昭和十八年 夏

松元 眞

剣道場前の校庭に呼び出された私は、すでに、クラス全員が招集されているの を見て、たじろいだ。待ち構えていたSが、私の腕を引っ張った。Sは、兄を 上級生に持ち、兄弟そろって軍事教練が得意であった。「松元、歯を食いしば れ」
配属将校のきまり文句であった。Sの平手が何回も私の頬を打った。倒れかか る私の胸倉を掴みあげては打ち、最後には、拳が飛んできた。ルール違反だ、 との意識が一瞬掠めたが、私はそのまま俯せに倒れた。鼻血が出た。血を見た Sは、殴打をやめた。

「解散」
遠巻きにしていた級友たちは、いっせいに散った。近寄って、声をかけた者も、 肩を叩いてくれた数人も、一人、一人、立ち去った。私にはまだ、親友と呼び あえる友達はいなかった。昭和十八年九月、中学一年生。二学期に入って間も なくの放課後。その日の朝刊は、すでに無条件降伏していたイタリアから、ム ッソリーニが救出されたことを伝えていた。

小学六年の時の不勉強がたたった私は、公立校への受験を許されず、私立の高 千穂中学に入った。親しかった仲間のほとんどは、公立校に進学。自然、私は 彼等と疎遠になった。学校は東大久保にあった。巣鴨から市電に乗り、水道橋 乗換えで通った。家の前を、近所にあった市立三中の生徒たちが、「歩調取れ」 の姿勢で颯爽と登校していた。私は、毎朝、その一列縦隊を横目で追いながら、 電車に飛び乗った。

校舎は木造の二階建て。入学式の日、兵器庫の裏で、煙草を喫っている上級生 たちを目撃した。剣道場の板壁は、何か所もはぎ取られ、裏庭には焚き火の跡 がそこここにあった。私は、焦げた木片を何度も蹴散らかした。
それでも、多少の意地の残っていた私は、一学期、勉強に精出した。学期末、 校庭に張り出された成績表では、上位に入っていた。教師たちは、急に私の存 在を認めたが、私自身はむしろ、学校全体の水準の低さを思い知らされ、気力 が抜けた。

入学以来、唯一私を捉えたのは、音楽の時間であった。音楽教師Aは、決して 出欠をとらなかった。胸のハンカチを毎日変えてくることで有名であった。最 初の授業で「オールド・ブラック・ジョー」、以後つぎつぎにフォスターの曲 を教え、毎時間必ず最後に、「星条旗よ永遠なれ」を、英語で合唱させた。A は、題名を教えなかった。まして、その曲がアメリカの国歌などとは、一言も 説明しなかったから、私たちは単なる英語教育の一環、ぐらいにしか考えつか なかった。なにしろ英語の授業は始まったばかり、中学一年に、日本語の訳な ど理解しようがなかった。 五月末、アツツ島守備隊玉砕。以前、よく両親に 連れられていった日本劇場の壁面に「撃ちてし止まむ」の大ポスターが掲げら れ、学年毎に集合、陸軍軍楽隊の伴奏で「愛国行進曲」を斉唱させられた。六 月、連合艦隊司令長官山本五十六の国葬には、日比谷公園近くの沿道に、学校 全体で参列、長い葬列に、黙祷した。帰路。なぜ、戦死の大本営発表がすぐ行 われなかったのか、小声で話す者もいたが、私はただ押し黙っていた。

六月下旬、突然、一年生にも軍事教練が課せられることになった。まず六月い っぱいは、試験的に銃剣道の実技を週一回実施。二学期から正規の科目に加え られる旨、校長が予告、合わせて、さりげなく音楽教師の辞職が発表された。 その日、すでに音楽教師の姿はなく、別れの言葉も遂にきけなかった。彼は、 歌を教える以外に、音楽に関する講義はもとより、人生論らしき話も一切しな かった。そのせいか、彼の肉声を、私は何一つ覚えていない。辞職後、身辺に 変化があったかどうか。私たち生徒に、知らされることはなかった。

夏休み。隣組から、防空壕掘りの督促が厳しくなった。母は、従兄の大学生ま で狩り出して、夏休み中の完成を望み、私たちを急き立てた。「爆撃受けちゃ ったら、どうせ助かりっこない」
私は、防空壕なんか気休めに過ぎない、といい張り、一日のばしにしていたが、 警防団の見回りが次第に頻繁となり、わが家でも掘らざるをえなくなった。し かし掘り始めて一週間後、従兄が、突然、射撃演習のため習志野に合宿、私一 人になってしまった。私はそれを口実に防空壕掘りを中断、同人誌作りに夢中 になった。この頃、公立校へ進んだ友達との落差が目の前にちらつくようにな り、私は一層、勉強への覇気を失っていた。幸い、入学後知り合った本好きの 級友が、五人いた。お互いの作文を持ち寄ると、一気に「文集」発行にまでい きついた。

裕福な家の仲間Kが、親に謄写版をねだり、私たちは毎日、その家でガリ版を 切った。Kの家は、五反田の高台にあった。父親は、化学関係の実業家だった。 洋書のぎっしり詰った書棚、私の背丈ほどはある置時計。「実は養子なんだ」、 Kが一言洩らしたことがあった。住む世界に反発しながら、この一言が、私を 彼に近づけた。三時になると、以前、お抱えの運転手だったという白髪の男が、 紅茶を運んできた。

