骨娘の場合◆ 「墓守りだけは、くれぐれもよろしく、だって。初対面で、いきなりよ。参っ ちゃった」家に帰りつくなり、長女から愚痴がこぼれた。再婚を決心した彼女は、相手 の両親に挨拶するため大阪へ行った。その報告である。入籍直前、三年前の春 だった。 「うちの墓のことなんか構わないからな。あちらのお気持を第一にするよう、 心しておくんだよ」 ◆ 彼女たちは、なりゆき次第で、大阪暮らしも十分ありうる。カラー・コーディ ネーターの次女も、仕事柄、海外留学を視野に入れている。私と妻が死んだ後、 多磨霊園にあるわが家の墓は、無縁墓地になるやも知れぬ。妻はもともと、じ めついた、窮屈な場所なんかに入りたくない、が口癖であった。かねてから胸 の底にあった散骨への関心が、娘との会話で蘇った。ただ気持は傾いたが、そ の手立ては見つからなかった。二年が過ぎた。 ◆ 昨年三月、ようやく「葬送の自由をすすめる会」の存在を新聞で知った。早速、 会の代表安田睦彦著「お墓がないと死ねませんか」を買った。会誌「再生」を とり寄せ、散骨をした遺族の体験談をくまなく読んだ。横浜で開かれた懇談会 にも出席、自然葬に対する法規制の変化を知り、心を動かされた。私はその日、 会場で年会費三千円を払い、入会の手続きをした。 ◆ 自然に還って再び生きる、とはよくいわれる。会誌の命名にも、その祈りが籠 められている。事実、会としても、東京都西多摩山系や北海道の羊蹄山麓など、 全国で七ヵ所の山林を取得、その区域をとくに「再生の森」と名付けて、自然 葬を実施していた。しかし入会した時の私の本音は、単に、自分の遺灰を撒い てもらえる、という実利に尽きていた。当時、自然葬の実施百四回、すでに百 九十人に達していた。 ◆ 三週間後、会員証が届いた。裏面の所定欄に署名、緊急連絡先も記入し終えて、 私は不意に、墓地の、最終的な処分に思い及んだ。実の息子とはいえ、親の骨 を勝手に灰にして撒いてしまうことなど出来るのか。つきつめて、考えてはい なかったのだ。私は会員証を手に、書斎にひきこもった。いつもの伝で、独酌 を始める。肴はない。すでに夕刻だったが、私は電灯をつけずにいた。
◆
「こういう方法もあったんだ」 ◆ 一九九三年、長女は最初の夫を急病死のため失った。職業、ルポ・ライター。 死んだ場所は、ミャンマーであった。一周忌にはミャンマーへ飛んで、現地の 山に埋めてやりたいと、娘が先方の親に頼みこみ、分骨してもらったのである。 当時、娘は三十四歳。気丈に振るまっていたが、自分の人生など予測出来る年 齢ではなかった。 彼女は三歳の子供を抱え、フリーのライターとして生活す ることになった。相談の末、私たちは二所帯住宅を建てる決心をした。長女が 夫の生命保険金全額、これに私の退職金、マンションの売却金まで注ぎこんで の計画は六十歳を越えていた私にとって、かなりの重荷であった。ところが、 窓枠を嵌めこむ段階になった時、娘が唐突に再婚話を持ち出した。大きな家な ど不要になる。私は狼狽したが、工事中断の出来る時点は過ぎていた。 ◆ 再婚の相手はAといい、NHKのドキュメンタリープロデューサー。亡夫の遺 したミャンマーの貴重な写真や取材メモを借りるため、娘の家を度度訪れてい た。アジア圏への思い入れを語り合ううち、互いに気脈を通じた結果であった。 すでに三回忌は過ぎていた。もとより私は、再婚そのものには賛成であった。 孫にも男親が必要との思いが、人一倍強かったせいもある。ただ相手は初婚、 娘の方に引け目があった。案の定、Aの親は反対した。その場はAが強引に押 し切ったが、心からの同意は得られなかった。二人は結婚式を断念し、入籍し た日の夜、双方の親とも出席しない披露宴を開いた。銀座のタイ料理店。死ん だ夫の縁で、ミャンマー人の夫婦五組が出席、子供の手を引いて踊る娘を、盛 り上げてくれた。 町田市のはずれに、五十七坪の家は完成した。とりあえず は、共同生活である。次女を含めて総勢六人、二階の大半が、彼女たちの新居 となった。その夜、娘は亡夫の個人的な写真を全部焼いた。ただ取材スチール のたぐいはすべて残し、テーマ別に整理して、書棚の中央に収納した。本人が 写っていても、取材先での記念写真は大切に保存された。作業のすべてを、A は手伝った。
◆
「パパ、これ、何とかならない」
◆
「これまでどおり、孫を連れて、顔を見せてくれなきゃ困りますよ。うちにと
っては、いつまでだって、孫は孫なんですからね」
◆
「血がつながってんだから、仕方ない」
◆
私は用心深く、コップに半分ずつ注ぐようにしたが、彼女のピッチは早かった。
一升瓶は、あっけなく空いた。 以後、娘から同じ愚痴をきかされることはな
かったが、女親の望みに応ずる気配もなかった。一度、自分で車を運転して、
女親がやってきた。娘は孫ともども、ドライブにつきあわされ、「こどもの国」
