シベリアの墓参日誌

中村 正己(監修・古澤 襄)

「怨念を超えたシベリアの旅」で述べたように私(古澤襄)は平成11年9 月から10月にかけてシベリア墓参の旅に出た。2年後に古希を迎える私は 今更、自分の生きざまを変えるつもりは毛頭もない。したがって私が物書き として書くものは、すべて自分の人生観、歴史観に裏打ちされた極めて主観 的な色合いが濃い。

今度の旅行で私はまたとない良き友人に恵まれた。茨城県の境町に住む中村 正己さんという人物である。この町の教育委員会で町史編纂室長を務める温 厚にして篤実な人柄に魅せられ、たちまち親しくなり、シベリアでは毎晩の ようにウオッカーの水割りの杯を重ねることが多かった。何よりも私の主観 的な生きざまとは対照的に極めて客観的なものの見方に徹していることが、 ある時はじれったくもあり、ある時は教えられることが何度かあった。

人は自分と正反対な生きざまを貫く人間像に惹かれ、また反撥するものであ る。シベリア旅行で紀行文を書くつもりでいた私は、毎日のようにメモを記 録していた。ところが中村さんも丹念にメモを取っている、時には広場の名 前やオベリスクの由来などについて質問を受けた。聞いてみると「シベリア 墓参の日誌」を残すつもりだと言う。

私は日本に帰国したら、中村さんのシベリア日誌を読ませて貰う約束をした。 帰国して一ヶ月後にワープロ打ちの「シベリアの墓参日誌」を中村さんから 戴いた。私の「怨念を超えたシベリアの旅」は、すでに雑誌社に原稿が渡っ た後だったが、几帳面に毎日の出来事を主観を交えずに淡々と記録した日誌 は読み応えがあった。

有り体に言えば、政治ジャナーリストを振り出しに四〇年間、物書きに徹し てきた私の目から見ると文章表現、事実誤認など手を加えねばならない点も 散見されたが、全体として見ると優れた記録性が見事に貫かれている。そこ で中村さんの文意を損なわない程度の監修を私がすることのお許しを得て、 「怨念を超えたシベリアの旅」の姉妹編として発表することになった。


百二十五円のビールで乾杯


9月27日(月)晴天
午前7時15分、JR土浦駅東口から茨城県シベリア墓参団の県南・県西地 域参加者20人がJTB貸切バスで水戸に向け出発。水戸駅南口で水戸・県 北地域参加者13人と県関係者が加わり、常磐自動車道を北上。磐越自動車 道を経て、午後1時30分新潟空港に到着。

出国に向けて、添乗員の指示に従い、チェックイン、税関、出国審査、手荷 物検査など一連の出国手続きを済ませた後、二階待合室で壮行会。
ロシアのダリアビア航空H8−310便は、予定時刻の午後3時30分、新 潟空港を離陸、一路ハバロフスクに向けて飛び立つ。2時間の飛行で極東ロ シアの玄関・ハバロフスクに着陸。日本時間で午後5時25分。現地時間で 午後3時25分。日本とハバロフスクの時差は一時間だが、夏時間がまだ続 いている。入国手続きは、少数の係員でチェックイン、税関、入国検査、手 荷物検査が行われ、墓参団の全員が終了するまで約一時間半の時間がかかっ た。

ハバロフスク空港からホテルの専用バスで約20分、インツーリスト・ホテ ルに到着。13階建て、西側の部屋からは、中国との国境を挟むアムール川 の雄大な流れが眺められる。
夕食時、レストランのウエートレスに100ドルの両替を依頼した。287 0ルーブルだったが、この日の変動相場は、2480ルーブルだったそうな ので、思わぬ利得。万事、大雑把なロシアらしい出来事だった。同行者の木 村、横川、斎藤、小生四人で、同じテーブルにつき、中ビンのビール四本を 注文。一本の代金25ルーブル(約百二十五円)。

