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ふたりの私
森 忠幸
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井川恵介は、午後五時十五分には勤務先の京都地方法務局F出張所を出る。そこから京阪電車の深草駅まで、十分ほどかけて歩くことにしている。十二月の五時過ぎはもう薄暗く、近くの人なら顔が分からないこともないが、十数メートルも離れればもう見分けがつかないくらいだ。いつも何人かが軽く会釈をして通りすぎるが、ほとんど知らない顔なのだ。おそらく法務局を利用している人か、あるいは毎日すれ違う人なのだろう、と思っている。
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駅に着くと決まって腕時計を見る。改札口へ出るとまた見る。そんなに時間ぎりぎりに着くわけではないが、もうクセになっている。ホームへ出ると、降りるM駅の改札口の位置を考え、最後尾の車両の位置で電車を待つが、それも習慣になっている。
ホームの屋根を支えている鉄骨が、剥き出しのまま並んでいて遠近法を醸しだしている。鉄骨はこの季節の寒さをさらに誘っているようだと井川は感じる。天井に取り付けられている照明灯からは光が散っているが、この時間、そんなにはっきりとホームを照らすほどの明るさではない。
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本格的な木枯らしの季節には少し早いが、それでも人々は、背中を丸め、肩を細かく揺すりながら電車を待っている。やがて、ぐらりと車体を揺らしながら電車が入ってくると、待っていた人の顔に安堵の色が浮かぶのだ。
朝の通勤時間ほどではないが、淀屋橋行きの電車はかなり混んでいる。電車は二十秒くらい停車すると、エンジンをひと噴かしし、音をたてながらホームをあとにする。井川は最後尾に立って、電車が出たあとのホームに視線を据える。いつも代り映えのしない風景をぼんやり見つめながら井川は、電車が出たあとのホームは手品師が大きな風呂敷をひと振りし、すべての生き物を消してしまったようだ、といつも思うのだ。人っ子ひとり残っていないホームがどんどん遠ざかり、やがて視界から消えてしまうと、レールだけが白い二本の光となって不気味についてくる。
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丹波橋で奈良行きの近鉄電車に乗り換える。乗換えの人の流れはほとんど駈け足になり連絡通路いっぱいに広がっている。その流れに逆らい、京阪電車の乗り場へ向かう人が不機嫌な顔で人を除けながらすれちがって行く。
改札口を出て階段を降りると同時に電車が入って来る。電車が換わると車内の雰囲気も客層もずいぶんかわるものだ、と井川は思う。丹波橋からは高校生や中学生が増え、車内が騒々しくなる。目の前には、不貞腐れたような顔で、高校生数人がタバコをくわえ、股を広げてまわりの人々を下からにらみながら坐っている。彼らは三人で五人分くらいの席を占めているのだが、注意をする者はだれもいない。まわりの人は、自然を装って窓のあたりを見ているか、読んでもいない本のページを白々しくめくっているのだ。
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夕刻の薄暮が消え夜の色が深まるにつれて、電車の窓は、勢いよく流れていた外の景色をだんだん消していき、車内の模様を鮮明に写していく。やがて鏡になった窓は、はっきりと車内だけをとらえ始める。その移り変わりをじっと見ていた井川も、直接彼らから視線を外し、鏡となった窓に写る少年らの姿に、ちらちらと視線を送るのだけなのだ。もっとも、だれかが注意しようものなら、ナイフみたいに尖った少年らは、あたりかまわず傷つけるだろう、そんな気配が漂っていた。ここは黙って見過ごすほうが波立たない、と誰もが考えているようだった。
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井川恵介は、どんなときでも、誰に対しても注意をするようなことはしない。暴力を心から怖いと感じているからだ。彼は暴力をふるったことはないし、暴力をふるわれたこともない。彼はそんな場に遭遇すると、いち早く逃げることにしている。中学生、高校生、大学生と、ずっと文芸クラブに所属した。それはなにも文筆で身を立てようという意図ではなく、スポーツや武道が大の苦手であり、そこから逃れるための手っ取り早い方法だったのだ。
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大学時代に受かった国家公務員一種のおかげで昭和六十年の四月、法務局に入ることができた。公務員生活が十五年経った今も、職員とも、また外来者とも争ったことは一度もない。法務局には、登記、戸籍、供託などいろんな部署があり、採用されるとまず出張所の登記事務係に配属される。そこで登記業務のイロハを身につけ、登記官への道を目指して同輩や先輩の間をかき分けていくことになるのだが、井川にはそんな思いは薄く、同輩はおろか後輩からも追い抜かれていく。むろん彼にも、上を目指したい欲望はないと言えばウソになるが、どうしても人と争うことはできないのだ。そんな彼を同僚は、自然体を身につけた温厚な奴と表現する。が彼は「冗談じゃない、僕はただ人と争うことができない気の弱い男にすぎないのだ」と心の中で思っている。
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結婚してもその性格はまったく変わらなかった。結婚して十一年になるが、妻の容子と争ったことがないし、ふたりいる子どもを叱ったこともない。子どもは長男が十歳で長女が八歳になり、そろそろ親から巣立ちたい年ごろになった。長男に反抗期の兆候が出始め、親を避けるようになると容子は、いま家庭教育が大切なときだから、ときには息子に強い言葉のひとつもかけてほしいと言うが、井川にその気配はいっこうに現われなかった。
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井川はいつもどおりM駅で降りた。自動改札機に定期券を通し、改札口を出ると左手に向かって歩く。もう一度左に折れるとそこは階段になっている。階段の横にエスカレーターが動いているが、昇り専用となっている。急ぎ足で階段を下りる通勤者の横で、だれも乗っていない階段がカタカタカタと鈍い音をたてて回転しているのだが、だれもそのことを気に止めない。
