ホスピスにて

松元 眞

芙蓉、コスモス、りんどう。玄関前の花たちは、夏と秋の混淆を配色あざやか に示しながら、私をむかえた。目にやさしかった。
頑張って下さい、などとは、決して口にすまい。私は、病室をノックする時、 改めて反芻した。脇田さんは、ベッドの背を立てて、ペンを走らせていた。私 の方を向いた顔は、柔和な笑みをたたえていたが、折り曲げた体は、一回り小 さくなっていた。

「一週間前から、いよいよモルヒネ系統になっちゃってね」
痛みどめの薬が、最終段階に入ったらしいと、苦笑した。血色はいいものの、 頬に少しむくみがみえる。
「吐き気が出てるけど、食欲はなんとかある。まだ、食堂まで歩いて行けるし ・・・・」

部屋の広さは、十畳ほどある。柔らかい午後の陽射しが、ベージュ色のカーテ ン越しに、脇田さんの横顔を彩る。小さな冷蔵庫、二十九インチのテレビ、卓 上に数冊の書籍、執筆台に書きかけの原稿用紙、窓際にゴルフのパターが二本。 それらの調和は、とても病室とは思えない。上質なホテルの一室といっていい。

神奈川県足柄郡中井町にある「ピースハウス病院」。三年前に出来た日本初の 独立型ホスピスである。平塚と秦野にはさまれた高台。ゴルフ場に隣接し、天 気のいい日には、富士山が目の前に大きい。病床二十二、うち個室十二、二ベ ッド室が一、四ベッド室が二となっており、脇田さんは個室に入っている。差 額ベッド料、一日一万五千円。ナース十七人にホスピスボランティアが毎日八 人、患者の話相手になっている。

「ここにはいれたおかげで、最後の原稿を仕上げることが出来そうなんだ。あ と二、三枚で、大団円だよ」
卓上に積まれた原稿用紙に目をやりながら、脇田さんは、右手で胸を軽く叩い てみせた。私は、肩の力が、抜けていくのを感じた。たしかに、大病院にその ままいたら、とうてい、原稿など書かせてはもらえなかったであろう。

「入院するのは、難しかったんでしょう」
「そりゃ幸運もあったけど、結構空くんだよ。きのうも、隣が空いたし、一週 間前には、向かいの部屋も空いたからね」
脇田さんの表情から、一瞬、笑みが消えた。さらりといわれて、私はむしろ、 言葉の重さに、たじろいだ。とっさには、返事を見失っていた。

脇田保。七十二才。サンケイ新聞社在職中に、「われらプロサラリーマン」(ダ イヤモンド社刊)を発表。それを機にフリーとなり、以来、中高年問題や生涯学 習を中心に著述や講演に打ち込むようになった。主な著書に「いきいき塾年人生」 「ひらき直り人生のすすめ」。持論は平凡だが、体験に裏打ちされた人生論は、 中高年の男性読者に支持されていた。常々著者は、「美しく老いるためには、自 分も妻も、健康が第一」と力説していたが、実生活では、十一年前に奥さんが脳 出血で倒れ、今年の三月他界するまで妻の介護に没頭した。子供にめぐまれず、 いきおい、家事一切からリハビリまで、一人何役もこなしながら、執筆活動を続 けてきた。奥さんの葬式を終え、ほっとしたのも束の間、五月末、自身が胸に痛 みをおぼえた。検査の結果、末期の肺ガンと宣告され、即入院となったのである。

二十年来の飲み仲間である私は、介護の合間をぬっては強引に誘い出した。
「女房の介護には慣れた。料理のレパートリーもふえた。リハビリの指導も一人 前さ。相変わらず飲んでるが、昔のようなハシゴはしない」 自著の中で、妻の 健康第一を強調してきただけに、建前と現実のギャップに苦労している、と本音 を洩らすことが多くなっていた。そのうえ今度は、自身が、月単位のいのちを、 宣告されてしまったのだ。「美しく老いる」が一生のテーマだった当人にしてみ れば、思いもかけない蹉跌だったことになる。

八月初旬、脇田さんから、長い手紙が届いた。ターミナル・ケアを受けるため、 すでにホスピスに転院。九月いっぱいのいのち、と医師からいわれている。入院 後、治療としては、左右の肺から、六千C、Cの水を抜き、その確認のために二 回レントゲンを撮ったのみ。あとは程度に応じて、痛みどめの薬が投与されるだ けだという。水の容積分だけ、六キロ体重が減った、と明るく書き添えてあった。