部屋は423号室、エレベーターを降りたところにデスクがあって、ヂェジ ュールナヤが坐っていた。ヂェジュールナヤとは、各階に配置された二十四 時間勤務の女性管理者。カードを渡すと引き替えに部屋の鍵を渡してくれた。 バスルームは広く、浴槽も大きいが、コックを回すと鉄サビが混じった茶色 の湯が出てきた。
入浴後、墓参団の山内団長の部屋を訪ねる。真言宗の僧籍を持つ団長に父の 「卒塔婆」を書いていただいた。部屋に戻り新潟空港で求めたミネラルウオ ーターを飲み、就寝。


近江俊郎の「ハバロフスク小唄」


9月28日(火)晴天
午前8時モーニングコール、朝食9時、10時専用バスに乗車して、ハバロ フスクの市内巡拝に出る。
市街地通りは、凹凸した地形で、緩やかな坂道が多い。その起伏のあちらこ ちらにレンガやブロック造りの建物が見える。不思議とオートバイや自転車 を見かけない。街を走る車は、ほとんどが中古車と言って良い。それも日本 のトヨタ系の中古車が目につく。

コムソール広場、ハバロフ銅像が立つハバロフスク駅前などを回ったが、駅 の水洗トイレは、水が出ず使用不能。自由市場の有料トイレで、一人4ルー ブル(約20円)を支払ってようやく用をたすことが出来た。有料と言って も掃除された形跡は全くなく、先客の黄色い排泄物が、ホーロー製の便器に たっぷりと付着していた。

プーシキン通り、ウッスリィスキー並木道を通過し、アムール川船着場から 遊覧船に乗る。約40分の遊覧だったが、シベリア鉄道の中でも最も重要だ と言われている「アムール鉄橋」を長い列車がちょうど渡っていた。川の水 は濁り、流れは急だが、日本では眺められない雄大な光景である。

昭和24年に近江俊郎が唄った「ハバロフスク小唄」に「川の流れはウスリ ィ江、あの山もこの山もこの谷も、故郷を思い出させる、その姿」で終わる 曲が軽快であるだけに、かえって哀愁をそそった。極寒の地で抑留と強制労 働の日々は、歌謡曲の表現を超えたものに違いない。

午後はハバロフスク日本人墓地で慰霊祭を挙行した。墓地は外周が「木柵」 で囲われ、ロシア人墓地の一角に設けられていた。敷地はさして広くなく、 セメントの細長い枠で囲まれた墓が並んでいた。抑留者の名前が判らない無 縁墓地もある。墓の頭の部分は一段高くなって、そこに戦没者の名前が刻ま れている。前後左右の間隔は広くとってあり、墓碑銘がある墓の数は全部で 100基たらずと思われた。オベリスク状の白い鉄柵に囲まれて「日本人墓 地」と刻まれている。傍らにはステンレス製の大きな立札があり、埋葬者の 名前が整然と記されている。数えてみると約70人。周囲の木立は色鮮やか な美しい姿をみせていた。

慰霊祭は、墓参団全員の黙とう、県遺族連合会狩野安会長による祭文、県知 事(代理・角田芳一副知事)、県議会議長(代理・潮田龍男副議長)による 追悼の辞、献花の式次第によって厳粛に進められた。

慰霊祭が終わって、帰途、レーニン広場に寄り、ホテルに戻る。夜はロシア 民族ショーを観覧、料金は260ルーブル(約1300円)、ウオッカー水 割り一杯65ルーブル(約325円)だった。日本の自宅に国際電話を掛け る。料金は65ルーブル(約325円)、水割り一杯と同じ値段。
この日は、代表者が日本総領事館に表敬訪問をした。

蛇足になるが、車中のガイドの説明では、人口62万人のハバロフスクの労 働者の平均賃金は月額2000ルーブル(約1万円)、家賃は500ルーブ ル(約2500円)アパートの購入価格は1万2000ドル。ドルと円、ド ルとルーブルの交換比率は変動相場で動くが、現在は100ドルが約250 0ルーブル、30万ルーブル(約50万円)の値段は、ロシアの一般市民に とって高嶺の花であろう。