階段を降りるとそのままコンクリートの通路になり、緩やかなスロープで道路へと続いている。通路は右にゆるく蛇行し、三十メートルばかり進むと左の蛇行に変わっている。通路の真ん中に腰の高さで金属性の手すりがついていて、通路と同じく蛇行している。通路の真ん中に手すりがあるのは、たぶん駅へ入る人と駅から出てくる人を左右に分けるためだろうが、この時間はどちらの通路も出てきた人で埋まってしまうのだ。
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コンクリートには碁盤の目状に目地が刻んである。たぶん滑り止めのためだろうが目地の間隔が広く、深さも少し深い目であり、かなり歩きにくい造りなのだ。雨の日や雪混じりの日などは、健康な人には役に立ってくれるかも知れないが、年寄りや足の不自由な人にはそれほど役に立ちそうもなく、あるいは逆に危険かもしれない。
緩やかなスロープの外に、F観光と書かれた薄緑色のタクシーが三台、いつもと同じように客待ちしている。この時刻に着く電車から降りるのはほとんど通勤者でありタクシーを使う人はいない。運転手もそのへんは心得たもので、まったく期待していないのだ。人の流れには目もくれず背もたれの枕に頭をつけ、腕組みの格好で目を閉じている。ところが彼らは眠っているのではない。そのなかの一台に客がついた途端、運転手の目はいっせいに動くのだ。ちょうど今も、二人の若い男が一台のドアを軽くたたき、運転手に乗ることを合図した。あとの二台の運転手は、天井向きになっていた顔をさっと起こし、二人の客が屈んで乗るところを目撃したのだった。
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この二人の男は井川には見たことがない顔だった。通勤している者は通勤者同士ほとんど言葉を交わさないが顔ははっきり覚えている。顔だけではなく、この人はどこから乗りどこで降りるか、ホームのどこで電車を待ちどの車両に乗るか、そしてその車両のどのあたりに立ち、あるいは座るかなどすべて知っている。たまに、その時間に顔が見えない日はその人のことが妙に気にかかるものなのだ。
だからまったく知らない若い二人がこの時刻にタクシーに乗るのを目撃すると、通勤者は表面上は素知らぬ顔をしているが、その実はっきりチェックをしている。どうやらサラリーマンでないことだけは確かなようだ、と井川は思った。
毎日、電車の中でたくさんの人を見ているし、職場でもたくさん出入りする外来の人を見ている。この人は営業マンだな、この人は銀行員だな、この人は役人だな、というふうに、その人がどういう仕事をしているかある程度推測できるのだ。
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それにしても今のふたりは何者だろう、と思いながらスロープになっている通路を左に折れ道路に出た。道路に出るというより、コンクリートの通路からは左右に延びている道路の状況が見通せるので、通路と道路が自然に合流するといったような感じとなっている。合流している手前に立ったとき、ふたりを乗せたタクシーが出てきて左の方向へ走っていった。合流地点をそのまま進むと、市営バスのM駅前停留所があり、電車を降りた人々はそのバスを利用して家路に向かうのだ。井川が乗り込むとほとんど満員になった。続いて乗ってくる人がいないのを確かめると、運転手はクラクションをひとつ鳴らしアクセルを踏んだ。バスはぐらりと揺れて出発した。
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Mニュータウン前でバスを降りた。五、六人の顔見知りが会釈を交わした。乗客を降ろしたバスは、排気ガスのしみこんだ煙を残して走り去った。その煙を手で払いながら、バス停のすぐ前の横断歩道を渡った。道路を渡りきると二メートルくらいの歩道があり、歩道を横切ると木目模様の丸太棒を真似たコンクリートの車止めを打ち込んである。車止めを抜けるとそのまま団地内の歩行者専用道路になってまっすぐ延びている。その道路をはさむようにして両側にマンションが建っている。右手に一号棟から二十号棟まで、左手に二十一号棟から四十号棟まで建っている。
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道路の入り口に立つと、まっすぐ延びた道路から左右に白い枝が出ているようにマンションが建っているのだ。一つの棟にはそれぞれ百四十世帯が入っており、左右合わせて四十棟、五千六百世帯が住んでいることになる。棟が違うとだれが住んでいるのかまったく分からない。同じ棟であっても階が違えばやはりだれが住んでいるのか分からない。同じ階であっても部屋が離れてしまえばもう分からないといってもいいくらいだ。
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棟と棟の間に狭い支線道路があって、その両側に桜と銀杏の木が等間隔で交互に植えてある。春も秋も色の美しさが映えるという趣旨なのかもしれない。建物の外壁が白に近いグリーンであり、今は枝だけになっている木々の黒色と妙にマッチしている。ところが新緑の季節を迎えたとたん、淡いグリーンの建物が木々の緑にくるまれている風景は、人の感覚を麻痺させ、止まっている空間のなかへ放り込まれたような感じを与えるのだ。
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井川もこの団地へ移ってきてからしばらくは、自分の居場所が特定できない錯覚におそわれ、落ち着かなかった。特定できないといっても迷うということではなかった。事実、井川は迷ったことは一度もなかったし、迷っている人を見たこともなかった。住んでしまえば、三、四日で自分の行き先を体が覚えてしまうのだ。十六号棟の十八号室が自分の部屋だと、考えるまでもなく体がその場所へ進んでいくのだが、バスを降り、車止めを越えたとたんに自分の行く先が真っ白になってしまうような気がするのだ。立体的である風景が彼のなかで平面図となり、そのために「絶対に迷うことのない迷路」となってしまうのだった。
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部屋の前で彼は足を止めた。ドアは半開きになっている。お客さんかと思い、うちに客とはめずらしい「誰だろう」と考えた。ドアを完全に開け玄関に入った。狭い玄関いっぱいにふたりの若い男が立っていた。ついさっきタクシーに乗り込んだ男たちだと気づくまでにそんなに時間はかからなかった。「あぁ、帰りました」と妻の容子が言った。
