新富町

松元 眞

銀座を背にして、私は三吉橋の真中に立った。
三股型単純鋼板桁橋。昭和四年の建設である。平成五年改装されたが、当時から下町 と銀座を結ぶ、いわば通り道であった。橋は中央で三叉に分れている。左斜めに進め ば新富町、右へ向かうと中央区役所、築地警察署。築地署は、かって小林多喜二が拷 問死させられた現場である。父の遺品の中に、警察から引き渡された多喜二の遺体を 前にして、文学仲間が腕組みしている写真の複写があった。今も私の手許にある。裏 に父の筆跡で、「昭和八年二月二十二日午前一時、於杉並区馬橋」とあり、極太のペ ン字は、変色している。

雪の降りしきる朝であった。ねぼけ眼のまま、父に肩車されて、この三吉橋まで来た。 傘は私が持ったが、父の肩には雪が分厚く積った。兵隊が銃口を向けていた。時折、 剣先が光った。帰宅した父は、小声で母に報告したきり、終日ラジオをつけっぱなし にし、大の字になっていた。この日が、二・二六事件の当日だったことは、戦後知っ た。

私は、三吉橋中央の三叉路を左に折れ、新富町の「相馬ビル」へ向かった。当時、ボ ート乗り場で賑わった築地川は、現在、首都高速道路。右下に車の音をききながら、 昔の市電通りを越えると新富町三丁目である。私たちは、昭和十年十一月から、父の 急逝を挟んで、十五年三月まで、新富町に住んでいた。最初は、一丁目の自転車屋の 二階、次が二丁目にあった髪結いさんの離れ、と転転、最後に落ち着いたのが、三丁 目の「相馬ビル」であった。花柳界が同じ町内にあった。

当時、草叢のままだった新富座の跡地は、築地税務署になっている。その横を通り抜け、 二本目の四つ角で立ち止まった私は、右側の古い家並を盗み見た。「相馬ビル」はなか った。かって訪れた時は、日刊スポーツ社所有の用紙倉庫だったが、今は、コイン式の 無人駐車場になっていた。人影はない。

私の母校である京橋小学校は、過疎のため平成四年、築地小学校に吸収され、廃校にな った。跡地は、地上二十二階建ての公共施設として生れ変わるべく、すでに昨年四月着 工していた。今年一月十日、同窓会が、学校の跡地を見下ろせる隣のビルの八階で開か れた。午後一時散会。私は不意に、新富町散策を思いついた。新富町は全域、戦災を免 れていた。戦後二度訪ね、「相馬ビル」の残存を見届けてはいたが、以来、二十年近く、 足を向けたことがなかったからである。

「相馬ビル」に引っ越したのは昭和十二年四月。父の最後も、このアパートであった。 父は「人民文庫」執筆グループの一人であり、同誌への発表が多かったが、ようやく 「文芸」や「改造」などの一般誌から依頼を受けるようになった。十一年、自分の血を 売った体験をもとに、「輸血協会」を「文芸」に発表。「パパ、少し出世したんだぞ」

当時でも珍しい鉄筋コンクリートの五階建てであり、最上階の角部屋だった。窓から、 建設中の勝鬨橋と聖路加病院が見えた。電話も、呼び出しだが借りることが出来た。 私は、京橋小学校に入学。物心ついてから、間借り生活しか知らない私の胸中を見透 かすように、父は何度も相撲をしかけてきた。階下への気兼ねは、たしかに減ってい た。六畳一間に小さな台所。便所は各階の廊下に共同が一つだけだったが、男用もあ る生活は初めてであった。エレベーターはなかったが、階段は格好な遊び場であり、 手摺りは滑り台になった。 昭和二年の結婚当初、父はプロレタリア詩を発表するか たわら、建築技師として、関東大震災後の、銀座の復興にも従事していた。生活は安 定していた。その父が、文学一筋にのめりこんでからは、一転、母のカフェ勤めが始 まった。間もなく母は体調を崩し、執筆中の父の横で、昼間から、寝込む日が次第に 増えていった。母が体調のいい日には、親子三人で銀ブラをし、必ず三吉橋際の「グ ランドキネマ」に寄った。「望郷」など、フランス映画を観たが、細部の記憶はぼや けている。 経済的な理由で、幼稚園へ入れて貰えなかった私は、自然、一人遊びが 身についていた。「相馬ビル」の斜め向かいは、置屋であった。長火鉢の上には、色 とりどりの干菓子が載っていた。夕刻を待つ。格子の外に盛り塩が並び、箱屋に三味 線を持たせた芸者衆が、火打ち石の切り火に送られて出て行く。私は、女将さんの横 に立ち、一緒になって送り出した。 住込みの半玉イツちゃんと私は、親しかった。 夏、私は一人で、佃島を突き抜けて海まで出掛け、クラゲ採りに夢中になった時期が あった。ある日私は、イツちゃんに自慢するため、バケツ一杯にクラゲを採り、汗た らたらで持ち帰った。しかし、次第にクラゲは溶け始め、置屋に着いた時には、海水 にクラゲが数匹浮いている、といった有様だった。