北緯48度31分のハバロフスクの七月の平均気温は21・3度、1月はマ イナス22度。最高気温は30度、最低気温はマイナス30度になるそうだ が、ロシア人は夏の30度の方が身体にこたえると言う。雨の多い季節は八 月と九月、積雪は1メートルで意外と少ない。ハバロフスクは新潟市と姉妹 都市になっている。


美しい古都イルクーツク


9月29日(水)晴天
モーニングコールは午前6時。朝食は7時。9時にホテルを出て、空港へ。 ハバロフスク空港を9時40分に離陸したダリアビア航空H8−3863国 内便で空路第二の目的地イルクーツクに向かう。
古都イルクーツクは、アンガラ川とイルクート川が合流するバイカル湖のほ とりの美しい街だ。

ハバロフスクからイルクーツクまでシベリア鉄道だと寝台車で二泊の長旅を しなくてはならない。それが空路だと僅か3時間。ハバロフスク時間の午後 零時55分、イルクーツク時間の午前10時55分にイルクツーツク空港に 着陸した。時差の関係は日本時間と同じになった。

空港で墓参団は二組に分かれ、一組はバイカル湖の北にあるチェレンホボの 墓参に向かった。残りの組は、シベリアのパリと言われる人口80万人のイ ルクーツクの市内巡拝を行う。

アンガラ川の流れは、濁って逆巻くアムール川と一変して水は青く、綺麗だ った。中央公園を散策した後、ズナンメンスキー修道院、デカブリストの乱 の遺品が展示されているデカブリスト博物館を見学。
車中から見るシベリアの樹木は、赤松、から松、そして黄色鮮やかな枯れ葉 の白樺や防風林に植林されたポポーが左右に立ち並ぶ。

ホテルは、ハバロフスクと同系列のインツーリストホテル。アンガラ河畔に 建つ12階建てで、シベリア第一の観光ホテルと言われている。
イルクーツクは日本の金沢市と姉妹都市になっている。


淡水に棲むバイカル・アザラシ


9月30日(木)晴天
午前9時ホテルを出発。気温は四度前後で肌寒く、墓参団の一行は、カーデ イガン、チョッキ、ジャンバー姿が目立つようになった。木造博物館(ダイ ツイ)に寄る。館内の写真撮影料10ルーブル(約50円)を支払って、写 真を撮る。

イルクーツク日本人死亡者慰霊碑の前で慰霊祭。茨城県内のシベリア戦没者 は1294名、このうちイルクーツクの死亡者は71人になる。
イルクーツク市内から東に70キロ行ったところにリストヴィヤンカの寒村 がある。三方を山に囲まれ、1846年に建てられた聖ニコライ教会があっ た。小高い丘のうえのロシア人墓地の一角に日本人墓地があった。墓参団が 供物をそなえ、お線香をあげて戦没者の霊を慰める。

ここからバイカル湖をチャーター船で対岸まで渡り、次のウランウデで墓参 をする計画。船着き場近くのバイカル・ホテルのレストランで昼食をとり、 午後1時半に乗船。バイカル湖は面積3万1500平方キロメートル、南北 の長さ636キロメートル、最大幅79・5キロメートル、琵琶湖の47倍 の広さ。

世界で一番深い湖で知られ、最大深度が1742メートル。これも世界で珍 しい淡水に棲むバイカル・アザラシが有名。湖水は冬期のためか夏のように 青々と澄みわたっていなかったが、やはり「シベリアの真珠」と言われるだ けの美しさを垣間見ることが出来た。魚類も豊富でオムリ、ハリウスが釣れ るという。