「突然すみません。私、F署の川瀬といいます。こちらは同僚の吉川です」
一人が警察手帳の顔写真の貼ってあるページを開きながら事務的に挨拶した。もうひとりの刑事は「吉川です」といった刑事の言葉に合わせるように頭をさげた。
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「F署…刑事さん? なにか…」
井川は挨拶した方の刑事に言った。目にはかすかな怯えがあった。
「ちょっとお伺いしたいことがありまして…」
川瀬刑事はそんな井川を見ながら、頬のあたりに笑みをうかべて静かな口調で言った。
「はァ…ま、どうぞ」
とにかく茶の間へ上がってもらった。失礼します、と言いながらふたりの刑事は茶の間へ上がった。座蒲団を差し出した容子に軽く会釈してその上に座り、井川の座るのを待った。井川が座ると、「実はですね、大手筋である事件がありまして、それでいろいろ調べているんですが、あなたがその事件を目撃されているのではないかという証言を得まして、お訪ねしたわけなんですが…」と井川の顔を身ながら川瀬刑事が言葉を続けた。井川には刑事の言っている意味がわからなかった。
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「どういうことでしょうか…、私にはよく分からないんですが」
「大手筋に〃山之〃という大きな文房具屋があるのをご存じでしょう。三階建ての、文房具屋としては大きな建物なので、目につくと思いますが…」
「山之は知っています。役所へも出入りしている業者ですから…」
「その店で、昨晩といっても今頃の時間なんですが、売上金が盗まれましてね。こんな時間に堂々とです。店の人の話によると、あっという間の出来事だったらしいんです。この時間は立て込んでいる時間でしょう。店の慣れない子がレジを開けたまま、ちょっと奥のほうへ用事に入っているほんの二、三分のことだったらしいんですが、二百万円消えたんです」
「……」
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「店の主人が、その時間に何人かの顔見知りの客がいるのを見ていましてね、それで、そのなかにあなたも見かけたと言いますので…。きのうお買物をしていらっしゃるとき、不審な人物に気づかなかったかなと思いましてね、こうして、お邪魔したわけです」
「山之のご主人が私を知っているというんですか…、お店ではしゃべったことはありませんが…」
「はい、はっきり知っているといっていました。京都地方法務局のF出張所の法人係をしていらっしゃるから、よく知っているそうなんですが…。山之のご主人は法務局へ年に何回か行かれるらしいですわ、会社の謄本かなにかを取りにね」
「そうですか。それはどちらでもいいんですが、残念ですがきのう私、山之へは行っていませんので、今おっしゃったことは分かりませんね」
「きのう、行かなかった、とおっしゃるんですか…」
「はい、行っていません。きのうだけでなく、ここしばらく行っていませんね」
「困りましたね、あなたを見たという証言があるんですが…」
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「人違いではないんでしょうか。妻に聞いてもらってももちろんいいんですが、きのう私はいつもどおり役所を五時過ぎに出まして、まっすぐ家へ帰ってきました。五時前も役所を一歩も出ていません。不審でしたら役所で調べてくださればおわかりになると思いますが…。」
「奥さん、どうでしょうか…」
視線を妻の容子に移して川瀬刑事が訊ねた。
「はい、間違いありません。いつもどおりこの時間に帰ってきました」
容子がそう言うと二人の刑事は顔を見合わせ、やがて、困ったような表情を見せながら川瀬が言った。
「弱りましたね…。あのォ、実は証拠があるんですが…。あそこの前はアーケードになっていましょう。あの時間のちょっと前、正確には五時ちょうどなんですが、山之の前で、商店街とアーケード架設何十周年かを記念してプレゼントの抽選会をやっていたんですよ。ある新聞社が共催していたので、その新聞社の記者が写真を撮り、当選者にインタビューしているんです。これをご覧ください、あなたにインタビューしている写真なんですが…」
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言いながら川瀬は、写真と記事の載っている新聞の切り抜きを内ポケットから取りだし、井川に見せた。そこには大きな紙袋をささげてにっこり笑っている井川の顔が写っていた。ささげた紙袋とまわりを取り囲んでいる人々の蔭になって、着ているものや背格好ははっきりしなかったが、顔はまちがいなく井川であった。
「そんな、バカな…。なにかの間違いです。私は絶対に行っていません」
井川は川瀬にそう言いながら、すぐ視線を容子に移し「行ってないな」というふうに目で同意を求めた。
「そう言われてもね、ここにきちっと写っているんですが…、何か事情がおありのようですが、ひとつご協力していただけませんか、お願いしますよ」
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川瀬の目のなかに次第に疑いの色が増してきた。
「刑事さん、私はほんとうに山之へは行っていません。今、妻も言ったとおりです」
「おことわりしておきますが、私どもはあなたを犯人だといっているのではありません。あなたが不審な人物をみていないかどうか、それを知りたいだけなんです。あなたはこの写真に写っている、だからあなたはあそこの現場にいた、そういう事実のもとに私どもはお邪魔しているんです。これが犯人追求なら、私どもは奥さんの証言はアリバイにはならないと、はっきりいいますよ。どんな事情か分かりませんが、ひとつお願いしますよ」
川瀬の声の調子は次第に強くなってきた。
