松元 眞

娘の場合

「墓守りだけは、くれぐれもよろしく、だって。初対面で、いきなりよ。参っ ちゃった」
 家に帰りつくなり、長女から愚痴がこぼれた。再婚を決心した彼女は、相手 の両親に挨拶するため大阪へ行った。その報告である。入籍直前、三年前の春 だった。
「うちの墓のことなんか構わないからな。あちらのお気持を第一にするよう、 心しておくんだよ」

彼女たちは、なりゆき次第で、大阪暮らしも十分ありうる。カラー・コーディ ネーターの次女も、仕事柄、海外留学を視野に入れている。私と妻が死んだ後、 多磨霊園にあるわが家の墓は、無縁墓地になるやも知れぬ。妻はもともと、じ めついた、窮屈な場所なんかに入りたくない、が口癖であった。かねてから胸 の底にあった散骨への関心が、娘との会話で蘇った。ただ気持は傾いたが、そ の手立ては見つからなかった。二年が過ぎた。

昨年三月、ようやく「葬送の自由をすすめる会」の存在を新聞で知った。早速、 会の代表安田睦彦著「お墓がないと死ねませんか」を買った。会誌「再生」を とり寄せ、散骨をした遺族の体験談をくまなく読んだ。横浜で開かれた懇談会 にも出席、自然葬に対する法規制の変化を知り、心を動かされた。私はその日、 会場で年会費三千円を払い、入会の手続きをした。

自然に還って再び生きる、とはよくいわれる。会誌の命名にも、その祈りが籠 められている。事実、会としても、東京都西多摩山系や北海道の羊蹄山麓など、 全国で七ヵ所の山林を取得、その区域をとくに「再生の森」と名付けて、自然 葬を実施していた。しかし入会した時の私の本音は、単に、自分の遺灰を撒い てもらえる、という実利に尽きていた。当時、自然葬の実施百四回、すでに百 九十人に達していた。

三週間後、会員証が届いた。裏面の所定欄に署名、緊急連絡先も記入し終えて、 私は不意に、墓地の、最終的な処分に思い及んだ。実の息子とはいえ、親の骨 を勝手に灰にして撒いてしまうことなど出来るのか。つきつめて、考えてはい なかったのだ。私は会員証を手に、書斎にひきこもった。いつもの伝で、独酌 を始める。肴はない。すでに夕刻だったが、私は電灯をつけずにいた。

「こういう方法もあったんだ」
夕飯を知らせにきた長女が、私から会員証を取り上げ、弾んだ声になった。私 は彼女の闊達な調子を訝かった。「分骨してもらった、そら、あれよ」
娘に促されて、私は妻の部屋に行き仏壇の前に立った。父と母の位牌の横に、 小さな骨壺が一つ。包んである白い布は、すでに変色していた。娘は人差指で 埃を掃い、息を吹きかけた。私の思案とは別の世界に、娘はいた。「お前さん、 ひらめいたな」
私は彼女の背中を思いきり叩き、仏壇を閉めた。軽い酔いのせいか、足元がふ らついた。

一九九三年、長女は最初の夫を急病死のため失った。職業、ルポ・ライター。 死んだ場所は、ミャンマーであった。一周忌にはミャンマーへ飛んで、現地の 山に埋めてやりたいと、娘が先方の親に頼みこみ、分骨してもらったのである。 当時、娘は三十四歳。気丈に振るまっていたが、自分の人生など予測出来る年 齢ではなかった。 彼女は三歳の子供を抱え、フリーのライターとして生活す ることになった。相談の末、私たちは二所帯住宅を建てる決心をした。長女が 夫の生命保険金全額、これに私の退職金、マンションの売却金まで注ぎこんで の計画は六十歳を越えていた私にとって、かなりの重荷であった。ところが、 窓枠を嵌めこむ段階になった時、娘が唐突に再婚話を持ち出した。大きな家な ど不要になる。私は狼狽したが、工事中断の出来る時点は過ぎていた。