乗船時間は二時間。対岸の古い桟橋に立つと粉雪が舞っていた。砂地には古 さびた鉄の建造船が引き上げられていたが、波止場とは言えない何とも見窄 らしい寒々とした風景だった。
ここからチャーターしてあった二台の専用バスに分乗してブリヤート共和国 の首都ウランウデに向かった。バスは日本では1955年代頃のもの思われ る中古車で、ヒーターもなかなか暖まらなかった。

乗車して三時間、午後7時過ぎてウランウデの市街地に入る。モンゴルへの シベリア鉄道の分岐点で、ブリヤート人、オロチ人など日本人と変わらない 黒い髪、黄色い肌が目立つ。ウランウデとイルクーツクには、時差がない。 日本時間と同じことになる。
ソビエト広場北の団地群に宿泊するホテルがあった。ゲゼルホテルという名 のホテルで部屋は広いが、浴槽のお湯栓は使用できず、朝方になって、ぬる ま湯が出たので、かろうじてシャンプーを使うことが出来た。


ロシアで聞く「東海村の臨界事故」


10月1日(金)晴天
30日の「東海村の臨界事故」の報が、茨城県庁から角田副知事ら関係者に 届いた。墓参のバスの中で、関宗長氏(団員・県会議員)が概要を報告。詳 細がわからないので、不安の気持ちの方がつのる。
市内の日本人墓地を巡拝したら、団員の一人である古澤襄氏の父の墓を偶然 発見。皆、自分のことのように感激して、供養し、焼香する。

巡拝後、モンゴル人・ブリヤート古建築博物館を見学。ウランウデ駅に向か う車中、数人の墓参者が「シベリア哀歌」を合唱、そのメロデイーが耳に伝 わってきた。

ウランウデからイルクツークまでは、バイカル湖沿いにシベリア鉄道の七時 間の旅となった。駅のホームは低く、屋根もない。ポッンポッンと立てられ た電柱の照明も暗い。ホームが低いので、列車の乗降口から折りたたみ式の ステップが下ろされた。改札口、出札口もなく、合図のベルも鳴らず、予定 より約20分遅れで、午後6時37分スーッと列車は発車していった。

広大なシベリアのタイガ地帯とロシア平原を昼夜休むことなく走り続けるシ ベリア鉄道は、ウラジオストクからモスクワまで9297キロメートルの世 界で最も長い鉄路。全行程は七日間(166時間)の長旅になる。全線が複 線電化(一部未電化)されたロシア運輸網の大動脈だが、貨物の輸送量が限 界に近づき、バイカル湖からハバロフスク方面へのバイパス線として第2シ ベリア鉄道・バム鉄道が建設された。

このバム鉄道は、独ソ戦で侵入してきたドイツ軍の戦車を防ぐため、200 キロメートルを超すレールを撤去し、独ソ戦線のバリケードに使われた。戦 後バム鉄道の復旧工事に日本人抑留者、ドイツ軍捕虜、ソ連の囚人が駆り出 され、苛酷な労働を強いられて、犠牲者が多数出た。

ウランウデからイルクーツクまでは456キロメートル、列車は16両の連 結車で、1車両に4人寝台の部屋が9室、36人の定員だった。ベットは向 かい合わせに下寝台と上寝台に分かれているが、転落防止の枠やベルトが全 く無い。車両の連結部の通路は、丸く盛り上がった太鼓橋のようなもので、 食堂車に行くためにいくつも連結部を通らねばならなかったが、危険な思い をした。

車内の通路は右に配置されていたので、通路に立って車窓に広がる夕暮れの バイカル湖を眺めたが、湖の地平線に太陽が沈む光景は素晴らしかった。
午前零時53分イルクーツク駅に到着、駅から専用バスで再びインツーリス トホテルに入って、宿泊。


あわや航空機事故の惨事


10月2日(土)晴天・雨天
午前10時30分ホテルを出て、イルクーツク空港に向かう。空港でチェッ クインを済ませたら、添乗員から出発時刻が一時間半遅れると告げられた。 日本では大幅な遅れになるが、数時間の遅れが日常茶飯事のソ連では、この 程度の遅れなら上等の部類。