九月十五日、私は、おそるおそる電話を掛けた。本人の病室直通の番号が、手紙 に書いてあったのだ。かすれてはいたが、元気な声が返ってきた時には、心底、 安堵した。ホスピスときいただけで、見舞う勇気の出なかった私は、元気な声に 甘えて、この日の訪問を約したのである。
重い沈黙に、私も脇田さんも辟易していた時、ナースが小さな笑い声をあげなが ら入ってきた。白衣ではなく、花柄のエプロン姿であった。「脇田さん、これ、 食堂に忘れたでしょう」
手に一升瓶を抱えている。

「きのう、昔のゴルフ仲間が十五人、隣のゴルフ場にやってきてね。帰りがけに 寄ってくれたんだよ。全員で大宴会さ。もちろん私も飲んだ、飲んだ。とうとう 酔っ払いが一人、泊まりこんじゃった」

訪問者の泊まりは、一泊二千円。一升瓶の中身を確かめた脇田さんは、「残ってる、 やらないか。ビールもある」
わざわざ、ベッド脇の冷蔵庫を開けようとする。固辞しながら私は、冷蔵庫の上に 置かれた黒枠の写真に気付いた。若い女性がテニスのラケットを手に、笑っている。 モノクロの、目いっぱい引き伸ばしたスナップ写真である。
「女房だよ。二十五、六才頃のね。葬式の時に使ったんだけど、折角だから、持ち こんじゃったんだ。きのう来た連中が、からかい半分に、枕元に置いとけって、い いやがって。いつもは、あっちに置いてあるんだが・・・・・」

脇田さんの視線の先には、民芸風の机の上に位牌が一つ。一輪挿しに、りんどうが 二本。
「古稀になったら、世界一周の約束だったんだが、それどころじゃなくなっちゃっ た」
不意に、脇田さんの語尾がかすれた。しばらく目を閉じた。テイッシュで目をおさえ、 啖のからんだ咳をした。

「すまない。飛んだ愁嘆場、みせちゃったな。近頃、回路が故障しちゃってるんだ」
涙はかくさず、照れ笑いをしてみせた脇田さんだったが、すぐ真顔に戻った。やおら、 書き終えた原稿用紙の中から、冒頭の一枚をさしだした。
「題名に困ってるんだ。知恵をかしてくれないか」
冒頭には、「元気晩成 老いる愉しみ」とある。この本が出版された時には、もはや 著者は、生きてはいない。老後の本番を待たずに、死を受容しなければならない本人 を前にして、名案など浮かぶ筈がない。私は、脇田さんの顔を直視できずに、結構で すね、と答えるしかなかった。

私たちの会話は、すでに二時間をこえていた。「またきます」とだけいって、脇田さ んと握手。握力は十分にあった。
「館内を見学していってくれないか。実に、よく出来ているから」
自分の病状よりも、むしろ、ホスピスへの満足ぶりを知ってもらいたいらしい。私は、 静謐そのものの廊下をゆっくり歩いた。図書室には、ベストセラーものが並んでいる。 重兼芳子著「聖ヨハネホスピスの友人たち」が目にとまった以外に、いわゆる闘病も のなど見あたらない。ラウンジには、グランドピアノとカラオケの設備、ピアノの上 に、新訳聖書とカラオケ用の歌集が、重ねてあった。片隅に、バーのカウンター。掲 示板には、千住真理子による演奏会の予告。食堂の入口には、一日のメニュー。今夜 の献立は、舌鮃の網焼きにポテトとまいたけのイタリア風煮込み、とあった。白の、 グラス・ワイン付き。

もともと私は、ガンの告知を望んでいる。しかし、脇田さんのように、闊達に会話を 試み、心おだやかに原稿を仕上げることなど出来ようか。 たしかに、病人のいうよ うに、設備はよく出来ている。しかし、直面する死を、優しく包みこむ環境は、かえ って、当人に死を意識させはしないのか。今見学してきたばかりの、心憎い気配りが、 一日単位の死を待つ身には、苛酷な演出に思えてきた。

人間らしい死に方は、私たちの望みだが、しつらえられた死は、あまりにも、冷徹す ぎる。激痛からは、何としても逃げたいが、静かに、死をみつめるだけの日々に、私 は、耐えられる筈がない。ホスピスでの死を羨ましく思う一方で、私は、自身の意気 沮喪からくる不安に、苛立った。
戸外に出る。隣のゴルフ場から、キャディの、ひときわ高い笑い声がきこえてきた。

九月三十日午後九時四分、脇田さんは力尽きた。通夜の席で、最後の著書は十一月一日、 ダイヤモンド社から出版予定、ときかされる。葬儀、告別式は、十月三日、相模原市の シティホール相模斎場でとりおこなわれた。(一九九六年十一月)