再婚の相手はAといい、NHKのドキュメンタリープロデューサー。亡夫の遺 したミャンマーの貴重な写真や取材メモを借りるため、娘の家を度度訪れてい た。アジア圏への思い入れを語り合ううち、互いに気脈を通じた結果であった。 すでに三回忌は過ぎていた。もとより私は、再婚そのものには賛成であった。 孫にも男親が必要との思いが、人一倍強かったせいもある。ただ相手は初婚、 娘の方に引け目があった。案の定、Aの親は反対した。その場はAが強引に押 し切ったが、心からの同意は得られなかった。二人は結婚式を断念し、入籍し た日の夜、双方の親とも出席しない披露宴を開いた。銀座のタイ料理店。死ん だ夫の縁で、ミャンマー人の夫婦五組が出席、子供の手を引いて踊る娘を、盛 り上げてくれた。 町田市のはずれに、五十七坪の家は完成した。とりあえず は、共同生活である。次女を含めて総勢六人、二階の大半が、彼女たちの新居 となった。その夜、娘は亡夫の個人的な写真を全部焼いた。ただ取材スチール のたぐいはすべて残し、テーマ別に整理して、書棚の中央に収納した。本人が 写っていても、取材先での記念写真は大切に保存された。作業のすべてを、A は手伝った。

「パパ、これ、何とかならない」
 長女が薄暗い階段に腰を下ろし、膝に白い木箱を抱えていた。その日まで、 彼女の書斎にあった骨壺である。私は無言で受取り、わが家の仏壇に移した。

「これまでどおり、孫を連れて、顔を見せてくれなきゃ困りますよ。うちにと っては、いつまでだって、孫は孫なんですからね」
入籍一ヵ月後、気の進まない娘に、けじめは大切、といいふくめて、故人の実 家へ再婚の報告に行かせた。代代の大地主。亡夫は一人息子であった。帰宅し た彼女は、夜遅く私の書斎に押しかけてきた。もともと、遺品のノートや写真 が機縁の再婚話である。最初から、先方の不興は覚悟の上だった。しかし、別 れ際の女親の念押しはこたえた、と繰り返し、書棚の横にならべてある一升瓶 の中から、「大吟醸美少年」をねだった。彼女は板敷に新聞紙をひろげると、 コップ二つと鮭缶をじかに置き、缶切りと割箸をとり出してから、首をすくめ た。

「血がつながってんだから、仕方ない」
 妻も加わり、宥めにかかった。
「彼がね、本当の父親になってみせるって。だから、怒る時も、本気で怒るこ とにするって。彼だって、一生懸命なんだ」

私は用心深く、コップに半分ずつ注ぐようにしたが、彼女のピッチは早かった。 一升瓶は、あっけなく空いた。 以後、娘から同じ愚痴をきかされることはな かったが、女親の望みに応ずる気配もなかった。一度、自分で車を運転して、 女親がやってきた。娘は孫ともども、ドライブにつきあわされ、「こどもの国」 で半日過ごした。「ミャンマーには、いつ行くつもりなの」
女親は、分骨した時の約束を、執拗に迫ったらしい。 同居生活二年、Aが突 然、町田駅前に建築中のマンションを契約した。もともと二所帯住宅とはいっ ても、再婚話以前に設計された家であった。身内だけが前提の間取りだから、 風呂、台所も一つしかない。Aにとっては、居心地の悪い日日だった筈である。 完成が昨年の十月。「ここからならバスで二十分。往き来も楽だし」

引っ越しは、十一月一日と決まった。前日、Aは大詰めの仕事に追われ、現場 に泊まりこみとなった。思いがけない身内だけの夜食。長女が、携行する引っ 越し荷物の中から、赤ワインを一本抜き出した。珍しく早く帰宅した次女が、 得意のピザを焼いた。私は、とっときのクサヤを炙った。小学四年の孫は、や っと隣室で寝ついた。内心私は、Aのいない食卓を待ち望んでいた。

「例の、あれ、のことなんだが」
骨壺だけが、荷造りから外されていた。手荷物にも含まれていなかった。
「分かってる」
 長女は、さんざん考えた揚句だと前置きし、
「なかなか現地へ行く暇なんか作れない。もう、日本の山でも海でもいい。『葬 送の自由をすすめる会』の会員になりさえすれば、彼の骨でも撒いてくれるの かな」
「横着なこと、いうもんじゃない。いまさら現地の山に埋めろとはいわないが、 散骨で済ますにしたって、ここへきて、日本でも構わないじゃ、分骨の時の、い い訳にもならない」

