阿宝正傳第一話◆ 阿宝と言う男がいた。居たと言う事は確かな話なのだが、この男の話をしても詳し く知っていた男が何もかも忘れてしまったので実を言うと阿宝の話は解らないので ある。
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之で正傳と言うようなものは、このような場合にはびこって来るもので、この阿宝
正傳もいずれは売文の徒が生業のための作り話に過ぎないのであろう。
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その推察のつくような貧乏と闘って阿宝は一人の老母を抱え、毎日のように畠を耕
して居た。朝は暗いうちから夜は明るくなる迄働き尽くめに働いて、阿宝は殆ど休
む暇もなかった。
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働くと言うことは、きっと何らかの効果をもたらしてくれるものだが、阿宝の場合
はそうではなかった。阿宝はまる一年を同じ畑を耕してばかり居るのであった。畑
は耕すものであったが、又同時に種子をも蒔くところであり、肥料を興えるところ
でもあった。 ◆ 「阿宝貧ナリ為ニ糞セズ、肥料ナキモ故ナキコトニ非ズ」と正傳は伝えているので ある。 第二話◆ 阿宝の貧は全く阿宝の愚鈍に起因して居た。種蒔かざるに実る筈はなく、日毎耕す 畑はただ阿宝の体力を消耗させるばかりであった。 阿宝とその母は日毎に痩せ細り、今はもう見るかげもなく衰えてきた。村人の多く はこの母がそのような貧乏の中に居る事を知って居たが、誰一人これを救おうとは しなかった。 他人のことを考える程、その人たちもまた裕福ではなかったからである。
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或る日阿宝の母が阿宝に言った。
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こう言われると愚鈍ではあったが、無類の親孝行であった阿宝は何とかして、母の
腹を一杯にふくらませてやりたいとものと思った。 ◆ 間もなく一人の女が歩いて来た。綺麗に着飾った姿は阿宝が生まれて一度も見た事 がない程の美しさであった。阿宝はなにかとても高貴なものに接したような、或種 の喜ばしさを感じた。阿宝はうっとりとその女に見とれて、そのことよりなお阿宝 を喜ばせたのは、その婦人の腹がとてもふくれて居ることであった。
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阿宝はおもわずかけよった。そしてその婦人の前にひざまずくようにして、大きな
声でこう言った。 ◆ 阿宝はそれ丈言った事は記憶して居る。そのあとは狂ったような女の叫び声が、耳 のあたりを駆廻って、そしてなにかひどく硬いもので頬のあたりを打たれようであ る。次の日一日を阿宝は板のような寝台の上で過ごした。頬の痛みが畑を耕すこと をさせなかったからである。 ◆ そして猶阿宝は、その日一日をどうすれば母の腹を一杯にふくらますことが出来る ものであろうかと考えたのである。
第三話◆ 阿宝が村一番の金持朱珍の第三夫人珊瑚になぐられたと言う噂が村中に広がってし まった。 「阿宝と言うやつは何たる馬鹿野郎だんべ。人もあろうに珊瑚様をつかまえて、ど うしたら腹がふくれるべえと聞いたつちうから、めくら蛇におぢずとはよく言った もんだ」 「全く阿宝程の神経は黄河の洪水にもあんめいよ。」 村人はまるで飴玉でもしゃぶるように阿宝の失態をその舌先でもてあそんだ。
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他人の失態や他人の失策を嗤つたり、或いは罵ったりする時と、便所で鼻毛を抜く
ときほど人間に幸福な時はない。
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「阿宝や、お前は腹のふくれると言うことを何か思い違いをして居るのじゃないか
い。お腹が一杯になるためには、何かを食べなくちゃ駄目なのだよ。何かを食べる
とお腹がくちくなり、お腹が一杯になる」
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母は食物は村の通りの居酒屋に行けば何でもある事を阿宝に教えた。
第四話◆ 然しもとより阿宝に銭のあろう筈はなく、又阿宝は銭の何たるかも知らなかった。 「銭はないのか、銭がなければ、犬の食いかすだってやれやしねえよ」 「銭と言うものは何処にあるだよ」 人々はどっと笑い、そして周が言った。 「銭か、朱珍の屋敷に行って見な、銭がごろごろ転がってるベよ」
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阿宝は黙って戸を閉めた。多分阿宝のことだから朱珍の屋敷へ出向くことを周は知
っていた。まるで他人の不幸を人生のお茶にして居るようなこの男は、飯台の上の
酒をぐいと一息にのみほすと、
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果たせる哉、阿宝は朱珍の邸の門前へやって来た。雲つくような門番は阿宝の姿を
見ると、まるで自分がその家の主人であるかのように、 ◆ すると門番は「何、銭を貰いに来ただって、エ、これでもやらあ」と門前に敷きつ めてある石ころを阿宝めがけて打ちつけた。為に阿宝の額からは血が流れたが、阿 宝はなおひれ伏して、そのつぶてをうけたのである。阿宝の廻りにたくさんの石こ ろが落ちて来た。すると阿宝はその石ころのたくさんを抱えるように握ると、急に 立ち上がり夜の町を又周の店までかえって来た。