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「たしかに写真に写っているのは私です。が、こんなことはありえません。私は行っていないのです、もう一度調べてくたさい。私は五時まで役所にいて、まっすぐこの家へ帰っているのです。妻の証言が何の役にも立たないのなら、私と一緒に電車に乗ってください。電車のなかでもバスのなかでも、いつも会う人にはいつもどおり会っています。きのうも会うべき人には会いました。言葉を交わしたわけではなく、名前を知っているわけでもありませんが、みんな知り合いです。電車のなかの人はみんな知り合いなんです。ウソだと思われるのでしたら、明日、私と一緒に通勤電車に乗ってください。帰りだけで不足でしたら、行きも一緒に乗ってくださって結構です。いつもの時間、いつもの車両に私は乗ります。私を知っている人は一人や二人ではないはずです。お願いします。電車に一緒に乗って、私が山之へ行っていないことを確認してください」
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井川ははっきりと山之へいっていないと言った。目は真剣そのものであった。
「もう一度確認させていただいてよろしいですか。あなたは午後五時過ぎ、正確には五時十五分まで京都地方法務局F出張所にいた。これは間違いありませんね」
「間違いありません。役所の者でしたら、みんなその証言はしてくれると思います」 「役所を出て、まっすぐその足で京阪電車に乗った。丹波橋で近鉄電車に乗換え、M駅で降りた。その間、途中下車はしていませんか」
「していません」
「丹波橋の次が大手筋のある伏見桃山、つまりM駅のいくつか前です。事務用品か何かを買うために伏見桃山で途中下車をして、山之で買い物をしたあとすぐ次の電車に乗りM駅で降りた、ということもありませんか」
「ありません。いくらなんでも昨日の今日です、間違うことは絶対にありません。これまでも、伏見桃山で途中下車したことは一度もありません。必要なときは土曜か日曜に出かけますので、仕事の帰りに立ち寄ることはまずしません」
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F署から法務局の法人係に電話があったのは、次の日の昼近くだった。昨日は突然お邪魔をして失礼いたしましたと言い、実は犯人が自首し、もう電車にご一緒する必要がなくなったからご連絡まで、ということであった。帰りに駅のホームで買った夕刊には、狂言強盗によって店員が逮捕されたという記事が小さく載っていた。
井川はその日、まんじりともできなかった。井川にとって、犯人が逮捕されようがされまいがそんなことはどうでもよいことであった。写真に写っていたのは誰なんだ?この思いがどうしても拭いきれなかったのだ。
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刑事が見せてくれた新聞に写っていたのは、まぎれもなく井川であった。妻の容子もはっきりとそれを認めた。昨日の夜、それでは帰りの電車に一緒に乗ってみましょう、と言って刑事が帰っていったが、井川の胸のなかは晴れなかったのだ。
−あれはいったい、どこの誰なんだろう?
「きのうのあの写真のことで、あの写真を撮ったという新聞記者に会ってみようと思うんだが」
井川は家に帰ると着替えもしないで、夕食を支度をしている妻の容子に言った。
「えっ、きのうの写真って、新聞に載っていた写真のこと? 」
「そうだよ。なんだが落ち着かないんだよ、気味悪くってね。自分の知らない間に写真にとられたというんならまだいいが、いるはずのないところに自分がいるんだ、落ち着かなくってね」
「うーん、でもそんなことあるはずがないわ。他人のそら似よ、きっと」
「他人のそら似ならそれでいいんだ。だが、僕にはそうは思えないんだよ。うまく言えないが、なにかひっかかるものがあるというか、胸騒ぎがするというか…、ほら、自分にしか分からない予感みたいなものを感ずるときがあるだろう、そんなものがあるんだよ、僕のなかに…」
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「私、そんなの、わからないけど、会ってあなたの気が晴れるんなら会ってみたら。でも、その記者さんの名前、知らないんでしょ」
「きのうの刑事さんに訊いてみるよ」
井川は分厚い電話帳からF署の番号を調べ、川瀬刑事につないでもらった。川瀬は、あぁあの写真ね、と電話の向こうで言い、取材した記者は関西日報の横山だと教えてくれた。関西日報へ電話をいれ、横山記者に簡単に事情を話し、面会を求めた。横山記者は、七時過ぎなら体はあきますから、と言った。
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関西日報社は京都駅の八条口を南に歩いて十五分くらいのところにあった。玄関の前に立つと自動ドアが開いた。中に入ると正面が広いロビーになっていて、五人掛けのテーブルが散らすような感じで置いてあった。入ってすぐのテーブルには、スーツ姿の男たちが打合せをしていた。
右手はカウンターだけの喫茶コーナーとなっていた。カウンターのなかに係りの者はいなくて、椅子に腰掛けている者もいなかった。打合せをしているテーブルの上には、コーヒーカップが置いてあったが、香りは漂ってはいなかった。
左手はインフォメーションカウンターとなっていた。係りの若い女の子に「横山記者にアポを取ってある者ですが」と呼び出しをお願いした。あちらでお待ちくださいと、空いている奥のテーブルを手で示した。
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五分くらいで若い記者が出てきた。電話の声から想像していたよりはるかに若い記者であった。お待たせいたしましたと言って、名刺を出した。関西日報社会部横山啓吾と書いてあった。井川の渡した京都地方法務局F出張所法務事務官井川恭一の名刺を見ながら「あぁ、法務局の方だったんですか、先日は失礼いたしました」と言った。そして「ところで、きょうは…」と言い、改めて井川の顔をのぞき込んだ。
「あのォ、実は大手筋でお撮りになられた写真のことで…、きのうF署の刑事さんから新聞を見せていただいたのですが…、あのときの写真、もう一度見せていただけないでしょうか」
「いいですよ」と言って立ち上がった横山記者は、「今持ってきますから、しばらくお待ちください」といって廊下に向かって歩き出した。戻って来ると「よろしかったら、お持ち帰りください」と言った。「最近、新聞に載った写真を貰えないんですかという問い合わせがくるんですよ。本人の確認ができれば、できるだけ差し上げているんです」とつけ加えた。
