ブルーな唄が聞こえる

森 忠幸


彼はK駅の切符売場に立ったが、どこへ行くあてもなかった。家から三十分 ばかりバスに乗り、その間、どこへ行こうかとなんべんも考えたが、行くあ てはなく、考えもつかないままK駅まで来てしまったのだ。
とにかく大阪にでも行ってみようか、と思った。大阪に知り合いがいるわけ でもなく、地理的にくわしいということでもなかったが、フッと、そんな思 いが湧いたのだった。

改札口の上の発車時刻案内電光板には、八時六分発大阪行き特急列車の案内 が出ていた。柱にかかっている大きな時計が、ちょうど午前八時を指してい た。彼は、自分の腕時計とその時計とを見比べ、時刻に間違いないことを確 認して、改札口を入った。
特急列車が滑り込んできた。ゴールデンウィーク明けの水曜日の朝というこ ともあるのか、列車はどの車両も空いていた。彼は、八号車の禁煙車に入っ た。そこでも、十人ばかりがばらばらに座っているだけであった。余りにも 空席が多く、彼は落ち着かなかった。

こんなときは、多少混んでいるほうがいいな、と彼は思った。
列車は間もなく発車した。静かな車内に、五月の明るい朝の陽光が、左側の 窓から斜めに差し込んでいた。彼は光を避け、右側の席に座った。
街並みが切れるあたりから、列車はスピードをあげた。流れていく田園風景 にぼんやり視線を泳がせていたが、やがて彼は、シートを後ろに倒し、軽く 目を閉じた。目を閉じると、一昨日の出来事が湧いてきて、心をあっという 間に支配してしまった。

「君、なぜそのとき、私の勘違いでした、と、ひとこと言えなかったのかね」 署長が言った。アゴが極端に短く額の広い顔を、やや歪めた。署長のデスク には、薄い土色の角封筒が置いてあり、その上に、ホッチキスで何枚かを留 めた手紙が荒々しく重なっていた。
「………」
「君の勘違いだったんだろう?」

署長は重ねて訊いた。彼は黙っていた。というより、何をどう弁解していい のか、まったく見当がつかなかった。彼には、署長のデスクに置かれている 手紙が、誰から来たのか、そして、何が書いてあるのか、ほぼ見当はついて いた。
「とにかく、一連のことは、君のほうで解決してもらわないと困る。これを 読んで、善後策を考えたまえ、二、三日のうちにな」
そう言って署長は角封筒と一緒に、手紙を放るような格好で彼に寄越した。

[K税務署長殿]という文面で手紙は始まっていた。
―今回の一連の件につき、冒頭に申し上げておきますが、これは今度の税務 調査を拒否しているものでは絶対にありません。
昭和××年、私は貴庁の税務調査を受けました。そのときの調査官は多田氏 でした。
調査の結果、百万円の申告漏れがあるという指摘を受けました。私は、申告 漏れは絶対にないという自負がありましたから、多田氏に再調査をお願いし ました。再調査の結果も、やはり百万円の申告漏れがあるということでした。 私はごまかすことは大嫌いですし、また、ごまかすことのできない性格でも ありますので、帳簿を絶対にごまかしてはいないと、再三の申し出をしまし た。そして何回かの申し出のとき、計算の方法をお訊きしたわけです。多田 氏は、計算はソロバンではなく計算機でやっているから絶対に間違いはない、 とおっしゃいました。私はそれでも納得がいかなかったものですから、顧問 税理士を通し、どのような集計方法でその数字をはじき出したのかが知りた くて、貴庁へ電話し、多田氏にそのデータがあるか否か訊きました。あると いう返事でしたので、貴庁の了解をいただいたうえで、顧問税理士と共に貴 庁へお邪魔致しました。

そのとき応対してくださったのは、多田氏と上司の上島氏でした。私は多田 氏にデータの閲覧をお願いすると、多田氏は上島氏に、内部資料ですが見せ てもいいですか、と訊ねました。上島氏は、いいと返事をなさいましたので、 多田氏は自分のデスクへデータを取りに行きました。十分くらい、あるいは 十五分くらいだったかも知れません、とにかく多田氏が戻ってきました。そ の返事は、ほかの書類といっしょに捨ててしまったから、もうない、という ことでした。