ガンジス川での自然葬も実施されていた。ミャンマーは無理としても、外国での 散骨場所は無限であった。
「いっそ、このまま預かっておこうか。孫が大きくなったら、きっと生みの親の 話だって出てくる。その時の孫の判断にまかせたら」

妻が意表を突いた。
「いまどき、生みの親だなんて、気色悪い」
次女が口を挟んだ。長女は、私の足元にあった一升瓶に手を伸ばし、飲みさしの ワイングラスに日本酒を注ぎ足した。グラスの底には、赤ワインが残っていた。 彼女は私の真似をして、氷をたっぷり入れ、気忙しく掻きまわした。グラスの中 で、薄桃色の日本酒が揺れた。
「これ以上、ひきずりたくないんだな、私」
 彼女は、一気にグラスを呷った。


私の場合

両親の墓を掘り起こし、その遺骨を自然葬にした会員のいることを知り、私は 初めて「葬送の自由をすすめる会」を訪ねた。入会してから、一年は経ってい た。事務所は、飯田橋駅から歩道橋を渡り、五分とはかからない距離にあった。 古い五階建てビルの三階。エレベーターはない。私は、裏手の、急勾配の非常 階段を上った。はやる気持とはうらはらに、体の底には鉛のような重みが居座 っていた。

十畳ほどの事務室。窓際に退職者らしい年配の男、ほかに若い女性が一人、黙 黙と事務を執っていた。私に応対したのは四十代の女性、名刺には事務局長と あった。 私はまず、娘から預かった格好になっている遺骨を話題にした。い きなり、抱えている煩悶を切り出すことに、躊躇があった。初めて会う相手に 不安があったし、私自身、まだ心の整理がついていなかったからでもある。

「会員である松元さんが、遺族として『自然葬申込書』をお出しになれば、契 約書を作ります。わざわざ、そのために、娘さんに会員になって頂かなくても 結構です」 他人との合同葬でよければ十万円。それに自然葬基金として三万 円、書類作成費用二千円で済むという。故人の夢をかなえるため、ミャンマー の山に散骨したい、などという贅沢は、当の娘にも私にも、もはやなかった。 時間も流れた。環境も変わった。死んだ男とは、薄い縁になっている。しかし、 その私にも、「会」の中では、「遺族」としての資格が、まだ生きているよう であった。娘との懸案は、思っていたより簡単に落着した。私の心に、わずか なゆとりが生まれた。

私は、改めて、両親の墓が多磨霊園にあること、一応「松元家之墓」となって はいるが、家代代の墓ではないこと、子供は私一人だから、すべて私の一存で 決められることなどを、かいつまんで話した。

「自分たち夫婦の骨は散骨するとしても、残った両親の墓をどう処分したもの か、決心がつかない。親の墓をとり潰して、散骨してしまった方がいらっしゃ るとか」「そういう方、たくさんいらっしゃいます」
Aさんは、ご親戚全員に反対されましたし、Bさんの場合は、お寺さんが許可 されなかったとか、事情はいろいろですが、皆さん辛抱強く説得なさって自然 葬に漕ぎつけられましたよ。彼女は微笑を絶やさない。終始、淀みがなかった。 私の場合、難癖をつける親戚もいないし、墓地は都営だから、問題は何一つな かった。私にとっての難題は、外側からの圧力ではなく、私の内側にあった。 「AさんやBさんは、生前、ご両親の意思を確認していたんでしょうか」
「そうとはいい切れませんね。むしろ、AさんBさんご自身のご意思ではない でしょうか」
「子供に、それだけの裁量が許されるんでしょうか。傲慢につながりませんか」
「というより、ご両親の存命中には、散骨が、まだ社会的に認められていなか ったからだ、とは考えられませんか。もし今のように、自然葬が現実に行われ ていたら、どうお思いになられたか」

事務局長の優しさを疑う気持などなかったが、その語調には、やや押しつけが 滲んだ。
「遺言とか、せめて日記なんかに書き残してくれてさえいれば、吹っ切れるん ですけどね」
本音であった。私の困惑は、彼女にも伝わった。いっとき沈黙が流れた。窓際 の男も、手の動きを止めた。
「今のお墓をお建てになったのは・・・・」
「もちろん、母です」

