浅草通い

松元 眞

稲荷町の仏具屋の前を通るとき、私は必ず小走りになった。
燈火管制下の町並みは、暗い。僅かな月明りが、陳列された仏壇にはねかえり、 鈍い金色の列がつづく。不気味なショーウィンドーを横目に十メートルも走る と、必ず野犬が吠えたてて追ってきた。時によっては、四、五匹になり、執拗 に追ってくる夜もあった。山手線に乗ってからも、動悸の納まらないことが、 ままあった。昭和十七年、私は、中学一年になっていた。

昭和十四年に父が死に、母は、一年近くも寝たり起きたりの毎日が続いた。一 時は、自栽の気配すら見せた母だったが、やっと遺骨を手放す決心をし、骨壺 を本願寺の納骨堂に預けた。巣鴨に居抜きのカフェを買って引っ越したのが、 十五年の春である。

「住み込み、女給求む」の貼紙を見て、最初に飛びこんできたのは、ひとみち ゃん、という女性だった。山形出身、屈託なく笑う、小肥りの女だったが、母 は一目で気に入り、採用はさの場で決まった。開店準備中、店のカーテンを縫 いながら、飽きることなく「一杯のコーヒーから」のレコードをかけ、口ずさ んでいた。

「坊っちゃんは、東京生れの東京育ち、いいねえ」
私をつかまえては、手を休め、口癖のようにいう。手先のおろそかになった彼 女に、母はよく小言をいっていたが、私はそのたびに、自分が叱責されている、 と受けとめた。私はむしろ、そういう彼女に、心を許していた。彼女の年を聞 いたことはなかったが、当時でも、二十歳前ではなかったか。

十五年六月、開店。女給は、住み込みを含めて五人。転居以来、母は、父の写 真の入った梱包を解かなかった。代わりに、半紙に、「合掌 すればすべてが 一になり 生きる力の 自ずから湧く」と書き、赤枠の額に入れて、古道具屋 で買った小机に立て掛けた。開店前夜、その前に座ったきり、小一時間も動か なかった母の後姿が、今なお薄れない。

店には、父の作家仲間や、築地小劇場の流れをくむ演劇関係者が入れ替わり顔 をみせ、子供の目にも、格好がついていった。
翌年末、太平洋戦争突入。十七年は、マニラの占領で明けた。二月シンガポー ル、三月ラングーン占領と、緒戦の勝利がつづいたが、四月十八日の東京初空 襲には、さすがに驚かされた。巣鴨とは目と鼻の尾久にも、焼夷弾が落ちた。 翌日の朝刊(東京日日新聞)は、「敵機が何だ、帝都は泰然だ」と見出しは派 手だったが、被害については一行も書かれていなかった。しかし、隣家の親戚 が尾久で被災し、直撃を受けて死んだという赤ん坊の通夜が、ひっそりと行わ れた。表立った葬式は控え、被災の話も、それとなく、口止めされた。

夏、石鹸が割当制になり、わが家への支給は、住み込みの女給の分も入れて月 二個。たしかこの頃から、「カフェ」の語感が時局に合わないという理由で、 「特殊喫茶」と呼称が変わった。朝日新聞に、「海軍」の連載が始まったのが 七月一日。学校の授業でも取りあげられ、主人公である真珠湾の九軍神につい て、挙手をして感想を話す級友も少なくなかった。しかし私の関心は、やや、 ずれていた。

わが家の左隣は煎豆屋、右隣が古本屋。斜め前に「国民酒場」が開業するや、 すぐさま、長い行列が出来るようになった。一杯目を飲み終えた大人たちが、 二杯目を飲むために、行列の最後部めがけて駆け出す。口口に何やら喚きなが ら走り、列に納まると一斉に笑い出す様を、私は二階の窓から見物し、飽きな かった。

私には、近所に遊び友達が出来なかった。生来、人見知りだったこともあるが、 何よりも「カフェの子」と呼ばれることが、こたえた。引っ越しの翌日、年嵩 の連中までが、一緒になって私を揶揄した。

「女給と寝られて、いいな、いいな」
ベーゴマやメンコの仲間に入れてもらっても、最後は、きまり文句で囃されて、 仲間はずれにされた。事実私は、二階の六畳間で、母とひとみちゃんとに挟ま れて寝ていたから、抗弁しようにも、いまひとつ力に欠けた。疎外された私は、 六年生まで、通い慣れた京橋小学校へ、電車通学するしかなかった。放課後も、 木挽町あたりの級友の家か、友達に恵まれない日は、銀座松屋で時間をつぶし た。玩具売り場では、電動の模型機関車の前に立ち、店員の目を盗んでは、繰 り返しスイッチを入れた。書籍売り場では、本の立ち読みに時間を忘れた。

自然、帰宅が夕刻近くなり、女給たちの身支度と重なった。二階全体が更衣の 場であったから、小学六年の男の子には目のやり場がなく、次第に、居場所を 失った。母も鏡に向かったまま、お帰り、をいうのが精一杯。母の口紅も濃い 目になる。和服の日もあったが、派手なドレスの日もあった。私には、真紅の ドレスがとりわけ恥ずかしく、その長い裾に、思わず目を背けた

