新富町三股型単純鋼板桁橋。昭和四年の建設である。平成五年改装されたが、当時から下町 と銀座を結ぶ、いわば通り道であった。橋は中央で三叉に分れている。左斜めに進め ば新富町、右へ向かうと中央区役所、築地警察署。築地署は、かって小林多喜二が拷 問死させられた現場である。父の遺品の中に、警察から引き渡された多喜二の遺体を 前にして、文学仲間が腕組みしている写真の複写があった。今も私の手許にある。裏 に父の筆跡で、「昭和八年二月二十二日午前一時、於杉並区馬橋」とあり、極太のペ ン字は、変色している。 ◆ 雪の降りしきる朝であった。ねぼけ眼のまま、父に肩車されて、この三吉橋まで来た。 傘は私が持ったが、父の肩には雪が分厚く積った。兵隊が銃口を向けていた。時折、 剣先が光った。帰宅した父は、小声で母に報告したきり、終日ラジオをつけっぱなし にし、大の字になっていた。この日が、二・二六事件の当日だったことは、戦後知っ た。 ◆ 私は、三吉橋中央の三叉路を左に折れ、新富町の「相馬ビル」へ向かった。当時、ボ ート乗り場で賑わった築地川は、現在、首都高速道路。右下に車の音をききながら、 昔の市電通りを越えると新富町三丁目である。私たちは、昭和十年十一月から、父の 急逝を挟んで、十五年三月まで、新富町に住んでいた。最初は、一丁目の自転車屋の 二階、次が二丁目にあった髪結いさんの離れ、と転転、最後に落ち着いたのが、三丁 目の「相馬ビル」であった。花柳界が同じ町内にあった。 ◆ 当時、草叢のままだった新富座の跡地は、築地税務署になっている。その横を通り抜け、 二本目の四つ角で立ち止まった私は、右側の古い家並を盗み見た。「相馬ビル」はなか った。かって訪れた時は、日刊スポーツ社所有の用紙倉庫だったが、今は、コイン式の 無人駐車場になっていた。人影はない。 ◆ 私の母校である京橋小学校は、過疎のため平成四年、築地小学校に吸収され、廃校にな った。跡地は、地上二十二階建ての公共施設として生れ変わるべく、すでに昨年四月着 工していた。今年一月十日、同窓会が、学校の跡地を見下ろせる隣のビルの八階で開か れた。午後一時散会。私は不意に、新富町散策を思いついた。新富町は全域、戦災を免 れていた。戦後二度訪ね、「相馬ビル」の残存を見届けてはいたが、以来、二十年近く、 足を向けたことがなかったからである。 ◆ 「相馬ビル」に引っ越したのは昭和十二年四月。父の最後も、このアパートであった。 父は「人民文庫」執筆グループの一人であり、同誌への発表が多かったが、ようやく 「文芸」や「改造」などの一般誌から依頼を受けるようになった。十一年、自分の血を 売った体験をもとに、「輸血協会」を「文芸」に発表。「パパ、少し出世したんだぞ」 ◆ 当時でも珍しい鉄筋コンクリートの五階建てであり、最上階の角部屋だった。窓から、 建設中の勝鬨橋と聖路加病院が見えた。電話も、呼び出しだが借りることが出来た。 私は、京橋小学校に入学。物心ついてから、間借り生活しか知らない私の胸中を見透 かすように、父は何度も相撲をしかけてきた。階下への気兼ねは、たしかに減ってい た。六畳一間に小さな台所。便所は各階の廊下に共同が一つだけだったが、男用もあ る生活は初めてであった。エレベーターはなかったが、階段は格好な遊び場であり、 手摺りは滑り台になった。 昭和二年の結婚当初、父はプロレタリア詩を発表するか たわら、建築技師として、関東大震災後の、銀座の復興にも従事していた。生活は安 定していた。その父が、文学一筋にのめりこんでからは、一転、母のカフェ勤めが始 まった。間もなく母は体調を崩し、執筆中の父の横で、昼間から、寝込む日が次第に 増えていった。母が体調のいい日には、親子三人で銀ブラをし、必ず三吉橋際の「グ ランドキネマ」に寄った。「望郷」など、フランス映画を観たが、細部の記憶はぼや けている。 経済的な理由で、幼稚園へ入れて貰えなかった私は、自然、一人遊びが 身についていた。「相馬ビル」の斜め向かいは、置屋であった。長火鉢の上には、色 とりどりの干菓子が載っていた。夕刻を待つ。格子の外に盛り塩が並び、箱屋に三味 線を持たせた芸者衆が、火打ち石の切り火に送られて出て行く。私は、女将さんの横 に立ち、一緒になって送り出した。 住込みの半玉イツちゃんと私は、親しかった。 夏、私は一人で、佃島を突き抜けて海まで出掛け、クラゲ採りに夢中になった時期が あった。ある日私は、イツちゃんに自慢するため、バケツ一杯にクラゲを採り、汗た らたらで持ち帰った。しかし、次第にクラゲは溶け始め、置屋に着いた時には、海水 にクラゲが数匹浮いている、といった有様だった。
◆
「なにさ、水じゃない」 ◆ 私は、佃の渡しに乗り、水上から勝鬨橋の工事現場を見上げることに興じるようにな った。渡し船は曳船式が二隻。互いにS字を描いて往来した。完成間近の勝鬨橋は、 片方の橋桁を斜めに立ち上げ、先端まで、へばりつくように人影があった。私は、日 の落ちるまで何度も往復し、人影が無事地上に降り切る瞬間を見守った。乗船賃は無 料であった。 ◆ 日中の過ごし方には困らなかったが、夜の留守番はこたえた。母が簡単な夜食を作り、 カフェへ出勤。父と夕食。しかし父は、現れた仲間たちを誘い、私には早く帰ると約 束しながら、銀座へ繰り出してしまう。寝そびれたり、一度寝入っても、ふと目覚め ることがある。新内流しの声が、二十メートルほど離れた料亭「松し満」界隈からき こえてきた。夜更け近くには「おいなーりさーん」と、尻上がりの売り声が耳に入っ てくる。母の帰りは必ず一時を回った。いったん酒の入った父の帰宅も、当てにはな らなかった。 ◆ やがて独り寝には慣れたが、その頃から私は、特高を怖れるようになった。「相馬ビ ル」に転居後、とくに頻繁になった。必ず二人連れであった。昼夜を問わず、突然上 がりこみ、父の本棚を掻き回し、散らかし放題にした。父の行き先を聞き、知らない と答えると、二時間以上も部屋に居すわり、私の頭を撫でては、出ていった。一人は 帽子をかぶっていたが、一人は無帽、髪を短く刈っていた。決して、脅すようなこと はなかったが、その目配りだけで、私は十分に、おじけづいた。 ◆ 私が、小学校に入る前年の秋口だった。新富町一丁目の自転車屋の二階に移り住んで、 間もない頃の夕刻。父は、抜歯のため近所の歯医者へ行っていた。母は、早目に夕食 の準備をすませ、鏡台に向かっていた。私が何をしていたのか、覚えていない。ノッ クもせずに、例の二人が土足で上がり込んできた。
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「どこへ行った」
◆
薄暗い、赤い電燈の下で私は母を待った。
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[人民文庫に鉄槌 全員十六名を検挙]
◆
私は、父の友人であった故落合茂氏の「小説横丁のひとびと」を借りだし、頁を繰っ
た。単に、無届集会が理由の検挙に過ぎなかったが、見せしめのため二人ずつを一組
にして手錠をかけた、との記述があった。
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