私が貴庁へ行ったのは、集計した書類がお手元にあると確認した翌日の朝で した。多田氏の言葉に従えば、調査した書類はその日のうちに捨ててしまっ たということになるわけです。
そこで署長にお訊ねします。税務調査をした資料及びデータを、そんなに簡 単に捨ててもよろしいものなのでしょうか。
また、税務署の書類保存期間はまったくなく、即日に処分してもよろしいの でしょうか。

私はその後、何度が貴庁にそのことをお訊ねいたしましたが、まったく返事 がないのみならず、何の音沙汰もありませんでした。そればかりか、百万円 の修正申告についても、促されもせず、貴庁からひとこともありませんでし た。それ以来二十年間、私の同業者は三年か五年に一度、税務調査がありま したが、私は一度もありませんでした。

今回、二十年ぶりに税務調査をするというご案内をいただきましたが、私に とっては、二十年前のやり方が未だ解決していないのはおかしいと、ずうっ と思っていましたので、当時の調査官の多田氏も在職されていますから、前 の未処理になっている問題を解決してから、調査に取りかかってほしい旨を 今回の調査を担当される方に電話をさせていただきました。

しかし、今回の調査を担当される方は言を左右にして、私と多田氏を会わし てくださいません。
私は、なぜ貴庁の職員が、私と多田氏とを会わせないのか腑に落ちませんで したので、今回調査に来るという貴庁の担当者の了承を得て、行政監察事務 所へ電話し、その理由を私に替わって訊いていただきました。そのとき多田 氏が応対に出たらしいのですが、多田氏は、二十年前私たちに「データは捨 ててしまった」と言いながら、行政監察事務所の職員には「すでに渡してあ ります」という返事をしておりました。

私は直接多田氏に電話をいたしました。電話で行政監察事務所とのやりとり を多田氏に訊くと、「忘れてしまった。あなたは私を脅迫するのか」と言っ て、一方的に電話を切ってしまいました。

別紙は、今回調査を担当される方及び多田氏と私との電話のやりとりを、テ ープ起こししたものです。内容は、私の話した分だけ記載し、貴庁の分は空 欄にしてありますので、その部分は貴庁で埋め、ご返送いただけますようお 願い致しますー

末尾に発信者の住所と名前が書いてあった。次のページからは、電話のやり とりが六枚にわたり方言そのままに書かれてあり、税務署の部分は空欄にな っていた。方言そのままに表現しているところといい、内容といい、だれが 見ても、それは創作したものでないことは一目瞭然であった。

福井駅に着く少し手前で切符の検札があった。そのあと、いつのまにか眠っ てしまったのだろう、目が覚めると、列車はずうっと続く山並みの裾野に広 がる田圃のなかを走っていた。左側の窓には、海が広がっている、というふ うに目はとらえたが、実際は琵琶湖が広がっているのだと、やがて気づいた。

どこで乗り込んで来たのか、目覚めると、座席はほとんど埋まっていた。彼 の横には、彼と同じ年ごろだろうと思われる四十歳後半の男が、ネクタイを だらしなく緩め、口を半開きにして眠っていた。
列車は京都を過ぎ、三十分ほどで大阪に着いた。中央改札口と書かれた方向 へ歩いて行った。行くあてはなく、人の流れにまかせて歩いていったのだっ た。左向きの矢印の上に「環状線」と書かれた誘導板が目に入った。黄地に 黒字で書かれた誘導板に従って進んだ。

環状線の「京橋、森の宮方面」と書かれたホームに立った。まもなく、電車 がやや傾きながら入ってきた。電車の真ん中あたりの車両に乗り込み、腰掛 けた。
都会の電車は、どこで降りようかと考えさせる余裕もあたえないまま、どん どん先を急ぐように走るものだ、と田舎育ちの彼は思った。

電車が止まるごとに、ここで降りよう、ここで降りよう、と思うのだが、プ ラットホームの柱に書かれている駅名を見ているうちに、電車はどんどん進 んで行くのであった。
いつのまにか電車は一周し、二周目に入っていた。乗り込んできた人のほと んどは、二駅か三駅で降りていった。なかには五駅も六駅も乗っている人も いた。そんな人が近くにいると、彼はいくぶん、ホッとした。それでもやは りその人も降りていってしまう。すると彼は、急に焦りが出てくるのだった。

前の座席に座る人も、横の座席に座る人も、どんどん入れ替わっているから、 彼が環状線に乗り続けているのを誰も見ていないのだが、それでも誰かに見 られているような気持ちになり、次第に落ち着かなくなっていった。