。 夕飯は、テンヤ物をとる日が多く、一階の、店とはカーテン一枚で仕切られた 上框で、追い立てられるようにすませてしまうのが日課となった。上框の前は、 細い通路を挟んで便所だった。女たちが、飛び込んでは慌ただしく店へ出てゆ く。半開きになった戸を閉めるのは、いつも私の役目だった。早目から、客の たてこむ時などは、最初からテンヤ物の注文もせず、母は私の食事代を卓袱台 に置くなり、身をひるがえすように、店へ出てゆく。やがて、レコードの音に 混ざって母の嬌声がきこえてくる。その声は、私の知らない声であった。私は 食事代を握りしめ、気忙しく、裏の引戸を荒っぽく引いた。

当時、食事代としていくら貰っていたのか、思い出せない。私は、銀貨を握り しめ、三度に一度は、その足で巣鴨駅から電車に乗った。目的地は、必ず浅草。 食事は諦めた。浅草への執着が、空腹に勝った。

父は、生前「人民文庫」執筆グループの作家であった。発行元「人民社」が淡 路町にあり、浅草はさして遠くなかった。加えて、作家仲間が浅草に仕事部屋 を持っていたことも手伝って、父はよく浅草を飲み歩いた。

私も父のトンビにまとわりつくようにして、お供をした。「染太郎」「神谷バ ー」などは、地理も覚えていたから、店の前に佇んでは、中を覗いた。
父の死因となった敗血症菌は、吉原の裏通りで自動車をよけそこなってドブに 落ち、その傷口から入った、と聞いていた。私はやみくもに、吉原のあたりを 歩き回り、ドブ板を、踏み鳴らしたりもした。仁丹塔の下に立っても、伝法院 の前を歩いても、父の呼吸が、私を包んだ。

夜、見知らぬ部屋に取り残されたことがあった。私は、眠りから覚めかけた頭 の芯で、三味線の音を聞いていた。小料理屋の二階。田原町。隅に、チンドン 屋の道具一式が立て掛けられていた。戸外を歩く、父らしい笑い声。私は窓に へばりつき、トンビをひるがえしながら、肩を組んで濶歩する父を呼んだ。父 は、私の声に、一度は手を差し上げたが、そのまま店の前を通り過ぎていった。 私はもう一度、ありったけの声を張り上げたが、父はネオンの点滅の中に消え た。私は、何度も階段を降りかけたが、女主人に遮られた。
「すぐ、帰っていらっしゃいますよ」

「六区」では、当時、通称シミキン、清水金一の率いる「新生喜劇座」が旗揚 げし、金龍館で人気を集めていた。私は、「笑いの王国」の常盤座とを、その 時の出し物によって選んでは、どちらかの劇場に入るようになった。入場料は、 最初の頃、何回かの食事代からへそくって、工面していたが、次第に、母から 財布ごと渡された時などに、何枚かの銀貨を一度にくすねることを覚えた。呵 責はすぐに消えた。普通の家にはある夕餉の団欒が自分にはない。そんな母へ の憤懣が働いていたからであろうか。

場内は、カーキ色一色。工場から直行する青年の姿が目立った。シミキンの反 復する「ミッタナクテショウガネェ」や「ハッタオスゾ」に腹を抱え、一人で いる時など、自分で声に出してみる程になっていた。母の姿も声も忘れた。

しかし小屋がハネ、燈火管制下の暗い「六区」に放り出されると、不意に心細 くなった。常に八時は、回っていた。上野までの地下鉄代は、倹約するしかな い。空腹を我慢して、私は早足で歩き始めるのだった。
寝入りばな、母の甲高い声で目を覚まされたことがある。
「ひとみちゃん、今、この子の枕元を跨いだわね。何ですか、男の子の頭の上 を。謝りなさい」

母の叱声は鋭かった。私は薄目をあけ、こわごわと枕元を見回した。母は、鯨 尺の物差しを手にしていた。彼女は、したたかに酔っていた。大儀そうに座り こむと、不貞腐れた。母は物差しをふりかざそうとしていた。
「鹿児島ではね・・・・」

母が鹿児島の士族の娘であることは、私も聞かされてはいた。しかしその因習 を嫌い、自由を求めて父と出奔した筈ではなかったか。日頃から、女になぜ参 政権がないのかと、不満を隠さなかった母である。当時としては、進んだ女だ った。私は、寝たふりをしながら、内心では鼻白んだ。戸惑っていた。

母の剣幕に気圧されて、ひとみちゃんは、ようやく口を開いた。
「ごめんなさい」

  稲荷町の仏具屋の前を通る時、いつも私の中を、この時みせた母の直線的な起 居が、よぎった。男の子に対する期待に、私の気持ちは、むしろ萎えた。野犬 に追われながら私は、小銭をくすねた自分を責めながら、同時に、母に内緒で、 父に会いに行っていた私自身にも、後ろめたさがつきまとい、面食らっていた。

帰宅すると、裏口から忍びこむようにして、二階へ。勉強机を隅に押しやり、 母とひとみちゃんの分まで、布団を敷く。机の上には、私立中学進学用の「要 覧」が、買ったまま置きっぱなしになっていた。すでに担任から、今の成績で は、公立校への進学を断念するよう、注意されていた。六年になって、通信簿 はみるみるうちに落ちていた。

階下から階段伝いに、李香蘭の歌う「蘇州の夜」。母と見た映画の主題歌であ った。しかし、李香蘭のレコードに合わせて歌う母の声は、小学唱歌そのもの であった。娘時代、小学校の教職にあった母。正確だが、抑揚に乏しかった。 私の心は沈澱していった。電燈にかかった黒い遮蔽布を引きおろした。
浅草へ出掛けた日、私はきまって寝つかれなかった。(一九九七年三月)