午後2時20分ダリアビア航空H8−3946便は、空路ウラジオストクに 向けて離陸。ウラジオストクはイルクーツクと一時間の時差がある。広大な ロシアは、西の端が東経20度、東の端が西経170度で、その東西は地球 の半分を占める。11の時間帯があるうえ旧ソ連の国々は10月末までサマ ータイムを実施しているので、旅行者は時間に戸惑う。

単純に考えれば、イルクーツク空港を離陸した時に夏時間を含めて、時計を 二時間進ませれば、それがウラジオストク時間ということになる。午後2時 20分イルクーツク空港の離陸は、ウラジオストク時間の午後4時20分。 3時間余りの飛行時間で、午後8時前後に着陸となる筈である。

ところが予期せぬことが、ウラジオストクの空港の着陸時に発生した。予定 通り8時頃に空港の滑走路に着陸の姿勢に入ったが、途中で機首を上げ、急 上昇して、機体はバランスを失い、大きく揺れた。ロシア人のスチュワーデ スが青ざめた顔で十字を切る姿が見えた。
機外は台風の余波で、強風雨が吹き荒れ、視界が著しく不良という状況下の 着陸で、一歩誤れば大惨事になるところだった。

空港からホテルに向かう途中、「森のレストラン(レスナヤ・ザムイカ)」 に寄る。森の中の狩人小屋の雰囲気が味わえる丸太造りの店構えで、ジプシ ーの男女が楽器をかき鳴らしながら唄うロシア民謡は迫力満点。ワラビやキ ノコなどの山の幸、鹿肉を使ったシベリア料理とロシアワイン、生ビールを 飲んで、最後は楽器に合わせてダンスを踊って晩餐会。

ホテルは台湾と合弁のガヴァニホテル。「森のレストラン」から10分ほど のところにあった。ガヴァニホテルはウラジオストクで最高のベルサイユホ テルに次ぐ高級ホテルで、ハバロフスクやイルクーツクのインツーリストホ テルとは格が違っていた。
近年、インツーリスト系のホテルも改装したり、設備の充実に努めていると いうが、やはり外国との合弁によるホテルには、当分追いつきそうもない。


故国・日本に帰国


10月3日(日)
帰国の日、午前中はウラジオストク市内の見学、買い物で費やした。ソ連太 平洋艦隊の最前線基地であったため、外国人の立ち入りが禁止されていた。 7年前の1992年に全面開放となり、新潟県とも姉妹都市を結んだ。

軍港の面影は、港に係留された四隻の軍艦、海軍博物館、潜水艦博物館など で知ることが出来る。人口65万人のこの都市は、風の街とも言われている。 不凍港なので、比較的温暖な気候に恵まれ、ハバロフスクやイルクーツクよ りも3度から7度も暖かい。

シベリア鉄道のウラジオストク駅の駅舎は、黄色のいかにもロシア風のもの で、ここが基点となって、遙かヨーロッパにまで結ばれている。駅舎の後ろ がウラジオストク港。この港は金角湾の奥深くまで続いている。

中央広場からグム百貨店に回り、帰国の土産など買い物をする。ウオッカー が40ルーブル(約200円)。キャビアに人気が集まるが、すぐ売り切れ。 品数が少なく、在庫もない。買い物を入れるビニールの袋まで、お金を取ら れる。

午後は、ウラジオストク日本人死亡者慰霊塔を巡拝。墓参団全員の写真を撮 る。近くのレストランで食事をとり、ウラジオストク国際空港へ。ことし3 月にオープンした新しい国際線ターミナルがある。
午後3時50分、旧アエロフロートから独立したウラジオストク航空XF8 07便で離陸、帰国の途に着く。日本海を一時間半の飛行で、日本時間午後 3時15分、飛行機は滑るようにして新潟空港に着陸。六泊七日のシベリア の墓参旅行は全員が無事で終わった