「多田君、君も分かるだろうが、この事件はうやむやにできるものではない んだよ。この手紙の返事次第でこの方は、この手紙を、新聞社や放送局、あ るいは週刊誌などにも送るだろうことは想像できる。ひょっとすると、自民 党や共産党などの政治関係へ配るかもしれない。そうなったとき、君、どう なると思うかね。ひとりだけを相手にした争いじゃなくなるのだよ。あっち からもこっちからも、税務調査のデータを見せてほしいという要望が殺到す るだろう。あるいは、日頃の怨みつらみをここぞとばかりに突っ込んでくる かも知れない。それは、ここK税務署だけではなく、全国の税務署に波及す ることなんだ。われわれはいま、確実な証拠をつきつけられて、さァどうす る、といわれている、わかるかね、君。それを断ることが出来ると君は考え るかね。君は当時、触られたくない傷のひとつやふたつは誰でも持っている から、修正申告を命ずれば応じてくれるだろうと、日頃の職務から考えたこ とだと思うが、私は、この方は、本当にごまかしていなかったのではないか と思うのだ。なぜなら、この電話のやりとりを読んでみると、この方は真っ 向から税務署に勝負を挑んでいる。適切な表現ではないが、スネに傷を持つ 人なら、こんな切り込み方はできないと思うんだよ。君は、そう思わんかね」 「………」

「この方はね、君に会いたがっている。私でもほかの職員でもなく、君に会 いたがっているんだよ。なぜ会わないんだね。君が税務署の職員である以上、 君が会って、この方に、あのときのことは、こういう理由で私は正しかった、 あるいは私の勘違いでした、と話し合うべきではないのかね、君が税務署の 職員である以上…。ン? 分かるだろう、私の言いたいことが…」

電車がM駅でとまったとき、彼は、まるで用事でもあるように、忙しくワイ シャツの袖口をめくり、腕時計に視線を当てながら、そそくさと席を立った。 M駅の構内を、しばらく人の流れにしたがって歩いていたが、やがて人々は 散り、流れは消えてしまった。ひとりになり気がつくと、西改札口というと ころに立っていた。自動改札口のすぐ横に、公衆電話が台の上に乗っていた。 彼はその電話に視線を奪われた。電話をかけておいた方がいいだろうか、と 一瞬考えた。

―突然、泊まり込みの調査に行くことになった。一週間はかかるだろう。今 度の調査は、かなり大がかりなもので、同僚職員にも内密にという署長命令 だから、役所へは問い合わせないでほしいー
こんな置き手紙をしてきたが、女房は信用しないだろうと思っていた。結婚 して十五年経つ。税務署がこんな突発的な出張を命じたことは一度もなかっ た。まして女房も税務署に勤めていたのだ。当年度の調査対象は、事前にき ちっと決められていることぐらいは、もちろん知っているだろう、と彼は思 っていたのだ。

結局、電話をしなかった。
改札口を出たところで、出口は左右にわかれていた。どちらも階段を使って 外へ出ていくようになっていた。ゆっくりと右手の一番出口の階段に向かっ た。
外に出ると小雨が降っていた。近くのコンビニでビニール傘を買った。傘を 広げ、改めてあたりを見回した。一番出口はそのまま、M公園の園内道路に 続いていた。

彼は、公園か、と心のなかでつぶやいた。入り口に立つと、砂利を敷きつめ た広い道が、ゆっくりとくねりながら、小雨のなかで白く伸びていた。右手 は大きな森となっていた。大きな公園だなァと、彼は歩きながら思った。
二、三分歩いたところに、公園管理事務所と看板の掲げてある小さな平家建 の建物がひっそりと建っているのが目に入った。男の人が三人、立ったまま で話しているのがガラス窓越しに見えた。彼がその建物の前を通り過ぎよう としたとき、中の一人と目が合った。彼が軽く会釈をすると、その男も、視 線を彼に当てたままで会釈を返した。

公園は全体がひっそりと静まりかえっていた。歩いている人は、まったく見 当たらなかった。小雨のウイークディだからだろうか、と彼は思った。やが て、道路は広いロータリーにつながった。その真ん中に大きな噴水があった。 噴水は、一メートルくらいの高さの、直径が十五メートルほどの円形コンク リートの中にあったが、水は出ていなかった。コンクリートの大きな筒のな かには、水が溢れんばかりに溜っていて、小さく降る雨は、その水に幾つも の輪を絶えまなく描いていた。

