シベリア抑留の記録ソ連軍が侵攻直前の関東軍◆ 満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、昭和20年8月9日。終戦の一 週間前である。日ソ中立条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告 してきたのが、四ヶ月前の4月5日、在モスクワの佐藤駐ソ大使は条約第 三条の規定に「廃棄通告は期間満了の一年前」と記されてあるので、この 点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は一年後のことになる。ソ連の中 立義務に変化はない」と答えた。外交的にみれば、日本はソ連の不意打ち を食らったことになる。
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外交的にみれば、これは疑う余地のない事実だが、軍事的にみて果たして
不意打ちだったのだろうか。日本の大本営や関東軍は無策のまま8月9日
を迎えたのであろうか。昭和19年のソ連革命記念日に、スターリンは日
本を侵略国と決めつける演説を行い、昭和20年2月11日にはヤリタ協
定で対日参戦の合意を連合国の間で結んでいる。 ◆ 昭和19年末の大本営・関東軍が推定した極東ソ連軍の兵力は兵員70万、 戦車1000両だったのが、昭和20年7月の時点で兵員130万、戦車 4000両と修正され、大本営の対ソ判断は「ソ連の対日作戦準備は、予 想を上回る進展を示し、8月末ごろには武力発動可能の態勢を一応既成し 得て、軍事上からみるときは、本年初秋の候、対日武力発動の公算が極め て大きくなった」としている。 ◆ この時点における関東軍の配備兵力は、兵員70万で兵力・装備とも劣勢 で、しかも精鋭師団を南方作戦に抽出(兵力転用)され、総合戦力は精鋭 師団の30パーセント程度まで低下していた。このために昭和19年9月 18日に大本営は関東軍に対して「対ソ持久戦作戦」の作戦計画を命令し た。
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満州事変以降の対ソ作戦の方針は、日ソ戦争が起これば、日本本土の航空
攻撃の基地となる沿海州のソ連基地攻撃を主眼とし、満州東部地域の戦力
強化を図ってきた。 ◆ この持久戦作戦は6月14日に関東軍隷下の方面軍に示達され、9月下旬 までに全軍の移動・配備が行われる計画だったが、8月のソ連軍の侵攻に よって日の目をみないで終わった。
関東軍の配備状況◆ 中途半端なままに終わった「対ソ持久戦作戦」計画だったが、終戦当時の 関東軍の配備は次のようなものである。 主要兵団は24個師団、9混成旅団、1機動旅団で、兵員70万。抽出に よって弱体化した関東軍を補強するため、支那方面から4個師団(支印) が満州方面に転用されている。 この4個師団は、以前に支那戦線にいたことがある部隊としてシベリアで は「衣部隊」の通称で呼ばれ、第117師団長・鈴木啓久中将、第59師 団長・藤田茂中将、第39師団長・佐々木真之助中将、第63師団長・岸 川健一中将らは、中国側に引き渡され、戦争犯罪人として裁かれた。
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関東軍・軍司令部 山田乙三大将 新京(8月12日通化に撤退す
るが、14日に新京に戻る)
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第5軍 清水規矩中将 掖河
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第三方面軍 後宮 淳大将 奉天
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第44軍 本郷義夫中将 奉天
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第108師団 磐井虎二郎中将 錦県
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第4軍 上村幹男中将 ハルピン
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第十七方面軍(朝鮮軍管区) 上月良夫中将 京城
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第120師団 柳川真一中将 京城
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第34軍 柳淵宣一中将 咸興
終戦、武装解除、シベリア移送◆ 南方戦線の戦況悪化により、関東軍から抽出されて転用された兵力は、昭 和18年の第二方面軍司令部(チチハル)に始まり、終戦まで24個師団 にのぼったが、装備・編成とも精強師団で、昭和20年3月ごろには関東 軍の戦力は大幅に低下した。このために支那戦線から4個師団の転用、在 満州の壮丁の根こそぎ動員召集をかける非常手段をとっている。
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一方、増強されたソ連極東軍の兵力は、関東軍の想定を上回り、戦後公刊
された資料によれば、兵員157万人、火砲2万6000門、戦車自走砲
5500両、飛行機3400機。
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東洋一を誇った虎頭要塞には、ザフバターエフ中将麾下の第35軍が攻撃
をかけてきたが、すでに南部の通化を防衛線とする持久戦作戦に移ろうと
していた関東軍は、1400人の守備兵力で、重装備機械化兵団1万人の
ソ連軍と交戦、玉砕(生存者約50人)した。
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8月16日「関東軍司令官は、即時、戦闘行動を停止すべし」との大本営