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井川は言葉に詰まった。この記者は当日のことをはっきり覚えていると思った。写真を撮っただけでなく、刑事はインタビューもしたと言っていた。それならば二日や三日で取材した人間を忘れることはないだろう。どうして切り出したらいいものか。しばらくの沈黙のあと、
「実は、きのう刑事さんにも話したんですが、この写真の人、私ではないんです…」やや伏し目がちになり、低い声で言った。
「えっ、どういうことですか。現に、ここに写っているのはあなたですが…」
写真の顔と井川の顔を交互に見比べながら、横山記者は不思議そうな顔で言った。
「私はその日、つまり一昨日のその時間、まだ役所にいたんです。いつも役所を出るのは五時十五分なんです。だから間違いなくまだ役所にいたんです。ここに写っているのは私ではありません。だれだか分かりませんが、私ではないんです。私が写るわけはないんです」
「…そう言われても…。あなたは、私ではないとおっしゃいますが、これは単なるスナップ写真ではありません。私が、あなたにお願いしてカメラの方へ向いてもらった写真なんです。そのあと、私はあなたにインタビューしました。そのときのあなたのお話より少し短くなっていますが、間違いなく記事になっています。大手筋商店街振興会の役員の皆さんも見ていますし、道いっぱいになって、通りがかりの皆さんもこのイベントを見ています。これは私ではない、といわれましても…」
「……」
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「ところで、この写真、何か迷惑をおかけしたのでしょうか」
「いや、そんなことはありません。大手筋へ行っていない私が、なぜ写っているのか、落ち着かないんです。妙な言い方ですが、そこにいたのは、あなたが写真を撮りインタビューしたのは、間違いなく私だったでしょうか」
「困りましたね、私だったでしょうかと念を押されると…。どうもグラついてしまいますが、少なくともこの写真は合成でもなんでもありません。この方があなたかあなたでないか、私には分かりませんが、もしあなたでないとすれば、こんなに似ている人はめったにいませんね」
「もう一ついいでしょうか。この方なんですが、どこにお住まいかインタビューのなかで出てきませんでしたか」
「うーん、大手筋という商店街は、ご存じのように観光客のそんなに来る所ではありません。私はてっきりこの近くの方だという先入観を持っていましたので、聞きませんでしたが…。しかし、言葉は京都の方だったと思います。たぶん間違いないと思いますが…」
横山記者は、それじゃあの方は他人のそら似だったんでしょう、ということで、この場を切り上げたい様子であった。三十分ばかりねばったが、何の進展もみられないのがわかると、井川はお礼を言って関西日報を出た。
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京都駅の八条口に向かってゆっくり歩いた。近くの赤提灯から出てきたサラリーマンがふたり、千鳥足で井川とすれ違った。駅前には客待ちのタクシーが群れをなしていた。その群れを左手に見ながら近鉄の改札口に向かった。行き先の駅とその下に料金の表示してある料金表を目で追いながら、左のポケットから百円玉を三枚とり出した。料金口へ入れようとしたちょうどそのとき、「クボタさん」という女の声がした。井川は手の動きを止め、声のしたほうへ顔を向けた。三十歳前後と思われる女の人がにこやかな顔で会釈をした。瓜実顔の小柄な人で、彫りのそんなに深くない色白の顔から京都の女だと理解できた。まったく知らない女であった。
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井川は、エッという顔つきで女の顔に視線を止めた。女の人は、「クボタさん、どないしはったん、そんな顔して…」と言った。井川の態度がどこか不自然だったのだろう、小首をかしげ、複雑な表情を見せた。
「あのォ、私のことですか」と井川は言った。
「えェ、…はい」と女は答え「クボタさんでは、ありませんの?」と続けた。
「私、井川といいますが…」と言って間を置いた。昨日からのできごとがものすごい速さで頭のなかをかけ巡った。「私、井川という者です。すみません、少しお訪ねしたいことがあるんですが、よろしかったら、話を聞かせてください、お願いします」と真剣な顔で言った。女の人は何がなんだが分からないといったような顔になり、「失礼します」と言って頭を下げ、駆け足で遠ざかった。井川は「すみませんが…」と言いながら五、六歩後を追いかけたが、とどまった。
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正月休みも終わり、その後何事もなく通り過ぎていった。心のなかのひっかかりも、日が経つにつれだんだん薄らいでいき、いつしか井川のなかから消えかけていた。
四月の人事異動で京都地方法務局の本局へ転勤になり表示登記部門へ配属された。表示登記とは建物を新築したときや増築したとき、あるいは一筆の土地を二筆に分割したり畑を宅地に変更する登記のことであるが、売買や抵当権設定など権利の登記といわれている登記や会社・法人などに関する登記などと違っているのは、現場調査をしなければいけないということであった。添付されてくる書面も担当する登記によってずいぶん違う。ここの部署では図面が重要視されるのだ。井川はその部門の調査官を命じられた。申請された書類が適正に記載されているか否かをチェックしたあと、添付されている図面が現地と齟齬していないかどうかを調査する。一件一件すべて綿密に調査し、一字一句の間違いも見逃してはいけない仕事が切れ間なく申請されてくるのだ。それを二人の調査官とその下にふたりづつ若い事務官がつき、こなしている。六人のした仕事は表示登記係長の浦部登記官にまわされ、そこで登記簿に記載されて登記済みとなるのだ。
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転勤してからは、通勤で使う電車も近鉄電車だけになった。井川は近鉄電車で終点の京都駅まで来て、そこから市バスを使って荒神口まで行かねばならなかった。電車は八条口に入るから、地下道を使って烏丸口まで出なければならない。近鉄の改札口を出て地下道に向かうとき、去年の暮れ見知らぬ女の人から「クボタさん」と声をかけられたことがちらっと頭をよぎることもあるが、しかしそのことで心がひとつ所にとらわれることはずいぶん少なくなっていた。