彼は、何気なく視線を森の方に移した。緑色のなかに鮮やかなブルーが見え た。あれは何だ、と思いながら、そのブルーの色に視線を凝らした。雨で埃 が洗い流された木々の緑は、あざやかにその緑色を誇示していて、その緑色 のなかに、これも鮮やかなブルーが見えたのであった。
あれは、何だ、ともう一度目を凝らした。
彼は、ブルーに向かって森の中へ入っていった。近づくにつれて、それは、 シートであることがわかってきた。木と木の間に何枚も重ねてシートを張り、 住まいができるようになっていた。

へーっ、こんなところで生活している人もいるんだ、と目を見張った。もう 少し奥へ入ってみた。あーっ、と、もう少しで声を出しそうになった。ブル ーのシートがあちこちに、数えきれないくらい見えて来たのである。
森の中には、幾条もの道が広い森のなかにできていた。その道はすべてブル ーのシートで造られた住居に通じているようであった。森の中へ入っていく につれて、鼻をつく臭いは少しづつ酸っぱくなっていくように感じられた。

「どうしたんですか…」
突然うしろから声をかけられた、ぎょっとして立ち止まった。顔の表情が固 くなっているのが自分でも分かった。木々の枝と葉が重なり合って小雨を遮 っているのか、雨は上がったような感じであった。時折、大粒の水滴が落ち てきて、彼の紺のスーツに滲んだ。BR> それは乾いた男の声であった。振り向くと、六十歳くらいに見える男が、古 びたやかんを右手に下げて、立っていた。顔は、怒っている様子でもなく、 にこやかでもなかった。

「いや、公園を、散歩していたのですが…」
彼は、しどろもどろになりながら答えた。
「散歩? こんな日に、一人でか?…」男は訝しそうな表情で彼を改めて見 つめ「ン、誰でもそういうからなァ」と言葉を続けた。大きな声を出してい るわけではなかったが、声は森の中でひびいた。

どこから現れたのか、いつのまにか、男がふたり、やかんを下げた男のそば に立っていた。五十過ぎと、もう一人はそれより三つ四つ若く見えた。その ふたりも無表情であった。小綺麗な身なりに彼は、おやっ? と思った。自 分にはホームレスが不潔というイメージと重なっているのかも知れないと、 咄嗟に思った。三人とも傘はさしていなかった。

「あんた、本気で、ここへ来たんか…、考える余地があるんなら、もう一度 考えた方がええんと違うか…」、あとから来たうちの若く見える方が言い、 「あんたが考えているほど、ここは自由じゃないし、いうたら、しんどいか もしれへんで…」と続けた。
「あっちで、座ろうか…」とやかんを下げた男が、後ろを振り向きながら顎 をしゃくった。

六角形の屋根が乗っている水飲み場の、やはり六角形に形作った背もたれの ない長イスに四人は腰掛けた。雨は小降りになってはいたが、止んではいな かった。金属で造ったチュウリップの花がいくつも鎖で繋がれたようになっ ている雨樋が、屋根から二本下がっていた。その樋を雨が滑り落ちるように くるくる回りながら伝っていた。
「私、K市から来たのですが…」
彼がそう言い、言葉を続けようとすると、それを遮るように
「この森のなかには数百人の人が生活しているが、どこの誰なのか、どこか ら来たのか、どんな仕事をしていたのか、われわれはいっさい知らない。わ れわれは、お互いに、それぞれの人の過去はどうでもいい、と思っている」

あとから現れた五十過ぎの男がぽつりと言った。やかんを下げていた男も、 あとから現れた若い方の男も、相槌を打つでもなく、そうかといって反論す るふうでもなく、聞いていた。
「あんたが、ここに住みたいというのなら、村長に手配してもらってあげる よ」
やかんを下げた男が言った。

「そんちょう? そんちょう…って? 」
「あァ、この森の中に住んでいるわれわれの生活を仕切っている人だよ。こ こで生活する気なら、くわしく聞かせてやるよ」

彼は、失礼します、と言って立ち上がった。彼の雰囲気がそうさせたのか、森 の中の男たちは、彼がこの場所へ逃避してきたという前提でものを言っている ようであった。もっとも、紺のスーツにネクタイを締め、カバンを下げてふら ふらっと森の中を歩いていれば、だれの目にもそんなふうに映ったかもしれな い、と彼は思った。