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血だらけになった阿宝が、店に入って来たのを見ると、人々や周は今迄の高笑いか
ら、急に死のように静まり返り、阿宝の姿をじっと見た。すると阿宝はつかつかと
周の傍へやって来て、持って居た沢山の石ころを飯台の上に出し、
第五話◆ 阿宝が石コロで豚の丸焼きを買ったと言う事件が、うるさい村の人々に又1つの話 題を提供しないわけはなかった。然しこんな事は歴史の上にざらにある事実で、6 貫目の砂糖を「他人の不便」で買った女さえある。 ◆ ところが、この話が村にひろまる以前に、翌朝人々を驚かしたのは、朱珍の邸にあ の夜盗賊が忍び込み、3匹の蝙蝠を金で象嵌した赤い手箱を盗み取って行ったと言 う事、その宝石が世にも稀な貴重なものであったと言う事、そして盗賊が、阿宝で はないかと言うことの四つであった。
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これはその前夜、阿宝が朱珍の邸に突然侵入して金をくれと叫んだ事実と、門番に
はげしく打たれて逃げ去った事実が、そのような嫌疑を阿宝にもたらしたので、勿
論警吏はまるで阿宝が犯人であるかのように、阿宝の汚い家を検索した。
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証拠がないので警吏は帰って行ったが、一たんこうした事があると世間は又もっと
阿宝につらくあたり出した。「馬鹿の阿宝」はいつか「盗人の阿宝」に変わって居
た。 ◆ しかも、たった1人阿宝に今までの畑地を貸して居た、しかもその畑地は極く土が 悪いので無料で貸していた親切な隣の陶でさえも。手を返すように不親切になり、 裏切られたなどと言いながら、阿宝に土地を貸さぬと言い出した。 ◆ こうして阿宝はますます、どんづまりへやって来た。不幸な阿宝の母は又不幸であ った。土をとられた百姓阿宝は仕方なく、何か別な生きる道を歩かなければならな かった。 ◆ 足は幸い2本あったので、阿宝は兎も角歩くことだけは出来る。歩いて居たなら又 何かに出合わさぬ訳でもあるまい。母を背負った阿宝は、どこかの詩人のように母 の軽さを嘆きもせず、黒い道をただ歩き出したのである。
第六話◆ 阿宝は村の通りへ出た。 すると村の連中は、王様の行列でも見るように両側に並び、阿宝親子に悪態をつく のであった。 「阿宝何処さ行く、婆背負って何処さ行く、何処さ行っても阿宝は阿宝」
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子供達迄が親の真似をして阿宝をからかった。動物園の小猿が親猿の怪しげな行為
の真似をするように、それはとても教育的な風景であった。 ◆ 何か異様な音がした。それは地の底で誰かが泣いて居るような不思議な音であった。 そして次に人々は村の西を流れる狂河が、その堤を破って村を襲った事を知ったの である。 ◆ 笑って居た人も、わらわれて居た人も、みんながみんな狂河の濁水にのみこまれた のは、ほんのそれから僅かの時間のうちにである。阿宝は母を背負ったまま暫く走 ったが、やがて水の上は走れぬことを知り、母と別れ別れになってしまった。母の 姿が濁水の中に見えなくなったのを阿宝は知って居た。然し阿宝は何時か母に逢え ることと思って居たので格別その事を気にしなかった。見えなくなることは居なく なる事ではない。
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阿宝は可成りの時間濁水に身をもまれていたが、幸いにも、或いは不幸にも1本の
大木に、それは奔流にもまるで平気でつっ立って居る大木にしがみつき、その木の
ずっと上の方によじのぼった。
第七話◆ 3日目洪水は止んだ。阿宝は大木から降りた。洪水が阿宝の目を奪って居て欲しい。 洪水が若し阿宝を盲目にして居たなら「正傳」は阿宝を一応は幸福に出来たかも知 れない。 ◆ 然し洪水は家を奪い、財産を奪い、或いは又つまらぬ人の命を奪ったが、阿宝の視 力だけを奪わなかった。阿宝が大木から、くさったハラワタのような泥濘の中に降 りた時、その足の下に何かがさわった。阿宝はさわったものを手にとって見た。す るとそれはたった三日前に阿宝を苦しめたあの朱珍の赤い小箱であった。
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阿宝はこおどりして喜んだ。赤い箱があれば、もうあのいたい鞭を受けるような事
がなくなると思ったからである。
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兎も角その山へ行き、警吏にこの赤い箱を渡してしまわなければ、又何時かの戟し
い拷問を喰わせられる。 そして山に行った。 ◆ 阿宝貧ニシテ母ヲ養イ、孝ナルモノト傳ヘラルルハ誤リナリ、阿宝貧ニシテシカモ 盗癖アリ、富豪朱珍ノ邸宅ニ忍ビ入リ、宝石入リ赤箱ヲ盗ミテコレヲ大木ノ根ニ隠 匿セリ、タマタマ狂河ノ洪水ニアフヤ、日頃孝養をツクスガゴトクアリシ母ヲ濁水 ニ捨テサリテ、赤箱ヲ守ル。マサニ史上マレニ見ル大悪漢ト言フベシ。
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「阿宝正傳」の筆者は不明であるが、阿呆なる人物が居なかった事は明らかな事実
である。
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