もちろん完全に消えてしまったわけではなく、時折あのときの女のことがよみがえってくるときもあるにはあった。が、よみがえってはきても、なぜかあのときの女の顔がどうしても浮かんでこないのだ。背格好や着ていたものは一つ一つ表現しようと思えばできないこともないが、顔はどうしても思い出せない。消しゴムで消したはずの字が薄く残っているような感覚なのだ。ところが不思議なことに、そんなもどかしさを抱きながらも行き交う人の顔を見ると、「あ、この人はあのときの女の人ではない」と見分けられるのだ。しかし、あれっきりあの女の人とは遭わなかったし、「クボタ」という男にも遭わなかった。
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係長の浦部が井川に対し突然ものを言わなくなったのは、井川が新しい職場にも慣れ、昨年のできごとも心の中から遠ざかっていった五月の中頃であった。それは、井川が朝の挨拶をしても浦部はまったく無視するということから始まった。そしてしまいには井川が仕事のことで何を言ってもまったく無視するようになってしまったのだ。直属の上司が一言も喋ってくれないことは、仕事がやりにくいばかりでなく、仕事にならない。行政に携わっている者にとっては、上司の意見を上手に聞き、指導していただいているという態度が必要なのだ。上司は先例であり判例でもあるという雰囲気がどこの職場にでも流れている空気であった。
井川には浦部係長がなぜそんな態度をとるのか、その原因が分きらなかった。浦部が井川に対し冷たい態度をとっていることは、表示登記部門では誰もが感づいていた。もう一人の調査官、川端ももちろん感づいていた。しかし、浦部のいる前でそれを云々することははばかられた。
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一ケ月も過ぎると、井川に対する浦部の態度はますます陰険になっていった。七月に入るとどこの役所でも、そろそろ交代で夏休みをとる。そんなある日、浦部係長が三日間の休暇をとった。登記官が休暇をとるときは、代理の登記官を選任しなければならない。浦部は安川という総務課の登記官を選任した。安川はこの四月、井川と同じくF出張所から本局へ転属された登記官であった。安川は実にあっけらかんとしていて、役人にはないからっとしとた気性の持ち主であった。
代理の登記官として係長の席に座った最初の日、安川は「井川君、ちょっと」と井川を呼び寄せ「浦部からだいぶん絞られているようだな」と言った。井川は「はァ…」と言って後の言葉を飲み込んだ。何をどう言えばいいのか見当がつかなかった。
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「あのな、お前も調査官になれるほど長い間、役人の飯を食っているんだろう。上司に合ったら挨拶をするのが常識だということぐらいわかるだろうが…。そんなことは役人云々とは関係ないことだけどな」
安川はそう言ったが、井川には彼がなんのことを言っているのか分からなかった。「あのォ、すみません…。どういうことなのでしょうか」
井川はまるで理解できないという表情で安川に言った。
「お前な、四月のあのときのこと、どう考えとるんや」
「………」
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「俺と浦部が登記官研修で東京へ行っていたろう、その帰り、お前と京都駅であったあのときのことだよ…」
「安川さん、私、安川さんたちに合ったことないですが…」
「お前な…、俺と安川が『井川、どこへ行くんだ』と声をかけたろう、あのときのことだよ。お前、あのときどんな態度をとった? 俺たちをまったく無視し…、無視するどころか露骨に不審な顔で、俺たちをにらんだ、そうだろう。あんな態度をとられりぁ、浦部でなくてもむかつくよ」
「安川さん、ちょっと待ってください。私、それは私ではありません。本当です、信じてください、それは私ではないんです」
井川は声を震わせて言った。井川の頭のなかで、昨年の暮れのことがものすごい速さでよみがえった。そのことを安川に訴えるように話した。九時が近づくとそろそろ外来者が訪れる。安川は、「それ、ほんまのことか。それじゃ、あれはお前じゃなかったということか」と頭を傾げながら言い、その話題から離れた。
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京都府警本部から京都駅鉄道警察隊警部詰所へ電話がかかったのは八月初旬の昼頃であった。食事をしていた五十嵐警部が電話をとった。
「京都駅で自分の写真を持った男が、この男をしらないかと、とおりすがりの人をだれかれかまわずとっつかまえて聞いているらしい、調べてみてくれ。八条口で多く見かけるらしい」というものであった。五十嵐は、別のデスクでコンビニから弁当を買ってきて、それを開こうとしている若い多田巡査に、調べてくれと声をかけた。
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多田巡査は「弁当は帰ってからにします」と言って出かけた。JRの改札口から近鉄の改札口の前を通り、商店街まで足を運んだが、それらしい人物は見当たらなかった。途中のNツーリストの京都駅出張所で聞き込みを試みたが、窓口の若い女の子は「さぁ」と首をひねるだけだった。
今度は八条口を北に向かって歩いてみた。地下道をまっすぐ進み烏丸口まで歩を進めたがそれらしい人物には出会わなかった。食堂街、商店街でも聞き込みを行なったが、やはりどこでも心当たりはない、という返事であった。ホームへも出てみた。真夏の暑い大気がむわっと全身を包み、汗が湧き出るように額に浮かんだ。一番ホームから順にすべてのホームを歩いてみたが、やはり何事もなかった。構内放送を終えた何人かの駅員に「自分の写真を持って、この人を知りませんか、と言って歩く男を見ませんでしたか」と聞いたが、彼らは首をひねり「自分を探している男ですか?」と不思議な顔で聞き返すだけだった。
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多田は歩きながら、自分を探して歩く男とは何者なんだろう、なぜそんなことをする必要があるのだろうか、と考えた。
多田巡査は、どんな些細な事件を捜査するときでも、まず動機ということを考えろ、ということをいやというほど聞かされた。「動機のない事件はないと思え」ということを警察学校でも教わったし、先輩の警官からもことあるごとに聞かされていた。実際現場に立ってみると、やはり基本中の基本であるを身を以て知ったのだった。