で半日過ごした。「ミャンマーには、いつ行くつもりなの」 ◆ 引っ越しは、十一月一日と決まった。前日、Aは大詰めの仕事に追われ、現場 に泊まりこみとなった。思いがけない身内だけの夜食。長女が、携行する引っ 越し荷物の中から、赤ワインを一本抜き出した。珍しく早く帰宅した次女が、 得意のピザを焼いた。私は、とっときのクサヤを炙った。小学四年の孫は、や っと隣室で寝ついた。内心私は、Aのいない食卓を待ち望んでいた。
◆
「例の、あれ、のことなんだが」
◆
ガンジス川での自然葬も実施されていた。ミャンマーは無理としても、外国での
散骨場所は無限であった。
◆
妻が意表を突いた。
私の場合◆ 両親の墓を掘り起こし、その遺骨を自然葬にした会員のいることを知り、私は 初めて「葬送の自由をすすめる会」を訪ねた。入会してから、一年は経ってい た。事務所は、飯田橋駅から歩道橋を渡り、五分とはかからない距離にあった。 古い五階建てビルの三階。エレベーターはない。私は、裏手の、急勾配の非常 階段を上った。はやる気持とはうらはらに、体の底には鉛のような重みが居座 っていた。◆ 十畳ほどの事務室。窓際に退職者らしい年配の男、ほかに若い女性が一人、黙 黙と事務を執っていた。私に応対したのは四十代の女性、名刺には事務局長と あった。 私はまず、娘から預かった格好になっている遺骨を話題にした。い きなり、抱えている煩悶を切り出すことに、躊躇があった。初めて会う相手に 不安があったし、私自身、まだ心の整理がついていなかったからでもある。 ◆ 「会員である松元さんが、遺族として『自然葬申込書』をお出しになれば、契 約書を作ります。わざわざ、そのために、娘さんに会員になって頂かなくても 結構です」 他人との合同葬でよければ十万円。それに自然葬基金として三万 円、書類作成費用二千円で済むという。故人の夢をかなえるため、ミャンマー の山に散骨したい、などという贅沢は、当の娘にも私にも、もはやなかった。 時間も流れた。環境も変わった。死んだ男とは、薄い縁になっている。しかし、 その私にも、「会」の中では、「遺族」としての資格が、まだ生きているよう であった。娘との懸案は、思っていたより簡単に落着した。私の心に、わずか なゆとりが生まれた。 ◆ 私は、改めて、両親の墓が多磨霊園にあること、一応「松元家之墓」となって はいるが、家代代の墓ではないこと、子供は私一人だから、すべて私の一存で 決められることなどを、かいつまんで話した。
◆
「自分たち夫婦の骨は散骨するとしても、残った両親の墓をどう処分したもの
か、決心がつかない。親の墓をとり潰して、散骨してしまった方がいらっしゃ
るとか」「そういう方、たくさんいらっしゃいます」
◆
事務局長の優しさを疑う気持などなかったが、その語調には、やや押しつけが
滲んだ。
◆
父が昭和十四年に死んだこと、貧乏の中から工面してやっと墓地を手に入れた
母、それも多磨霊園の石材屋に日参した結果であった。運良く抽選に当たった
日、半日父の位牌の前で鉦をならしつづけた母の姿まで、私は思いつくまま勝
手に喋っていた。
◆
「これじゃ、私、人生相談にきているみたいですね」 ◆ 「是非、とおっしゃる会員には、業者をご紹介しています。ただ会と致しまし ては、なるべくご遺族で砕いていただくよう、おすすめしています。Aさんも Bさんも、ご自分たちで灰にしてよかった、とおっしゃってます」 日本の火 葬場では、いわゆる骨揚げをするために、遺骨が骨格の原型を残すように遺体 を焼いており、炉の温度は自動制御になっている。散灰を実施している国では、 火葬場に焼骨の粉砕機が備えられているが、日本の斎場では、設備もないし、 灰にする作業など引き受けない。「葬儀屋に頼みますと、五、六万円取られま すが、会で依頼しますと、一万円ほどでやってくれます。でも、お金の問題で はありません。ご家族の手で灰になさるのが功徳というものです」
◆
事務局長は反復した。私は、会話の接ぎ穂を見失った。みかねた彼女の方から、
糸口をつけてきた。
◆
「Aさんたちは、お坊さんでも呼んで、読経でもしていただいたんでしょう
か」
◆
「一万円かどうかは別にして、業者に依頼したいな。自分で砕くなんて、滅相
もない」
◆
膝に、かすかな震えがきた。事務局長の語調に、ためらいはなかった。むしろ、
爽やかな余韻があった。しかし私には、頷く気力など残っていなかった。 ◆ 私は、金額を並べたてる彼女の声を聞き流し、早々に腰を浮かした。傾斜のき つい非常階段を一段ずつ、体重を手摺りに凭せ掛けながら降りた。訪れる時、 さして苦にならなかった歩道橋が、目の前に、立ちはだかっていた。飯田橋駅 は見える距離だったが、私はバス停のベンチに、体を落とした。(一九九八年 十月)
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