昭和二十一年 春弾んだ声は、裏の家庭菜園から聞こえてきていた。映画「愛染かつら」の主題歌 だった。機嫌のいい日には、出だしから声に張りがあった。 「やっぱり、市川房枝は偉かった」 土間に入りかけて、いつもの口癖がでた。 「マッカーサーのおかげ、だなんて、よく人はいってるけど、違うんだからね」
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前年十二月、選挙法の改正が公布され、婦人参政権が実現した。四月十日は、そ
の投票日である。 ◆ 煮豆売りや玄米パン売りが、よく使っていた真鍮の鐘を振り、人が集まると、 「弟は戦地で餓死しました。戦争は罪悪です」と、歯切れよく繰り返した。私は 聴衆の一人になることで、生まれて初めて大人びた心地になった。もちろん、た かだか中学三年から四年への変わり目にいた私である。この日、母のみせた高ぶ りを、受けとめきれる年齢とはいえなかった。
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四月十日が近づくにつれ、母は落ち着かなくなった。「モンペ、新しく作ること
にしたよ」
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投票日は、水曜日であったが、戦後初の総選挙ということもあって、一斉に休日
となった。母は柳行李から、父の位牌と鉦を取りだし、ミカン箱の上に載せた。
焼け出された時、腰に巻きつけて逃げた位牌であった。鉦をしきりに叩いた。
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「今日は、真も一緒にくるんだ、いいね」
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「朝ご飯、帰ってきてからにするからね」
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疎開先は、山形県真室川村だった。二十年四月に巣鴨で被災。一時親戚の家に転
がりこんだが、再び戦災に遭う。やむなく六月、知人を頼って疎開したが、二ヵ
月後には終戦であった。
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「まだ、女子供だけの上京なんて無謀や」
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父の友人Fさんに手紙を出し、「上京されたし」の返事を貰った。母の腹づもり
では、巣鴨で飲食店を再開するまでの、いわば仮住まいの確保であった。
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土地を探しに、母は巣鴨へ通いつめた。私は高千穂中学の三年に編入、復学した
が、東大久保の校舎はすでに焼失、永福町に移転していた。金町からは、優に片
道二時間半かかった。私は、当分、通学を諦めた。
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電圧が低いため、電燈は暗く、夜、文字は読めなかった。しかし雨露さえ凌げれ
ば、上乗であった。私は、ようやく通学を始めた。 ◆ 「来年、駅前にマーケットができるそうだ。権利さえ取れれば、食べていける。 それまでの我慢。私も頑張る」 張り紙は外したが、私の爪には、内臓の匂いが しみついた。手の先を口に近づけると、吐き気がした。私は、友人の前でも、思 わず両手を後ろに回した。爪の匂いは二ヵ月ほどで消えたが、私の習性は残った。
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四月、四年に進級。突然、制度が変わり、四年生からでも、高等学校の受験がで
きることになった。 ◆ 私の手許は明るくなったが、確率の、まったくない一高受験に、気力の湧いてく る筈もなかった。トランスは、掌にのる大きさであった。スイッチを押すと、小 さな赤ランプが点灯した。微かな振動に伴い、鈍い音を発した。その響きは私の 耳にへばりつき、日中も離れない。毎夜トランスの振動が始まると、私はきまっ て息苦しくなった。 ◆ 投票所は、市電車庫に隣接した仰高東国民学校の焼跡に作られた。簡易校舎の基 礎工事が始まっていたが、投票所用に、いくつかのテントが張られていた。受付 脇には、託児所が設けられ、モンペ姿の女性たちが乳幼児の面倒をみていた。リ ヤカーに乗せられたお婆さんが、名簿照合に手間どる光景もかいま見えた。行列 についた母の、前も後ろも、女性であった。掲示板には、鳩山一郎、浅沼稲次郎、 野坂参三、山口シズエの文字があった。当時、東京は二区制であり、巣鴨は第一 区であった。
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テントからでてきた母は、空に向かって、大きく伸びをした。真新しい、矢羽模
様のモンペが、ひときわ目立った。私は、やたら気恥ずかしく、思わず身を竦め
た。「パパが小説を書くようになった頃だけど」 ◆ 父と鹿児島を出奔、東京で正式に結婚したのが昭和二年。父は日本大学社会学科 在学中から、プロレタリア詩を発表していたが、同時に建築技師でもあった。結 婚当時は、東京府復興局の技手として、関東大震災後の銀座の街づくりにかかわ っている。生活は安定し、詩人の会合などには、ボヘミアンネクタイを結び、必 ず母を伴って出席した。その父が次第に小説ひとすじ、それもプロレタリア文学 に踏みこんでいったのである。体制にあらがう父の性癖も無視できないが、理不 尽な時代が迫っていた当時としては、極めて自然な、文学の潮流でもあった。筆 名、平林彪吾。
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「文学やるんだったら、日本一の小説家になってくれって、いったんだ」 ◆ かって「女子美術学校」を目指しながら、親の反対で断念した母である。父に向 けた、時代がかった物言いには私も鼻白んだが、今また、自分を捨てての転身だ ったのだから、無理もない。しかも、勤めだして半年、気負いとはうらはらに、 あっけなく体調を崩し、執筆中の父の傍らで、店にでる時刻ぎりぎりまで寝込む 日がふえていった。たとえ、志が一つであったにせよ、二人して不遇をかこつ年 月は、思いのほか、長く続いた。 ◆ 昭和十五年五月、父の一周忌に合わせて、遺作集「月のある庭」が改造社から刊 行された。贅沢な箱入りだった。跋文、武田麟太郎、火野葦平。「人民文庫」の 主宰者と「土と兵隊」の作者が並んだ。「九州文学」の誼から、火野さんの、尽 力あってこその出版だったのである。非常時下ゆえ、発表時に伏字のあった作品 は一篇も収録されなかったが、父にとっては唯一の作品集になった。 わが家の 防空壕が完成した時、その一冊を、母は、愛着のある着物と着物の間に挟んで、 防空壕の奥にしまった。幸い、壕の中までは火が回らなかった。バラックができ 上がった日、助かった着物を丁寧にたたみ直した母は、その上に、位牌と遺作集 を載せた。そのまま、形を崩さずに、柳行李に移しかえ、合掌した。
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「まして女は男よりも心の世界に住んでいる。そしてこれは、彼女が苦悩の深海
に潜って探しあてた寶なのだ」(平林彪吾「月のある庭」)
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東京の有権者は、当時約二百三万人。これに対し、投票総数、約百三十四万票。
うち男性約七十二万票、女性約六十二万票。棄権率は全体で三十四・六%、うち
男性三十・八%、女性三十八・七%。
◆。
「よりによって・・・・・」
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