水飲み場を離れ、噴水のあった場所と反対の方向に進むと、「この先、市民の 森」と白地に黒で書かれた小さな標示板が立っていた。森はますます欝蒼とし てきて、緑がその色を濃くしていた。進んでいくと、ブルーの色もますますそ の数を増してきた。
それでも不思議なくらい人に合わなかった。森全体の静寂さはますます深くな っていった。

 不思議なことに、不気味なくらいの静寂のなかで、大きな幸福感に満たされ ている心が、自分のなかにひろがっていくのを、彼は感じていた。
 どうして寂しくないのだろうか、どうしてこんなに心が晴々としているのだ ろうか、これまでに、体も心もこんなに軽くなったことが一度でもあっただろ うか、と彼は思った。

―休暇願 勝手ながら一週間の休暇をいただきたく、お願いしますー
一週間休んだところで、問題が解決するものでないことはわかっていた。何を どのようにすれば、あの手紙に対する適切な解決になるのか、まったく思い浮 かばなかった。それでも、こんなに心が軽いのは、もうあそこには帰らないと いう決心が、自分のなかに芽生えているのだろうか。彼は自分の心のなかをの ぞいていた。

足もとへサッカーボールの型をした小さなゴム毬が転がってきた。そのゴム毬 を追いかけるように五、六歳の男の子が飛び出してきた。ぴったり止まってい る森の雰囲気を、びりびりっと引き裂くように現れたのだ。一点の曇りもない、 透き通るような視線で彼を見つめた。きれいな目だ、と思った。
彼はゴム毬を拾って、その子に手渡した。ぴょこんと頭を下げ、無言で受け取 ると飛ぶように駈けて行き、緑のなかに消えた。

  「あの人たちですか…」
公園管理事務所の所長だろうか、作業服にネクタイをした五十年配の男が、彼 が入っていくと眼鏡をはずし、それを両手でもてあそびながら言った。
「…いつの間にか住みついちゃってね。ここまできたら、もうどうしようもあ りませんわ。屁理屈ですが、彼らは、われわれはホームレスではない、と言っ ているんです。あのブルーのシートが住居と言わんばかりですよ」

「あの方たちは、どのように生活しているのですか?」
「アルミの缶を集めてきて、それをお金にしている人がほとんどじゃないです かね。なにしろ、いまは分別収集の時代ですから、彼らは仕事がやりやすいと 思いますよ。別けてあるのを袋ごと担いで来ればいいんですからね」
「…村長と言いましたかね、そんな人がいて、あの森の中を仕切っていると聞 いたんですが…」
「あァ、何でも、シートの張る場所から、アルミ缶を集めに出かける場所、コ ンビニなんかで時間切れの弁当を捨てるんですが、それを拾って来る場所まで、 指図するらしいですわ。森の中は森の中で、そういうふうに統制がとれるよう にしているのかね」

五十年配の男は、そこまで言うと、ところであなたは? というふうな視線を 彼に投げた。
「いや、この町へ、ちょっと出張で来たのですが、時間があったものですから、 この公園に足を踏み入れたんです。あの、緑のなかのブルーが妙に心に残った ものですから…、いろいろ有り難うございました」
彼は、はァ、と生返事をする男に頭を下げて、事務所をあとにした。

公園を出たあと、彼は街の雑踏のなかへ入って行った。行き交う人々は皆、申 し合わせたように忙しそうであった。彼は、この街で時間を必要としていない のは私だけかも知れない、時間というものは、縛りの取れた人間には、無いに 等しいものなのだと思った。

夕暮れになった。家路を急ぐ人が一人また一人と増えていくのが感じられた。 これからお前はどこへ行くつもりだ、と彼は彼自身に問いかけた。
「これが、旅ならたのしいだろうなァ」
もう一人の彼はこんなふうに答えた。
「旅か、旅っていうのは、帰るところがあってはじめて、旅っていうんだろう なァ」
彼はつぶやいた。
「そうだと思うよ、一カ月空けようが半年空けようが、帰るところがあると思 っているから、思いっきり旅を楽しめるのだろう。だから、旅が楽しいという のは、帰るところがある、という前提付きなんだよ、きっと」

もう一人の彼もつぶやいた。
「じゃ、人生を旅するってよく言うが、人生の旅はどこへ帰るんだろう。人生 が楽しくないものには、帰るところのない人生なのかなァ」
彼ともうひとりの彼の対話はどんどん深く広がっていった。知らない街の、ど こをどう歩いたか、まったく見当もつかなかった。
彼は、再び、M公園の前に立っていた。
小雨の中で水銀灯の光がやわらかく砂利道に落ちていた。