命令を受領、関東軍総司令官・山田乙三大将は隷下全軍に即時停戦の命令
を発した。 ◆ すでに激戦地の国境地帯では、8月末から関東軍将兵のシベリア移送が始 まっていた。9月3日には関東軍の武装解除が行われ、将兵は敦化など2 7カ所の中間集結地に集められて1000人程度の大隊編成で10月末ま でに続々とシベリア各地に送られた。新京にあった将官クラスは9月6日 にハバロフスクに連行。 ◆ 主なシベリアへの移送経路は、南東地区は緩芬河(スイフンガ)→ウスリ ースク、琿春(コンシュン)→徒歩でクラスキノ、北西地区は黒河(船で) →ブラゴエシチェンスク、満州里→ザ・バイカリスク、他に黒河・佳木斯 (アムール川を船で)→ハバロフスク、稀に北朝鮮(船で)→ナホトカと なっている。
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シベリアの収容所は、抑留者がその土地の状況に合わせて作った粗末なも
のが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた工場近くの収容所跡地、ロ
シア人の囚人が入っていた町近くの刑務所の利用もあった。
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日本人の抑留者によって作られた収容所建物の主な形態は、立穴式、半地
下式、盛り土箱型(以上が森林地帯・一部は鉱山)、家屋型(工場近辺)
で、都市周辺の既存の建物は将校収容所に当てられた。
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昭和21年4月頃から収容所内に民主運動が広がり、同時に将校たちが他
の収容所に送られたこともあって、気温の上昇とともに死亡者が減り始め
た。
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なかでもタイシェットとブラーツクに間の収容所は、鉄道沿線の両側に収
容所が目白押しに建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となった。戦後
出版された抑留手記は、この地域からの帰還者のもが多い。
抑留者の墓地と埋葬人数◆ スターリン時代の非人道的なシベリア抑留は、これから日本の経済援助が 欠かせないロシアにとっても、頬かむりでは済ませられない問題である。 日本人墓地の整備、墓参団の受け入れなどで、ソ連時代とは違った対応を みせているが、日本側からみると整備された日本人墓地は限られた一部で あって「ショーウンドウ」的な感じを抱かざるを得ない。 大部分の墓地は、遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地に なったところも少なくない。墓地数も埋葬人数も不確定のままである。 ◆ 昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表し たが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4 万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままで ある。
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各州の墓地数と埋葬人数(括弧内)は次のようになっている。 ◆ チタ州 30(5500)、ブリヤートモンゴル自治共和国 13(5 00)蒙古人民共和国 9(1700)、イルクーツク州 33(60 00)、クラスノヤルスク州 15(1000)、ケーメルボー州 1 (200) ◆ アルタイ州 6(2500)、ウオストチノカザックスタン州 4(3 00)、カラカンダ州 16(1300)、アルマータ州 12(50 0)タシケント州 9(600)、タジック共和国 2(260)ウズ ベック共和国 1(40) ◆ ユジノカザソクスタン州 2(40)、クラスノボドスク州 1(12 0)スヴェルドルスク州 1(20)、タタール自治共和国 2(12 0)、タンボフ州 1(60)、イワノヴォ州 1(5)、モスクワ州 1(10)、ロストフスク州 1(200)、スターリンスク州 2 (50)
6万人を超える犠牲者◆ ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について 「64万人を抑留し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べてい る。 一方、昭和30年6月17日の外務省発表は、終戦当時に満州、北朝鮮、 千島、南樺太に居住していた軍民合わせて272万6000人のうち5 7万5000人がソ連軍によってシベリア、外蒙古、中央アジアに移送 されたとしている。 これとは別に留守業務部の資料では54万1500人が移送されたとな っていて、正確な抑留者の人数は今もって分からない。
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しかし、昭和21年12月19日に締結された「日本人引揚に関する米
ソ協定」によって開始された抑留者の送還は、昭和25年4月22日に
ソ連側から47万1000人の送還をもって完了したと発表された。 ◆ 外務省発表を根拠にすれば、未帰還者は10万2000人、留守業務部 の資料を根拠にすれば未帰還者は6万8500人になる。この数字は現 地からの逃亡・行方不明、戦犯として中国に引き渡された数を含んでい るから、抑留中に死亡した数は6万人を下らないと判断するのが妥当と 思われる。
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遺族の墓参の旅は続けられているが、肉親の墓を探し当てるのは一人か
二人になっている。日本人墓地には、必ずといって良いほど死亡者の名
前も分からない無縁墓地がある。
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