ごろには関東 軍の戦力は大幅に低下した。このために支那戦線から4個師団の転用、在 満州の壮丁の根こそぎ動員召集をかける非常手段をとっている。

一方、増強されたソ連極東軍の兵力は、関東軍の想定を上回り、戦後公刊 された資料によれば、兵員157万人、火砲2万6000門、戦車自走砲 5500両、飛行機3400機。
極東軍総司令官はワシレフスキー元帥、東部国境方面は第一極東方面司令 官・メレツコフ元帥、北部方面は第二極東軍司令官・ブルカエフ大将、西 部方面はザバイカル方面軍司令官・マリノフスキー元帥で、三方面から満 州中央部を目指して侵攻してきた。

東洋一を誇った虎頭要塞には、ザフバターエフ中将麾下の第35軍が攻撃 をかけてきたが、すでに南部の通化を防衛線とする持久戦作戦に移ろうと していた関東軍は、1400人の守備兵力で、重装備機械化兵団1万人の ソ連軍と交戦、玉砕(生存者約50人)した。
国境に配置された守備隊は、虎頭要塞とほぼ同じ運命を辿った。そして8 月15日の終戦を迎えることになる。

8月16日「関東軍司令官は、即時、戦闘行動を停止すべし」との大本営 命令を受領、関東軍総司令官・山田乙三大将は隷下全軍に即時停戦の命令 を発した。
8月19日に興凱湖西にあるジャリコーウオ戦闘司令所で秦総参謀長、瀬 島作戦参謀、宮川ハルピン総領事(通訳)がソ連極東軍司令官・ワシレフ スキー元帥と会見、関東軍の武装解除の要領、治安の維持、在留邦人の保 護など停戦交渉を行って諒解が成立。これについて抑留密約があったとの 疑惑が残ったが、交渉といっても一方的なソ連側の指示だったのが真相で あろう。

すでに激戦地の国境地帯では、8月末から関東軍将兵のシベリア移送が始 まっていた。9月3日には関東軍の武装解除が行われ、将兵は敦化など2 7カ所の中間集結地に集められて1000人程度の大隊編成で10月末ま でに続々とシベリア各地に送られた。新京にあった将官クラスは9月6日 にハバロフスクに連行。

主なシベリアへの移送経路は、南東地区は緩芬河(スイフンガ)→ウスリ ースク、琿春(コンシュン)→徒歩でクラスキノ、北西地区は黒河(船で) →ブラゴエシチェンスク、満州里→ザ・バイカリスク、他に黒河・佳木斯 (アムール川を船で)→ハバロフスク、稀に北朝鮮(船で)→ナホトカと なっている。

シベリアの収容所は、抑留者がその土地の状況に合わせて作った粗末なも のが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた工場近くの収容所跡地、ロ シア人の囚人が入っていた町近くの刑務所の利用もあった。
短期の移動には天幕も利用。

日本人の抑留者によって作られた収容所建物の主な形態は、立穴式、半地 下式、盛り土箱型(以上が森林地帯・一部は鉱山)、家屋型(工場近辺) で、都市周辺の既存の建物は将校収容所に当てられた。
建物の中は立って歩けない低さのものから2段。3段の蚕棚式まで種々雑 多だったが、最初の一年は旧軍隊の階級制度が収容所でも残り、上官が良 い場所を占めて兵は食料不足も加わり、厳寒期に多くの死亡者を出した。

昭和21年4月頃から収容所内に民主運動が広がり、同時に将校たちが他 の収容所に送られたこともあって、気温の上昇とともに死亡者が減り始め た。
特に死亡者が多く出たのは、バム鉄道(バイカルとアムール地区を結ぶ第 二シベリア鉄道)の復旧工事に駆り出された収容所で、苛酷な労役から倒 れる者が続出し、また欠員補充が絶えず行われたため、実態の確認が現在 でも困難な状況にある。

なかでもタイシェットとブラーツクに間の収容所は、鉄道沿線の両側に収 容所が目白押しに建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となった。戦後 出版された抑留手記は、この地域からの帰還者のもが多い。
一方、支那戦線から転用された4個師団が収容されたチタ州の抑留手記は 少ないという特徴がある。


抑留者の墓地と埋葬人数


スターリン時代の非人道的なシベリア抑留は、これから日本の経済援助が 欠かせないロシアにとっても、頬かむりでは済ませられない問題である。 日本人墓地の整備、墓参団の受け入れなどで、ソ連時代とは違った対応を みせているが、日本側からみると整備された日本人墓地は限られた一部で あって「ショーウンドウ」的な感じを抱かざるを得ない。
大部分の墓地は、遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地に なったところも少なくない。墓地数も埋葬人数も不確定のままである。

昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表し たが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4 万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままで ある。

各州の墓地数と埋葬人数(括弧内)は次のようになっている。
カムチャッカ州 1(20)、マガダン州 2(160)、北樺太 1 (70)沿海州 66(7000)、ハバロフスク州 72(1300 0)ニジェアムール州 2(100)、アムール州 25(4000)

チタ州 30(5500)、ブリヤートモンゴル自治共和国 13(5 00)蒙古人民共和国 9(1700)、イルクーツク州 33(60 00)、クラスノヤルスク州 15(1000)、ケーメルボー州 1 (200)

アルタイ州 6(2500)、ウオストチノカザックスタン州 4(3 00)、カラカンダ州 16(1300)、アルマータ州 12(50 0)タシケント州 9(600)、タジック共和国 2(260)ウズ ベック共和国 1(40)

ユジノカザソクスタン州 2(40)、クラスノボドスク州 1(12 0)スヴェルドルスク州 1(20)、タタール自治共和国 2(12 0)、タンボフ州 1(60)、イワノヴォ州 1(5)、モスクワ州  1(10)、ロストフスク州 1(200)、スターリンスク州 2 (50)


6万人を超える犠牲者


ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について 「64万人を抑留し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べてい る。
一方、昭和30年6月17日の外務省発表は、終戦当時に満州、北朝鮮、 千島、南樺太に居住していた軍民合わせて272万6000人のうち5 7万5000人がソ連軍によってシベリア、外蒙古、中央アジアに移送 されたとしている。
これとは別に留守業務部の資料では54万1500人が移送されたとな っていて、正確な抑留者の人数は今もって分からない。

しかし、昭和21年12月19日に締結された「日本人引揚に関する米 ソ協定」によって開始された抑留者の送還は、昭和25年4月22日に ソ連側から47万1000人の送還をもって完了したと発表された。
実際には昭和29年3月までに1231人、昭和30年4月に88人、 そして昭和31年12月26日に最後の引揚者1025人が帰国したの で引揚者の総数は47万3000人余りとなった。

外務省発表を根拠にすれば、未帰還者は10万2000人、留守業務部 の資料を根拠にすれば未帰還者は6万8500人になる。この数字は現 地からの逃亡・行方不明、戦犯として中国に引き渡された数を含んでい るから、抑留中に死亡した数は6万人を下らないと判断するのが妥当と 思われる。

遺族の墓参の旅は続けられているが、肉親の墓を探し当てるのは一人か 二人になっている。日本人墓地には、必ずといって良いほど死亡者の名 前も分からない無縁墓地がある。
帰還した抑留者も高齢となり、物故者も増えている。「ショーウインド ウ」でない墓地の調査も年々困難になっているのが実情である。