「なにさ、水じゃない」
イツちゃんは、私とバケツを交互にみながら、大仰に笑った。私はいまさらクラゲ採 りの面白さを話すわけにもいかず、バケツの横にへたりこんだ。彼女が、私の遊び仲 間にぶちまけはしまいか、おそれた。

私は、佃の渡しに乗り、水上から勝鬨橋の工事現場を見上げることに興じるようにな った。渡し船は曳船式が二隻。互いにS字を描いて往来した。完成間近の勝鬨橋は、 片方の橋桁を斜めに立ち上げ、先端まで、へばりつくように人影があった。私は、日 の落ちるまで何度も往復し、人影が無事地上に降り切る瞬間を見守った。乗船賃は無 料であった。

日中の過ごし方には困らなかったが、夜の留守番はこたえた。母が簡単な夜食を作り、 カフェへ出勤。父と夕食。しかし父は、現れた仲間たちを誘い、私には早く帰ると約 束しながら、銀座へ繰り出してしまう。寝そびれたり、一度寝入っても、ふと目覚め ることがある。新内流しの声が、二十メートルほど離れた料亭「松し満」界隈からき こえてきた。夜更け近くには「おいなーりさーん」と、尻上がりの売り声が耳に入っ てくる。母の帰りは必ず一時を回った。いったん酒の入った父の帰宅も、当てにはな らなかった。

やがて独り寝には慣れたが、その頃から私は、特高を怖れるようになった。「相馬ビ ル」に転居後、とくに頻繁になった。必ず二人連れであった。昼夜を問わず、突然上 がりこみ、父の本棚を掻き回し、散らかし放題にした。父の行き先を聞き、知らない と答えると、二時間以上も部屋に居すわり、私の頭を撫でては、出ていった。一人は 帽子をかぶっていたが、一人は無帽、髪を短く刈っていた。決して、脅すようなこと はなかったが、その目配りだけで、私は十分に、おじけづいた。

私が、小学校に入る前年の秋口だった。新富町一丁目の自転車屋の二階に移り住んで、 間もない頃の夕刻。父は、抜歯のため近所の歯医者へ行っていた。母は、早目に夕食 の準備をすませ、鏡台に向かっていた。私が何をしていたのか、覚えていない。ノッ クもせずに、例の二人が土足で上がり込んできた。

「どこへ行った」
見込みのはずれた二人は、母に向かって声を荒げた。戸口近くにいた私には、その時 母が、私に目配せをしたように思えた。二人が母と押し問答をしている隙をみて、私 は廊下に出、階段の手摺りに跨がり、滑り降りた。歯医者へ走った。私は、畳敷きの 待合室を駆け抜け、治療台にいた父の袖を引いた。「何事です」医師が怒鳴った。し かし、医師の怒声は、私の後から治療室に飛び込んできた二人に対してであった。尾 けられていたのだ。 抜歯したばかりの父は、抵抗もせず、二人に腕を抱えられ、連 行された。医師が、私の掌に父の歯を乗せた。血のついた歯が二本。翌日、差し入れ のため築地署へ出向く母に、私は随いていった。しかし、署の前まできた時母は、強 い語調でいった。
「入るもんじゃない」

薄暗い、赤い電燈の下で私は母を待った。
置屋の跡は三階建ての貸しビル、一階にはパソコン販売店が入っていた。私は歩き始 める。髪結いの家は、ほかほか弁当。幸い、歯医者の、赤レンガの建物は残っていた。 歯医者も継がれているようであった。私は安堵の中で、往時の、いかにも子供らしい 浅知恵を思い、苦笑した。その足で、築地署の前に立つ。七階建ての近代建築。赤燈 は玄関の左右に一対、埋め込み式になっていた。まだ周囲が明るく、点灯されていな かった。赤い電燈の頃の、暗い面影はない。新富町を彷徨してきた私には、なじめな かった。ふと、隣接した区役所の地下が、図書館であることに気付いた私は、閉館間 際に滑りこんだ。思い当たる年代は昭和十一年。私は、縮刷版を追った。二十分近く かかったろうか。記事は、十月二十七日付夕刊社会面の左下にあった。

[人民文庫に鉄槌 全員十六名を検挙]
「人民戦線運動に神経を尖らしていた警視庁当局は、かねて左翼新進作家の大部分よ りなる同人雑誌『人民文庫』の内容に注意していたが、ついに二十五日夜七時頃、角 筈一ノ一レストラン大山方における例会に手を入れ、会員十六名を淀橋署に検挙。」 (朝日新聞) 記事は、後段で検挙者の氏名を列挙している。父の名前はない。父は、 祖父の死亡のため、たまたま鹿児島へ帰省中だったに過ぎないが、特高の立場に立て ば、父の検束を逸したという、憾みの残る結果になっていた。執拗に父を追っていた 特高の焦りが、改めて泛んできた。

私は、父の友人であった故落合茂氏の「小説横丁のひとびと」を借りだし、頁を繰っ た。単に、無届集会が理由の検挙に過ぎなかったが、見せしめのため二人ずつを一組 にして手錠をかけた、との記述があった。
閉館のベルが鳴ったが、私は最後まで粘った。図書館を出る。いきなり、目の前に築 地署の玄関があった。二つの赤燈は、すでに点灯されていた。私はその下に立ってみ た。若い警官が三人、談笑しながら出てきた。(一九九八年四月)