『葱』。誌名である。最初『葱ぼうず』ときめていたが、子供っぽいという理 由で、『葱』に落ち着いた。葉書大のサイズだったが、二十数頁にはなった。 戦時下の「日記」をそのまま提出した仲間もいたが、私の関心は、戦争の埒外 にあった。
         物干し竿
    隣の物干し竿に 月が降っている
    竹のふしに 青い月 青い月
    白い おしめが揺れている
    青く 揺れている
    風が 少しあるのか
    隣は煎り豆屋 青い夜の中で
    豆を煎る音がする

二学期に入り、私は『葱』をこっそり何人かの級友に配った。時節柄多少の引け 目はあったが、内心では誇らしく、満ち足りてもいた。Sが教頭に『葱』を、一 種のつけ口として、届けたという噂はきいたが、私は、さして気にとめないでい た。
予告どおり、本格的な軍事教練が始まった。毎日、一時間目が教練、英語の授業 が半減した。国語の教師が、ピアノを弾けるという理由だけで、音楽の担任を兼 ねた。繰り返し「大東亜決戦の歌」と「若鷲の歌」ばかり歌うようになり、とき おり、自分が好きだと称して「戦友の遺骨を抱いて」を合唱させられた。教練は、 ゲートルの巻き方から始まり、銃剣道では、腰が座っていないといわれては叱咤 され、将校の平手打ちをくらった。匍匐前進がとりわけ苦手で、一人だけ速度が 鈍く、ゲートルがほどけた。将校は軍刀の先で、何度も腰を小突いた。私は、せ めて「軍人勅諭」を丸暗記することで、教科の総合点及第を目論むしかないこと を自覚した。

そんな私に、担任教師は風紀委員を命じた。単に、一学期の成績に照らしての任 命であった。しかし教練に自信をなくした私に、風紀をただす気概など持てる筈 がなかった。上級生の真似をして煙草を喫う者もいたが、私は見て見ぬふりをし た。Sが私を、公然となじった。
「風紀委員のくせに、何も出来やしない」

教練の重要な教科の一つに、銃の手入れがあった。銃身を分解、鰯の油で磨き、 上級生の実弾射撃に備えておく作業である。教練の時間になると、途端におどお どし、落ち着きを失う私は、こともあろうに、鰯の油の入った缶を蹴飛ばしてし まった。生臭い臭気が漂い、油は校庭の砂利にしみこんでいった。伝令が走った。 折り返し将校からの命令で、クラス全員、直立の姿勢で整列させられた。
「いやしくも、陛下より賜った油である」

一人のあやまちは全体の責任、将校は語気を強めた。彼は、私を一番右端に立た せ、まず往復ビンタ。あとは順次平手打ち。クラス全員六十五人、さすがの将校 も、中途から、打つ手を右から左に変えた。
「兵器庫がガラ空きだぞ」

檄を飛ばすや、将校は踵を返した。級友全員が、私をとり囲んだ。胸を突く者も いた。Sが、私の前に立ちはだかり、気色ばんだ級友を制した。私が、Sから呼 び出される前日のことである。制裁は覚悟したが、その日は、私の予想より、は るかに早かった。

一人になった私は、兵器庫の横にある水飲み場まで辿りつき、口をゆすいだ。頬 の内側が裂け、血が止まらなかった。倒れた時に噛みこんだらしい砂利が、血へ どにまじって流れ出した。二時間近く、蹲っていたろうか。二度ほど吐き気を催 し、思いきり吐いた。校庭に、人気はなかった。校門を出た私は、初めて警戒警 報下であることに気付いた。市電は止まっている。私は、人っ子ひとりいない軌 道の上を歩いた。レールの反射が、やたら眩しかった。私は「空の神兵」と「新 雪」を交互に歌いながら歩いたが、喉に血啖がからみ、発声は、ままならなかっ た。神楽坂あたりで、警報解除のサイレンが鳴った。動き出した電車に乗り、巣 鴨のわが家についた時は、六時を回っていた。

母は、すでに、店に出ていた。開店当初、五人もいた女性は次第に減り、住込み の女性ひとりになっていた。カーテンの隙間から盗み見るたびに、客にもカーキ 色の国民服、戦闘帽が増えていった。「ママさん、この頃軍歌を歌うお客さんの 席についてくれなくて」女性から愚痴をきかされたばかりであった。最近、わが ままのきく客の前では、タンゴの曲ばかり掛け、何度も針を戻す、という。その 夜も、耳なれた「ラ・クンパルシータ」だった。卓袱台の上には、いつものよう に、ふきんのかかったテンヤ物。私は、念入りに口をすすぎ、緩慢に蒲団を敷く。 母に腫れ上った顔を見咎められずに済んだことで、安堵した。夜中、何回か血の 滲んだ唾液を吐いた。

翌朝、顔中の火照りで目覚めた。前歯が一本ぐらついていた。母には喧嘩をした、 といい繕い、店の冷蔵庫から氷を持ち出し氷嚢に詰めた。母の手前、教科書をカ バンに入れてはみたものの、鏡の中に青黒い顔の自分をみつけた瞬間、登校する 勇気は消えた。とはいえ非常時下、無為に過ごす姿を、隣組の人に見られたくは なかった。
「今日は、防空壕を掘るよ」
以前、防空壕なんか頼りにならない、といい張ったことなど忘れ、私はシャベル を取り出した。手拭いに氷嚢を包みこみ、顔に巻きつけて作業をしたが、腫れは、 なかなか引かなかった。仕方なく、私は翌日も掘りつづけた。(一九九八年九月)