−自分を探す動機とは、いったい何なのだ。自分を、なぜ探さなければいけないのだ。
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ひとまわり駅構内を調べた多田は、いったん詰所へひきあげた。戻ると五十嵐警部が中年の女に道を訊ねられていた。壁に貼り付けてある地図の真ん中あたりを指差し、「お分かりですか」と念を押していた。女はまだ分からないという表情をしていたが、もう一度五十嵐が説明すると、やがて深々と頭をさげ、笑みを浮かべて出ていった。女が出ていくのを見計らっていたように多田は五十嵐に訊ねた。
「警部、自分を探してあるく男の件ですが、動機は何だと思われますか」
「動機? 動機か…なんだろうな」と五十嵐は答えた。そして「君はどう思う?」と逆に問い返された。
「さっきから、歩きながら考えていたのですが、どうしても分からないのですよ、自分を探す必要が、なぜあるのか」
「フム、小説や映画の世界なら記憶喪失というのもあるだろうがな…」
「現実にはあまりいませんからね…。もしいたとしても、写真を持って探すってことはないんじゃないですか。自分を指さして、私を知りませんか、と言えばいいんですから…
「そうだな…、まァ、本庁からの電話だと人に危害を加えたり、脅迫じみたことをするわけではないらしいから、言ってみれば、気色が悪いということだろう。パトロールのときでいいから、心がけてくれ」
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これ以上もういい、という感じで五十嵐との会話が途切れた。多田巡査はポットからお湯を注ぎ、弁当を開いた。そのときであった。三十過ぎの男が入ってきた。
「すみません。ちょっとお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」と言った。五十嵐は「どうぞ」と言って椅子をすすめた。男が椅子に腰を下ろすのを確かめてから「ご用件は?」と五十嵐が訊ねた。多田は食べ始めた弁当のフタをしめ、メモの用意をした。男は「ハイ…」と言って少し間を置き、「実は、この人をこのあたりで見かけたことがおありにならないかどうか、知りたくて来たのですが…」と続け、ポケットから一枚の写真を取り出した。写真を見た二人は、「アッ」と小さな声を上げ、顔を見合わせた。
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「申し遅れましたが、私、京都の法務局につとめる井川という者です。実は…」と、井川は大手筋や浦部登記官など一連の出来事をかいつまんで話した。いつか「クボタさん」と呼び止められたことももちろん話した。五十嵐は多田に「おい」というふうに目で合図した。関西日報の横山記者に確認しろ、という合図である。多田は奥の部屋へひっこみダイヤルした。
部屋から出てきた多田は、間違いありません、と目で合図した。
「結論から言いますと、この男の人を見たことはない、と思います。思いますというのは、ご存知のように、ここ京都駅には全国から人がやってきます。一人ひとりの顔を覚えている、ということは実際、不可能だからです」
「そうですか…、そうですね。あのォ、この人を探す方法といいますか、手段みたいなもの、ありませんでしょうか」
「ウーン、探す方法…ね、我々もパトロールのときには気をつけるようにしますが、執念ぶかく探す以外、方法はないんじゃないでしょうか、あなた自身、えェ‥」
「あのォ、なんでもお聞きしますが、警察にこのことをお願いしたら、探していただけるものなのでしょうか」
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「警察というところはですね、そういうのはお聞きできないんですよ、えェ。そのことで、なにか事件が起こった、というんなら、もちろん調べますよ。この場合はですね、なんにも起きていないということですわ。たとえばこの方が、あなたの身内であって、行方がわからないから探してくれと、捜索願いが出たとすれば、我々はそれに基づいて、捜索はしますがね、今の場合は、そうでもないようですし…」
「警察は、事件が起こらないと行動しない、ということですか」
「実際、何も起こっていないというとき、行動のしようがありませんわな」
「事件ですか…、事件といえるかどうか分かりませんが、現実に私は、大手筋の事件のときは、その男と間違えられて警察から協力を頼まれましたし、職場の上司からは、さきほど話した通りの扱いをうけています。大手筋のことも事件といえば事件と言えるのではないでしょうか。否、私にすれば完全なる事件です。この写真に写っている人が、目撃者ではなく、犯人だったとしたら、私は強盗の犯人として取り調べを受けていたでしょう。そうは思いませんか」
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「しかしですな、そんなことはないと思いますよ。警察は、きちっとアリバイを調べ一つひとつウラをとりますからね…、やっていないあなたを犯人にすることはありませんよ、…あなたも、やっていないものはやっていないと主張されますでしょうし…」「いや、そんな問題ではないんです、今の場合。私と同じ顔をした人間がもう一人いる、そのことが問題、否、事件なんです。あなた方には私の、この気色悪さはお分かりにならないようですが、いいですか、私と同じ顔をした人間がもう一人いるんです、この京都のどこかに…。だから私は、その人を探してほしいとお願いしようと思っているんです、分かっていただけるでしょうか」
「ですから、先ほどから申し上げている通り、その方があなたと似ている、というそれだけで私どもは捜査はできないのですよ」
「すみません」
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井川と五十嵐の噛み合わないやりとりにちょっと空間ができたところで、多田巡査が口をはさんだ。
「あのォ、一つ聞かせていただいてよろしいでしょうか」
「何か…」井川が若い巡査に視線を当てた。
「その写真、本当にあなたじゃないんですか?」
「…そうなんですか、あなた方は、私のいうことをまったく信じていないんですね。分かりました。もう結構です、私は私のやり方で探します。失礼しました」
「ちょっと待ってください。私はそんな意味で申し上げたのではありません。なんと言いますか、自分自身の中にあるもやもやを整理して…、整理するために、確認したかったのです」
