浅草通い燈火管制下の町並みは、暗い。僅かな月明りが、陳列された仏壇にはねかえり、 鈍い金色の列がつづく。不気味なショーウィンドーを横目に十メートルも走る と、必ず野犬が吠えたてて追ってきた。時によっては、四、五匹になり、執拗 に追ってくる夜もあった。山手線に乗ってからも、動悸の納まらないことが、 ままあった。昭和十七年、私は、中学一年になっていた。 ◆ 昭和十四年に父が死に、母は、一年近くも寝たり起きたりの毎日が続いた。一 時は、自栽の気配すら見せた母だったが、やっと遺骨を手放す決心をし、骨壺 を本願寺の納骨堂に預けた。巣鴨に居抜きのカフェを買って引っ越したのが、 十五年の春である。 ◆ 「住み込み、女給求む」の貼紙を見て、最初に飛びこんできたのは、ひとみち ゃん、という女性だった。山形出身、屈託なく笑う、小肥りの女だったが、母 は一目で気に入り、採用はさの場で決まった。開店準備中、店のカーテンを縫 いながら、飽きることなく「一杯のコーヒーから」のレコードをかけ、口ずさ んでいた。
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「坊っちゃんは、東京生れの東京育ち、いいねえ」 ◆ 十五年六月、開店。女給は、住み込みを含めて五人。転居以来、母は、父の写 真の入った梱包を解かなかった。代わりに、半紙に、「合掌 すればすべてが 一になり 生きる力の 自ずから湧く」と書き、赤枠の額に入れて、古道具屋 で買った小机に立て掛けた。開店前夜、その前に座ったきり、小一時間も動か なかった母の後姿が、今なお薄れない。
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店には、父の作家仲間や、築地小劇場の流れをくむ演劇関係者が入れ替わり顔
をみせ、子供の目にも、格好がついていった。 ◆ 夏、石鹸が割当制になり、わが家への支給は、住み込みの女給の分も入れて月 二個。たしかこの頃から、「カフェ」の語感が時局に合わないという理由で、 「特殊喫茶」と呼称が変わった。朝日新聞に、「海軍」の連載が始まったのが 七月一日。学校の授業でも取りあげられ、主人公である真珠湾の九軍神につい て、挙手をして感想を話す級友も少なくなかった。しかし私の関心は、やや、 ずれていた。 ◆ わが家の左隣は煎豆屋、右隣が古本屋。斜め前に「国民酒場」が開業するや、 すぐさま、長い行列が出来るようになった。一杯目を飲み終えた大人たちが、 二杯目を飲むために、行列の最後部めがけて駆け出す。口口に何やら喚きなが ら走り、列に納まると一斉に笑い出す様を、私は二階の窓から見物し、飽きな かった。 ◆ 私には、近所に遊び友達が出来なかった。生来、人見知りだったこともあるが、 何よりも「カフェの子」と呼ばれることが、こたえた。引っ越しの翌日、年嵩 の連中までが、一緒になって私を揶揄した。
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「女給と寝られて、いいな、いいな」 ◆ 自然、帰宅が夕刻近くなり、女給たちの身支度と重なった。二階全体が更衣の 場であったから、小学六年の男の子には目のやり場がなく、次第に、居場所を 失った。母も鏡に向かったまま、お帰り、をいうのが精一杯。母の口紅も濃い 目になる。和服の日もあったが、派手なドレスの日もあった。私には、真紅の ドレスがとりわけ恥ずかしく、その長い裾に、思わず目を背けた ◆。 夕飯は、テンヤ物をとる日が多く、一階の、店とはカーテン一枚で仕切られた 上框で、追い立てられるようにすませてしまうのが日課となった。上框の前は、 細い通路を挟んで便所だった。女たちが、飛び込んでは慌ただしく店へ出てゆ く。半開きになった戸を閉めるのは、いつも私の役目だった。早目から、客の たてこむ時などは、最初からテンヤ物の注文もせず、母は私の食事代を卓袱台 に置くなり、身をひるがえすように、店へ出てゆく。やがて、レコードの音に 混ざって母の嬌声がきこえてくる。その声は、私の知らない声であった。私は 食事代を握りしめ、気忙しく、裏の引戸を荒っぽく引いた。 ◆ 当時、食事代としていくら貰っていたのか、思い出せない。私は、銀貨を握り しめ、三度に一度は、その足で巣鴨駅から電車に乗った。目的地は、必ず浅草。 食事は諦めた。浅草への執着が、空腹に勝った。 ◆ 父は、生前「人民文庫」執筆グループの作家であった。発行元「人民社」が淡 路町にあり、浅草はさして遠くなかった。加えて、作家仲間が浅草に仕事部屋 を持っていたことも手伝って、父はよく浅草を飲み歩いた。