父が昭和十四年に死んだこと、貧乏の中から工面してやっと墓地を手に入れた 母、それも多磨霊園の石材屋に日参した結果であった。運良く抽選に当たった 日、半日父の位牌の前で鉦をならしつづけた母の姿まで、私は思いつくまま勝 手に喋っていた。
「早く墓石を建てて」
生活に追われ、心ならずも、木標のまま放置してきた墓地に石塔を、と、寝た きりになった途端にいい募った母の像が、私の中で往きつ戻りつした。気がつ くと、事務所全体が、聞き耳をたてているかのようであった。

「これじゃ、私、人生相談にきているみたいですね」
 我にかえり、私は饒舌を恥じた。
「お母様は、そのお墓に入ることを望んでおられた」
「少なくても、安心はしていたでしょう」
 息子である私に、格別上手な答えは見つからない。
「ご自分で墓を求められたとすれば、無理に自然葬をお勧めしません。まして、 墓地を掘り起こすことなんか」 彼女は、やや慎重なものいいになった。私は 私で、情にからんだ問答に辟易してきていた。むしろ私には、是非とも、聞き たい事柄が一つあった。遺骨を灰にしてくれるのは誰なのか、「会」に頼めば 済むことなのか。

「是非、とおっしゃる会員には、業者をご紹介しています。ただ会と致しまし ては、なるべくご遺族で砕いていただくよう、おすすめしています。Aさんも Bさんも、ご自分たちで灰にしてよかった、とおっしゃってます」 日本の火 葬場では、いわゆる骨揚げをするために、遺骨が骨格の原型を残すように遺体 を焼いており、炉の温度は自動制御になっている。散灰を実施している国では、 火葬場に焼骨の粉砕機が備えられているが、日本の斎場では、設備もないし、 灰にする作業など引き受けない。「葬儀屋に頼みますと、五、六万円取られま すが、会で依頼しますと、一万円ほどでやってくれます。でも、お金の問題で はありません。ご家族の手で灰になさるのが功徳というものです」

事務局長は反復した。私は、会話の接ぎ穂を見失った。みかねた彼女の方から、 糸口をつけてきた。
「白い布でくるみ、堅い棒のようなもので叩きますと簡単ですよ。ゴルフのド ライバーで叩いたという方も、たくさんいらっしゃいます」
「たとえば、三和土の上でとか・・・・」
「お庭でなさる場合もありましょうが、たいてい、応接間か居間で、のようで す」
決して、土間や物置などでは砕いていないことを、彼女は繰り返した。

「Aさんたちは、お坊さんでも呼んで、読経でもしていただいたんでしょう か」
「そういう方は、お一人もいらっしゃいません。故人の好きだった歌をうたい ながらというお話なら、伺ったことありますけど」
火葬場で、一つ一つ、部位の説明を受けながら、箸でつまみ上げた母の遺骨で あった。“女性にしては骨太な方だったようですが、やはり脆くなってますね” 係官の声が耳に張りついた。喉仏を挟む時、正視出来ずに、宙を見ていた。私 はあやふく、とり落しかけた。

「一万円かどうかは別にして、業者に依頼したいな。自分で砕くなんて、滅相 もない」
しかし業者にしても、砕く方法は同じです、彼女はこともなげにいう。いや、 もっと機械的に処理する筈ですとつけ加えた。私は、口を噤むしかなかった。
「私だったら、大酒でもくらって、ぐでんぐでんになってから始めるんですか ね、目でもつぶって」
私は、捨鉢に両手をひろげてみせた。全身から力が抜けていった。彼女は、そ んな私を真正面から見据えた。「どんなやり方であるにせよ、お身内で砕いて こそ、本当の意味での、死者への悼みではないでしょうか」

膝に、かすかな震えがきた。事務局長の語調に、ためらいはなかった。むしろ、 爽やかな余韻があった。しかし私には、頷く気力など残っていなかった。
「お三方の分ご一緒なら、かなり割安になります。娘さんから預かっておられ る分が十万、ご両親の分がそれぞれ三万ずつ、それに基金へ三万、書類作成費 六千円」

私は、金額を並べたてる彼女の声を聞き流し、早々に腰を浮かした。傾斜のき つい非常階段を一段ずつ、体重を手摺りに凭せ掛けながら降りた。訪れる時、 さして苦にならなかった歩道橋が、目の前に、立ちはだかっていた。飯田橋駅 は見える距離だったが、私はバス停のベンチに、体を落とした。(一九九八年 十月)