「あなた方は、他人事だからそんな言い方をするのでしょう。もし、あなたとまったく同じ顔をした男が現れて、そのへんをうろうろしていたら、あなたも気色悪いでしょう。その人がどんな人か、知りたいと思いませんか」
「あのォ、もしですよ、もしその方が見つかったとしますわね」再び五十嵐警部が言葉を引き取った。
「そうしたときですね、あなたはその方に何をおっしゃりたいんですか」
「………」
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「あなたは先ほどから、自分は迷惑している、とおっしゃっているように私には聞こえるんですが、その方は、あなたに迷惑をかけようという意識はまったくないと思うのです。あなたにしてみれば、たしかに迷惑なことかも知れません。しかしですね、それはその方からすれば、まったく与り知らぬこととちがいますか? 大手筋のことにしたって、その方は、商店街の抽選会で特賞かなんか知りませんが、賞を当たった、それを新聞記者が取材した。そのときたまたま狂言強盗事件が発生した。それだけのことではないんですかね、その人にとっては…。それから、あなたの上司とどこかで合ったということも、その人にとっては、まったく自然な態度をとったまでですよ、そうでしょう、あなただって、道でまったく知らない人から声をかけられたら、その方のような態度をとると思いますが、ちがいます? こんな言い方をするとあなたにはどんなふうに聞こえるか分かりませんが、あなたが迷惑をしているように、ひょっとするとその方も、あなたがいるために迷惑な目にあっているかも知れませんよ、そうは思いませんか」
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「そういわれると、どう言っていいか、困るのですが…、私にとって問題なのはそのような現実そのものではなくて、胸のなかにあるもやもやなんです。私は、その方に合ってどうこうしようというのではないんです。こんなふうに申し上げても理解していただけないと思いますが、たとえて言えば、自分のほかにもう一人自分がいる、そんなふうな感じなんです。自分が二人いる、そんな気色悪さなんです。だから、その方に合いたいというのは、もう一人の自分とはどんな自分なのか、それを知りたい、そのようなことで、どんな人が知りたいんです」
「自分のほかにもう一人の自分がいる? 」
五十嵐警部が井川の顔をたしかめるようにのぞき込んだ。
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「はい、ここにいる、この自分と同じ顔をした人間がもう一人いるんです。この写真を見ても分かるとおり、まったく同じ顔をしています。この方がもし、もしですよ、何かの犯罪を犯し、指名手配されたとしたら、私は真っ先に疑われます。疑われるというより逮捕されてしまうでしょう。そうなったとき、私はどういうふうに申し開きをすればいいんでしょうか。あなた方警察は、アリバイがあればいいとおっしゃるでしよう。しかしそのアリバイは、世界中の人間のひとり一人の顔が全部違っている、ということが前提になっているのではないでしょうか。たとえば、Aという人間のアリバイとは、他人であるBという人間の存在が必要だということなんでしょう? Bが、Aは自分と一緒にいた、あるいは自分が目撃したのはAに間違いない、ということを証明するのがアリバイなんでしょう? そんなときAがふたりいて、そのことをだれも知らない、あるいはそういうことは信じない、としたら、どういうことになるのでしょうか。A−1もAであり、A−2もAだということにならないでしょうか」「………」
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「この写真に写っている自分は本当の自分ではなくて、ここにいるこの自分が本当の自分なんです、と言えば、警察はあァそうですかと納得してくれるものなんでしょうか? 絶対に納得しないはずだと思います。逆の立場になって、私が警察官だとしても絶対に納得しないでしょう。そんなことはあり得ないと思っているからです。これからの私は、なにをするにしてもひとつ一つこれは自分が行ったことではない、これは自分が行ったことだ、そんなふうに、すべてのことを私のなかにある整理ダンスにきちっと区分けしていかなければならないことになるわけですが、あなた方はそういうことが可能だとお考えですか?」
「…分かりました。先ほども申し上げましたが、パトロールのときには、より気をつけることにします。と言いましても、我々の調べることができるのは、この京都駅の構内だけですから、それを先に申し上げておきます…」
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「ありがとうございます。私の心のなかを言葉で表現しようと思ったのですが、とてもできそうにありません。たぶん文字で表わすこともできないでしょう。ですから、いま言ったことは私の正確な心の状態ではありません。自分で表現できないんですから、警部さんに分かって下さいというのはむしの良い話ですが、その方を探してみて、たとえ探し当てたとしても、私は多分その方に何も言えないし、何もできないでしょう。でも、私も探してみますので、よろしくお願いします。もう一人いる自分とは、どんな自分なのか、それを知りたい、それだけです…」
まもなく井川は「失礼します」と言って頭を下げ、詰所を出た。その後ろ姿を二人の警察官がなんとも割り切れないというような表情を浮かべて見つめていた。
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一ケ月経った。その男は現れなかった。「クボタさん」と声をかけた女も見つからなかった。さらに数か月が流れたが、やはりどちらも現れなかった。
半年が経った。朝八時頃と午後六時頃、京都駅の八条口、烏丸口などあらゆる場所で、一人の男が自分の写真を見せながら「すみません、この人どこかでみたことはありませんか」と、訊ねて歩く姿があった。人々は声をかけられると写真と男の顔を見比べ、ある人は気味悪そうな顔を露骨に現わし逃げるようにその場を去った。ある人は、眉をしかめ唾をかけんばかりに通りすぎた。ある人は奇声をあげてからかった。
男はそれでも自分の写っている写真をもって、「この人どこにいるか知りませんか」と必死になって探し回っていた。
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