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私も父のトンビにまとわりつくようにして、お供をした。「染太郎」「神谷バ
ー」などは、地理も覚えていたから、店の前に佇んでは、中を覗いた。
◆
夜、見知らぬ部屋に取り残されたことがあった。私は、眠りから覚めかけた頭
の芯で、三味線の音を聞いていた。小料理屋の二階。田原町。隅に、チンドン
屋の道具一式が立て掛けられていた。戸外を歩く、父らしい笑い声。私は窓に
へばりつき、トンビをひるがえしながら、肩を組んで濶歩する父を呼んだ。父
は、私の声に、一度は手を差し上げたが、そのまま店の前を通り過ぎていった。
私はもう一度、ありったけの声を張り上げたが、父はネオンの点滅の中に消え
た。私は、何度も階段を降りかけたが、女主人に遮られた。 ◆ 「六区」では、当時、通称シミキン、清水金一の率いる「新生喜劇座」が旗揚 げし、金龍館で人気を集めていた。私は、「笑いの王国」の常盤座とを、その 時の出し物によって選んでは、どちらかの劇場に入るようになった。入場料は、 最初の頃、何回かの食事代からへそくって、工面していたが、次第に、母から 財布ごと渡された時などに、何枚かの銀貨を一度にくすねることを覚えた。呵 責はすぐに消えた。普通の家にはある夕餉の団欒が自分にはない。そんな母へ の憤懣が働いていたからであろうか。 ◆ 場内は、カーキ色一色。工場から直行する青年の姿が目立った。シミキンの反 復する「ミッタナクテショウガネェ」や「ハッタオスゾ」に腹を抱え、一人で いる時など、自分で声に出してみる程になっていた。母の姿も声も忘れた。
◆
しかし小屋がハネ、燈火管制下の暗い「六区」に放り出されると、不意に心細
くなった。常に八時は、回っていた。上野までの地下鉄代は、倹約するしかな
い。空腹を我慢して、私は早足で歩き始めるのだった。
◆
母の叱声は鋭かった。私は薄目をあけ、こわごわと枕元を見回した。母は、鯨
尺の物差しを手にしていた。彼女は、したたかに酔っていた。大儀そうに座り
こむと、不貞腐れた。母は物差しをふりかざそうとしていた。 ◆ 母が鹿児島の士族の娘であることは、私も聞かされてはいた。しかしその因習 を嫌い、自由を求めて父と出奔した筈ではなかったか。日頃から、女になぜ参 政権がないのかと、不満を隠さなかった母である。当時としては、進んだ女だ った。私は、寝たふりをしながら、内心では鼻白んだ。戸惑っていた。
◆
母の剣幕に気圧されて、ひとみちゃんは、ようやく口を開いた。 ◆ 稲荷町の仏具屋の前を通る時、いつも私の中を、この時みせた母の直線的な起 居が、よぎった。男の子に対する期待に、私の気持ちは、むしろ萎えた。野犬 に追われながら私は、小銭をくすねた自分を責めながら、同時に、母に内緒で、 父に会いに行っていた私自身にも、後ろめたさがつきまとい、面食らっていた。 ◆ 帰宅すると、裏口から忍びこむようにして、二階へ。勉強机を隅に押しやり、 母とひとみちゃんの分まで、布団を敷く。机の上には、私立中学進学用の「要 覧」が、買ったまま置きっぱなしになっていた。すでに担任から、今の成績で は、公立校への進学を断念するよう、注意されていた。六年になって、通信簿 はみるみるうちに落ちていた。
◆
階下から階段伝いに、李香蘭の歌う「蘇州の夜」。母と見た映画の主題歌であ
った。しかし、李香蘭のレコードに合わせて歌う母の声は、小学唱歌そのもの
であった。娘時代、小学校の教職にあった母。正確だが、抑揚に乏しかった。
私の心は沈澱していった。電燈にかかった黒い遮蔽布を引きおろした。
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